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祗園城

 

堀。幅は広く、深さもある。

     見張り台。この眼下には急な崖が存在する。     土塁。小山城には至る所に土塁の跡が見られる。この写真はその一部。

 

所在地・・・栃木県小山市城山町

築城年・・・1148年

築城者・・・小山政光

主な城主・・・小山氏

 

小山氏

 小山氏の祖太田政光は、藤原秀郷の子孫で、「小山」の地名を姓とし平城を築城した。2代朝政は弟の長沼宗政(長沼氏の祖)と同じく弟の結城朝光(結城氏の祖)とともに、源頼朝の挙兵に一族を率いて加わり、一ノ谷、壇ノ浦の戦いでは源氏勢に加勢し、勝利をおさめて一族繁栄の基礎を築いた。
 その後、鎌倉時代末期の混乱期に、城主だった7代貞朝は1333年5月、北条政権打倒のため鎌倉攻めに参加、途中、武蔵国鶴見の合戦で戦死した。このため、8代秀朝は戦乱期に備えて城の拡張工事に着手、堀を深め、塁壁を高くして敵襲に備え、本丸を中心に四方に見張り台(郭)を築くなど、“防衛策”に万全の体制をとった。この秀朝も北条時行の乱の平定に加わり、武蔵国府中で戦死した。
 やがて南北朝に移り、9代朝氏(朝郷)と10代氏政は足利尊氏に従って北朝勢に加わって大いに活躍、武将として名をあげた。11代義政の時、本城内に祗園神社があることから鎮守の名前をとり、本城を「祗園城」とし、それまでの居城
鷲城、さらに連絡の城として長福城中久喜城を修築、補強した。
 義政は、鎌倉公方足利氏満の制止も聞かずに
宇都宮城主基綱を討ったため、鷲城を中心に半年余り足利氏と戦ったが、遂に敗れて二年後に死んだ。その子隆政(12代)も足利氏を攻めたが、これも力尽きて敗れ、隆政は会津黒川で自害、隆政の子供は鎌倉六ツ浦に沈められたという哀話が残っている。こうして、2世紀半にわたって続いた小山氏の正統は1397年に滅亡した。

重興小山氏

 東国の名族、小山氏の断絶を惜しんだ鎌倉公方氏満は、小山氏と同族の結城基光の二男下野守泰朝に小山氏を再興させた。
 泰朝の孫、15代持政は古河公方と上杉氏との「国盗り合戦」が激化したとき、古河公方側の有力武将として出陣する一方、祗園城本丸南側に二の丸と姫御殿を築き、外堀を増すなど大改修を行い、かつての名門の威光を取り戻した。当時の勢力は、阿蘇、下都賀、寒川、下総古河、武蔵北部を支配し、20万石以上の所領だったといわれている。
 こうして小山氏は再び勢力を盛り返したが、20代秀綱の時、小田原城主北条氏政は北関東支配の野望を捨てきれず、下野攻略の責任者に次弟の氏照をすえた。氏照の攻撃により1575年祗園城は開城。秀綱は常陸大田城の佐竹義重を頼った。1582年、織田信長の関東進出の際に秀綱は再び祗園城に返り咲く。その後、北条氏政は、小山秀綱を自分の支配下に収めようと養女を秀綱の息子の政種(21代)に嫁がせた。このため、1590年豊臣秀吉の小田原城攻めの時、政種は北条氏に加勢、同年7月7日、小田原落城とともに、450年もの長い間栄えた小山氏は滅亡した。 江戸時代初期、本多正純が祗園城主となり祗園城は大改築されるが、正純が宇都宮に転封になったために祗園城は廃城となった。

実なしイチョウの伝説

 現在の城址公園内に、イチョウの木がある。
 このイチョウは、「実なしイチョウ」と呼ばれており、城が落城したとき、姫が城中の井戸に実を投げて自殺し、姫は後で自分を探しに来る者に場所を知らせる為に、そばにイチョウの小枝を置いておいた。このイチョウは成長したが、実をつけることはない。
 この伝説は、真実かどうかは分からない。それは、祗園城が落城していない可能性があるからだ。

 

<現在の状況>

 祗園城は城址公園となっているが、その中にある土塁や堀は健在している。整備もされているので、小山市に寄った時は訪れてみるのも良いかもしれない。 また、城の北側にある天翁寺には、小山氏歴代の墓があり、祗園城と共に訪れることをオススメする。

オススメ度 ★★★★

 

祗園城の所在地→