7章 追撃

魔女たちの激しい追撃は続いていた。

山岳の如き威容を誇る魔窟より脱出して数時間。
エレーンは魔女たちの追撃者に捕捉され、強力な襲撃を受けていた。

木々が生い茂る漆黒の森を駆けに駆けて、森から狂ったような色彩が消え失せ、
不気味に漂う瘴気も薄れ始めた魔界の境界線に差し掛かった辺りで、
フンババの首に一本の矢が突き刺さった。
飛来した矢は、凄まじい威力を持って戦馬の首筋にのめり込み、反対側まで鏃を貫き、
サリアソリュートの愛馬は、一声、悲しそうに嘶くと横倒しに転倒した。
エレーンは、空中で猫のように体を捻って大地に叩きつけられた。
着地の際の強い衝撃に息を詰らせながらも、辛うじて受身を取るのが間に合い、
痛みを無視して素早く立ち上がると、獣のような動きで木立の合間に飛び込んで、
木陰に身を潜めた。
雷光の如き神速の連射と狙いの正確さを伴った弓での狙撃は、使用された鏃が
黒光りする金属でなければ、森エルフの襲撃を受けたと思ったかもしれない。

木々の連なる闇の中から、何事か叫ぶ声と、それに応じて木立の中を高速で移動し
迫ってくる複数の気配。
魔女の城からの追撃者。それも複数。十は降るまい。だが、二十は越えてない。
十五から、十八といった所か。
戦いを前に、小さい呼吸を繰り返して武者震いを少しずつ収めながら、
エレーンは濡れた薄い緑の瞳で、天空を仰ぎ見た。
久しぶりに見た人界の空は、払暁寸前のすみきった紫に覆われていた。
夜明け前の森に特有の澄んだ空気が、静かで浅い独特の呼気の繰り返しと共に、
女剣士の肺を一杯に満たしていき、全身に活力を行き渡らせ蘇らせていく。
全身の細胞が賦活し、気力が充実していくのを確かに感じながら、
エレーンは愛剣を鞘走らせた。
頼りになる相棒はここにいない。
「ミュラ……」
剣の柄を、掌から血の気が引くほどに強く握り締めながら、
一言だけ小さく、友の名を囁いた。
果たして、自分ひとりで魔女の集団とどれだけ戦えるか。
緑の瞳が、底冷えするような硬質の光を放った。
決意する。
ここまで来たのだ。何がなんでも、逃げ切ってみせよう。


「いないぞ?」
「探せ!!」
他の魔女たちが、見失った人間の姿を求めて、辺りを駆け回っている中、
指揮官は、エレーンが逃げ込んだ先を、視界に捉え続けていた。
指揮官の号令と共に、数名の魔女が先陣を切って、
人間が隠れた辺りの木立へと飛び込んでいく。
森の中から、剣戟の響きと、戦の叫びが響いてきた。
見つけた。

念のため、残りの魔女を、逃がさないよう相手の左右に回りこませながら、
指揮官の魔女は、必殺の決意を固める。

冥骸の城の位置を知られたままに、逃がす訳にはいかない。
客人たち専用の、幻の光景が充満した幻惑の回廊を通って逃げ出したのならば、
問題はない。
こちらがその気になれば、張り巡らされた幻惑の罠が発動し、
回廊の中で、犠牲者を永遠に堂々巡りさせることも可能である。
其処を通ってきた者は、客人さえも、時間や空間の感覚を狂わされており、
魔女たちの本拠が何処にあるか、とても把握する事はできないであろう。
だが、あの娘は違う。
闇の森外部へと通じる秘密の街道を通って、城から逃げ出した。
其処を逆に辿られたら、短時間に軍勢を送り込んでくることも不可能ではないのだ。
魔女は己の想像に戦慄して、体を震わせた。
魔女の都が大軍に包囲される光景など、絶対に見たくはなかった。
絶対に、あの娘を逃がしてはならない。
たとえ、夜魔の姫の不興を買ってもだ。

