2章 冥骸城

[2章 01]

初めに感じたのは、躰の下にあるとびきり柔らかいすべらかな肌触り。
それが羽毛を重ねて造り上げたひどく贅沢な寝台の感触だと気づいたのは、
布の縫い目から洩れた小さな羽根が、指先に僅かに触れたからであった。

目を醒まして、最初にエレーンの目に飛び込んできたのは、
武器を手に激しく争う神々の姿であった。
暫く見つめてから、それがようやく大変に迫力のある天井画に過ぎないと気づいた。
これほどの作品を作るのには、どれほどの歳月と手間暇が掛かるだろうか。
無数の小さな陶器の欠片を天井に貼り付けて仕立て上げた
太古の巨神たちの闘争をモチーフした精緻なレリーフ画。
二柱の巨神が争う構図には、実際にそれを目撃してきたかのような、
力強い説得力と迫力が宿っている。

エレーンは、彫像や絵画などの芸術作品が好きであったから、
夢の世界の延長のまま、しばらくはいい気分で天井画に見とれてしまう。
少しずつ我に返って、現在居るのが、まるで見覚えがない場所であるのに思い至った。
「ここって……一体何処?」
薄い緑色の瞳で見知らぬ天井を見上げた姿勢のまま、呆然と呟いてみた。
何時の間に脱がされたのか、寝転んでいる彼女の躰は一糸纏わぬ全裸である。
ボロボロになった戦装束が、丁寧に寝台の横に畳まれて置かれていた。

未だ、どこか霞みがかったような頭脳のどこかで、
何故、自分が寝ていたのか、必死に思い出そうとする。
闇の森で、魔女たちの本営を突き止めることに成功した事。
次いで、魔女たちによる一方的な蹂躙戦。
そして、意識の途切れる直前に受けた強烈な一撃を思い出し、
「そうだ……傷!」
精緻な天井画から目をそらし、上半身を起こすと、慌てて腹部に視線をやる。
「…え?」
目を疑い、ぺたぺたと手で自分の腹部に何度も触れて確かめてみる。
「…傷がない」
黄金の瞳をした魔女から致死的な一撃を受けたはずの其処には、まるで傷が無かった。
間違いなく致命傷であったはずの巨大な裂傷は、
僅かな赤い痣を痕跡として完全に消えうせている。
これは薬の後だろうか、粘性の液体が傷口の上に僅かにへばり付いていた。
触れると指先にへばりつく黒ずんだそれは、どこか乾ききっていない血液にも似た粘りを持ち、かすかに甘い芳香を放っていた。

「なんで……何が…」
戸惑いながら、金髪の女剣士は周囲を見回してみる。
下町とはいえ、都でも比較的、裕福な部類の商人の家に生まれ育ったエレーンが
見たことも無いような豪壮な部屋であった。
薄茶色のひび一つ無い漆喰と、薄桃に金箔の紋様を記した壁紙が張り巡らされている。
部屋間は、浮き彫りがされた重厚な黒檀の壁で仕切られ、瑠璃を張り巡らした天井の上には水が湛えられ、清潔で澄んだ涼やかな空気が流れていた。
この世の物とも思えない不可思議な旋律が、数重にも連なって聞こえてきており、
部屋の四方には、其れなりに由来がありそうな高価な調度類が整っていた。
寝台のすぐ隣にある卓の上には、作られたばかりとおぼしき美味しそうな料理が、
湯気を立てた状態で、綺麗に並べて用意されていた。


窓から外の光景を望んでみる。彼女が居たのは、高い高い尖塔の頂上であった。
それこそ、目もくらむような高さ。
灰色の巨大な岩山を刳り貫いて造りあげたかのような巨城の、それでも中腹。
外には白色と極彩色の入り混じった不気味な森が延々と繁茂して、
地平線まで埋め尽くしており、上空には不気味な灰色の雲が、
瘴気の如くとぐろを巻いて、天空の彼方まで続いていた。
まるで伝え聞く魔界のような光景を見て、人々の口の端で、
恐れと共に語られる一つの固有名詞が金髪の女剣士の脳裏に閃いた。
「……まさか」
気を失っている間に自分がどこに運ばれたのか気づいて、
「……闇の森」
呆然と、エレーンは呟いた。

