猟血の狩人

猟血の狩人12回




「あそこか…」
タオファが留まることで屍鬼の追撃を振り切り、ティオはようやっと灯りがともる村長の屋敷の前まで辿り着いた。
出来ることならこのまま屋敷の中に飛び移れればよかったのだが、あいにく村長の屋敷は周囲を垣根でぐるりと覆っており、中庭のような敷地まであってとても飛び移ることなど出来そうにない。
そうなるとこのまま下に降りて一階から目的地に辿り着かなければいけないことになる。
幸い月明かりに照らされる下にリビングデッドの姿は見られないが、ここまで暗いと死角はいくらでも存在しておりどこからいきなり現れるか見当も付かない。
正直、一人で進むには余りにも危険が過ぎる。しかし
「それでも…、いくしかない」
なにしろ後方ではタオファが一人で屍鬼を食い止めているのだ。この貴重な時間を無駄にする訳にはいかない。
もちろんティオはタオファの真意も後ろで何が起こっているかも知らない。闇夜はティオの視界を著しく狭め、剣戟斬撃の音も僅かに耳に止まる程度だ。
それでも普段のティオなら後ろの異変に気がついたのかもしれないが、生存者を助けるという焦りと昼間からのリビングデッドとの戦いで疲労した心身は周囲の異変を感じる力を損ねてしまっていた。
だからこそ、無謀な単身突入をあっさりと決意してしまったのかもしれない。
「…それっ!」
ティオは屋根から地面に飛び降りると周囲を一瞥し、リビングデッドが現れないのを確認した後村長の屋敷へと足早に近づいていった。


「さて、どこから…」
屋敷は例の部屋以外からは灯りが全く灯っておらず、全体がシィンと静まり返っている。
出来れば声を出して生存者に自分の存在を知らせたいが、そんなことをしてリビングデッドを呼び寄せてしまったらまさに薮蛇だ。
となると必然的に自分があの部屋まで行くほかはない。
「外壁からは……無理か」
外壁を伝っていけば一番早いのだろうが、加工石を積み上げた外壁は思った以上につるりとしていて手をかける場所に乏しい上、ティオのぞろりとした冬服はよじ登るのにはいかにも不向きだ。
だったら服を脱ぎ捨てればいいという考えもあるが、ティオの武器である長剣のスペアは服の裏地に縫いこんであるのでそれを捨ててしまったらただでさえ心もとない戦闘力が大幅に落ちてしまう。
おまけに灯りがついている部屋は四階なので、服を着たまま辿り着くのはどう考えても不可能だった。
つまり、一階のどこかから進入して地道に上を目指すしかない。
「となると…どこか入れるところは……」
なるべく目立たないよう、ティオは慎重に気配を消しながら入れそうなところを物色してみた。
進入する際は出来るだけ音がしない方がいい。音がしたその時点でリビングデッドを引き寄せてしまう可能性があるからだ。
となると、ぴっちり閉められた玄関を開けるわけにはいかない。下手に軋みでもしようものならその後の収拾がつかなくなる。

「うまく窓が開いていたりしてくれたらいいんだけど……」
これだけリビングデッドの大規模な襲撃があった以上、まさか無用心に窓を開けていることはあるまい。と、ティオは考えていた。が、玄関から少し離れた部屋の窓がなんと無用心に開いているではないか。
「……うそでしょ」
はっきり言って都合がよすぎる気がするが、ティオは思わぬ僥倖に目を輝かせた。これなら大して音もしないで屋敷の中に入れる。
「やった!これも日頃の行いの賜物賜物!」
喜び勇んでティオは大して考えることの無く庇に手を掛け、ふわりと跳んで部屋の中へと入り込んだ。


この時ティオが少しでも頭を働かせていたら、窓が開いている=リビングデッドが中に進入している=生存者がいるのがおかしい。という考えが思いついたかもしれない。
が、上記の通り今のティオは極端に心身が疲労しており、そこに思い至ることがなかった。
そのため、ティオはタオファが張った罠にみすみす飛び込む羽目になってしまった。





「やっぱり、真っ暗ね…」
屋敷の廊下に通じるドアを開いたティオは、月明かりすらほとんど入らない真っ暗な廊下を見てぼそりと呟いた。
これではどこに何が潜んでいるのか見当もつかず、不意打ちに常に警戒しなければいけない。
だからと言って懐にある携帯ランタンなど使おうものなら自分の存在をリビングデッドに知らせてしまうことに他ならず、第一片手がふさがれる状況というのは即命取りになりかねない危険を孕んでいる。
幸い廊下にリビングデッドや屍鬼の気配を感じることはない。それどころか鼠一匹動くものは見当たらず、この屋敷全体が死の静寂に包まれているとさえ錯覚させられてしまう。
「まあ、リビングデッドに隠れるなんて知恵はないから動いているものさえいなければ大丈夫、なはず…」
『はず』なのはティオがリビングデッドに関する明確な知識を持っていないからである。吸血鬼狩りを専門にしていたティオは恥ずかしいことだがそれ以外の人外に対する知識は甚だ心もとない。
本来なら対吸血鬼以外のこともきちんと学習していなければいけないはずなのだが、学科があまり好きではなかったティオは自分にはいらない知識だと疎かにしてしまっていたのだ。
こんなことならもう少し真面目に勉強しておくべきだったと今さらながらに後悔したが、今となってはまさに後の祭り。
今ある知識と武器でこの局面を乗り切るしかない。
「なんにせよ…上に行くしかない、か」
ティオは出来るだけ足音を立てないよう、そして周囲への警戒を怠らないよう慎重に一歩づつ足音を殺して進みはじめた。
視界が殆ど利かない木製の廊下がキィ、キィと軋むたびに緊張が走り、その都度ティオは顔を左右に振って怪しい動きをしている者がいないかを警戒していた。
初秋に差し掛かってきているとはいえ外気温はまだまだ高く、ましてや屋内ともなれば夜になっても蒸し風呂のように蒸し暑い。
異様なほどの緊張と熱気でティオの額からは冷や汗と普通の汗がダラダラと流れ、湿気を逃がさない冬服のせいで服の下はサウナの如く蒸しあがっていた。
あまりの蒸し暑さと緊張からティオの意識は幾度となく途切れかけ、飛びそうになるたびに一息ついて心の緊張を解していく。
そのため普通に歩けば五分と掛からないであろう四階の問題の部屋までの道のりを、ティオは十五分も掛けてしまった。

