中久喜城

所在地・・・栃木県小山市大字中久喜
別称・・・亀城、栃井城
築城年・・・1155年
築城者・・・小山政光
主な城主・・・小山氏、結城氏
祗園城の支城
中久喜城は、小山氏の本城である祗園城の支城として築城された。中久喜城は小山氏にとっては、鷲城、網戸城と並んで、政治上、防衛上も重要な位置を占めた。
小山氏21代の中で北山(中久喜の前の名称)にゆかりの深いのは小山氏11代の小山義政の時で、鎌倉公方足利氏満の攻撃により鷲城が落ち、義政は北山に隠居して仏門に入り、永賢と改名している。しかし、再起を期して1382年3月に祗園城に火を放ち、上都賀の粕尾にて足利氏満と戦うが敗北し自刃する。
地名を北山から中久喜に
足利氏満との戦いの後、1397年に小山氏の正統が滅亡し、北山は小山氏の支族である結城氏の管轄下に置かれた。
1400年に結城泰朝が小山氏を再興したが、北条氏と上杉氏の争いに巻き込まれ、小山氏20代の小山秀綱と実弟の結城晴朝が骨肉の争いを展開したため、情勢不安定で領民も困っていた。この為、常陸の佐竹義重が下妻城主多賀谷重経に、小山秀綱と結城晴朝兄弟の仲直りを命じた。多賀谷重経は小山秀綱と結城晴朝を説得し、二人を祗園城と結城城の中間にある北山で会見させ、和解を成立させた。この和解を記念して、北山の地名を「中久喜」を改めた。
中久喜城は、結城氏の越前転封により廃城となった。
<現在の状況>
中久喜城は、水戸線によって分断されてしまった。城内に踏み切りがあるため、分断された城を行き来することはできるが、ただ、中久喜城の場所自体がとても分かりづらいのが厳しい。小山氏防衛の要衝でもあった中久喜城を、もっとアピールしても良いのではないかと思う。
オススメ度 ★★☆☆☆