その魔女は、しゃがみ込んで倒れた魔獣の傷を確かめていた。
フンババの息は荒い。だが、魔女以上に生命力の旺盛な魔獣である。
命は取り留めるであろう。そう見て取って立ち上がり、魔女は辺りを見回した。
不審に思う。
いつの間にか、目前の木立からの剣戟の響きが絶えていた。
他の者達は、どうしたのだ?
仲間の気配も、酷く減っている。


腹に突き刺した剣を回転させ、蹴り飛ばして引き抜く、
左足を軸に、躰を独楽のように回転させながら、
後ろから切りかかってきた魔女の一撃を受け流し、
相手の体が泳いだ所で、首筋に刃を当てて、疾風のように薙いだ。
腹を抉られたくらいでは、魔女は死なない。
怒声を上げて、槍を構えて突撃してくる手負い魔女に、
頸部に致命的な一撃を受けて崩れ落ちていく後ろの魔女の体を投げつけた。
槍が仲間の体を貫き、魔女の顔が引きつった。
甘い。間合いを詰めて、抉りこむように下の角度から急速に襲い掛かる光の一閃。
隙を見せた第二の魔女も、首を半ば切断されて崩れ落ちていく。
人とは違う色の、蒼い血液が噴出して、返り血を大量に肩に浴びながら、
新たに切りかかってきた魔女の剣を躱し、地面に背中から転がって、
その足首を一閃して薙いだ。
脚部を切断され、悲鳴を上げて転がる魔女から素早く間合いを取り、
さらに新手の魔女の攻撃を、左に飛んで凌いで……



指揮官は、恐怖に喘いだ。
目の前の光景が現実とは思えなかった。
滅茶苦茶だった。
人間一人を相手にして、既に八人の仲間が絶命し、数名が地に伏して呻いている。
こいつは本当に人間か?
勿論、そうだ。
筋力も、速度も、傷に対する耐性も、人間は魔女とは比べ物にならないほどに低い。
目の前の金髪の剣士も、その例外ではない。
渾身の一撃が当たれば、間違いなく即死する脆弱な肉体の持ち主である。
にも拘らず、魔女たちの一撃は、その躰をまるで捕らえられない。
あたれば致命傷を与えるはずのその一撃は、
何故か、霞に切りかかっているように空を切り、
捉えたと思っても、悉く髪の毛一本の距離で躱されて、
それに乗じた相手の逆撃は、二、三合の打ち合いで、こちらの戦闘力を奪うか、
致命的な結果をもたらしていく。

「きゃあッ!!」
腕を切り飛ばされて、魔女が倒れた。
転がりながら、ヒイヒイと泣き叫び、傷口を押さえてエレーンから逃げ出していく。
背中を向けて逃げ出す魔女に追撃はしない。出来ない。
走って追いかけるほどの体力の余裕はない。
短い金髪を振り乱し、躰から湯気を立て、幽鬼を想わせる形相でゆらりと立ち上がって
立ち尽くしている最後の魔女へと近寄っていく。

「お……お前は…」
剣を構えながら、指揮官は震えた声で、目前へと迫る幽鬼へ問い掛けた。
「…人間なのか?」


エレーンは、無言で剣を一閃させた。
反応も出来ずに切断された魔女の首が、高く高く空を飛び、空中で回転して、
遠い地面に落ちる。
同時に、エレーンは、剣を杖代わりに地に突き刺してしゃがみ込んだ。


肺は爆発寸前だった。
口は酸素を求めて、パクパクと喘いでいた。
人間の限界領域に挑戦するような運動量をこなして、目の前は眩み、
赤く霞が掛かっている。
喉は掠れ、涸れきって、舌と口腔は痛いほどに張りついて、声も出ない。
気を抜くと、激しい頭痛と眩暈に気を失いそうになる。
み……水……
朦朧とした思考で、ようやくにそれだけを考えつく。