思い出した。すると、わたしは魔女の捕虜となったのか。
まるで御伽噺のお姫様が、悪い魔女に閉じ込められたあれみたいだと、
子供の頃に読んだ本を思い出す。
とはいえ解せなかった。

箪笥には、替えの下着と蒼や黒の布地が少なくぴっちりした趣味の悪い装束が、
何着も用意されており、部屋の一つには、下水を兼ね備えた水洗の便所のみか、
王都でも見たことのないような、上水を兼ね備えた浴室までついていた。
衣装を手にとり
「うわ…」
露出が激しいことに羞恥心を刺激され、エレーンは尻込みしつつも、
思い切りはいい方である。
裸でいるよりはましかと判断して、袖に手を通しながら思案する。
これは、決して捕虜に対する扱いのそれではない。
伝え聞く魔女の虜囚に対すると待遇では、まるで大違いである。

借りがある相手には、さすがの魔女でも容赦する気になるのかな。
そんな事を思いながら、次に金髪の女剣士は、おずおずと食事に近寄った。
香ばしい匂いが彼女の鼻を付いた。
急に、酷く自分が腹を空かせていた事を思い出して、手を伸ばしかけ
「……うっ」
匂いは酷く甘く、美味しそうな癖に
卓の上にあるのは、不気味な灰色のシチュー、血のように紅いパン。
元が何か見当もつかない紫色の肉料理。
「食べられるのかな、これ」
まさか毒ということもあるまいが、思わず躊躇して手を引っ込めてしまう。

何とか食べられそうな食事はないか、見知った食材を卓の上に探したが……ない。
食事を取るのを諦めて、純白の布が敷かれた柔らかな寝台に腰掛ける。
広い部屋に話す相手も無く、独りでぽつねんと佇んでいるうちに、
エレーンは、酷く心細い気持ちになって、泣きたくなった。

幼い頃の彼女は、非常に良く泣いていた。
近所のガキ大将に苛められては泣き、犬に吼えられては泣き、転んでは泣いていた。
寧ろ、いつも泣きっ放しと言っても良かったかもしれない。
そうして彼女が泣いていると、隣の家に住んでいた茶色の髪の女の子が不思議と
いつも助けに来てくれたのだ。
そのうちにエレーンは、困ったり、苛められていると必ず場所を探し当てて、
救いの手を差し伸べてくれる二歳年上の幼馴染に懐くようになり、
自分の保護者の後ろに四六時中、付いて回るようになった。
幼馴染は嫌な顔一つすることなく、むしろ当然のことのようにエレーンを受け入れ、
やがて二人は、常に行動を共にするようになっていった。
彼女が武芸の道場に通い始めると、エレーンもついていき、辛い修練にも耐えた。
やがて魔女戦役が始まり、募兵の告知が下町の道場にも届くと、
志願した彼女の後を追って、当然のようにエレーンも王国の兵士となった。

そうして、血しぶきと肉片の飛び交う戦場でも、彼女の隣にいれば
エレーンは何も怖くなかった。
彼女の側なら、死なないという信念があった訳ではない。
彼女の側でなら、死の恐怖と勇敢に戦えたのだ。

「ミュラ・・・会いたいよ。助けて、ミュラ」
親友の名を呼んで、エレーンは思わず、すすり泣いた。
こういう時は、ミュラは、いつも助けに来てくれた。
いつでも、どんな時でも、エレーンが泣いていれば、ミュラは絶対に放っておかないのだ。
魔女軍に包囲された時でさえ、親友は助けに来てくれた。
だが、魔女の城に幽閉されていては、それとても……

「泣いてるの?意外と泣き虫なのね。」
クスクスと笑う女の子の声がエレーンの耳に入った。
はっとして見上げると、何時の間に其処に居たのか、
件の黄金の瞳の少女が部屋の隅で笑っていた。
馬鹿にした風の笑いではないが、エレーンは急に恥ずかしくなって涙を拭いた。
「ミュラ……寝ている時にも、繰り返し、その名を呟いていたわね」
少女は近寄ってくると、食事を一瞥した。
「食べないの?」

