1章 王国の剣士

『1章 01』

「参ったな」
エレーンは頬を指先で掻いて周囲を見回した。

「深入りしすぎちゃったか」
どうやら友軍から逸れてしまったようだ。

其処は、数ヶ月続いている戦火で完全な廃墟と化した辺境の農村だ。
元はのどかな田舎の田園風景が広がっていたのであろう。
どちらの軍勢に火を掛けられたものか、焼け焦げて、廃墟となった家屋が点在しているだけである。

どちらかと言えば、此処は魔女の勢力圏である。敵に見つかれば拙いことになるのは間違いない。
人間いつかは死ぬものだが、魔族に捕まるのだけは御免だ。そう女剣士は心に決めていた。
魔女が捕虜を取る事は決して珍しくないが、まともに解放された事は少なかった。
魔女達は、恐怖や苦しみ、苦痛といった人間の負の感情を引き出し、喰らうのだと、
前線にいる兵士たちの間では、まことしやかにそう囁かれている。
エレーンは、噂が真実だと知っていた。
取り戻した砦で、魔女達に捕まった人間の末路を目にしたことがあった。
高位の魔女によって精気を吸い尽くされ、老人のようになった若者たち。
あるいは、苦悶と恐怖の張りついた凄まじい死に顔を直視して、躰の底から震えが湧き上がった。
魔女にだけは、生きて捕まるまい。そう友人のミュラと誓い合った。
あんな風にいたぶり殺されるのは趣味ではない。

「とにかく、味方の所に戻らないと」
おおよそ方角の見当をつけて、歩き始めてすぐの事だった。
廃墟となった建物が連なる方向から、甲高い悲鳴が聞こえた。
……子供の声?
此処は敵地、敵が複数いるかもしれないと考えて、一瞬躊躇したがエレーンは悲鳴のした場所へと駆け出した。
魔女の数は多くなく、既に戦で弱いほうの大半は討ち取っている。
残った大半も、主戦線に張り付いているはずだ。今さら、こんな所に複数いるとも思えなかった。
それに何より、子供を見捨てては寝覚めが悪い。
エレーンとは、結局の所そういう人間だった。

彼女がその場に駆けつけた時、武装した人間が地面に数人倒れ伏していた。
毛皮を纏った簡易の兵装、しかし王国の兵士ではなかった。
とは言え魔女や、魔女側の傭兵にも見えなかった。
おそらくは廃墟となった村を荒らす、野盗の類なのであろう。
彼らが事切れているのは一目瞭然であった。そしておそらく最後の一人か。
男が剣を振り上げて、壁際に追い詰めた少女を斬ろうとしていた。

「止めろ!」
その激しい叫びで男の動きが止まった。
エレーンが腰の短剣を投げつける。男が振り返って飛び道具を弾き飛ばした。
その隙に、少女がエレーンの傍らに駆け寄ってきた。
少女を逃がして、男が無念の呻き声を上げた。
「女!王国の兵士だな!正気か?そいつは魔族だぞ!」
男の指摘に少女を見た。縋りつくような目をして、エレーンの背中に隠れた少女は確かに魔女だった。


その抜けるような蒼白の肌に、金色の瞳。魔女の瞳は全て赤だと思っていたが、これは珍しい。
格好は、歳相応の普通の子供である。

エレーンが見間違うはずがない。魔女である。
時折、訪れる休戦時には、中立地帯で魔女たちの姿をよく見かけることがある。
その造詣上の美貌は勿論、彼女たちの生気に溢れた生き生きとした仕種。
仲間同士でじゃれあう親しげな雰囲気。
夜の闇を思わせるような蒼いすべらかな肌と、赤い瞳のコントラストは、
見目にも鮮やかな効果を周囲に表わし、
行きかう者達の半数が振り返るほどに人目を引いた。

彼女達を見かける度に、エレーンは半ば見とれながらも、
本当に、これほど美しい生き物が、人間の苦悶や恐怖を喰らう邪悪な存在なのだろうか
そう、胸の内で不思議に思っていた。