魔女の死体を手荒に漁って、腰につけていた水筒を奪い、中身を頭から被った。
水だ。新鮮な水。皮膚から急速に、水が吸い込まれていくのが分かる。
一つを完全に空けて、もう一つ、頭から被る。
三つ目の水筒を開ける途中で、自分の体からもうもうと白い湯気が立っているのに
ようやっと気づく程度には、思考力が回復した。
四つ目を、掌に零し、唇の周りを濡らしてから、少しずつ喉に流し込んでいく。
足りない。五つ目を消費する。やっと躰の奥底に、水分が届いたような気がした。
地面に跪いたまま、空を見る。夕闇にも似て、もっと澄んだ朱色の空。
既に黎明の輝きが東の方向から立ち昇り、小高い丘を薄明に染め上げていくと、
周囲からは鳥たちの囀る鳴き声が響き渡り、夜明けの刻を森中に知らせる。
金髪の剣士は転がりたい気持ちを抑えて、立ち上がろうと足に力を貯める。

周囲の光景を見回した。
決戦場となった森の中、僅かに開けた窪地には、魔女の戦士たちが死屍累々
物言わぬ屍と成り果てて、倒れ付していた。
青い血が地面を染め、戦場のような濃密な血臭が辺りに漂い始めている。
死肉を漁る肉食獣が来るかもしれないが、自分を殺そうとした魔女たちに対して、
大した哀惜の念は覚えなかった。

魔女の追撃を退けたことが自分でも信じられず、呟いてみる。
「新記録だ・・・」
今まで魔女と戦ってきた時は、常に相棒と一緒だったのだ。
それが、たった一人で、魔女の戦士の一団を壊滅させた。
大した者だと我ながら思った。
ミュラに自慢できるかも。
エレーンは苦笑する。
一人で十四、五人もの魔女を倒してのけたのだ。
人間業とも思えない。
云っても、絶対に誰も信じないだろう。
剣を支えに、残った力を振り絞るようにして、よろめきながらも立ち上がる。


金髪の女剣士は、歩き始めた。
ここまで来れば、もう一息だ。闇の森の外縁部には、王国側の村や砦も点在している。
時折、苦しげに呻き、よろめきながらも、一瞬も立ち止まることなく、
森の中を通る一本の細い糸のような道を、必死に辿っていく。
木々の密生が疎らになり、遠く草原の異なる匂いを風が運んできた。
森の出口が見えてきた。その寸前の所で、その魔女は待ち受けていた。


【7章 02】
茜色の空を背景に、森の木々が漆黒のシルエットと化していく最中、
胸鎧が陽光を反射して、照り映える淡い緑色の輝きを放っていた。
佇んでいる緑の影は、強烈な殺意と気配を周囲に放射している。
「出てきなさいよ」
明確に、自分の隠れている位置に投げかけられた声に、エレーンは木立から姿を現した。
寸前には、髪と同じ若葉色の胸鎧を身に付け翠の魔女が佇んでいた
睨みつけてくる紅の瞳には、冷たい氷のような殺意の炎が宿っていた。
美しい顔に強い敵意を漲らせて、
「……リンデワルト」
「馴れ馴れしく我が名を呼ぶな、人間めが」
エレーンの呟いた声を聞きとがめ、翠の魔女は寒々しい表情と声音を顕にした。
「寒気がするわ」

こうして翠の魔女と対峙していると、強烈な緊迫感が伝わってきた。
目の前の翠の魔女は、先ほどまで戦っていた追跡隊の魔女たちとは
まるで別物であることを、金髪の女剣士は認めざるを得なかった。
魔女としての魔力や身体能力も段違いではあろうが、
リンデワルトには、その魔女の力に奢った様子がまるで見えない。
全身から発散されている闘気は、紛れもなく鍛え抜かれた戦士のそれ。