「口に合わなかったかな。料理作ったのなんて、初めてだったから」
すると目の前の少女が作ったものなのだろうか。
エレーンは何か、申し訳ないような気持ちになってしまう。
ミュラには、そういった気の弱い所を散々にしかられたものだが、
彼女の性格は今日に至るまで、全然直らなかった。
「その……見た目が」
少女を傷つけまいと、おずおずと理由を指摘する。
「ああ」と少女が肯いた。
「この食事は、この土地で取れたものよ。
見た目はあれだけど、人が食べて死ぬような物は入ってないから」
云って、少女は部屋の片隅から大きなイスをずるずると引っ張ってくると、
エレーンの目の前に座った。
「エレーン・ダイア」
屈み込むようにして、エレーンの顔を覗き込んだ。
彫刻の如く整った美貌が、顔の間際に近づいて、エレーンは少し胸がドキドキした。
「調べてみたけど、有名なのね。エレーン・ダイア。そしてミュラ・クレイヴィ。
貴方達に屠られた魔女の数は、二十や三十では効かないわね。
騎士も三人。貴女と相棒に切られている。
相談した魔女たちが、口を揃えて殺しなさい。寝首を掛かれますよ、ですって」
くすくすと笑う。
「う……」
だけど少女は特に怒った様子もなく、首を傾げてエレーンの薄緑の瞳を覗き込んだ。
「凄く強いのね。なのに、優しさを失っていない。いいわ、とても」
嬉しそうな顔をして金髪の女剣士に微笑みかけた。
「わたしは……貴女からしたら、部下の仇ということになるわね」
「部下?」
少女は、怪訝そうな顔をして、
「ああ、そっか。そういうことになるの?」
訊ねられて、エレーンは、戸惑いながら応えた。
「いや、私に聞かれても……」
「そうか、一応、大将だからなぁ」
首を捻って、少女はぶつぶつ云う。
「ん、と言う事は、カシナートに負けたら処刑されるのあたしか?
馬鹿な。皆、勝手に動いているのに、それで戦犯とは納得が……」
忌々しそうに、少女が舌打ちした。
「弱い魔女ほど相手を舐めてかかって、その癖、罠に嵌って人に敗れるのだから嫌になる」
かつて戦った魔女たちの力を思い出す。一人一人が、恐ろしく強かった……様な気がする。
エレーンとミュラは二人で力を合わせ、いつもかろうじて勝ちを拾ってきたのだ。
命があったのが不思議なほどの相手もいた。
それが弱いというのなら、目の前の魔女は一体どれほどの強さなのだろうか。
エレーンの心の一部にも、やはり目の前の魔女への畏れの念はあった。
「怖いのね。私が…」
感情を読み取ったのか。
「……無理もないな」
どこか寂しげに少女は苦笑した。
エレーンは慌てて、話題を変えた。
「その…私の傷の手当ては貴女が?」
少しワザとらしかったが、少女は話題の転換に乗ってくれた。
「ええ」
「ありがとう」
そう云ってエレーンが微笑みかけると、少女はとても嬉しそうに目を細めて、
邪気の無い透明な微笑を浮かべた。
「でも、どうして?」
金髪の戦士の問い掛けに応えて、
「貴方は私を助けたじゃない。
云って、快活そうに、また笑った。
「正直、誰かに助けられたのは、あの時が初めての経験よ」
「そう」
「それまでは屈辱だと思っていたけれど……やっぱり屈辱的だったわ。
それも含めて、実際にはそんなに悪いものでもなかった」
自分の肩を抱くと、どこか遠い目をして、うっとりと息をついた。
「そ……そう」
目の前の魔女の少女は、エレーンには理解しがたい、
ちょっと複雑怪奇な精神構造の所有者のようだ。
「助けてくれたのは、子供の姿だったから?」
肯いた。
「でしょうね。でも、嬉しかったわ」
「何故、今も子供の姿に?」
幾らお人好しのエレーンが相手でも、油断させる為なら効果はもう無いはずだ。多分。
「大人の姿はね、精気の消耗が激しいのよ。
だから普段は、この姿」
立ち上がって、手を広げてみせる。
「成体の姿を維持するには、食事を取らないと」
「食事は、キチンと取った方がいいわ」
エレーンの言葉に、心外そうに少女は目を見開いた。
「魔女の食事って人間なんだけど?」
「……いい、子供の姿のままでいてください。
後退った。
「むぅ、幾ら、何でも恩人を毒牙に掛けるほど見境無しではないわよ。
魔女ってね、これでも意外と義理堅いものなのよ」
ちょっと傷ついた様子で少女が云った。
「まぁ、別の意味では、食べてみたいけど」
金髪の女剣士の躰を見て、おっさんみたいにうふふとほくそえむ。
「むぅ…」
今度はエレーンが唸った。先ほどとは別の意味で、危機感を感じる。