「やっと…、ついたわ…」
部屋に来た頃は体はともかく心の方はヘトヘトであり、出来ることなら今すぐ横になって何もせずにボーッとしていたい気分に駆られる。
が、今はそんなことをしている暇はない。ようやっと目的地に辿り着くことが出来たのだ。
ここに辿り着くまでに相当な時間をかけてしまった。にも拘らずタオファが後から追いついてくる気配がない。
もしかしたらティオが見つけた入口を見つけられずに難儀しているのかもしれない。最初にタオファのために入口を知らせる目印を置いてこなかったのは迂闊といわざるを得ない。
が、それならまだいいほうだ。
もしかしたら、こっちに来たくても来られないのかもしれない。
屍鬼の退治に手間取っているか、それとも屍鬼に…
「…そう、よ。ここでボーッとしているわけにはいかない…」
生存者をすぐにでも安全なところに誘導し、然る後にタオファを助けに行かなくては。
何も知らないティオは自分を殺そうとしているタオファのことを気にかけ、さして考えることなくドアを開けた。
「…うっ」
それまで殆ど灯りがない場所から弱いとはいえ急に灯りの灯る部屋に入ったため、ティオの目は眩しさで少々眩んでしまった。
ティオが眩しさで細めた視界に入ってきたものは
壁に掛けられた弱々しいランプの光。窓側を向いた巨大なクラシックチェア。
そして、その椅子の肘掛から見える少女のものとみられる細い服の袖だった。

「!!」

やっぱり生存者がいた!
ティオはここまでの苦労が無駄ではなかったことにことのほか喜び、それまでの慎重さを忘れたかのようにどたどたと床を駆けて椅子に座っている少女の元へ近づいていった。
あの子に聞けば一体この村に何が起こったのかがわかるだろう。
これだけの大きな村がほぼ全滅するような事態がなんなのか、聞き届けないわけにはいかない。
そして、一刻も早くこのリビングデッドの巣窟と化した村から脱出しなければならない。
へとへとになっている体で少女一人抱えて逃げるのは困難極まりないが、やらなければいけないのだ。
まあ、いざとなったらニースに托せば大丈夫だろう。
「大丈夫?!もう心配な…」
ティオは窓側を向いている椅子の正面に周りこみ少女を安心させようとして……凍りついた。

「え……?!」

ティオの視界に入った少女…
いや、それは少女『だったもの』だった。
服こそ真新しいものだが、その顔面は腐りはて腐汁が襟首を赤黒く染めている。
半開きになった唇は一部が崩れて黄色く変色した歯が覗き、袖口から出ている手の片方には掌がなかった。
これみよがしに灯りの付いた部屋にいたものは、生存者ではなくかつて生きていた者のなれの果てであった。
「…なんで……?」
思わぬ事態にティオは呆然となった。

灯りが付いている以上少なくとも一日以上この部屋に誰もいないということはない。そのまえにランプの油が切れてしまうからだ。
となると、この少女の死体は灯りを消す前にリビングデッドに襲われて殺されたというのだろうか。
が、それにしては死体の腐敗が酷すぎる。これはどう考えても一日二日経ったものではない。
少なくとも一ヶ月以上、あるいは死体蘇生術で墓場から蘇らされたリビングデッドか……
「ッ?!」
その時、少女の死体の指がピクリと動いたのをティオは見逃さなかった。

「ガアアァッ!!」

それまでピクリとも動かずただの死体だと思っていた少女は突如立ち上がって唸り声を上げるとティオ目掛けて残った手を突き出してきた。
その腐りかけた爪先には相手を麻痺させる毒がたっぷりと染み込んでいる。
「くっ!」
咄嗟にティオは横へと跳ね飛んでリビングデッド少女の突きをかわし、反射的に長剣を振るってリビングデッド少女の手をスパン!を斬りおとした。
が、当然痛覚など持たないリビングデッドは怯むことなくボロボロになった歯をクワッと剥いてティオに噛み付こうと突っ込んでくる。
「……ごめん!」
別に謝る必要などないのだが、なんとなく心が痛んだティオは一言謝るとリビングデッド少女の腹目掛けて渾身の蹴りを放ち、突進してきたカウンターで蹴りを食らったリビングデッド少女は窓まで吹っ飛びガラスを派手に叩き割って外へと消えていった。
窓の外からぐしゃりと肉が潰れる音が聞こえ、ティオは心の中で十字を切るとすぐさまドアへと取って返した。
いったい何が起こっているのかティオには把握できない。
しかし、今ここに留まることは非常に危険だと戦いで培った勘が警告を鳴らしていた。
そして、一歩廊下に出たときティオは自分の勘が正しかったということを身をもって理解した。
「…これって、どういうこと…?!」
どこに隠れていたのか、ここに来るまでは一体も現れなかったリビングデッドがわらわらと湧き出し、ティオがいる部屋に近づきつつあるではないか。
部屋での喧騒に反応して寄って来たのは理解できないこともないが、その数はとてもティオで対抗できるものではないほどのものだった。
「クッ!」
ティオは慌てて踵を返し、ドアをバタンと閉めると部屋の中の椅子やら机やらをどかどかとドアの前に置き即席のバリケードを作った。
そのバリケードがなんとか形を作った直後、ドアの向こうからリビングデッドが部屋に突入しようとドアや壁をガンガン叩きまくってきた。
が、どうやらバリケードは功を奏しているようで今のところドアが破られる気配はない。
「はぁ…はぁ……。とりあえずは大丈夫そうか…」
ひとまずの安全が確保され、ティオはへたりとしゃがみこんだ。
なにしろただでさえ疲れている上にここまでくるまでの張り詰めた精神的緊張、そしていまの即興のバリケード作りである。体がまともに動く方がおかしいかもしれない。
今のうちに少しでも体を休めて体力を回復させねばならない。のだが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
リビングデッドの怪力を考えるとそれほどバリケードが持つとも思えないからだ。

