宇都宮城
所在地・・・栃木県宇都宮市本丸町
別称・・・唐糸城、亀ヶ丘城、亀岡城、亀井城
築城年・・・940年か1063年
築城者・・・藤原秀郷か藤原宗円
主な城主・・・宇都宮氏、浅野氏、本多氏
2説ある築城話
宇都宮城築城は2説ある。
1つは藤原秀郷説。秀郷は940年3月、平将門を滅ぼした。その功により従四位下武蔵守、鎮守府将軍に任ぜられ、佐野唐沢山城の本城の他に、東国、陸奥地方を治めるための出城として、現在の本丸跡に居館を築いたといわれる。
秀郷のあとには5男の藤原千常が入り、さらには千常の子キミノリ、その子の兼光、頼行、兼行と5代にわたって継承される。
もう1つは藤原宗円説。宗円が陸奥平定祈願成就の功によって宇都宮社務職になったのを機に、1063年、宇都宮に築城したのが始まりといわれる。以来、22代550年間に及ぶ宇都宮氏をスタートさせた。
しかし宗円は僧であり、戦勝祈願のため、源頼義に従って来た人であるから、家臣も少なかったであろう。それに、宇都宮の土地との関係もあまりなかった事実もあり、短期間に宇都宮城築城という大事業ができたのかという疑問の声も
ある。このため、宗円は秀郷などが築いた居館を、攻守に適した居城としたとする説もある。
宇都宮家代々
2代宗綱・・・宗円の兄兼仲の2男で、常陸、上総国などで4郡を治めていたが、宇都宮別当兼下野守兼社務検校職、それに日光山別当惣政所職に任ぜられ、叔父宗円の跡を継いで2代目となる。宗綱の時に藤原姓を改め、宇都宮氏を名乗る。
3代頼綱・・・頼朝に叛旗を翻した叔父志田義広が常陸で挙兵した際、下野野木宮(現野木町)で志田勢と戦った。さらに頼朝が奥州征伐に向かった際も先陣を務め活躍した。
だが、頼朝が鎌倉幕府を開いた3年後、下野守国司藤原行房から「公田百余町をかすめとった」として鎌倉幕府に訴えられた。疑いを晴らせず、朝綱は土佐国、孫の頼綱(5代)は豊後国、朝業は周防国へそれぞれ追放された。半年後に許され、それぞれ無事に宇都宮に戻っている。
8代貞綱・・・弘安の役(元寇)に出陣。その武勇ぶりは宇都宮家の名を高めた。1281年5月、10万余の元、高麗連合軍は1274年に引き続いて再度来襲し、筑前を攻め、肥前平戸島に向かった。この時、北条時宗の名を受けた幕府引付集貞綱は、征討大将軍として、山陽、山陰の御家人6万人を率いて博多に出陣。貞綱は、日蓮上人の日月の大曼荼羅を陣頭に立て、太鼓を打ち鳴らして題目を唱え、敵軍を打ち破った。貞綱は元軍再度の来襲に備えて、博多の防備を固めることに専念 し、その意気がたたえられたという。
9代公綱・・・1332年、足利尊氏とともに幕府軍に加わり、摂津四天王寺で楠木正成と戦った。この時の勇猛ぶりを正成は「宇都宮は坂東一の弓取り」と評し、坂東武者の勇名を天下に轟かせた。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇につき反幕に転じると、公綱も共に宇都宮一族を引き連れて行動した。だが、尊氏が後醍醐天皇から離れて鎌倉に走ると、公綱は新田義貞の旗下に加わって尊氏と争う。一時は尊氏を破ったが、勢力を盛り返した尊氏に捕らえられ、髪を剃って宇都宮に逃げ帰った。
公綱は「理蓮」と名を改めて仏門に入ったが、12年後に子の氏綱が尊氏に味方して薩?山の戦いに参加した。その功により、上野、越後の守護職にも任ぜられた。公綱、氏綱父子の戦ぶりは敵味方から常に恐れられ、敬服され、宇都宮氏の名を高めた。