「でも……その、あたしを生かしておいていいの?
何人も、何十人も、魔女を殺してきた。これからも、きっとそうする」
「あたしを殺したい?」
魔女の問いかけに、首を振って応える。
「いいえ」
それが素直な気持ちだった。
多少でも馴れ合った相手に、敵意は抱きにくい性格をしている。
勿論、戦場で出会えば、話は別であるが
「なら、いいわ」
少女が肯いた。
「それに、あなたにこれからは無いもの」
「え?」
エレーンの顔が、微妙に引きつった。
「当然でしょう?貴女は人間だけど、魔女を倒せるくらい強い戦士。
悪いけど、ここに閉じ込めさせてもらうわ。逃がす事は出来ない」
「…………」
「逃げ出そうなんて考えない方がいい。
この城とその近郊には、一万からの魔女が住んでいるし、首都警備隊が常駐している。
衛視たちは独立した権限を持って、不審者を厳しく取り締まっている。
彼女たちに見つかったら、ただではすまない」

「警備隊の二百の魔女の戦士を打ち倒さなければ、ここから出て行くことは……
もしかして、自信がある?」
「……無い、無いです」
素直に応える。
「もう一つ自由になる方法があるわ。
私の仲間になるの。それで、外へも自由に行けるわ」
「え……仲間?」
「ええ、頼りになる部下が少なくて……冗談よ」
エレーンの引きつった表情を見て、残念そうに口を尖らせて、提案を引っ込める。
「冗談か、よかった」
「うん、冗談」
まんざらでもない口調で、微笑んでいる。
「まぁ、出来るだけ生活に不便はさせないわ」
逃げ出さない限り、城の中を自由に歩き回っても構わない。
云うと、唐突に少女は、エレーンに顔を近づけた。
あっと思った時には、エレーンは唇を奪われていた。
少女の舌が素早く動き、唇を舐め取っていくと、エレーンの喉に唾液を流し込んでから
唇を放した。
「な……なにを」
動揺しているエレーンから顔を離すと、少女はいたずらっぽく笑っていた。
「いいわ。貴女の気が変わる時を、気長に待つわよ。エレーン」
戸惑っている女剣士に言い放ち、立ち上がると部屋から出て行こうとする。
「幾ら待っても、多分、私の気は変わらないわ」
部屋の扉で振り返ると、
「私は気が長いの。幾らでも待つわ。時間は幾らでもあるし、ね」
そう云って黄金の瞳を細めて少女は微笑んだ。

「待って、貴方の名前は」
少女は首を傾げ、それから可笑しそうにクスリと笑った。
「時が来たら、教えてあげる。エレーン・ダイア」



少女が立ち去ってから、エレーンは食事に手を伸ばしてみた。
匙を手に取る。見た目を我慢すれば、口に入りそうだ。
灰色に煮立った、怪しげなシチューを掬い取り、目を瞑って口に運んでみる。
咀嚼すると、味が口内に広がっていく。
エレーンは思わず目を見開いて、まじまじと料理を見つめた。
美味しい。こんな美味しいものがこの世にあったのかと思うような味だ。
頬が落ちるとは、こういう料理の味を言うのだろう。
空腹も手伝い、エレーンは無我夢中で、料理を口に運んだ。