無駄だとは予感しながらも、エレーンは翠の魔女に語りかけた。
「其処をどいて……どきなさい。わたしは……ミュラの所へ帰るんだから……」
必死さが籠められたエレーンの声に、
憎悪に固まっていたリンデワルトの表情が、初めて微かに揺らいだ。
「わたしが嫌いなのは知っている。
もういなくなるわ。二度と、貴方たちの前に現れない。約束する。
だから、放っておいて。貴方達は、あのお城で好きなように暮らしていけばいい」
少し迷った末に、結局、緑の魔女は首を横に振った。
やはり、得物を逃がす気にはなれないらしい。
「……それでは足りんな。あの方は、お前を愛しく思っている。
それだけではない。
お前がミュラ・クレイヴィと共に倒した魔女の幾人かは、私の友だ。エレーン・ダイア。

金髪の剣士は、体力を完全に消耗しきっている。
体の節々が痛み、鉛のように躰が重い。
それでも、エレーンは翠の魔女と対峙し、剣を構えようとして……
白い何かが、大気を切り裂いて飛んで来た。
視界の端で飛来するそれを捉え、飛び退って躱そうとして、
躰がエレーンの命令を裏切った。
飛翔しようとした瞬間に、足から力ががくんと抜けた。
そのまま地に崩れそうになる。歯を食いしばって、再び力を入れるまでの一瞬の遅滞。
金髪の剣士の足元に、粘着質の液体がへばりついていた。
「……くっ!!」
粘着の体液が飛来した方向を見やる。
「我が魔獣、アルカナよ」
上半身の女性の、下半身として巨大な蜘蛛を接合したような妖魔が、樹の幹に。
手にした糸を縄のように捩りながら、美しい笑顔に邪悪な笑みを浮かべて、
毒々しい哄笑に、鮮やかな黄色と黒の色彩の下半身を揺らした。

足を意図に絡められて、機動力を封じられたエレーンに、リンデワルトが茨の鞭を振った。
エレーンは飛んで来た鞭の先端に太ももを貫かれて、悲鳴を上げた。
翠の魔女の茨の鞭は、引き絞られた弓から放たれた矢の如き速度で、
エレーンの目にさえ殆んど見えなかった。
これでは、例えエレーンが本調子であっても、勝てるかどうか。
あるいは、先ほど前の戦いを、どこからか観ていたのか。
金髪の剣士の得手である機動力を封じ、万が一の逆転の芽を摘んでから、
止めの一撃を放とうと、リンデワルトは鞭をしならせた。
「……嬲りはしない。次の一撃で楽にしてやろう」
ミュラ…
人と魔の世界の境界。ここまで来て敗れる無念さに、エレーンは目が眩んだ。

いつまで待っても、次の一撃は来なかった。
大きな何かが、崩れ落ちたような物音が木立に響き渡った。
蜘蛛の魔獣が、悲鳴を上げる事も許されず、躰を両断されて即死。
汚らしい紫と黄色の体液を周囲にぶちまけて、肢体を痙攣させていた。
「サリア……ソリュート」
翠の魔女の旋律を伴った忌々しげな声に、エレーンが目を見開いた。
疲労と困憊にかすむ目で、赤毛の魔女の姿を確認する。
「あの方は命に反した貴様を許したというのか。罰も与えずに……
馬鹿な。いや、それより、ここで邪魔するつもりか?」
赤毛の魔女は、翠の魔女の問い掛けを完全に無視した。
「エレーン、無事か。これで姫様に申し訳がつく」
その言葉は、翠の魔女の理性に致命的な打撃を与えたようであった。
彼女は、奇妙に躰を震わせると、怒りも露に声を荒げた。
「魔女を幾人も殺したこの女を生かして、さらに直系の眷属に?
そんなこと、絶対に認めない!!!認めてなるものかァァァァァ!!!!!」
赤毛の魔女は、リンデワルトからエレーンを守るようにその前に立ちはだかった。