廊下がリビングデッドで埋めつくされている以上、ティオは唯一の脱出路といえる窓に近寄って外を眺めてみた。
かなりの危険は伴い昇るのは断念した方法だが、ここの壁に手を掛けて降りる以外に降りる手段は思いつかない。
一気に…はさすがに無理だが、外壁にいる以上リビングデッドに襲われる心配はないから時間をかければ…
と思ったティオだったが、階下を見てその顔は真っ青になった。
「うそ…」
さっきリビングデッド少女を落としたからだろうか、階下の中庭にはリビングデッドがわらわらと集まり辺りをうろうろと徘徊していた。
どうやらティオのことには気が付いていないようだがこのまま下に降りたら間違いなく襲い掛かられてしまい、その時のティオは石壁を降りてくることで体力を使い果たし長剣を握る握力すら残ってはいないだろう。
このまま降りたらリビングデッドの餌食になってしまうのは確実であり、とてもではないが降りることは出来ない。
しかし、こうしている間も廊下側のリビングデッドはバリケードを力ずくで排除しようとガツンガツン体をドアや壁にぶつけてきており、ドアがギシギシと悲鳴を上げてきている。
これではここに留まっていても下に降りてもティオの運命はそう変わりはしない。
「ど、どうすれば…。どうすれば……!」
切羽詰って焦りが出始めたティオが何か手はないかと部屋をぐるぐると見渡し…
窓にかけられている古びたカーテンが目に入った。
「っ!これなら……!」
一計を思いついたティオは長剣を法衣に仕舞いこむとカーテンを掴んで一気に引っ張り下ろし、二枚のカーテンをつなぎ合わせて一本のロープ状にした。
それを窓枠に縛りつけ窓からポイッと放り投げると、なんとか直下の三階の窓まで届くくらいには垂れ下がった。
地面まで降りることは出来ず、さりとて廊下に飛び出るわけにもいかない。
なら、下の階に逃げ込むのが唯一の逃走経路だ。
それしか方法はないのだ。だが、まだ不安要素は残っている。
「あとは……生地が持ってくれればいいんだけど……」
そう、ティオを支えるこのカーテンは相当年月が経ったもので日に焼けて色は褪せしなやかさも全くなく、縛っている時も所々で糸が解れたり切れたりしていた。
ティオ自身の体重は一応適性体重だと自分では思っているが、何しろ懐には四本の長剣といくつかの対吸血鬼用の備品が備え付けられているのだ。
それらを合わせた重さは決して軽いものではなく、万一カーテンが支えきれなかった時はティオの体はリビングデッドが無数に蠢く中庭に叩き落されることになる。
そうなると当然リビングデッドの餌食に、いやその前に落下の衝撃で即死してしまうだろう。
だからと言ってそれ以外の方法はない。このカーテン以上に長くティオの体を支えられそうに頑丈なものはこの部屋にはないのだ。
「………」
窓から身を乗り出したティオは夜風に当たって軽く揺れているカーテンとその下の中庭を徘徊するリビングデッドを見た。
うまくいけばよし。失敗すればリビングデッドの餌食。だが留まっていてもリビングデッドの餌食。
「……よし!」
覚悟を決めたティオは両手でしっかりとカーテンを握り締めるとひょいっと窓枠と乗り越え、石壁に脚をしっかりと押さえつけた。
上の方で『ピッ』という糸が解れる嫌な音がしたがもう引き返すことは出来ない。
「よっ…、よっ…」
カーテンに余計な負荷をかけないよう、ティオはゆっくりじんわりとカーテンを握る手の力を緩めたり強めたりしてそろそろと三階の窓目掛けて降りていった。


その時、四階でメリメリと木が破れる大きな音が響いた。どうやらドアが破壊されてバリケードが破られたようだ。
まさに間一髪と言ったところだろう。
知性のないリビングデッドに窓の外にいるティオを探すことは出来ないし、よしんば見つけたとしてもカーテンを伝って降りてくるなんて芸当はできやしない。
後は余計な音を立てずに三階に逃げ込めば…
と、ティオが算段だてていた時。

『ピッ!』

「!!」
カーテンがティオの手と窓枠に縛ってある丁度真ん中の辺りで大きく解れた。
ガクン!とティオの体は大きく揺さぶられ、その拍子で解れはますます大きく広がっていく。
(ま、まずい!!)
このままではそう遠くない先にカーテンは完全に破れ、ティオの体は地面に叩き付けられてしまう。
三階の窓まではまだティオの脚までしか達しておらず、体を入れるにはまだ早すぎた。
が、悠長に降りていたらとても間に合わない。
ティオは右足をガツン、ガツンと窓に当てて窓をこじ開けようとした。開けてしまえば後は体をそのまま飛び込ませればいい。
しかし、窓は鍵が掛かっているのかティオが蹴った程度では開きもせず、逆にその衝撃で解れはどんどん酷くなっていく。

(音は立てたくなかったけど……仕方がない!)

