井伊家(徳川家の家臣)の軍兵は、甲冑・旗差物・鞍・鎧・鞭にいたるまで、皆赤一色で統一されていた。
この赤備え、もとは武田家の家臣山県昌景の軍兵の姿であった。それを、徳川家康が井伊直政に受け継がせて、以後、井伊家の軍兵が赤備えの形をとった。この点からみても、家康は武田信玄に憧れていたということが分かる。
織田信長は、自らも出陣して武田勝頼を1582年2月に討ち滅ぼした後、そのまま甲州に入った。その時、恵林寺(えりんじ)を焼打ちにした。
恵林寺の快川紹喜(かいせんしょうき)は、焼かれてゆく寺の中で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱え、死んでいったのである。
石田三成の家来に、島左近という者がいる。左近は筒井家の牢人で、武勇に優れていた。
三成が24歳の時に召し抱え、主君である羽柴(豊臣)秀吉は、たかが4万石の三成が、なぜ大物の左近を召し抱えることができたのかと不思議がったが、三成は左近を召し抱え る時、将来自分がいかように出世しようとも、自分の半分の禄高を与える約束をしていた。
しかし後に、三成が近江佐和山19万4千石に出世した時、左近は半分の禄高を辞退し、当初の2万石にとどまったのである。
正岡子規の「子規」の号は、彼が肺結核になった時にできたものだ。その過程は、「子規」とは「ほととぎす」と読み、ほととぎすは血になくような声に特徴があるということから、結核で吐血している自分と合わせたのである。
薩摩人は、敗敵に寛容を示すというところがあった。それは戦国時代からある。
戊辰戦争の時、五稜郭に籠もっていた幕臣、榎本武揚(えのもとたけあき)以下に名誉を保全させて降伏をすすめているのは、その一例である。
15世紀から16世紀にかけて、スペインはまさに大国で、その範囲は、西インド諸島・中央アメリカ・フィリピン諸島・オーストリア・ドイツ西南部・北部イタリアなどに及んでいた。
1588年、スペインは無敵艦隊をもってイギリスと戦った。当然スペインが勝つと思われたが、結果はイギリスの勝利に終わる。
この敗戦以後、スペインの勢力は衰え、代わってイギリスの勢力が拡大し、ついには世界の海上権を握るに至った。
織田信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉の勢力が台頭した。
各地の諸大名が秀吉に次々と服従する中、秀吉がもっとも恐れる徳川家康は服従の意を示すことはなかった。
秀吉は、自分の母親を徳川家に人質として送り、自分の元へ参上(服従する為に)するよう要請。さすがに家康は、ここまでしてきた秀吉に頭を下げないと、世論の自分の評価が下がると思い、秀吉の元へ参上することにし、秀吉に服従することになった。
徳川家康が豊臣秀吉に謁する前日、秀吉は家康を訪れ、「明日の会見で、私は関白らしい振る舞いをしてあなたに接します。だから、あなたも私に頭を下げてもらいたい」というような内容のことを言った。こうして家康は翌日、秀吉との会見で服従した。
家康が秀吉に服従することは、「あの徳川殿が!!」という衝撃を全国の諸大名に浴びさせる為である。だから、大芝居が必要であった。
現在、アメリカ合衆国の49番目の州であるアラスカは、元はロシア領で、アメリカに720万ドルで売却された。
720万ドルは、破格的な値段であったようだ。
明治維新を経て、日本は近代国家を歩むこととなった。
この頃の世界情勢は、近代国家となるか、それとも近代国家の植民地となるか、どちらかの道に進むかに限られていた。
日本は、他の近代国家に遅れて近代国家となり、その後、急速に発展を遂げたのである。
日露戦争時、日本海軍の参謀として、東郷平八郎を助けたのが秋山真之である。
真之は、ロシアという大敵を目の前にし、さまざまや戦略・戦術を練って、日本海軍を勝利に導いた。
もし敗けていれば、日本という国家は滅亡したかもしれない。
日露戦争時、日本は金銭不足に陥り、外国から資金を借りる事により戦争を進めることとなった。
高橋是清がその担当を受け持ち、資金作りに奔走した。しかしそれには、戦争状態の善し悪しが最大の条件となる。
どうやら諸国は、戦争の行方はロシアが優勢と判断し、是清の資金作りに大打撃を与えた。それに苦心しながらも、是清は資金作りに奔走した。その成果が実り、無事に資金作りはなんとか成功した。
日露戦争の終わりは、ロシアで反乱や革命が勃発し、日露戦争をこれ以上継続させることができない状態となったからである。
その反乱や革命を、裏で動かした人物が、明石元二郎だ。
明石は、工作費100万円(現価値に直すと400億円以上)を使って、反ロシア帝国を掲げる組織たちを動かした。