欠片も残さずに料理を平らげ、エレーンは一心地付いた。
馴れてくると不思議なもので、窓から見える森の光景も、
先ほどまでには不気味な印象は受けなかった。
それどころか、これはこれでちょっといいかもしれないと、
奇妙に心やすらぐ気持ちにもなる。
意外と、いい所かな。そんな事を呟いてみる。
腹がくちくなって眠くなってきたのか、危機感が失せて、
生来の呑気な性が頭をもたげてきたのか、エレーンは欠伸をかみ殺した。
「まぁ、いいや」
そんな独り言を呟きながら、寝台に腰掛けた。
危害は加えないといってるし、
(おやすみ、ミュラ)
心の中で心配しているであろう。友の姿を思い浮かべて、エレーンは柔らかな寝台に倒れこんだ。


[2章 02]
一人の少女が死んでいこうとしていた。
薄闇の中、肉色の寝台に静かに横たわったまま、彼女は身動ぎしようともしない。
身動ぎしたくとも出来ないのだ
桃色の触手が捩れ合った異形の祭壇に、静かに横たわる少女の姿は、
古代の神々の祭壇に捧げられた生贄を思わせた。

体中を苛む苦痛。特に背筋の方からは、肉と骨と神経が少しずつ
蟲に齧られているかのような嫌な熱を伴った痛みが、耐える事無く伝わってくる。
ひゅー、ひゅーと苦しげな呼吸をしながら、
リズは今、闇の中で一人惨めに死にゆこうとしていた。
かつては、清楚な美貌を湛えていたその面は、今肉体を苛む苦痛に激しく歪んでいる。
それでも、少女は呻き声一つ、あげようとしなかった。
横たわった台の上には、血と体液、黄色い膿が入り混じって垂れ流されている。
躰はぐちゃぐちゃであった。特に脊髄が激しく損傷している。
長くは生きられない。一目見ただけでどのような名医でも、匙を投げるであろう。
実際、少女は、酷く苦しみながら、刻一刻と冥府の門へと歩み寄っていた。

唐突に、虚ろだった少女の視線に力が戻った。
目付きが険しいものとなり、目線の彼方でわだかまっている闇を鋭く睨みつける。
闇には不可解な気配が充満しており、それ自体がまるで意思あるものであるかの如く、
少女の視線に応じて、嘲笑するかのごとく揺れ動いた。
いつ来たのか、最初から潜んでいたのか。
いまや、何かが闇の中に潜んでいることは、明確になった。
あるいはこの闇それ自体が、万古の時代を閲し続けた魔なのやも知れぬ。
少女に気づかれて、隠す必要を捨てたのであろう。
いまや濃厚な気配を孕んで、暗澹たる虚空は脈動していた。

「……お前は死ぬ。」
闇から声が響いた。男とも女とも取れる、不思議な深さに満ちたこの世ならざる声。
残酷な宣告は、少女の横たわっている空間全体に響き渡った。
少女といってもいい年頃の神官戦士の、気丈にも結ばれていた口が歪むと、
目から思わず涙がこぼれそうになった。それを堪える。
(……でしょうね)
口では応えずに、そう思う。
戦の中で、同様の境遇に陥った人間の姿は散々、見てきた。
いつか自分もこうなるかもしれないと覚悟はしていた。だから、大丈夫だ。
魔女は、彼女が恐れ、慄く様を見て、揺れ動く感情を味わおうというのだろう。
せめて、楽しませてやるものか。泣いてなんかやらない。
それだけは心に決めていた。

「癒しの力を持つ故に、自分は神に選ばれたとでも思い上がったか?」
淡々と告げる闇の声。
違う。選ばれた人間だなどと、微塵たりとも思っていない。
「無謀であったな。あの程度の力で闇の森へ攻めてくるとは……」
そんなことは自分でも分かっている。
「せめて後十年の年月を修練に費やしていれば、生き残る機会もあったであろうが」
「…………」
この声は酷く少女の癇に障った。黙れ。私だって早いと思っていたさ……
「傲慢さの報いで、若い身を無残に散らす事になる」
「黙れ……」
恐怖に慄き、痛みに苦悶し、身を震わせながら、
闇の正体を突き止めようとするかのように、鋭い視線で挑むように、
「…………」
「私に……十年……が…与えられなかった事……神殿の馬鹿共……感謝なさ……魔女」
啖呵を切った。それで自分の心も躰も、まだ死んでいない事をリズは再確認した。
物言いに興を覚えたのか、闇が蒼白さを含んで、目線の先からゆっくりと舞い降りてくる。