「…………犬が!」
翠の魔女が、積年の敵意を爆発させて吼えた。
「我が術、その目に焼き付けてから、疾く死ね!人間!」
リンデワルトが秘術を放つ。
一言目の呪言で風の精霊に干渉し、次いで完成した呪文で己の存在を分裂させた。
突風が巻き起こった。風はつむじを巻いて旋風となり、中で緑の葉が多数舞った。
葉が集まり、無数のリンデワルトを形作った。
赤毛の魔女に襲い掛かる翠の魔女たち。そうして、ほぼ同時に繰り出される無数の茨。
影を伴った分身と、風を切る無数の音から、全ての分身が実態を兼ね備えていると判断。
赤毛の魔女は冷静に迎撃し、剣撃で全てを叩き落そうとする。
幻を擦り抜けて、初太刀が空を切り、微かに体が泳いだ。
反応が遅れた。実体を伴った唯一本が赤の魔女の右肩を抉り抜き、青い血が飛び散った。

サリアの傷を確認して緑の魔女は冷笑を貼り付け、
勝利を確信したかのように高らかに笑った。
「次は利き腕だ」

死の宣告にサリアは冷たい目をして、侮蔑の笑みを浮かべた。
馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、再び、剣を振りかぶった。
防御をまったく無視した、攻撃の構え。
佇んでいるサリアに、再び、無数のリンデワルトたちが踊りかかった。
赤毛の魔女が豪剣の一撃を振り抜いた。地面が、ずんと揺らいだ。
一閃、
激しい雨が地面を叩くような音。
ただの一撃で緑の魔女の実態を見極め、その腹を薙いでいた。
緑の魔女の躰は、腹からほとんど両断されて、地面に叩きつけられ
びくん、びくんと痙攣を繰り返している。
エレーンは赤毛の魔女の実力に驚愕した。
強いとは思っていたが、これほどまでに強かったのか。
痙攣しながら、呆然と見上げる翠の魔女に
「目の前の相手の力も測らずに闇雲に吠え掛かるから、
お前はそうやって、野良犬みたいに犬死することになる」
赤毛の魔女は一言だけ告げ、踵を返した。


ようよう苦労して、剣で糸を切り裂き、
赤毛の魔女に駆け寄ろうとして、エレーンは留まった。

目の前に立っていたのは、サリアであって、サリアでなかった。
赤髪の魔女は、明らかに以前と雰囲気を一変させている。
日溜りにまどろむ猫のような、どこか人懐こい雰囲気は完全に姿を消し、
代わって捕えた獲物を八つ裂きにしなければ気がすまないような、
猛悪な狩猟犬と同質の凶暴性を身体に湛えていた。
周囲に張り巡らした細かい殺気の糸は、近づく獲物を察知するためのものか。
今の彼女ならば、手の届く範囲の警戒網に触れた相手は誰であれ容赦なく屠るだろう。
瞳には、灼熱の炎の如き紅蓮の色が妖しく揺れて、冷たくエレーンを注視している。
灼熱の魔女…
これが本当に、あのサリアだろうか。
紅蓮の炎のような妖気を四肢から立ち昇らせ、口元には、嘲るような微笑を貼り付かせて、
サリアは、冷たくエレーンを凝視している。

目の前の人物が、数刻前に分かれた友人と確信することが出来ずに
だから訊ねるように、その名で呼び掛けた。
「……サリア?」
畏れたのは、果たして否定される事か、あるいは肯定される事か。
問いかけるエレーンの声は、戦慄に震えていた。


エレーンの呼びかけに、漆黒の装束を纏ったサリアは冷たい微笑を浮かべて応えた。
それは生まれつきの魔女だと称していたリンデワルトと言った連中が浮かべた
憎しみの表情より、はるかに見る者の背中をゾッとさせるような、
虚無と深淵を湛えた暗黒の微笑、魔の微笑であった。
「サリアソリュート。そう呼んで欲しいわ。エレーン」
目の前に居るのは、つい先ほど城で分かれたサリアではない。サリアの姿をした魔女だ。
僅かな時間に何があったかは分からないが、サリアは完全に魔に堕ちていた。
薄暗い虚無の孔のような、全く光の無い瞳。
それを見て、サリアという人間の完全に消えてしまった事を確信する。
金髪の剣士は泣きたくなった。
恐怖ではなく、数日ではあったけれども、交流を持ちえたサリアと言う人間が失われてしまった事に対する哀惜の念がエレーンの胸を突いて、
だけど、サリアソリュートに対する隙を見せないためにエレーンは必死に泣くのを堪えた。

