第67回目・・・「家康を売った男」

 徳川家康は幼少の頃、家(当時は徳川家ではなく松平家)の存続の為に、人質として今川家に行くはずだった。

 しかし、今川家へ向かう途中、家来の戸田康光が金銭目的で裏切り、織田家に家康の身柄を渡した(数年後に家康の身柄は今川家に移る)。

 この戸田康光の子孫は、幕末まで藩主として続いた。そのことを考えると、家康は幼少時に売られたことを、特に責めなかったようである。

 

 

 

第68回目・・・「信長と黒人」

 南蛮人から織田信長に黒人が献上された。この黒人を信長は珍重し、武士に仕立てて身近に置いていた。

 信長は黒人の黒さに疑問を持ち、本当に黒いのかどうかを確かめる為、家来に命じてこの黒人を洗わせた。

 そして、本当に黒いということが分かると喜んだというエピソードがある。

 

 

 

第69回目・・・「靖国神社」

 靖国神社の前身は、1869年に招魂社として建てられた。その目的は、明治維新で亡くなった人たちを祀るためである。

 その後、1879年に靖国神社と改称。そして、明治維新から太平洋戦争までの戦争で亡くなった人たちを祀っている。その数は約250万人である。

 

 

 

第70回目・・・「ガリレオと土星」

 1610年、ガリレオ・ガリレイは望遠鏡によって、土星のリングを最初に発見した。ガリレオはその時、リングではなく、土星の両脇に耳がついていると思ったらしい。

 また、土星の衛星の中で特に大きい四つの衛星(イオ・エウロパ・ガニメデ・カリスト)を最初に見つけたのも、やはりガリレオだった。その衛星は、総称してガリレオ衛星と呼ばれている。

 

 

 

第71回目・・・「奥州藤原氏のはじまり」

 奥州藤原氏4代の祖である藤原清衡は、さまざまな動乱を得て広大な版図を手に入れた。

 その動乱とは前九年の役と後三年の役で、この動乱を経て、奥州の主たる地盤は、安倍氏→清原氏→奥州藤原氏と、変遷を経たのである。

 

 

 

第72回目・・・「前九年の役1」

 安倍氏は、浮囚(朝廷に帰属した蝦夷)の長で、奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)を支配していた。

 だが、安倍氏の横暴が目立ち、また、領地である奥六郡を越えて、国府の直轄領へと進出したのである。この動きを“反乱”としてとらえ、陸奥守藤原登任(なりとう)は安倍氏討伐を決意し、前九年の役が始まった。

 

 

 

第73回目・・・「前九年の役2」

 陸奥守藤原登任(なりとう)は、数千の兵を率い、秋田城介と平重成の軍を味方につけ出兵した。

 鬼切部(現宮城県鳴子町)で安倍頼良軍と戦った藤原登任らは大敗し、朝廷は次いで源頼義を向かわせ、安倍頼良は降伏した。

 安倍頼良は大赦によって罪が許された。これで戦いが終局したかと思われた矢先、ある事件が勃発したために、事態は再び交戦状態へと戻ることになる。

 

 

 

第74回目・・・「前九年の役3」

 人馬殺傷事件が起き、この犯人を、安倍頼良の子、貞任と断定し、源頼義は貞任を処罰することにした。

 これによって戦争へと突入したが、安倍軍の強さは強大で、頼義は負け戦を繰り返したのである。

 この状態を打破した人物が、出羽山北の浮囚長である清原光頼・武貞兄弟で、彼らは一万の兵を率いて頼義に味方し、安倍氏を討伐することに成功した。

 清原氏は、前九年の役後、出羽山北の他に安倍氏の旧領である奥六郡を領有することとなった。

 

 

 

第75回目・・・「後三年の役1」

 後三年の役は、清原武則の跡を継いだ武貞の3人の子の争いである。

 この3人の子とは、真衡・家衡・清衡で、とても複雑な関係の兄弟であった。真衡は、先妻の子である。家衡と清衡は後妻の子ではあるが、家衡は武貞の子、清衡は藤原経清の子で、後妻の連れ子であった。

 前九年の役で、藤原経清は安倍氏側につき死亡。このため、藤原経清の妻は清原武貞の妻となり、複雑な兄弟関係ができあがっていったのである。

 

 

 

第76回目・・・「後三年の役2」

 清原武貞の死後、嫡子である真衡が武貞の跡を継ぐはずであったが、一族の長である吉彦秀武(きみこのひでたけ)がこれに反発。秀武は家衡と清衡を味方につけ、真衡に刄を向けた。

 真衡は戦時中に病死したが、戦争はおさまらず、今度は家衡と清衡の争いが起きることになった。

 清衡は源義家を味方につけ家衡を倒した。この功により、清衡は奥州藤原氏の地盤を手に入れたのである。

 

 

 

第77回目・・・「重祚」

 重祚(ちょうそ)とは、同一人物が2回天皇の座につくことである。歴代天皇125代(今上天皇含む)の中で、重祚した天皇が2人いる。

 2人とも女帝で、皇極天皇・斉明天皇と孝謙天皇・称徳天皇である。皇極・斉明天皇は大化の改新で有名な中大兄皇子(後の天智天皇)の母であり、孝謙・称徳天皇は皇女として初めて皇太子となった人物である。

 

 

 

第78回目・・・「左様せい様」

 徳川4代将軍家綱は、老中などが言うことに対し、常に左様せい左様せいと言っていたという。このことから、左様せい様とあだ名がついた。

 左様せいとは、そのままの意味で、そのようにしろという意味である。

 

 

 

第79回目・・・「孫子の兵法」

 孫子の兵法は、孫武が著した兵書である。非常に優れた兵書で、中国だけでなく、世界にも広まった。

 風林火山で有名な武田信玄も、この孫子の兵法を愛読し、フランスの皇帝ナポレオンも愛読した。

 ちなみに、日本に孫子の兵法を伝えた人物は、遣唐使吉備真備(きびのまきび)である。

 

 

 

第80回目・・・「源氏、掟破りの勝利」

 源平合戦の船戦にて、源氏は掟破りをして勝利を得た。

 船戦では、非戦闘員の船頭を矢で射るのは禁止だった。それは、船頭がいないと船戦が成り立たず、また、真っ先に標的になるくらいなら、船頭が船戦に手を貸さなくなる恐れがあったからである。

 だが源氏は、このルールを無視し、敵方の船頭を射殺したという。

 

 

 

第81回目・・・「土佐日記」 

 土佐日記は、日本最初のかな日記である。筆者は紀貫之で、土佐守の任務を終え、京都に帰るまでの旅をまとめた。

 当時かな文字は、女性文字と見られていたために、紀貫之は女性のように装って書いたといわれる。

 

 

 

第82回目・・・「関東諸武士と奥州」

 奥州藤原氏が滅びた後、奥州には、関東地方の諸武士が入った。

 それは、奥州藤原氏征伐の恩賞として、関東の諸武士が土地をもらい、守護・地頭に任じられ、赴任したからである。

 

 

 

第83回目・・・「日本最北の藩」

 豊臣秀吉から蝦夷支配を承諾された蠣崎(かきざき)氏は、秀吉没後に徳川家康に近づいた。その後すぐ、蠣崎氏は松前と姓を改める。

 松前という姓は、家康の前の姓である松平と前田利家の前田からとったといわれる。
 松前藩は石高がない異例の大名で、参勤交代も違い、3年に1度(後に6年に1度になる)であった。