エレーンが王国の兵士だという事実に今、気づいたのか。
少女が目を大きく見開き、恐怖を顔に浮かべて僅かに後ずさった。

「まだ、子供ではないか」
金髪の女剣士の言葉に、苛立ちを明らかにした様子で男が叫んだ。
赤い髪をした、精悍な顔つきの男だ。その言葉は激しい。
「分かってねえ、そいつは魔女だ!殺せ!」
女兵士は若い魔女の顔を凝視する。少女は明らかに男の提案をエレーンが呑む事に脅えていた。
数瞬の逡巡の後、エレーンは決めた。
「私の前で子供は殺させぬ。例え魔女であろうと、だ」
エレーンは言い切った。
子供の死を見るのは、例えそれが魔女でももう沢山だ、そう思っていた。
「それ以前に盗賊が軍人に見つかって、ただで済むと思うなよ」
「てめぇ…」
男が剣を構え直す。低い姿勢で、彼女の隙を狙うかのようにじりじりと間合いを詰めてきた。

下級兵ながら歴戦を重ねるうちに、エレーンは相当の強さになっていた。
見た目を裏切る疾風の剣速があっさりと野盗の剣を跳ね飛ばし、返す残光が男の腹を薙いだ。
「畜生…どうして、こんな…死」
傷口を押さえて、男が泣きそうな顔で首を横に振った。
魔女を目の前にして、人間同士で殺しあうことに、エレーンもまたやりきれない思いを抱いたのか、剣を携えたまま、死にゆく男に歩み寄った。
男は食み出る内臓を押さえて、中空の彼方を睨んでいた。
その太い二の腕には、剽盗として鳴り響いた北方の山岳民特有の青い文字の刺青が彫られている。
「止めを刺してやる」
「…いらねえ」
「苦しむぞ」
「ああ…苦しんで死ぬだろうな。似合いの死に様だぜ」
「そうか」
エレーンがため息をついて、踵を返そうとした時、男が異様な呻き声を上げた。
ぎょっとして振り返ると、何かに気づいたように、男はエレーンに顔を凝視していた。
「女……」
汗まみれの口を男は必死に動かした。
「……そいつに…気ィ許すな…」
「…………」
踵を返して、背後を見た。少女はまだそこに佇んでいた。
人の年齢にしてみれば、十四、五か、それ位であろう。
未発の緊張を孕んだ、強張った表情でエレーンを見つめていた。
頬に付いた血を拭おうともせず、軽く身構えながらエレーンに対峙する。
気配で分かった。大した力は持っていない。仲間から逸れた最下級の魔女といった所だろう。
「私を…どうするの?」
少女の問いかけに、
「どうもしないさ。今日は、もう、大勢死んだ。」
「……見逃してくれるの?」
意外そうな口調に、エレーンは面倒くさそうに肩をすくめてみた。
「此処はお前たちの世界じゃない。出来れば、森へ帰れ」
「御姉さん、優しいね。でも、いいの?私は魔女だよ」
「ああ、甘いんだろうな。だけど、もしあなたと戦場であったら、わたしは容赦しない」
少女を見つめ、それだけ云ってエレーンは口を閉ざした。
その言葉に、少女は力なく肩を落とした。
「そうね、互いに大勢死んだわ。」
そう云うと、顔を上げて明後日の方向へ歩き出した。
エレーンは剣を鞘に収めると、疲れたようにため息をついた。
それから、少女と正反対の方向へ歩き始めた。

「ねぇ!」
村から離れる道で、遠くから声が掛けられた。
少し離れた場所にある、村の外れの朽ちかけた橋の上に少女が立っていた。
「貴方の名前!教えてよ!」
「……?
両手をメガホン代わりにして、声を届かせようと必死で叫んでいた。
「名前よ!名前!私の命の恩人の名前!」
エレーンは、叫び返した。
「エレーン!エレーン・ダイア!」
「それではエレーン。夜が貴女を見つけますように!夜の世界を歩けますように!祈ってる!」
エレーンにはちょっと不吉な言葉に思えたが、魔女たちは夜族と自称するだけあって夜を神聖視しているという。
きっと、相手の幸運を祈る魔女の言葉なのだろうか。
叫ぶと少女は身を翻して、夕闇の中へと消えていった。


エレーンは少女の後姿を見送った後に、そういえば自分はあの少女の名を聞かなかったなと、気づいた。
奇妙な邂逅だった。結構、貴重な体験をしたのだと得意になり、砦へ戻ったらミュラに教えてやろうと思ったが、
考え直した。
もしかしたら、なにを呑気なと怒られるかもしれない。
どこか呑気な事を考えながら、エレーンは細い田舎道を足早に砦の方向へと向かって歩き出した。

夕闇の中、少女は真摯な表情で小さくなっていく恩人の背中をいつまでも見続ける。
遠ざかっていく金髪の女剣士を凝視する黄金の瞳には、
どこか恋慕にも似た、昏く狂おしい情熱の光が浮かび上がっていた。