自分自身が居るべき所に帰る為に、
そして短い期間ではあったが、友人であったサリアの願いを叶える為にも、
目の前に立ちはだかる最後の敵、サリアソリュートを全力で突破しよう。
そう決意して、エレーンは剣を抜いた。

静寂。太陽は既に完全に姿を現し、その恵を大地に降り注いでいる。
深緑の長閑な森に似合わぬ、血臭が辺りに立ち込めている。
周囲の空気が、凍り付いている。
二人は互いを睨みながら、じりじりと円をかく動きで、少しずつ間合いを詰めていく。

金髪の剣士が動いた。
渾身の膂力を込めて切りかかった一撃、応じて、打ち込んでくるサリアの太刀。
エレーンの背筋に冷たいものが走った。
背筋を走りぬけた予感のままに、動かない体を無理矢理にずらし、
受け流すように剣を斜めにずら……
激しい衝撃が全身を襲ってきた。手が折れるのではないかと思えるほどに痺れた。
跳ね飛ばされ、また自ら後ろへと跳ね飛んで、エレーンは、ゴロゴロと地面を転がった。
剣を手放さなかったのは、半ば偶然、半ば剣士の本能。
以前に似たような状況で剣を跳ね飛ばされ、半死半生の目に遭わされてから、
剣を放すまいとの意識は、常に心の中にある。

「あぐ・・つ」
立ち上がろうとして、体中の打撲の痛みに呻いた。
諦めて地面に転がり、短い息を繰り返す。
まるで話にならなかった。
エレーンは酷く消耗していた。
それ以前に、赤毛の魔女自身が、剣士として一流の技を持っていた。
技自体は翠の魔女の方が幾らか洗練されていたが、サリアの回避速度と
機動の予測能力の組み合わは、個人戦では万能に近い力を発揮する。
たとえ、エレーンが本調子であっても、疾風の太刀も、多彩な技も、
獣じみた速度と、瀑布のような膂力を下敷きにした完成された剣技を前にしては
通用しないだろう。
二ヶ月前に戦った魔女の皇を除いたら、間違いなくサリアソリュートは、
エレーンが戦った中で最強の敵であった。
サリアは、わずらわしげに髪を後ろに撫でつけると、エレーンに歩み寄ってくる。

「ひっ……ひぃ…」
逃れるように悲鳴を上げて立ち上がり、道から外れて、木々が密集した森の中へとよろよろと
入り込んでいく。
「これ以上苦しむつもり?エレーン」
サリアの呼び掛けてくる声に、背中が震えた。
無視して、よろめきながら、もがくように、ひたすら前へと逃げる。
密集した木立を、強引に突き進んで、枝が頬を深く切った。
熱い痛み。血が流れる。
服を切り裂き、汚れ、転んだ。土を掴んで、呻いた。
恐ろしかった。
剣士としての矜持も、闘志も、木っ端微塵に打ち砕かれて、
今のエレーンは、子供の時分の泣き虫で臆病だった頃の時分に戻っていた。
ただただ逃げ、ただただ助かる事しか考えていない。


エレーンは、広場に出た。
金髪が酷く乱れ、汗で濡れた額にべったりと張り付いている。
何もない空間であった。ただ、茶色い地面だけが広がっている。
その真ん中によろよろと進み出て、血走った目で周囲を見渡した。
二ヶ月前の決戦場とよく似た空間は、かつての敗北の記憶をエレーンの脳裏に蘇らせる。
あの時と同じだ。いや、もっと悪い。
少なくとも、魔女の姫に敗れた時は脅えていなかった。
力の差がありすぎると、かえって脅えないものなのかもしれない。
立ち尽くしながら、エレーンは、サリアソリュートが追ってくるのを待つ。
追跡者に恐怖しながら闇雲に逃げた為、
ただでさえ消耗していた気力と体力は、完全に其処をつき、
呼吸も乱れ、もはや、これ以上は歩けないほどに疲労困憊していた。
「カッハッ……ケヘェツ……」
苦しそうに奇妙な空咳を繰り返して、金髪の剣士はその場所に倒れた。
全身が、まるで石になったかのように酷く重い。
躰が睡眠を取りたがっているのが、いやというほど分かった。
瞼を閉じる。濡れた土の匂い。
「もう、いい……もう、いいや。御免、ミュラ。戻れそうもない。
でも、わたしにしては……頑張ったよね」
云うと、エレーンは、抵抗できない深い眠りへと落ちていった。


