トップ城以外のあれこれ>足利学校

足利学校

所在地・・・栃木県足利市

 

   

   遺蹟図書館

 

 後編では、明治維新後に足利学校の為に働いた人たちを紹介する。

 明治維新を迎えた足利学校は、1868年(明治元年)足利藩最後の藩主戸田忠行に託されて再興が図られた。しかし、藩籍奉還で栃木県が置かれると、足利学校は県の管轄となり、足利学校は事実上廃校となった。
  1876年(明治9年)に蔵書が古本屋などに払い下げられるという事件が起き、足利学校を壊すという計画も持ち上がった。
 

田崎早雲

 画家として活躍していた田崎草雲は、蔵書払い下げ事件と、足利学校を壊す計画に憤慨した。草雲は、栃木県庁(現栃木市)に駆け込み、交渉した。その結果、蔵書取り戻しに成功し、足利学校の保存を約束させた。
 

相場朋厚

 相場朋厚は廃藩置県後、田崎草雲と共に足利学校保存の為、寄付集めなどに奔走した。
 1895年(明治28年)、朋厚は足利学校管理委員に就任した。そして、他の管理委員と共に、今に続くセキテンを復興したり、蔵書を管理する遺蹟図書館をつくるなどの業績を残した。


川上広樹

 幕末の藩政改革を担当した川上広樹は、明治維新後、藩校を足利学校に合併したり、蔵書の修理を行なった。また、広樹は『足利学校事蹟考』を書き、それは足利学校の創立や由来、歴史などをまとめ上げたものである。
 

原田政七

 原田政七は、1907年(明治40年)に足利町の町会議員となり、その後、足利学校管理委員に就任した。
 太平洋戦争による空襲は足利にも及び、政七は門外不出といわれていた蔵書を、山を越えて飛駒村(現田沼町飛駒)に疎開させ、終戦後には、GHQによる蔵書散逸を恐れ、市内の質屋に蔵書を預けた。
 

丸山瓦全

 現在の足利学校が復元される前、そこには足利市立東小学校があった。この小学校の校舎が昭和初期に拡張され、それまで残っていた足利学校南側の土塁が壊された。
 瓦全はこれに怒り市役所を訪れた。そして、土塁の保護を理由付けで話した。だが、それに対する市の回答がいつになってもなかなか出ず、ついに瓦全は足利市長を裁判所に訴えた。文化財問題で市長が訴えられたという前例は今までないことであった。