『1章	02』
魔女と王国、両軍の勢力圏が重なる位置に建設された、
五百人ほどの兵が駐留する中規模の駐屯地。

砦に帰還した次の日、エレーンは川辺で洗濯がてらの世間話に、
年若い魔女を見逃した秘密を友人のミュラに打ち明けた。
「馬鹿!何を呑気な事を」
案の定、ミュラに怒られた。文句も、予想通りだった。
「相手は魔女なのよ。魔族よ、魔族!連中は、私たちを餌としてしか見てないの!
そんな奴らを相手に、なにをのんきにお話して帰ってきてんのよ!」
怒鳴り声に、周囲の者達が何事かと注目しているというのに、
ミュラには全然気にした様子がない。
エレーンだけを見て、矢継ぎ早に言葉をぶつけてくる。
まるで、口を挟む隙もない。
「まったくあんたが無事だった事が奇跡だわ」
ミュラは呆れた様子で首を振って、やや沈痛そうな表情でエレーンを見つめた。
「そんなに云わなくても……結局、無事だったんだし」
「云わなきゃ、わかんないでしょ!あんた自分がどれだけ危ない橋渡ったか理解してんの?
後ろからばっさりやられても、不思議じゃなかったのよ!」
云われるとそんな気もしてきて、エレーンは弱気になった。
「うう、御免」
その言葉に、ミュラは力なく肩を落として、幼馴染の肩を抱き寄せた。
そこに頭を預けて、小声で囁くように呟いた。
「心配なのよ。あんたは人がいいから…魔女が相手じゃいいように騙されたかもしれない」
エレーンは、ミュラの茶色の髪を優しく撫でつける。
「でも、実際にその場で別れて、それきりだし。それに、そんなに悪い子にも見えなかったわ」
エレーンの言葉に、何処までも呑気な、とミュラは苦笑した。
「そうね、まぁ、魔女にしてはいい奴だったのかもしれない。この話はここでお終い。
だけど、本当、気をつけてね」
ミュラは、覗き込むようにして、長身のエレーンの顔を見上げた。
親友を見つめる表情の中には、何処までも真剣な憂慮の色を瞳に漂わせて
真情を籠めた言葉を紡ぐ。
「あんたに、もしもの事があったら、あたし……」
「大丈夫よぅ、あたしだってもう子供じゃないんだし」
朗らかに笑ったエレーンの表情は、いつもにも増して子供っぽく、
幼馴染の目には全然説得力が欠けてみえた。
「……約束して、エレーン」
何時になく真剣なミュラの表情に、
「何を約束するの?」
「次は……次に魔女に出会ったら躊躇しないで。
相手がどんな外見をしていようと、たとえ子供の姿をとっていようと、容赦せずに……」
殺す……と、その言葉を幼馴染に約束させるのをミュラ・クレイヴィは躊躇した。
エレーンは、優しい。
魔獣相手には勇敢に戦えるが、人の形をした敵を殺すときには、いまだ心中に怯みを覚えるようだ。
その心の優しさが、いつか戦場の最も致命的な瞬間、彼女に一瞬の躊躇いを生み出してしまうのではないか。
戦士としてのミュラの勘が、エレーンの弱点を本能的に察知し、恐れていた。
エレーンは、幼馴染の言葉と紡がれなかった懇願の先を察して、しばらく考えた後に肯いた。
「ミュラがそういうなら頑張るよ」
ミュラは、エレーンの言葉にほろ苦い笑みを浮かべた。
エレーンがそう口にしたなら、彼女なりにベストを尽くすだろう。
結局の所、他人が何と云っても、自分を救えるのは自身の心掛けだけなのだ。
「いまは……それで、よしとしますか」


「作戦?」
翌日、司令部に呼びつけられた二人の女剣士を前に、顎鬚の騎士は鷹揚に肯いた。
「そう、敵の本陣を突く作戦だ」
体躯は逞しく、態度には威厳があり、
威風堂々とした様は、まさしく武人といった風貌の騎士である。
瀟洒な紅半マントと、金銀の細やかな装飾が施された鎧は、
彼が都でも、相当に高位の騎士である事を窺わせた。
紛れもなく高価なそれらの武具は、本来、前線の殺伐とした雰囲気には
まるでそぐわない物であろうが、彼方此方が破れ、傷がついている様は、
彼が、それ相応の激しい戦いを潜り抜けてきた事を主張していた。