どれくらい眠ったのか。
微かな物音が響いた。大地に伝わる僅かな振動。近づいてくる足音。
サリアソリュートの様子を伺うような、気配。
これ以上、戦うのは辛かった。恐いし、嫌だった。
それでも、エレーンは目をぱっちりと見開いた。
何か夢を見ていたような気もするが、どんな内容かは覚えていなかった。
この短い眠りで、不思議と全身に気力が充実していた。躰も軽い。
ゆっくりと上半身を起こす。右手の拳を握る。次いで左手も。
右手、右足、左手、左足、頭、腹、胸、肩、異常はない。
左太股の傷は大きいし、痛んだが、血管は外れていたのだろう。出血は少なかった。
大丈夫、わたしはまだ戦える。

サリアソリュートが木陰から姿を現すと、微笑んで立ち上がった。

赤毛の魔女の姿を確認したエレーンは、穏やかに呼吸しながら、眼を瞑った。
諦めたのか?だが、手には抜き身の剣。
「……何のつもり」
赤毛の魔女の問い掛けは、エレーンの耳は聞こえたが、心へは遠く届かない。
言葉を消し、周囲の意味を消し、自分と、敵だけの世界へと深く潜っていく。
「まぁ、抵抗しないのなら……」
赤毛の魔女が一歩踏み出して、そこで、はっとして立ち止まった。
先ほどまでのエレーンとは、気配が別物だった。
強烈な闘気ではない。
逆の目の前にいるのに、その存在が希薄になっているかのように気配が消えている。
「これは……」
警戒するように、サリアソリュートは目を細めた。
迂闊に踏み込むのは危険だと、鍛え上げられた闘争本能が警告していた。
だが、踏み込まねば、何も始まらない。赤毛の魔女の額に、汗が流れた。

このまま、ここで後援が来るのを待てばよい。
それも一つの戦術。
だが、その選択をサリアソリュートは取らなかった。
赤毛の魔女にも、やはりどこかに剣士としての矜持が残っていたのかもしれない。
凄まじい脚力をばねに、大地を跳ねた。
エレーンの真横を風を切って飛ぶと、後方の大木に着地。
エレーンの腕から、血が吹いた。
幹を踏み台に、樹と樹の間を高速で飛び回り、少しずつ得物を傷つけ、
戦闘不能の一撃への間合いを詰めていく。
エレーンが目を見開いた。静かな視線。
獣じみた速度で、サリアソリュートは、エレーンの背後から襲いかかった。


蛇の尾をもつ白い虎の背に乗って、空を駆けていた夜魔の姫が、
前方に鋭い視線を走らせる。
引き結んだ口元から、咄、と小さな舌打ちが洩れた。
「サリアが敗れた。死んではいないようだが、動けまい」
翼竜のような騎獣を駆っているリズェンシャヴィヤが、
怪訝そうに自らを含めて全ての魔女に君臨する魔皇の顔を見た。
「そんな事まで分かるのですか?」
「近くにいればな」
若い魔女の皮肉げな口元が、今は、賛成しかねるというようなへの字になって、
意見を口にした。
「ここまで健闘したのです。逃がしてやってもよかったのでは?」
「それは聞けんな。お前は何も分かっていない」
魔女の皇は、払暁の赤い空に浮かぶ蒼い満月を見上げた。
次第に強まる陽光に、魔族の守護星はもう殆んど薄れて見えた。
「それに、もう時間切れだ」