10代氏綱・・・足利将軍の命で紀州の南朝軍と合戦したが、途中で病死。
11代基綱・・・1380年5月、祗園城主小山義政と雀宮の裳原(現宇都宮市茂原町)で合戦した。この戦いで基綱は戦死。この頃から宇都宮氏の勢力は一気に衰え始める。
13代持綱・・・一族である塩谷教綱にだまされ、幸岡(現矢板市)の塩谷坂で、あるいは甲斐国において殺害された。
14代等綱・・・持綱が殺害された時、等綱は4歳であった。そのため、処刑は免れ各地を流浪した。19歳でようやく宇都宮に戻ったが、古河公方足利成氏と争いが起こった。宇都宮家が衰えるのを憂い、戦わずに成氏に降参。等綱は戦国乱世に嫌気がさして出家、白河で病死した。
16代正綱・・・15代明綱に実子がいなかったため、芳賀成高の子の正綱が宇都宮家を相続した。1477年9月、古河公方足利成氏の命で上州白井に出陣し 、上杉憲忠と合戦中、川曲の陣中で病死した。
18代忠綱・・・名門鹿沼氏を滅ぼし、加園城(現鹿沼市)、平川城(現栃木市)といった皆川氏の支城を次々と落とした。
その一方、宇都宮城を滅ぼそうとスキをうかがっていた忠綱の妹婿、下総の結城政朝は、1526年12月に兵を率いて宇都宮へ押し寄せてきた。忠綱も手勢を従えて出陣し、猿山ヶ原(現宇都宮市)で激突。この時、忠綱を恨んでいた叔父の芳賀興綱
が好機到来とばかりに、忠綱留守中の宇都宮城を攻めて乗っ取った。
忠綱は結城政朝との戦いに敗れ、しかも居城は芳賀興綱に占領されていたため、壬生綱房を頼って鹿沼に敗走。そこで病死か毒殺された。
19代興綱・・・結城政朝は、17代成綱の弟、芳賀興綱を19代城主にあてた。興綱は後に背信の罪名で、家臣達に自害を強要されて死んだ。
20代尚綱・・・出家していたが、興綱の自殺で城主となる。尚綱は、1549年9月、早乙女坂(五月女坂)で那須軍と戦い討死した。
21代広綱・・・6歳で家督を継いだ。家臣達は一族の芳賀高定を後見役とし、幼君広綱を擁して佐竹氏らの援助を受け、尚綱の戦死後に宇都宮城を占領した壬生綱房の子綱雄を攻めた。そして宇都宮城を取り戻し、広綱は城主として返り咲いた。
1558年、越後の上杉謙信は大軍をもって下野に攻め込んできた。小山高朝、壬生綱雄を次々と撃破し、宇都宮城を攻め落とそうと多功方面へ襲撃してきた。広綱は防戦し、上杉勢を上州
へと追い払った。
1572年にも、今度は北条氏政が武蔵らの大軍を率いて下野に攻めてきたが、これも多功付近で撃退している。
22代国綱・・・広綱が病死した時、国綱はまだ9歳だった。そのため、4年間広綱の死は隠され、母親の南呂院が政務を取り仕切った。
国綱の時に豊臣秀吉の小田原攻めが起きた。国綱は進んで参陣し、領土を安堵された。朝鮮出兵にも一族三百人を率いて釜山に上陸、軍功を上げた。
秀吉は国綱に「浅野長政の三男を養子にせよ」と勧めた。国綱はこれを承知したが、弟の芳賀高武は「宇都宮家の世継ぎは一族が決めること」と怒り、秀吉の申し出を断わらせた。下野の検地奉行であった浅野長政はこれを恨み、「宇都宮の所領には不正がある」と訴え
た。検地の結果、実際の倍以上の石高が報告されたために、宇都宮城は召し上げられ、22代続いた宇都宮家は滅亡した。
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