「闇の森を陥落させることに成功すれば、魔女戦役を一気に終息へ向かわせる事が出来る」
騎士は口元の茶髭を震わせながら、真剣な目つきで二人の顔に順に視線を送った。
「クレイヴィ殿、ダイア殿、貴殿たちにも是非この作戦に参加してもらいたい」
「アタシは、御免ですね」
ミュラは瞬時の間もおかず、目の前の騎士に即答した。
この騎士は直属の上司ではないだけに、ミュラはまるで遠慮しなかった。
「闇の森への攻撃、それも総攻撃ではなく、少人数での奇襲なんて冗談じゃない。
死にに行くような物です」
苦い顔と声になり、顎鬚と口髭を震わせて騎士が応えた。
「上層部も、そう考えている。だから、命令ではなくこうして志願を募っている」
「なら、尚更アタシ達は御免です。死にたがりだけで行けばいい。
闇の森なんて、冗談じゃない」
物静かに考える様子を見せていたエレーンが、驚くべき事を口にする。
「でも、ミュラ。魔女の王を討ち取る事が出来れば、
この戦争を終わらせる事が出来るかもしれない」
「エレーン、何、口車に乗せられてんのよ」
ミュラは本気で慌てると、エレーンに向き直った。
余りに早い動きに、ミュラの背中で束ねた茶色の髪が鞭のように踊った。
エレーンを諫止しなければならない。
ミュラが、口火を切った。
こんな話は、捨て駒同然の無謀な作戦である。成功しようがない。
無駄死の上に、犬死である。勝利が見えているのだから、こんな作戦は必要ない。
発案者の目前で、糞味噌に貶した。騎士の茶髭が、引きつったように震えた。
「今まで何人も魔女と戦ってきた。奴等がどんなに手強い敵か、身に染みて分かってるでしょう?ましてや、闇の森よ。魔女たちの本拠地。
最強の魔女達が、一体何人待ち受けているかも予想も付かないのよ。そんなに容易い所じゃない」
エレーンの方に脈ありと見て、騎士は熱心に口説きかける。
「魔女達も、まさか闇の森へ奇襲を受けるとは考えておるまい。
連中も兵力の大半を失い、残りの魔女も各地の戦線に散って本拠地は手薄になっておるはず」
一息ついて、騎士は力強い口調で断言した。
「この作戦は充分に成算があるのだ」

エレーンは肯いた。
「メルカー殿、私はその作戦に志願します」
「おお。有難い。歴戦の勇士であるダイア殿に参加してもらえるなら、これほど心強い事はない」
騎士は、作戦の成功が約束されたかのように、力強く肯いた。
それから、ミュラを伺うような視線でチラリと見る。
ミュラが怒鳴った。彼女は、怒っていた。
「駄目よ!何云ってんのエレーン!あんた死ぬ気?」
「ミュラに……付いて来てとは言わないわ。一緒に来て欲しいけど」
幼馴染の言葉に、ミュラは今度こそ本気で激怒した。
「当たり前よ、闇の森がどんなに危険か。あんただって知ってるでしょう!!」
「あたしは……!!」
肺腑から叫ぶように、エレーンが大声を絞り出した。
悲痛さを含んだその声に、ミュラは気を飲まれたように、友人をじっと見つめた。
騎士も、エレーンを見る。
「あたしは……この戦争をはやく終わらせたいの」
幼馴染の顔を見ないようにして、エレーンは言葉を続けた。
ミュラの顔を見て、その言葉で真剣に説得されたら、決死の覚悟が揺らいでしまうだろうから。
「終わりは見えたって云うけれども、その日々の陰には、やっぱり苦しむ人がいるわ。
家族や友人を失って、辛い思いをする人がいる」