蟲に食われながら、狂熱に苛まされながらも、朦朧と神殿での日々の記憶を振り返った。
疎まれていたのだ。
貴族の出身でもなければ、家が金持ちな訳でもない。
田舎の農家出身の娘リーザ・ティディアスが、神殿で主席の成績を取った上に、
よりによって癒しの法力さえ発現させてしまった。
誰にでも出来る事ではない。それを皆の前で怪我人を癒した。
それが良くなかった。
馬鹿な連中に、自分は、小娘より神官としての能力が決定的に劣ると、証明してしまったのだ。
だから、こんな危険な任務にまわされて、惨めに死んでいくことになる。
身分を弁えずに、神に近づきすぎた身の程知らずには、お似合いの最後というわけだ。
自嘲と、それをはるかに上回るどす黒い憎悪の炎が、リズの胸郭を焼いていた。

「だが、お前には十年先は愚か、もはや明日さえ許されてはいない。
リーザ・ティディアス」
「何故…名を…?」
痛みを堪えて、揺れ動く影へと尋ねた。
闇が揺らめいた。笑いの波動が伝わってくる。
「他にも知っているぞ。マーサ神殿での同輩との軋轢や、
お前が七つの年、飢饉の口減らしに、両親によって神殿へと売られたこと。
お前が、誰にも必要とされていないこと。誰もお前を愛していない事も、な」
リズが、大きく目を見開いた。その言葉は彼女の肺腑を衝き、心の急所を抉った。
耐え切れずに思わず溢れ出た涙が、少女の頬から床へと零れ落ちた。
憎悪のこもった視線と血を吐くような声で、リズは闇へと挑みかかるように叫んだ。
「黙れ……」

「そうしてお前は惨めに死んでいく。誰にも記憶されず、誰にもその死を悼まれずに…
闇の中で……一人で……哀れだな」
「黙れ……黙れ……」
リズが、呻く。動かない自分の躰を呪い、精一杯の憎悪を込めて、動こうとする。
脳裏を焼くような灼熱の激痛が押し寄せてくる中、必死にもがいて敵の姿を睨もうとする。
「お前はここで終わる、その結末を変えたくはないか?」
声の調子が変わる。
嘲笑うような調子は消え、誘いかけるような響きの言葉となる。
「生きたくはないか、リーザ・ティディアス?
お前が、それを望むなら、もう一度、自らの足で大地を闊歩出来る様にしてやろう。
我なら、それが可能だ」
リズが、黙り込んだ。その心臓が、期待と不安とに高鳴っていた。
動かぬ姿勢のまま、少女はじっと闇を凝視した。


リズが自分のおかれた状況を充分に理解したと見てとったのか、闇から再び声が響いた。
「お前がそれを望むなら、我が新たな肉体を与えてやる」
図抜けた才能と、癒しの法力を持つとは言え、リズはまだ十六歳の少女であった。
その心は大きく動揺した。目の前のこの世ならざる闇は、
恐らく実際にその力を持っているのだろう。
知覚によらずそれを悟り、思わず縋りつきたくなる気持ちを必死に押さえようとして
「何の為に抗う?人の世界には、お前を必要とするものなどいないというのに?」
決定的なその言葉が、リズの抵抗する意志を挫かせた。


「私に……どうしろと?」
揺れ動く影へと尋ねた。その言葉はひどく弱々しい。
「我は、お前が欲しい」
闇は、嗤うかの如く妖しく蠢いて応える。
虚空から轟いてくる甘さを孕んだ言葉が、リズの耳元に執拗に語り掛けられ、
痛みと絶望にひどく弱っている彼女に、魂を売り渡せと誘惑していく。
「私のものになると誓え。リーザ・ティディアス……
それで、お前に新しい力と肉体を与えてやろう」