大きな音を立ててしまってはそれにつられてリビングデッドが寄って来る可能性が大きい。が、今は当面の危機をどうにかしなければならない。
ティオは脚を曲げて壁につかせると、そのまま思い切り壁を蹴り上げた。
その反動でティオの体は大きく後ろに飛び、振り子の原理で加速度がついて窓の方へと体が突っ込んでいくようになった。
脚でこじ開けることが出来ないなら、体ごと窓に突っ込むまで。
その試みはうまくいき、ティオの体はそのまま窓に飛び込むかと思われた。が、

”ブチッ!”

その動きはあまりにもカーテンに負担をかけすぎ、とうとうカーテンは解れたところから二つに千切れてしまった。
「げっ!!」
それまで体を支えていた力が急になくなり、ティオの上半身はがくりと下に引っ張られる。
しかし、ティオの体はそのまま慣性の法則に乗っ取って斜め下にまっすぐ進み、当初の思惑通り窓をブチ破って部屋の床にドシン!と派手な尻餅を付いた。
「いたたた……」
固い床に思い切りお尻を打って、ティオは痛むお尻をなで擦りながら部屋の中をさっと見渡した。
中はしんと静まり返り、とりあえずリビングデッドが潜んでいる気配はない。
その代わりといっては何だが、天井からは大勢のリビングデッドの足音が聞こえてくる。
が、その足音がいくつか廊下のほうへと出て行くのが聞こえてきている。
恐らく窓を破った音に反応し、こちらに来ようとしているのだろう。

「っ…。ぐずぐずしてもいられないか!」
まだ痛むお尻を片手で抑えながら、ティオはすっくと立ち上がって部屋を飛び出した。
ぐずぐずしているとまたリビングデッドに囲まれてしまうかもしれない以上即座に行動するのは正しい。
が、ティオ本人は気がついていないがこの屋敷にティオを入れるようにタオファが仕向けたのはティオを抹殺するためだ。
当然、ティオが窓を使って脱出するということも考慮の内には入っている。

「え?!」

ティオが部屋の外に一歩踏み出した瞬間、ティオの体はガクン!と前につんのめった。
廊下は殆ど月明かりが当たらず真っ暗なため気づけなかったが、ティオのいた部屋の前の廊下の床板は取り外され階下まで剥き出しになっていた。
「う、うそっ?!」
慌ててティオは踏み留まろうとしたが時既に遅し。
ティオの体は重力に引かれ、ぽっかりと開いた空間を落下していった。
「きゃああぁっ!!」
ティオは頭から落下する体をなんとか空中で立て直し、くるりと体を回転させて二階の廊下にどさりと着地した。
しかし、あまりに突然のことだったのでしっかりと受身を取ることが出来ず『ぐきり!』という嫌な音が体の中で響き、直後左足首から痺れるような痛みが湧き上がってきた。どうやら脚を挫いてしまったようだ。
「くぅっ…。しまったぁ……」
ただでさえ危険な状況だというのに足を負傷してしまっては逃げることすら覚束なくなってしまう。
ティオはとにかく応急処置をと靴を脱ぎ、懐から救急用の包帯を取り出した。
だが、いざ痛めた足首に巻こうとした時
「っ!」
背後から強烈な殺気を感じたティオは包帯を手から離しバッとその場から前に跳んだ。
その刹那、ティオがいた空間を唸りを上げた掌がぶぅん!と薙いだ。
「ちっ!!なんて都合のいい!!」
まさか落下したその場所に都合よくリビングデッドがいるとはなんという悪い偶然か。
ティオはそのまま体を反転させて殺気の元から間合いを離しつつ体勢を整えようとした。が、

”ズキン!”

「ぐぅっ!!」
着地した際に挫いた左足首に千切れるような鋭い痛みが走り、ティオはがくりと片膝をついてしまった。
その隙を察したのか、ティオを襲ったモノは間髪いれずにティオ目掛けて飛び掛ってきた。
「っ?!」
その速さにティオは戦慄した。
なぜなら、リビングデッドにはこんな素早い挙動は絶対に出来ないからだ。
リビングデッドは所詮は死体であり、力こそ強いが動きそのものは非常に緩慢である。
少なくとも、ここまで素早い動きをするリビングデッドなんて聞いた事がない。
「くそっ!!」
顔面目掛けて突き出される鋭い突きを長剣で辛うじて防ぎ、ティオは左足を引きずりながら辛うじて立ち上がり謎の相手に対して身構えた。