「家畜が奪われ、畑が焼かれれば、力の弱い子供や老人から犠牲になる。
あたしは、そんなのが嫌だ。もうそんな光景は目にしたくないの。だから……ミュラが止めてもいく」
はあっ……と、ミュラは、茶色の髪を横に振り、大きくため息をついた。
苦痛に耐えるように眼を瞑ると、自分の顔に手を伸ばして右の耳朶を強く引っ張った。
何かを決断する時の、これがミュラの癖だった。
「……しょうがないね。アタシも付き合いますか」
「駄目、ミュラは来ないで」
長身の剣士の思わぬ言葉に、茶髪の槍使いは目を瞬かせた。
「何云ってんの?一緒に着て欲しいって云ったばかりじゃない」
「やっぱり駄目。この作戦が失敗して、もし私が帰ってこれなくても、
ミュラが生きていれば、安心できるから」
「はあっ?あんたが死んで何が安心なのさ」
「ミュラが生きてれば、いつか魔女皇を倒して、カシナートを平和にしてくれるでしょう?
だから駄目、今回だけは二人一緒は駄目なの」
エレーンは、二人が少女だった時分の誓約を口にして、親友に微笑みかけた。
「どちらかは残らなくちゃ。だからアタシが行って、ミュラは残るのよ。
それで、死ぬとしてもあたしは安心して死んでいける」
「死ぬとか、帰らないとか、そんな言葉ばかり簡単に口にすんじゃないよ」
ミュラは、エレーンの肩の辺りを、軽く拳で小突いた。
「あたしは、生きて帰ってくる。そう口にしてよ。虚勢でもいいからさ」
「あたしは生きてミュラの所に帰ってくるわ。
そうして、おじいさんと父さんと母さんと、弟のバルカと、
ミュラと、ミュラのおじいちゃんとおばあちゃん、皆で末永く幸せに暮らすの。
虚勢じゃない。必ず、そうなる」
「分かった。元気で帰ってきな」
ミュラが、幼馴染の金髪の頭を両手で掴んだ。
エレーンが、薄く微笑んで少し膝を曲げる。
コツンと、額に額を当ててからミュラが小声で囁いた。
「やばい雰囲気になったら、ね。仲間を見捨ててもいいから、あんただけでも生きて帰って来るんだよ」
「それ……酷いな」
「なに、生きてさえ居れば、道は何とか開けるものよ」
ミュラの言葉に、エレーンは微笑を浮かべ肯いた。
そうして、二人は再会を期して別れた。
次に二人が出会うのは、黄昏の闇の中での事となる。


『1章 03』

その日、敵の本陣に辿り着いたエレーンたちの前に立ちはだかったのは、たった三人の魔女だった。
恐らくは、魔女達の旗本であり、最精鋭であろう。彼女達は恐ろしく強く……
兵を選りすぐって編制されたはずの選抜隊の精鋭が、為す術も無く薙ぎ倒されていった。


人には持ち得ない不可視の力が、カシナート兵に襲い掛かって、
瞬時の死を振り撒いていく。
一振りで五人、二振りで十人。
両断され、血と骨片と臓物を撒き散らし、人が物言わぬ物体へと化していく。
殆んどありえない冗談のような魔女達の強さに、兵たちは完全に恐慌状態に陥った。
歯を剥き出し、訳の分からない悲鳴を上げながら、己が生き延びる事だけを考えて、
森の四方八方へと逃げ散っていく。

ここにいるのは、一人一人が一騎当千の勇士達だ。きっとこの作戦は成功するだろう。
そんな突入前に抱いた無形の信頼感は、敵と遭遇した瞬間に皹が入り、十秒後には木っ端微塵に粉砕されていた。

まっさきに大木に背中から叩きつけられた神官戦士のリズが、うつぶせに倒れていた。
生きているのか死んでいるのか、仲間たちが呼びかけても
崩れ落ちた姿勢のままに、もはやピクリとも動こうとしない。

ケストナーとガルフが、叫びながら目前の黒づくめの魔女めがけて斬りかかっていた。
しかし、二人の剣技は、目の前の魔女にまるで通用していない。
辺境屈指の剣士たちの顔からは、まるで悪夢を見ているかのように血の気が引いていた。
その持つ戦技の多彩な事と実用性の高さから、
王国で剣術師範を勤めているほどの高名な剣士ケストナーと、
一人で幾人もの魔女の騎士を討ち取り、その名が全土に鳴り響いた豪傑ガルフが、
二対一にも拘らず、ネコが鼠をいたぶるように玩ばれている。
二剣士の膂力及び剣技と、目前の漆黒の魔女のそれとの間には、
山脈よりも高い壁が立ちはだかっているようであった。
剣士たちの顔色は、もはや蒼白を通り越して鉛色であり、
人と比べるのも馬鹿馬鹿しいほどの速度と威力を兼ね備えた魔女の槍が、
出鱈目に踊りながら、二人の必死の防御を見る見るうちに共に削り取っていく。
やがて、剣技とスタミナの限界に達した剣士たちの防御網に、致命的な隙が生じた。
一瞬を逃がさず、魔女は間合いを詰めるとガルフをひっ掴むと、
あっさりとその首をねじ切った。
ケストナーが、あの豪胆な男が恐怖に絶叫していた。


