エピローグ 漆黒の魔剣士

その日、カラカナイの平原で魔女の軍勢と王国軍が衝突した、
両軍共に二百ほどの兵を動かした小規模な遭遇戦ではあったが、
それだけに個人の力量が及ぼす影響も大きい。
魔女の側に一人、卓越した剣士が居た。
漆黒の胸鎧に身を固め、魔剣を振り回すその魔女は、短い金髪を翻して戦場を飛び回り、
目の前に現れる王国の兵士を、片端からなぎ倒していく。

その魔女一人で、カシナートの兵士を三十人、いや五十人は打ち倒しただろうか。
短時間に兵力の半数近くを失い、王国軍はすっかり浮き足立って逃げ腰になっていた。
逆に、魔女軍は敵の怯えを感じ取って、嵩に掛かって攻め立てた。

部下たちが次々と血祭りに上げられていくのを目にして、王国側の隊長が毒づく。
「あんな魔女がまだ居たのか、おのれぃっ」
計算外だった。
こんな主戦線を外れた所の補給線で、魔女の率いる部隊と遭遇するなんて……
それもあんな強力な魔女が率いていようとは……
漆黒の剣士は、見るからに高位の魔女であった。
目と鼻の先で、さらに十数人の兵が魔女一人に切り倒されていった。
魔女は極端に無駄を省いた美しいとさえ云える太刀筋と、舞うような動きで、
まるで藁人形の如く、王国兵を次々と切り捨てていく。
隊長は、呻き声を上げた。
強固な防備がなされた闇の森の本陣を除いては、
ろくな残存兵力も魔女も残っていないはずであったのに。
壮年の隊長は、全滅するよりは、と素早く撤退の決断を下した。

「退けッ!退けエッ!」
兵が慌てて、退却の角笛を吹き鳴らした。
王国兵は逃げていく。
誇りも、傷ついた仲間も見捨てて、命を拾う為に曠野の彼方へと逃げ散っていった。
それを魔女の兵士達が、勝ち戦に興奮し、歓声を上げながら追い掛け回す。

魔女は追撃の指揮を副官たちに任せると、
手近な所で、年若い王国兵士を一人素早く捕らえた。
魔女が、腕を掴んで力を込める。
それだけで兵士の体は痺れて槍を取り落とし、抵抗を封じられてしまった。
鉄をひん曲げるほどの凄まじい腕力で、兵士の首筋の衣服を引きむしると、
魔女は淫蕩な表情を浮かべ、舌なめずりしながら、そのうなじに巨大な犬歯をつきたてた。
王国兵……にきびの跡が残るまだ若い兵士は、恐怖に顔を引きつらせて
魂消るような絶叫を上げ、身を震わせて失禁した。
「ぐはっぁああああ!!!……あぎゃああああああああ!!」
仲間の惨たらしい断末魔の叫びを耳にして、王国兵たちは耳を塞ぐように首を振り、
あらん限りの脚力を駆使して、可能な限りの速度で魔女の魔手から逃げ去っていく。
ぴちゃぺちゃと音を立てながら、魔女が血と体液と洩れ出る白い気体のような何かを啜る。
不運な王国兵の気持ちよさそうな、地獄の苦痛を浴びてるような、恍惚と苦悶が入り混じった表情が、行き成り、べこりとへこみ始めた。
「ぎひぃ!!……ぎっ……ごあああ!!」
見る見るうちに彼の顔と躰から水分が失われ、皮膚がたるみ、老人班が浮き出てくる。
命と魂と苦悶の感情を魔女に啜られ、若い、年老いた王国兵は、口から舌を突き出して、
快楽と苦痛に涙をボロボロとこぼし、蜘蛛の巣にかかった蟲のように力無くもがいた。
魔女の犬歯が引っ込む。
十を数える程度で手早く食事を終わらせると、魔女の剣士は口元をすっと拭い、
満足したかのように優しいとさえ見える笑みを浮かべて、
既に百歳の老人のようになった王国兵の首に手をかけた。
「御免ね……さよなら」
耳元で囁いて、兵士の首を枯れ枝のように一気にねじ切ると、
手についた血と髄液の最後の一滴まで、美味そうに蒼白い舌で舐め取った。
「ん…はぁっ」
色っぽく顔を上気させ、押し寄せる恍惚に耐えるように僅かに躰を震わせた。

追撃を終えて、勝ち誇った兵士達が王国軍の残した軍需品に群がっていた。
どちらの側が勝とうと、戦利品の収奪が兵士一般に共通した楽しみなのだ。

「散っている馬を集めなさい。それと他の物は好きにして構わないわ」
魔女の剣士は、略奪の許可を与えると、剣を収め、地面に横倒しになった豪華な馬車に近寄った。
とても、兵士たちの日用品を運んでいるとも思えない豪壮な馬車だ。
前線に立つ貴族か、高級軍人の私物でも運んでいるのかもしれない。