異常に真っ暗な中、吹き抜けになってしまった三階から入ってくる月明かりで辛うじて見えた相手は、腐敗して崩れた死体ではなかった。
死体とは思えないほど整った形。しかし吸血鬼のように血色をなくした肌を持つそれは、先ほどタオファに教えてもらった『屍鬼』だった。
「タオファさん…、まさか…」
先ほどタオファと別れた時、タオファは相当な数の屍鬼と戦っていた。
もちろん、あそこにいた屍鬼がこの村にいる全部だとは思えない。
が、屍鬼がここにいていまだにタオファがティオと合流できない、ということは…
想像したくはないが、つい想像してしまう。タオファが、屍鬼の餌食になってしまったのではないか、ということに。
「…ううん、そんなことない。そんなことない!」
嫌な予感を必死に振り払い、ティオは痛む脚を引きずりながら襲い掛かってくる屍鬼に立ち向かった。
びゅんびゅんと素早く繰り出されてくる屍鬼の突きをティオは一筋の傷も付かないよう長剣と上半身の体捌きでなんとかやり過ごした。
屍鬼の攻撃はリビングデッドよりはるかに洗練されてはいるものの、所詮は自分での思考能力を持たない死体であり攻撃そのものは非常に単純である。
それゆえティオも相当なハンデを負っていながら攻撃をかわし続けられているのだが、何しろ相手は死体であり疲れ知らずだ。このまま攻撃を受け続けたらいつか絶対スタミナ切れを起こして致命傷を負ってしまう。
いや、すでに踏ん張りが利かなくなっているのか、ティオの体はじりじりと後方に圧されその体捌きにも余裕がなくなってきている。
カィン、カィンと硬い物同士が当たり続ける音がしている中、ティオの背中が『どすん』と何かに当たり、動きが一瞬止まった。
わざわざ後ろを見なくても分かる。これは廊下の木壁に当たった感触だ。
「………」
その一瞬の隙を見逃さず、屍鬼の手刀がティオの顔面目掛けて猛スピードで襲い掛かってきた。
が、この状況こそティオが狙っていたものだった。
「そこだぁ!!」
それまでの余裕のない動きからは予想も付かないような素早さでティオは右横へと跳ね飛び、結果屍鬼の手刀はティオの後ろの木の壁にざっくりとめり込んでしまった。
めり込んだ手刀はそのままに屍鬼はぐるりとティオのほうへと顔を向け再攻撃を試みるが、ぐっさりとめり込んだ屍鬼の右腕は屍鬼の怪力を持ってしても即座に外れるものではなかった。
そして、その隙を見逃さずにティオは長剣を大きく振りかぶると、屍鬼の首目掛けて叩き込んだ。
「……!!」
その時、ティオの目には表情がないはずの屍鬼の顔に明らかな動揺の色が見えた様な気がした。

「でぇぇい!!」

ティオが渾身の力をこめて振り切った長剣は屍鬼の首をばっさりと切断し、屍鬼の頭は廊下にごろりと音を立てて落ちた。
が、その代償としてかなり『がた』がきていた長剣は根元からぼっきりと折れてしまった。
これでティオが持っていた四本の長剣のうち二本が折れ一本が使いものにならない状態になってしまい、まともに使えるのが一本だけという危機的な状況に陥ってしまった。
「………」
廊下に落ちた屍鬼の虚ろな目はじっとティオを睨みつけ、屍鬼の体は頭の最後の命令である腕を壁から抜こうとする動作を繰り返していた。

とはいえ、この状態で首と胴を繋ぐ手段はなくこの屍鬼は無力化したも同然であり、これ以上この屍鬼に時間を割くわけにもいかない。ぼやぼやしていたら上の階のリビングデッドに退路をふさがれてしまう。
ティオは屍鬼を無視して痛む足を引きずりながら歩き始めた。さすがにこの負傷した足で走ることは不可能である。
が、下の階に降りるのも簡単にはいかない。
「さて…、どこから行くか…」
上の階のリビングデッドがティオを目掛けてくる以上階段は使えない。もし鉢合わせたりした場合、今のティオの脚では逃げ切れない。
となると、どこかの部屋から下へと降りるしかない。
ティオは適当な部屋の扉をそっと開くと中に忍び込み、静かに扉を閉じた。これで派手な音を立てなければ暫くの間はリビングデッドをやり過ごすことが出来るだろう。
部屋の中は相変わらず真っ暗で窓の月明かりのみが中を照らしており、外には相変わらずリビングデッドが徘徊している。
その数たるや時間を追うごとに増えているようにも見え、まるでこの屋敷全体を包囲しているかのようだ。
これでは屋敷を脱出できたとしても、無事に村の外に辿り着けるかどうかわかりゃしない。
「本当に…どこから湧いて出てきたのよ。私が入る前は一匹もいなかったくせに…」
思わずティオは外のリビングデッドに毒づいてしまった。
自分の意思など持っていないくせに、偶然にもこっちの意図を汲んで妨害するような手口に苛立ちを隠せないのだ。
もっとも、これが単なる偶然ではなく自分に対する明確な悪意が働いていることにティオは気が付いていないのだが。
「ニース…、どうしているかしら…」
こうなるとニースと袂を別っているのはいかにも辛い。もしニースが傍にいたらリビングデッドが何体いても何の問題もなかったであろう。
もしニースが今の自分の窮状を知れば息せき切って駆けつけてくれるかもしれない。
この状況でニースを頼ってしまうのはティオのニースへの信頼と甘え、その両方の気持ちが出てしまっているのだが現状を考えると仕方がないのかもしれない。
それほど今のティオは追い詰められているのだから。
「…なんにせよ、今私がどこにいるのかというのをニースに見せないとね…」
ティオは窓をギィッと開くと、少しだけ身を乗り出してあたりをキョロキョロと見回した。
頼りない月明かりに照らされている外にニースの姿を見ることは叶わないが、もしニースが近くにいたら自分の姿を捉えている可能性はある。
「あとは、どうにかして下に降りないと……」
一人で降りるのはいかにも自殺行為だが、ニースと合流できさえすれば、もしくはニースが駆けつけてくれればこの場を切り抜けることは出来るであろう。そうすれば、タオファを救援に行くことも出来るはずだ。
きっと…いや間違いなくニースは怒るだろうが、この状況ではそんな我侭は通用しない。
とにかく、全員無事にこの村から脱出しなければいけないのだから。
その時、ティオの背後の天井がベキッと嫌な音を立てて割れ、空気が揺らぐ感触がティオの背中を撫で擦った。
それが意味するものは二つ。敵が来たか味方が来たか。
そして、当然ティオは後者を選択していた。