周囲には、四散した人の肉体が散らばり、断ち割られた巨大な傷口から湯気が立ち昇っている。
傲然と佇む黒き魔女の皇を前に、エレーンは地面に這い蹲って苦しげに呻いていた。
彼女の腹は断ち割られて内臓が飛び出し、本来桃色のそれは地面に触れた為に、
薄汚れた黒と茶の入り混じった人の目に不快な色彩となっていた。

湯気を立てている自分の臓物を見てしまい
ああ…あたしは死ぬんだ。
荒い呼吸と激痛の中、エレーンは、自分の死を悟って、美しい顔を歪めた。
もう友人に会えなくなる恐怖の方が、死よりも強くエレーンの胸を締上げた。
ゆっくりした魔女の足音が近づいてきた。止めを刺そうというのか。
エレーンは、せめて自分を殺す者の顔を目に焼き付けようと、
最後の力を振り絞って顔を上げ、目前の魔女を睨みつけた。

巨大なハルバードをしならせ、止めの一撃を放とうとして
「貴女は…」
エレーンの顔を見て、近づいてきた魔女が立ち止まった。
驚いたように黄金の光を放つ瞳を見開いている。
「エレーン?」
エレーンの名を知る魔女は、たった一人のはずである。
魔女は、慌てた様子でエレーンの側にしゃがみ込んだ。
「……動かないで、エレーン。傷つけはしないから」
エレーンが暴れるのを恐れるように、そう言い含めながら、
倒れた彼女の腹部に手を伸ばし、自分の刻んだ傷を調べ始めた。
酷い物だった。
エレーンの傷口から、彼女の生命力がどんどん洩れていくのが、
魔女の瞳には、はっきりと映し出されていた。
「くそっ……気づかなかった。
あれだけの手練が揃っていたのなら、貴女がいても不思議ではなかったのに。」
「……あ」
魔女の手が触れただけで、少しだけ傷の痛みが薄らいだ。
「覚えていない?一週間ほど前、貴女に助けられた魔女よ」
目前の成熟したしなやかな肉体の持ち主が、あの時の少女とどうしても繋がらず、
エレーンの顔に困惑が浮かんだ。
「まさか…全然、違う」
「分からないのも、無理はないか。……あの時は、別の姿だったから」
「……まさか……」
「そうよ、多分貴女の想像通り……」
ふっと魔女の躰に影が纏わりついた。
一瞬後には、エレーンを見下ろす魔女は、子供の姿となっていた。
「こんなに…強かったのか。あの時は、どうして……」
そう云って訪ねるエレーンの視線の先に、あの時の黄金の瞳をした少女。
「この姿になるとね……しばらく戻れないのよ。それに多人数相手は苦手なの。」
苦笑したような言葉を前に、エレーンは自嘲の笑みを浮かべた。
「甘か…た…のか。まさかあんな子供が……こんな大物だったなんて」
止めを刺すのか、少女の傍らで二人の会話を聞いていた漆黒の魔女が、
剣を片手に近づいてくる。
「待ちなさい。その人は殺しては駄目よ」
傷口に手を当てながらの制止の言葉に、
漆黒の槍の魔女は仰天したように目をしばたかせた。
「え…しかし、この者は味方を大勢殺しましたよ?」
「どうせ、獣と一山幾らの傭兵でしょ」
「士気に関わりますから、味方の前でそんな言い方はよしてくださいね」
云いながら、黒い剣士はエレーンを見下ろした。
エレーンの躰は、もはやピクリとも動けない。
躰を二つに割られたかのような激痛に、気を失わないでいるのがやっとだった。
「どうするんですか?」
「こういう強い剣士が仲間になってくれたらいいな、とか思わない?」
「……なりますかね?」
黒い槍の魔女の懐疑的な問い掛けに、
「私が『説得』するわ。駄目なら駄目でその時ね」
「……分かりました」
黒い魔女が近づいてきて、エレーンに手を伸ばすと、
鉄製の胸鎧を纏った成人女性の肉体を軽々と抱き上げた。
虜囚を愛しげに見つめながら、少女は冷たい微笑をエレーンに近づけた。
満足げに細められた黄金の瞳は、鬼火の様に妖しく揺れる光を放っている。
それを視野の端に捉えたのを最後に、エレーンの意識は戦場から遠ざかっていった。