「姫様、魔族の癖に妙に俗っぽいんだよな」
呟きながら、幌車の入り口に回り、
「わたしには、用の無いものだけど……香水とか、硝子の小瓶とか、喜びそうな小物でもあるといいな」
色々な意味で忠誠心の厚い彼女が、幌車の奥を覗き込むと


奥まった荷物の物陰で小柄な誰かが震えていた。

魔女は、鋭い声で誰何した。
「誰?」
「あ……ま、魔女」
脅えた反応に、魔女はうんざりしながら再び問いかける。
「聞いているのは、こっちよ」

子供。
子供のような年齢の少女が一人、物陰で震えている。
「何故、貴女みたいな子供が、こんな所にいるの?」
「あ……父様の馬車に乗って、兵隊さんと一緒に……その方が安全だからと」

「指揮官殿、どうやら、ここで死んでる商人の娘のようですね」
「あ……」
死体を見て、娘の体から激しい恐怖の匂いが立ち昇った。
それを嗅いだ瞬間、強烈な渇望と飢餓感が、魔女の胸に湧き上がってきた。
思う存分娘の恐怖を味わいたいというそれを、だが比較的容易に剣の魔女は自制して、
どうしようかと、娘を観察した。

綺麗な娘だった。
楚々とした未成熟な美貌に、性長期の小鹿を思わせる健康的な印象。
服装にも、装飾にも、地味だが、嫌味のない趣味の良さが現れている。
実家は、商家か、交易商か。いずれにしても相当に富裕な家の娘であろう。
自分の運命が、目の前の魔女の掌に委ねられたという事を、実感したのだろう。
娘は絶望を浮かべた固い表情をして、目の前の魔女を凝視していた。

泣き叫ぶ娘を犯す、奴隷として売る、部下に褒美として与える、虜囚として身代金を取る。
魔女の昏い衝動と、理性との狭間から浮き上がってくる複数の行動の中で、
比較的好みの選択肢を魔女は選んだ。

「……家族はいる?」
問いかける魔女の声に、少女が顔を上げた。
「え……」
「ここで死んでいる男以外に、身よりはいるの?」
「その人は叔父様です。父様が、ゴダールの町に」

「ゴダールか、ちょっと遠いよね」
魔女は、首を曲げて暫し思案した。
「付いてきなさい」
娘を促して、鈴なりに繋がれた捕虜の列へと近づいてくる。
魔女が近寄ると、捕虜達から強烈な敵意とそれ以上に激しい恐怖の匂いが立ち昇った。

捕虜の顔を見回して、魔女は、実直そうな何人かの兵を見繕った。
正義漢や正直者の魂は、美味そうなそれ特有の匂いを放っているので、魔女には容易に見分けが付いた。
送り狼になりかねない兵士を除外して、候補を選んでいく。
「あんたと、あんた。それと、そこの大男と人相の悪い歯欠け、あとは、そこの茶髪の女兵士に少年兵」
指差して指名し、捕虜たちの縄を解いた。
「あなた達、放してやるから、この娘をゴダールの実家まで送り届けなさい。
もしかしたら、お礼さえ貰えるかも知れないわよ」

「え?」
娘が驚いたように、魔女の顔を見上げた。
周囲に居た魔女軍の兵達が驚いたように
「放すんですかい?」
「なに?文句あるの?」
魔女がやや険を含んだ言葉を掛けた、それだけで部下達たちは恐怖に顔を引きつらせた。
「いいえ……文句なんて、とんでもねぇです。俺は……俺たちはただ……」
首を振りながら後退する。それで、魔女は、前任者が味方をどんな風に扱っていたのか理解した。
「ちょ……脅えないでよ、ただ聞いただけじゃない」
「いえ。シルカナーニャさまは、女と見ると自分で楽しむか、兵にお与えくださったから」
かつて戦場で相まみえたことのある、長く蒼い髪を振り乱した銀槍の魔女の姿を思い出した。
「シルカナーニャ……か」
軽蔑したようにその名を呼び、魔女は鼻でふんと笑った。
主の話では、シルカナーニャは生まれつきの魔女であったそうだ。
生まれながらの魔女たちと、元は人間の自分とは、やはりどこか違うのか。
前任者は、魔女の本能を抑える術を持たなかったのだろう。
だから、死んだ。
優れた力を持ちながら、感情に身を任せて追撃し、挙句、二人組の下級兵に首を取られる羽目となったのだ。

「女が欲しいなら、買いなさいよ」
魔女が離れた為に、蟻のように兵士たちが群がっている豪華な馬車を指差した。
「ほら、皆、漁ってるわよ。早く行かないと、金目のものが無くなっちゃうかも」
もう粗方、奪われた後だろう。今さら、大した価値ある物が残っているとも
思わなかったが、一応煽ってみる。
副官たちは一礼すると、慌てて馬車に向かって駆けて行った。