「ニース……!!」

が、振り向いた時ティオの鼓動は一瞬跳ね飛んだ。
そこに立っていたのはニースではなく屍鬼だったからだ。

ただ、その屍鬼はそれまでの屍鬼と違い、着ている服は黒を基調にしているタオファのような東方の服で、頭には頭部をすっぽりと覆う大きい帽子と目元を隠すような黒い布。そして大きなお札を顔面にぺたりと貼られておりその顔を窺い知ることは出来ない。
が、ティオは最初その屍鬼を見て逆に安心した。
その顔に貼られているお札は、先ほどまで散々見たタオファが使っていたものと同じものだったからだ。
それはつまりタオファがまだ生きていることを意味している。
「よかった…、タオファさん無事だったんだ…」
多分この屍鬼はタオファがティオの窮状を悟り、自分に先駆けてティオを救援するために差し向けたのだろう。
そうとわかれば恐いことなど何もない。
無表情で何の反応も示さない屍鬼だが、こうして見ると愛嬌があるようにも見えてくる。
「…ありがと。あなたが来てくれたら何とかなりそうだわ」
ティオはあまりの嬉しさからつい屍鬼相手に手を差し出してしまい、その直後、相手が命令したことだけを忠実にこなす屍鬼だということを思い出した。
「おっと…、こんなことしても何も反応しないんだっけか…」
苦笑してティオは手を引っ込めたが、驚くべきことにそんなティオの前で屍鬼がスッと右腕を伸ばしてきたではないか。
「あら?」
まさか屍鬼が会釈をすることが出来るなんて思っていなかったティオは、にこにこと笑みを浮かべて屍鬼の手を握ろうとした。

「っ?!」
ビュッと空気を切り裂いて突き出された屍鬼の右手はティオの右手ではなく左胸を正確に狙ってきており、ティオは慌てて身を捩って屍鬼の突きを回避した。
「ち、ちょっと……!何をするの……?!」
ティオはいきなり自分に攻撃をかけてきた屍鬼に憤慨し…そして戦慄した。
眼の前の屍鬼は明らかにティオに対する殺気を放っており、暗闇の中でも見えそうなどす黒いオーラはそれまで相対したリビングデッドや屍鬼とは比べ物にならないほど強大で、爵位を持つ吸血鬼に匹敵するほどだ。
「えっ…ちょ、ま……」
どういうことだろう。この屍鬼はタオファが寄越したものではないのだろうか。
なんで自分を攻撃してくるのだろうか。一体全体訳がわからない。
そんな困惑するティオに対し、屍鬼は再び突きを繰り出してきた。それも単発ではなく無数に。
「な、なんで!なんでぇ?!」
ひゅんひゅんと空気を切り裂く音がティオの耳音でいやらしく唸る。その風斬り音は異様に鋭く、当たっていないはずなのにティオの皮膚がぴんぴんと突っ張り、赤い血の筋が幾本も描かれていたりする。
止むを得ずティオは唯一まともに振るえる長剣を取り出して屍鬼に向かい合ったが、これ一振りだけで立ち向かえる相手ではないことは明らかだ。
「まずい、まずい……!!せめてニースがいれば……!」
ティオはニースと喧嘩別れしたことを改めて心底後悔した。あの時ニースと離れ離れになっていなければ、ここまでの窮地に陥ることはなかっただろう。
もう少しニースの言い分にも耳を傾けていたら…とはいえ、今となってはもう遅すぎるのだが。

「……ガアアァッ!!」

明らかに劣勢にたたされたティオに、屍鬼は一気に止めを刺すべく一声吼えて飛び掛ってきた。
その大きく開いた口には、人間の死体とはとても思えない長い牙が四本伸びていた。
が、後悔と窮地で平静さを無くしているティオに、それに気づく余裕はなかった。

第12回終




猟血の狩人 13回

唸りを上げて襲い掛かってくる屍鬼の毒爪がティオの体を捉える、まさにその瞬間

「この…っ!」

ティオは折れて使い物にならなくなっ長剣をとっさに抜き放ち、自分の胸を正確に狙う掌に突き刺した。
切っ先が折れているとはいえ刃物には変わりはない長剣は屍鬼の皮膚を易々と貫いて手の甲まで貫通した。
とはいえ、その程度の傷では屍鬼には致命傷どころかかすり傷にも値しないダメージであり、この程度で突進を止めることは不可能である。
そのことはティオもこれまでの戦いで理解しており、屍鬼の突進を和らげて致命傷さえ防げれば…という思いがあった。が
「………っ!」
長剣が突き刺さった傷口からどす黒い血が噴き出したと思ったら沸騰したかのように派手な蒸気となって部屋に充満し、屍鬼は手を咄嗟に長剣から抜くと間合いを離すかのように後方に飛び退いた。
「えっ?!」
この予想外の展開にはティオもびっくりしていた。
これまでの経験からリビングデッドや屍鬼にには自分の武器は殆ど通用しないものだと確信していた。そりゃ傷つけたり切断することは出来るが致命傷を与えたり活動を停止させることは無理なことだと。
ところが、目の前にいる屍鬼には何故か長剣が通用するみたいだ。現に屍鬼は少なからぬダメージを負い、燻った手を苦しそうにもう片方の手で抑え付けている。
よくはわからないが、この屍鬼には自分の武器が通用する。
それだけでもティオにとっては朗報だ。動きを止められるだけなのと討滅できるでは展開がまるで違う。
「よしっ!」
俄然調子に乗ったティオは唯一無事な長剣を腰から抜き、いまだ手首を辛そうに抑えている屍鬼へ向けて勢いよく飛び出した。
この機会に一気に両手両足をバラバラにして首を吹っ飛ばしてしまえば当面の脅威はない!
ところが

