八木岡城

所在地・・・栃木県真岡市八木岡
築城年・・・1293〜1298年
築城者・・・八木岡高房
主な城主・・・八木岡氏、水谷氏
本家は芳賀氏
八木岡氏は、芳賀氏11代高俊の子高房が八木岡の地に分封され、地名をとって八木岡を称した。芳賀氏は宇都宮氏の重鎮として活躍し、有力な支族も輩出しているが、それら芳賀一門の中でもっとも古参なのが八木岡氏である。
八木岡高俊には跡継ぎがいなかったため、高房は隣領の常陸小栗御厨の領主、小栗重宗の子高政を養子に迎えて2代目として。以降、八木岡氏は本家芳賀氏とともに宇都宮氏の先兵となって乱世を駆け抜けることになる。
一度目の落城
鎌倉幕府の崩壊後、南北朝の動乱が起こり、1339年2月、南朝方の北畠親房は戦況劣勢の関東での復権を目指し、戦上手の公家武将、春日顕時を常陸方面に派遣した。
春日顕時は常陸南部の関城を本拠にし、近在の領主の手勢を結集して、益子方面から北朝方に属する下野へ攻め込んだ。この時、八木岡城は落城している。
二度目の落城
八木岡城の二度目の落城は1545年のことである。
結城氏の配下で、下館城を居城にしている水谷正村(蟠竜斎)は、下野への進出を企み、1544年に中村城の中村玄覚を倒して芳賀領に肉薄し、久下田城を築いた。これに対して芳賀方は、八木岡城主八木岡貞家を大将に兵を整える。
1545年9月、八木岡貞家は久下田城下に進撃し、迎撃する水谷勢と激しく戦った。この戦いで八木岡貞家は戦死、八木岡城は落城、八木岡は水谷領に併呑される結果になった。
宇都宮尚綱は中村と八木岡の奪還を図るため、翌年の1546年4月、武田信隆に3千の軍勢を与えて、久下田城を攻めさせたが、迎撃した結城、水谷勢に押しまくられて敗れ、中村と八木岡の領地は、完全に水谷氏の支配下に置かれることになる。
<現在の状況>
遺構の状態は良好。案内板もきちんとして良い。
オススメ度 ★★★☆☆