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壬生城

 

三浦氏時代

 壬生氏の滅亡後、壬生城に入った大名は多い。結城氏、日根野氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏、鳥居氏という具合である。
 この中で、三浦氏、松平氏、鳥居氏を取り上げる。

 三浦氏は、1638年から正次、安次、直次と3代約53年間壬生城主として政治を行った。その内容は、見地によって税の増収を図り、また、羽生田の水害を少なくして開墾を図ったのである。
 特に、羽生田の水害を少なくした事業に関して、それまで壬生の西方を流れていた黒川を東に変えてしまうほどの大事業であった。この大事業によって、毎年発生していた洪水による災害を軽減させることに成功し、美田や良畑を造った。

松平氏時代
 三浦氏の次の城主、松平輝定は、1692年からわずか3年間しか壬生城にいなかったが、大きな事業を行っている。それは、居城や城下町の一新を図るために、城の修築事業に乗り出したことである。
 城主期間は短かったが、南側にあった大手門を東側に移すという大事業を成し遂げた。大手門を移した理由は、交通の要衝であった黒川に通じる関門道路との連絡をよくすることと、城下町の反映が城の東側に移っていたからである。

鳥居氏時代
 松平氏の後、加藤氏が城主となり、加藤氏の後が鳥居氏である。鳥居氏は、1712年から明治維新まで7代にわたって城主を務めた。
 鳥居忠英は、水口城主から壬生城主になり、水口からカンピョウの種を取り寄せてカンピョウを広めた。その功績は非常に大きいと言える。
 鳥居氏は、徳川家がまだ松平家だった頃から仕えていた家柄である。鳥居忠吉は、徳川家康が幼少の頃、将来の家康のために、乏しい生活ながら密かに兵糧などを貯めていた名家老。忠吉の子元忠は、関ヶ原の戦い前、家康のために伏見城で討死を遂げたことで知られている。

 

 

<現在の状況>

 壬生城の本丸跡には、戦後に中学校が建った為に、城の遺構は大きく崩された。現在の本丸跡には図書館や公民館が建っているが、はっきりと城の形跡と分かるものは、上記の写真にもあるような土塁しか見当たらない。壬生町にある城の中では、きちんと整備がされている。

オススメ度 ★★★☆☆

 

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