「あぐっ!!」

左足に走ったズキン!という強烈な痛みに、ティオの体は勢いそのままにつんのめりばったりと床に倒れこんでしまった。
(しまった!脚を!!)
そうであった。自分はさっき左足を挫いてしまっていたのだ。体が痛みに慣れてしまっていたことと、勝機が見えて浮かれてしまったことですっかりそのことを忘れてしまっていた。
(なんて迂闊……ハッ!)
自分の馬鹿さ加減に唇を噛んで悔しがるティオだったが、不意に上から強烈な殺気を感じ痛む足を引きずってその場を転げるように移動したら、寸分置かずティオがいた床板が物凄い音をたてながら壊れ飛んだ。
「………!」
そこには怒りで帽子の影から赤く光る目を覗かせた屍鬼がティオをぎろりと睨んでおり、その殺気に不覚にもティオは体が竦みあがってしまった。
(え…?なにこれ。私が…尻込みしている?!)
ティオにとって敵と相対して恐怖を感じることはあっても、それで体が動かなくなるなどということはなかった。
『狩人』における猛訓練でそういった事態に陥らないようにしてきたはずだし、そもそも恐怖を感じたことそのものがあまりなかったのだ。
それだけに竦んで自分の体が動かなくなるなどということは想定の範囲外だった。
まるで、吸血鬼の魔眼に睨まれたみたいに。
「…?吸け……?」
そうだ。この屍鬼は今までの屍鬼とはちょっと違う。
まるで吸血鬼のような特性を持っていて自分の攻撃もそこそこ通用している。
まさか、自分が畏怖して体が動かないと思っているのも、本当は魔眼で呪縛されているのかもしれない。

「そんな奴が…、いるっていうの?」
考えてみればティオは屍鬼のことを殆ど知らない。狩人でも東方の怪物に関しては特に教えてはおらず、実際に見るのも今日がはじめてだ。
だから吸血鬼のような屍鬼もいるのかもしれない。というより実際に自分の前にいる。
だとしたら、今の状況は非常にまずい。
もしこの屍鬼が血を啜って相手を殺すようなものだったら、今のティオは格好の獲物だ。
(まずい!!)
危険を直感したティオは即刻屍鬼から間合いを離そうと後ろへ跳ぼうとした。が、やはり魔眼で呪縛されているのか脚はびくともその場から動かない。
その間にも屍鬼は全身から殺気を放ちながらゆっくり、そして足音を立てることなくティオへと近づいてくる。
そのまま屍鬼はティオの眼前まで迫り…、痛めている左足首を思いっきり蹴りつけて来た。

「がぁっ!!」

蹴られた左足首に痺れるような激痛が走り、そのあまりの痛みで呪縛が解けたのかティオはその場にガクンと崩れ落ちてしまった。
「ぐぅぅ…っ!」
鼓動が一つ打つ度に目の前が真っ赤になるような激痛が襲い、痛みで意識が朧げになっていく。
体が自由になったから一刻も早くこの場を逃げ出さなければいけないのだが、今度は痛みで体が自由に動かない。
そんなティオに対し、屍鬼は容赦なくティオの左足首を体重をかけて踏みつけてきた。

「あぎっ!!」

ゴキリ、と骨が軋む嫌な音がティオの頭の中に響き、その視界に火花が走った。
しかも、屍鬼はそれで終わらせることなく、二度、三度とティオの足首をげしげしと踏み続け、その度にティオの体は千切れそうな痛みに苛まれていった。
が、そんな痛みに思考を邪魔される中、ティオはある疑問を抱いていた。
(こいつ……なんで、こんな執拗な責めをしてくる…の?)
タオファの話では屍鬼はリビングデッドと同様死体に仮初の命を吹き込んで作るものだ。思考というものを持たず術者の命令に盲目的に従うことしかできないはずだ。
しかし、この屍鬼はどう考えても自分の意思を持っているようにしか感じられない。
自分に向けられている明らかな殺意。そして弱点を執拗に、しかも殺すまで到らずいたぶるように攻撃してくる。
まさかこの屍鬼を使役している術者が敵の弱点を執拗に攻撃しろなんて命令を下すはずがないし、そんな複雑な命令をこなせるほど上等な代物でも多分ないはずだ。
そう考えると、この屍鬼は自分で物事を考え、自分の意思でティオを攻撃している。そうに違いない。
ティオは自分のこの考えに確信に近いものを持った。
が、それを確信したからといって状況が変わるものでもない。
左足首を徹底的に痛めつけられたティオはすでにこの場を動くことすら満足に出来ず、屍鬼の踏み付けを一方的に食らい続けている。
足首は折れてこそいないものの、捻挫による炎症で真っ赤に膨れ上がり曲げることはおろか立つことすら難しい状態だ。
せめて足首を応急処置しないと勝てる道理はどこにもない。が、そんな猶予を与えてくれるような慈悲はあいにく屍鬼は持ち合わせてはいない。
痛めた足首をの関節を狙って爪先を打ち込んだり、不意をついて向う脛を蹴り飛ばしたり、完全に折れて激痛で気絶させないよう僅かな手加減を加えながらティオの脚をこれでもかこれでもかと嬲り続けた。
(あ、あぅ……)
すでにティオの頭の中はもたらされる痛みしか感じられず、視覚も聴覚も消え失せ抵抗しようとする心すら失われつつあった。
「………」
全く抵抗することなくなったティオに屍鬼は満足したのか、それとも興味をなくしたのか横たわるティオの首根っこをむんずと掴むと、そのままティオの体をぐいっと力強く持ち上げた。
その先には月明かりが差し込んでくる窓がある。どうやら屍鬼はティオを窓から外へ投げ捨てようとしているようだ。
だが、それが分かっていてもティオに抵抗する力は既にない。
普段のティオなら二階から飛び降りるくらい造作もないのだが、脚に深手を追い受身もままならないこの様では投げ捨てられたら間違いなく地面に叩きつけられて即死するし、万が一命を取り留めたとしても辺りを徘徊するリビングデッドに食い殺されるのは確実だ。
(もう…ダメだ…)

