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久下田城

 

堀。市民公園から階段を下りるとある。   市民公園となる城跡。

 

所在地・・・茨城県筑西市(旧下館市)

築城年・・・1545年

築城者・・・水谷正村(蟠竜斎)

主な城主・・・水谷氏

 

水谷氏について

 永谷(みずのや)氏は、藤原秀郷の子孫で、近江国の水谷郷を領し、鎌倉時代には代々幕府の御家人として仕えた。
 永谷氏5代貞有は足利直義に従い、足利尊氏との戦いに敗れ没落。貞有の曾孫氏俊は結城基光に仕え、基光が小山義政の討伐の功によって下野守護職となったときに氏俊は守護代となり、伊佐(下館)と長沼(二宮)荘を与えられた。
 氏俊の孫時氏は、結城氏朝が1440年鎌倉公方足利持氏の遺児を擁して室町幕府と戦った「結城合戦」のとき、主君の結城氏朝に殉じた。その忠節により、結城家再興の際、時氏の子勝氏に下館旧領が与えられることになる。
 水谷正村(蟠竜斎)は徳川家康と早くから好を通じていた。豊臣秀吉の関東平定にあたっては、主人の結城晴朝が家康の実子で秀吉の養子である結城秀康を養子とし、秀康に結城家の家督を譲った関係 から、蟠竜斎の弟勝俊は徳川派となり、関ヶ原の合戦には結城秀康に従った。家康の命で上杉景勝降伏の仲介をした功で、結城家から独立して大名となった。
 その後、勝俊の子勝隆は1639年に備中成羽、次いで備中松山城に移ったが、勝隆の孫勝賢に子がなかったために1693年に水谷家は改易となってしまった。

猛将、蟠竜斎

 ここで、久下田城を築いた蟠竜斎を紹介しておこう。
 蟠竜斎の初陣は1539年、蟠竜斎が16歳の時である。この時、150騎を従えて出陣した蟠竜斎は、名のある武士の首を46討ち取ったと伝えられている。蟠竜斎は、関東の武将が相次いで没落する戦乱の世を戦い抜き、武勇と見識によって水谷家を安泰の地位に置く。しかし蟠竜斎は、下野の大少名達から毛虫のごとく嫌われていたようだ。

 

<現在の状況>

 久下田城はほとんど何も残っていないと言った方が良いかもしれない。茨城県の県史跡に指定されているが、市民公園となる城内は、うす暗い中にひっそりとたたずんでいるという気がし、残る堀も汚いのが残念である。

オススメ度 ★★☆☆☆

 

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