織田信長と明智光秀との出会いは、足利義昭が絡んでいる。信長に仕える前の光秀は、義昭の家来であり、義昭を将軍の座に据えるために、信長を頼ったのである。
信長は光秀の力量を買い、義昭から引き抜き、高禄で召し抱えた。そして光秀は短期間のうちに坂本城の城主となった。
しかし光秀の出世は、それ以後停滞した。それどころか、信長から折檻をしばしば受けるようにもなった。
さらに光秀は、手塩にかけて治めてきた領地を召し上げられ、代わる領地として出雲・岩見を与えられた。その地はまだ毛利領である。
それに加え、秀吉の援軍として中国攻めも命じられた。つまり、秀吉の下で働くということであった。
光秀は、決心を固めつつあった。
本能寺の変の数日前、ある句を読んでいる。
それは、
「時は今 雨が下知る さつきかな」
というものだ。
この中には、土岐源氏である自分が、天下をとるという意味が入っている。
また光秀は、本能寺の変を起こすに際し、占いもやっている。しかし何度やっても凶ばかり出たそうだ。
1582年6月2日、中国攻めに行くはずの光秀軍は京都へ向かい、信長のいる本能寺を襲った。
信長を討った光秀の天下人期間は、わずかに10数日だけであった。
それは、秀吉が驚異的な中国大返しをやってのけ、光秀を山崎の戦いで破ったからであった。
北清事変が起こった過程は、1898年、清国の山東省で、義和団とよばれる集団が発生した。
清はこの当時、中国分割といわれる頃で、部分部分に列国の勢力が入り込み、列国がその地を統治している状態だった。
義和団は、この状況に反発し「扶清滅洋」を唱え、翌年にはドイツ公使と日本公使館員を殺害した。
清国で最も力のあった西太后は、義和団のこの動きを支持し、1899年6月、列国8ヶ国に対して宣戦布告した。
8ヶ国とは、アメリカ・オーストリア・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・日本・ロシアである。
結果は、8月中旬に列国側の勝利となった。その後、北京議定書が調印され、清国は多額の賠償金を払うこととなり、また北京に各国の軍を駐留させることとなった。
戊辰戦争での戦いの一つである北越戦争。それは、越後長岡藩・奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との戦いだ。
長岡藩は、ガットリング砲を2挺も所有していた。ガットリング砲は、銃弾を一度に360発も放つことができ、米製で、アジアにはわずか3挺しかない品物だった。
長岡藩の主導者である河井継之助は、自らこれを外国人商人スネルから買いつけた。
なお長岡藩は、中立を貫き通そうとしたが、やむなく新政府軍と戦うことになった。奥羽越列藩に加盟したのも、北越戦争の直前である。
上杉景勝を良く支えた直江兼続。彼の能力を時の権力者である秀吉は高く買った。
秀吉は、兼続に山城守の官位を与えた。これは、京都御所へ参内する資格を与えられたことでもある。
また、上杉家が越後から会津へ領地替えをした時、秀吉は兼続に米沢30万石を与えるよう景勝に命令した。これは、会津120万石のうちの、実に4分の1にあたる。
つまり秀吉は、陪臣の身である兼続に破格の対応をしたことになるのである。
いくつか兼続に関してのエピソードを挙げたい。
兼続は、農民向けの指導書『四季農戒書』を著してもいる。
兼続の兜の前立には「愛」の字が掲げられていた。
さらに、兼続の妻も能力が高かった。それは、兼続死後、上杉家は兼続の妻に3千石を与え、女家老として遇したことでも察せられる。
ローマ帝国の最盛期を、五賢帝時代(96年〜180年)という。
その名の通り、五人の優れた皇帝が出た。ネルヴァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人である。
その中でも、最もローマ帝国の勢力が大きかったのは、トラヤスヌの時である。
シドッチ(シドッティ)はイタリア人で、徳川家宣(6代目)の時日本へやって来た。
シドッチは、ローマ教皇からの命で、日本でキリスト教の布教を復活させるためにやって来たのである。
大隅国に到着したシドッチは、すぐに捕らえられ長崎へ送られた。その後、江戸へ護送され、新井白石の尋問を受けた。
シドッチによって受洗した者が自首し、シドッチは地下牢に入れられた。そこで約半年後に死亡した。
シドッチは、新井白石との対面中に重要なことをやった。
それは、鎖国をする理由となった、キリシタンによる他国侵略説の誤解を解いたことである。
また白石は、シドッチの博識に対して感動を受け尊敬した。
鎌倉幕府の3代将軍である源実朝は、若いながらにして非常に和歌に優れていた。『金槐和歌集』という歌集は、実朝の歌集である。
実朝は、歌人としての才能は抜群に優れていたが、武士の頭としての能力はなかった。
そんな実朝、甥(兄、頼家の子)の公暁(くぎょう)によって鶴岡八幡宮で暗殺されることになる。その背後に、北条氏による陰謀があることは間違いないだろう。