奥の手が通じたようだった。
エレーンが投げつけた剣は、銀の光と化して、
狙い余さずサリアの心臓の上に吸い込まれていた。
それは雷光のように飛び、赤毛の魔女を背後の大木に縫い付けている。
乾坤一擲の賭けに勝ったエレーンは、地面に座り喘いでいた。


「大した…奴だ」
貼り付けにされた赤毛の魔女へと近づく。
「サリア……」
ごぼごぼと溢れ出る出血に喉を鳴らしながら、エレーンを見る。
「……すまない」
「お人よしだな。散々に、お前を痛めつけたっていうのに……」
赤毛の魔女は不明瞭な言葉でそう云うと、賞賛するような笑みを浮かべて。
「さっさと行けよ。姫が来る前に……もう、邪魔は入るまい」


エレーンは、殆んど這いずるようによろめきながら、間道へと戻った。
今度こそ、森を出られる。
そう考えて、ふらつきがちな足に、最後の力を振り絞って活を入れた。

「人間……」
出口の付近で、弱弱しい声が響いた。
声の出所を探る。
躰をほぼ両断された緑の魔女は、まだ生きて呻いていた。
凄まじいばかりの高位魔女の生命力に、エレーンは、顔を蒼ざめさせる。
だが、こうなってはさすがのリンデワルトにも、エレーンに危害を加える力はない。
顔色には死の陰が濃く浮き出ており、彼女が力尽きるのも時間の問題であろう。
「……行くな。頼む」
「…え?」
翠の魔女の言葉の意外さに、金髪の女剣士は目を軽く見開いた。
「あの方は……何千年も……孤独に……これからも……一人で……
お前に……心許して、会話するあの方……は、とても嬉しそうで……
今まで……見たこともないほど……和やかで…………」
何かを必死に伝えようとするかの如く、喘ぐように緑の魔女は言葉を紡ぐ。
「……支えになりたかった……だが……私では……頼む……側に……いてやって……」
緑の魔女の真摯な想いに戸惑いながら、エレーンの手は、思わず胸元の
虹色の宝石に触れた。
「どうして……私では……
それとも、あの方にとって……本当は……私たちなど…その想いを忖度する必要も無い
どう…でも……いいような……存在……でしか…ない…の…か?」
エレーンは唇を噛み締めた
自分を殺そうとした死に逝く魔女に対しての、憎しみが薄れていくのを感じた。
魔女たちの死に苦悶する魔女の皇を思い出し、伝えようとして
緑の魔女の天空を見上げた赤い瞳が既に何物も映していないのに気づいて、口を噤んだ。
「私が魔女であれば、喜んで彼女に剣を捧げたでしょうね。
だけど……わたしは人間だから」
それだけ云って、エレーンは踵を返し、二度と再び、翠の魔女を振り返る事はなかった。



「やっと……」
目の前に、早朝の穏やかな風に草を靡かせている緑色の草原が広がっていた。
人の世界に戻れる。
そう喜んで、魔女の森から一歩を踏み出そうとしたその時、
金髪の女剣士は、腹部に奇妙な違和感を感じて立ち止まった。
「え?」
疑問の声を上げ、顔を見下ろす。
腹部の上のシャツが、噴き出した鮮血に見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
痛みが走った。傷が広がり、腹から腸が飛び出した。
「がああああ?」
突如、襲ってきた激痛に、整った鼻梁を激しく歪ませて、エレーンは喘いだ。
「何が…いったいどうして」
痛い、痛い、痛い。
二ヶ月前、闇の森で魔皇から受けた腹部の致命傷が、再び開いていた。
圧倒的な痛みに頭の思考が、一色に塗り潰されていく。
エレーンは恐怖と無念さに喘いだ。
傷が自分の命を喰らい尽くそうとしている。
全身から脂汗を垂れ流しながら、金髪の女剣士は悟った。
あの傷は、本当は癒えてなどいなかったのだ。

「ミュラ・・・」
外の指を伸ばし、最後に友の名を呟いてエレーンの意識は闇へと堕ちていった。