日露戦争の時、旅順攻略の命令を受けた乃木希典軍(第三軍)の損害は大多数に及んだ。死傷者は出すが、攻略の見込みがない乃木にシビレをきらした児玉源太郎は、一時的に乃木に代わって乃木軍を指揮した。
児玉のやったことは、乃木の指揮権を取り上げる行為であり、あまり褒められるものではない。そこまで事態は切迫していた。
児玉の指揮によって、203高地を占領し、その後の旅順攻略を容易なものに変えた。
203高地は、旅順攻略の鍵であり、その地を乃木は軽視し、児玉は重視していた。
日露戦争時の日本陸軍は、第1軍から第4軍まであり、その司令官は薩長でかためられたが、第2軍司令官の奥保鞏(おくやすかた)だけが小倉藩の出身だった。
その理由は、奥は戦上手で、「奥がいれば大丈夫」と言われたからである。現に、ロシアと激戦を展開しながらも、これを打ち破っている。
また、奥は耳が不自由で、指示は筆談だったようだ。奥は、軍人として人生を全うし、政治面に関しては何も口出しはしなかった。
黒木為驍ヘ、日露戦争時、日本陸軍第一軍の司令官である。
第一軍は、常に戦線の中央を戦い抜いた。黒木は、その都度陣頭に立ち、勇壮に軍を指揮した為、将兵からの信頼は絶大であったようだ。
黒木は、師団規模の大夜襲をした男でも知られている。この大規模な夜襲は、世界戦史上でも類がないほどで、これを成功させた黒木は、まさに優れた軍人だったといえよう。
日本騎兵の創始者で、日本騎兵の父と言われた秋山好古は、以前紹介した秋山真之の兄である。
好古は日露戦争で、当時世界で最強と言われたロシアのコサック騎兵と戦い、打ち破るという快挙をした。日本の騎兵は世界でも弱かったので、大快挙ともいえるだろう。
戦国時代、来日した宣教師達の記録には、必ずといっていいほど、足利学校のことが触れられている。
その内容は、「坂東の大学」とか「日本国中最も大にして最も有名」だとか「日本には総合学科のある唯一の大学が足利にある」などで、ヨーロッパからの宣教師達も認めていたほどの教育が施されていたのではないだろうか。
1941年12月8日に行なわれた真珠湾攻撃、宣戦布告前に行なわれたとしてアメリカ国民を激怒させた。
この真珠湾攻撃を、イギリス大統領のチャーチルは事前にキャッチしていたという見方がある。
チャーチルは、その情報をアメリカには教えなかった。それは、第2次世界大戦不参戦の意を表しているアメリカを参戦させ、戦争を有利にさせるためである。
日露戦争前に結ばれた日英同盟。近代国家の最前線を歩むイギリスと、他より最も遅れて近代国家となった日本とが同盟を結ぶなど、国力の差からいって、通常なら考えられないことであった。
それがなぜ実現したのか、それはロシアが南下することにより、ロシアの力が大きくなるのを防ぐ、つまり、日本を盾にしたからである。
だが、盾にしたとはいえ、英はバルチック艦隊の航海(バルチック艦隊の航路は次回紹介する)を多々にわたって邪魔し、航海を困難にした。
バルト海にあったバルチック艦隊は、ロジェストウェンスキーを司令長官とし、極東で唯一の軍港であるウラジオストックへ向け、ほぼ地球を半周するという大航海を行なった。途中、さまざまなトラブルがありながらも、約半年かけて対馬海峡に到着、しかしそこで、日本海軍との海戦が起きた。
結果は、圧倒的な形で、日本海軍の大勝利に終わった。
問題のバルチック艦隊の航路は、アフリカ大陸の喜望峰を回り、インド洋に出るというものである。
酒井忠次は、家康の叔母を妻とした(忠次は家康より15歳年上)。忠次は家康の父松平広忠の代から仕えており、広忠の死後は幼少の家康に仕える。
政治や合戦において優れ、特に合戦では、常に徳川軍の先鋒をつとめた。また、徳川家臣団の筆頭でもある。
本多忠勝は勇猛の将として知られる。その勇猛ぶりは、生涯57回の合戦において、傷を受けたことが一度もないというほどのものである。
また、忠勝は“家康に過ぎたる者”とか“花実兼備の勇士”とかいわれ、他家大名から賛美の声が上がった。
忠勝が愛用した槍は蜻蛉切で、穂の先に止まったトンボが二つに切れたところに名前の由来がある。
榊原康政は初陣後、その功が認められて家康から一字を賜った。
康政は、他にもさまざまな合戦に参戦したが、常に先鋒として活躍した。
家康が関東入国の際、康政は上野国の館林城10万石をもらい、それからは秀忠付きとなり、秀忠を補佐した。
江戸幕府の大老に井伊家の者が数多く出た。それだけ井伊家は徳川家と強い関係にあったとうかがえる。
そんな井伊家の初代は直政で、井伊軍は「井伊の赤備え」で知られている。
直政は、武だけの人物ではなく、関ヶ原合戦の後、西軍方についた毛利氏や長宗我部氏や島津氏などの処置を担当した。
徳川家の中では新参の武将ながらも、家康からの評価は相当大きかったようだ。
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