「もう、行った方がいいわ」
魔女は、手を振って娘達に行くように促す。
娘が深々と頭を下げた。縄を解かれた兵士たちはまだ戸惑っている。
自分たちが解放されたのが、信じられないのだ。
「ありがとうございます、本当に助かりました」
娘が頭をあげた
「わたし、魔女って酷い人ばかりだと……あ、ごめんなさい」
「いいわ、別に気にしない。その通りだから」
「いいえ。貴女、いい人です。わたし分かります」
「なッ・・何言ってるのよ?」
娘の言葉に照れたのか、魔女は一瞬絶句して、狼狽した様子を見せた。
「だって、貴女が選んだこの人たちも、いい人なんですもの」
なんと魔女は頬を蒼く紅潮させると、拗ねたように明後日の方向を向いてしまった。
解放された兵士たちは、唖然とした。
なんとも魔女らしくない魔女だった。なるほど、これは善人かもしれない。
「良く言われるわ。いい人だってね」
魔女の声には、微量の苦い物が混じっていた。

「名前を、教えてもらえませんか」
娘が尋ねると、魔女はしばらく迷っていた様子だったが、口を開いた。
「エレー……エレニュオス、魔女のエレニュオスよ」
その名を教えると、
「ありがとう、エレニュオス。……私は……」
魔女は慌てて頭を振って、娘の言葉を遮った。
「貴方の名前は、聞かないでおくわ。
魔女に名前を知られると、夜に魅入られてしまうから」
「それは迷信でしょう?」
朗らかに笑う娘の言葉に、魔女は苦虫を潰したような表情で応じた。
「だったら、どんなにか良かったか」
そう云う表情が、余りにも苦々しい物だったので、少女は少し戸惑った。
「兎に角、聞きたくないって魔女を相手に、無理に名を教えるのは非礼なのよ」
魔女は適当な嘘を付いて会話を打ち切ると、手を振って出発するようにと娘達に促した。
「さあ、もう行きなさい。わたしの気が変わらないうちにね」


エレーン……エレニュオスは、手を振って去っていく商人の娘と解放されて陽気な兵士の一団を見送った
善人と間抜けは同義ではない。
善人は、善人としての自分を守り、生き抜いていく為に、存外鋭く同類を見抜く力を持っているものだ。
もし、人であるうちに出会っていたら、あの娘とは気があったような気がした。
「いい『人』か」
自分は、おそらく間抜けの部類だろう。
苦く呟いて、魔女は、蒼く変色しきった指で自分の口元に触れてみた。
濃紺の唇は、常に艶々と濡れ輝き、周囲に官能的な印象を発散している。
別に夜の眷属となった事を後悔しているわけではない。
それでも、つい数日前まで桃色だったそれを鏡で見るたびに、エレニュオスは、
やはり、自分が人を辞めてしまったことを思い知らされるのだ。
一同の背中を見送る魔女の胸を、奇妙な羨望と寂寥の感が襲った。
彼らは人の世界へ帰っていく。彼女らには帰る家がある。
でも、私はそれをなくしてしまった。

いいえ。今はあの闇の森が自分にとっての帰るべき故郷なのだ。
守ろうと決めた魔女の皇の姿と、
親しくなった赤い髪の魔女や、城で働くメイド達の顔を思い浮かべる。
孤独な訳ではない。それでも、と魔女は切なく思う。
掛け替えのないものを無くしてしまった事に違いは無いのだ。
もう、親友が笑顔を向けてくることは無く、慰められたり、慰めたり、馬鹿話したり、
叱咤の言葉をかけられることも、もう決して無い。

既に、二人が行く道は別たれてしまった。
今の自分は、人を喰らう浅ましい魔女であり、親友と触れ合う資格を永久に失ったのだ。

いつしか、あたりは薄暗くなり始めていた。冬の冷たい風が、曠野を吹き抜けていく。
略奪し終えた兵達が、戦利品を片手に再集結しつつあった。
副官たちが、丘陵の頂で独り佇む指揮官の姿を仰いで次の指示を求める。
部下達の視線を黙殺して、魔女エレニュオスは、群雲に掛かる上弦の月を見上げた。
夕闇に浮かぶ蒼の月を眺めているうちに、漆黒の剣士の真紅に染まった両眼から、
何故か涙が溢れ出てきた。
魔女は胸のうちで、静かに声無き祈りを上げる。
もし、魔族と成り果てた私の声にも、耳を傾けてくれる神が居るのなら、
どうかお願いです。けして、友と戦う日が来ませんように。
もしその時が避けられないとしても、
変貌したわたしの正体に彼女が気づくことがありませんように。胸の中で祈り続けた。

そうすれば、例え友がわたしを殺すような結末を迎えても、
彼女が悲しみに暮れることは無いであろうから、と


魔女たちの黄昏 (end)