家康と武田信玄が激突した三方ヶ原の戦い。この戦いで家康は完敗した。
浜松城の守備をしていた夏目吉信は、家康の壊滅的な敗北を知ると、救援に向かった。
吉信は家康を発見すると、うまく家康を逃がし、自らは追ってくる武田勢の中へ突入して討死した。
ちなみに、この夏目氏、明治の文豪である夏目漱石の遠い一族という。
伊達稙宗(たねむね、政宗曾祖父)と伊達晴宗(政宗祖父)の親子は、6年にも及ぶ対立をした。
天文の乱と呼ばれるもので、晴宗の稙宗に対する不満が原因と考えられる。
最も強い不満が、越後国主上杉定実との養子縁組に、稙宗は実元(晴宗と同じく正室の子)を出そうとしたことであった。
晴宗は父稙宗に兵を向けた。家中は晴宗派・稙宗派と分裂する。戦乱の結果、晴宗が勝利し、稙宗は隠居することになった。晴宗は伊達家の居城を西山から米沢に移した。
稙宗と晴宗の対立は、伊達家にとって結束力を強くするという幸運をもたらした。しかし、弊害もあった。
その弊害とは、稙宗側についた者達は、政宗の代まで反抗することになるのである。
伊達実元の養子縁組は白紙になった。実元の養子縁組は伊達家内だけでなく、上杉家内でも対立が生じた。
ちなみに伊達実元は、政宗の片腕となって大いに働くことになる伊達成実の父親である。
相良(さがら)藩は、遠江国にあった。この相良藩は小さな譜代大名(1万石〜2万石程度)が治めた。
相良に大名が配置されたのは1710年以降である。歴代の藩主は、本多忠晴→本多忠通→本多忠如→板倉勝清→本多忠央→田沼意次→田沼意明→田沼意正→田沼意留→田沼意尊である。
ちなみに、相良城についての縄張りは、松平定信によって城が破壊されたために分からない。
大坂夏の陣にて、真田幸村は自ら真田丸とよばれる出城を作った。
この真田丸に、徳川方の有力な前田勢・井伊勢といった部隊が攻めたが、多大な損害を出して撃退された。この戦により、幸村の名は鳴り響いたといっても過言ではない。
余談ながら、この真田丸には長宗我部の部隊も籠もっていたという話もあるが、真相は不明である。
フランス革命によって、時の皇帝ルイ16世と、その妻マリーアントワネットは処刑された。
ルイ16世の処刑に際し、議会で投票が行なわれ、処刑すべきか生かすべきかを決めた。その結果、わずか1票差で処刑と決まったのである。
処刑はギロチンによって行なわれたが、ちなみにこの時期、反逆者扱いとなりギロチン台送りにされた者は数多い。
壬申の乱は、672年に起きた内乱のことである。
具体的には、天智天皇の死後、天智天皇の弟である大海人(おおあまの)皇子と、天智天皇の子である大友(おおともの)皇子との間に起きた後継者争い。
勝者は大海人皇子で、彼は天武天皇となり、絶大な権力を握ることになった。
第146回目・・・「壬申の乱〜天智天皇と大海人皇子〜」
天智天皇の後継者として有力な人物には、弟の大海人皇子と子の大友皇子がいた。
天智天皇は、自分の後継者に大友を考え、そして大海人はその良き協力者だったようである。
しかし、天智天皇の死期が迫ると大海人の態度は変わり、大友擁立の協力を拒絶し、出家して政界から消えてしまった。
第147回目・・・「第19王朝〜ラメセス1世〜」
ラメセス1世は、古代エジプト第19王朝の創始者である。
第19王朝は紀元前1295〜1186年までの王朝で、歴代の王は、ラメセス1世→セティ1世→ラメセス2世→メルエンプタハ→アメンメセス→セティ2世→サプタハ→タウスレト。
ラメセス1世の治世は、わずか2年にすぎなかった(前1295〜1294年)。
壬申の乱には、譲位をめぐる争いという面がある。
それは、大海人皇子は出家する前、天智天皇に天智の大后、倭姫王(やまとひめのおおきみ)を後継者にするよう進言している。
ひとまず女帝を立て、大友皇子と対決し、それに勝って倭姫王に譲位を促し、自分が天皇になるという考えなのだろう。
こういう例は他にもたくさんあり、壬申の乱は、譲位をめぐる争いだったとも見てとれる。しかし、倭姫王が天皇になった確証は乏しいが・・・
十字軍とは、聖地イェルサレムをイスラムの支配から奪回するために結成された、キリスト教徒の軍隊だ。
イェルサレムは、1071年イスラム系のセルジューク朝に占領された。
十字軍は、7回(8回か?)起こされ、第1回と第5回を除いて失敗し、最終的にも聖地回復に失敗した。
松平清康は、家康の祖父である。清康は、13歳で家督を継ぎ、25歳で家来に殺されてしまった。
清康が家督を継いだ時、松平家は没落寸前だった。それを清康は旧領を復活させたばかりでなく、西三河をほとんど平定してしまうという功績を上げた。
清康の短い生涯を考えると、彼の能力の凄まじさがうかがえる。しかし、清康の死後、松平家は再び衰え、そして家康は人質に出された。
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