ニースと喧嘩別れしていなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
このまま自分がここで死んでしまったら、一体ニースはどんな顔をするのだろうか。
さすがに吸血鬼も死んでしまった人間を吸血鬼として蘇らせることも出来ないだろう。
(ごめんね、ニース…。約束、守れそうにない……)
ニースの目的である吸血鬼になった自分の兄の抹殺。その後、ニースを自分が討滅するという約束。
それが出来なくなるのが唯一の心残りだ。
(せめて…最後は一思いに死ねれば…)
諦観と絶望で急速にティオの心は覚めていく。もはや自分に何もすることは出来ない。このままこの屍鬼に投げ飛ばされるしかないのだ。
そして、屍鬼が大きく腕を振りかぶりティオの体が勢いよく前に投げ飛ばされたその時、ティオを投げた風圧で屍鬼の額の御札がふわりとめくれ、偶然にもティオの目に屍鬼の顔が飛び込んできた。
その顔を見て、ティオの消えかけていた意識、萎えかけていた心が突然覚醒した。
「………っ!」
なぜなら、自分を投げ飛ばした屍鬼。その顔は憎悪に彩られ大きく変貌していたが紛れもなく

あのニースだった。

「ニー…?!」
驚愕と困惑に彩られた顔のティオは思わずニースと思しき屍鬼にに声をかけようとしたものの、その時既に遅くティオの体はガラスを突き破って夜空に投げ出され、発した声も虚しく屋外の空気にかき消されていった。





「うふふ、よくできましたね〜。ニースぅ」
ティオがガラスの砕ける音と共に部屋から落ちていったあと後ろのドアがガチャリと音を立てて開き、どこに隠れていたのかタオファが笑いを必死に堪えながら中に入ってきた。
「落ちていく時のティオさんの顔、傑作でしたねぇ〜。
まさか自分がニースに襲われていたなんて微塵も考えていなかったあの顔!信じていたものに裏切られて凍りついた表情!
もう最高!ほんっと、単純バカが騙される様を見るのは面白くてたまらないわ!ああおかしいぃ!」
タオファは腹を抱え、口汚くティオを罵りながら床を転げ回ってゲラゲラと盛大に笑い転げていた。
ティオがおらずニースも人形となっているので猫を被る必要がなくなったからか、その口調はかなり刺々しく顔つきも険が立っているように見られる。
「ひーっ、ひーっ!はあはぁ…、ああ久しぶりにいい笑いしたわ…
しっかし、いい拾い物しましたわ。こんな優秀な屍鬼、そう簡単に手に入れられるものじゃないですからね〜」
確かに吸血鬼も動く屍の一種類。しかも、その中でも他の種類にはあまり見られない明確な自我を持ち身体能力もずば抜けて高くおまけに様々な特殊能力を持っている。
もっとも、それだけに手駒にするのは非常に難しくタオファが知る限りでも吸血鬼を使役している道士は誰もいない。
そんな誰もなしたことのない吸血鬼を手に入れることができたということは、タオファの大きすぎる自尊心をこれ以上ないくらいに満足させていた。
ニースという存在は道士仲間に自慢できるだけではなく、これまでは困難だったような依頼も難なくこなせるようになるであろう。
しかも、吸血鬼は昼間活動できないのが弱点なのだが、ニースは昼間も動ける魔力を持った服まで持っており……
「あ、しまったぁ……」
そこまで考えてからタオファは思い出した。
ニースに今の屍鬼の衣装を着せる際にそれまでの服は屋根の上に置きっぱなしにしていたのだ。
着替えさせているときはいかにティオに大きなショックを与える登場のさせ方をしようとか余計なことを考えていたせいでニースのマントにまで気が回らなかったが、よくよく考えれればこれは大問題だ。
とはいえ、致命的なミスでもない。
タオファ以外生きている人間が誰もいないこの廃村で、マントを取るようなものがいるとも思えない。

「まあ、これは後で回収できますからどうでもいいとして……」
後はティオの死体の回収をしなければならない。
とはいえ、別に依頼人にはティオの死体を手に入れろとは言われていない。これはタオファ個人の意思だ。
あれだけの身体能力を持つ人間は吸血鬼とは別の意味で手に入れたくなる逸材だ。
屍鬼の能力はやはり生前の力が強く影響し、肉体的に優れた人間はやはり優れた屍鬼の素体となる。
ならば、ティオほどの人間の死体を使えばニースとまではいかないが相当に強力な屍鬼を作り出すことができる。しかも、ニースと違って昼夜問わずの使用が可能になるのだ。これを手に入れない道理はない。
「バラバラになっていたらちょっと厄介ですね〜。出来れば、手足が折れている程度で済んでいればいいんですが……」
後で修復するとはいえ、五体満足の死体であればそれに越したことはない。タオファはもし腹が破れていたり首が飛んでいたらどうしようかなどと物騒なことを考えながら窓枠から顔を出し、表情を凍りつかせた。

「……なに?」

タオファが見た窓下の庭。
そこにあるはずの血と脳漿をぶちまけて転がっているはずのティオの死体はタオファの見る限りどこにもなく、無数のリビングデッドがゆらゆらと徘徊しているだけだ。
そのリビングデッドに食い散らかさせるには早すぎるし、それにしたって肉片や血の跡が残る。
だが、眼下の芝は肉片どころか何かが落ちた痕跡すらなかった。
「……チッ、何が起こりやがりましたか……。ニース!!」
想定外のことが起こったことにタオファは苛立ちを隠せないままニースを怒鳴りつけ、ニースもそれで主が何を言いたいのかを察したようで僅かに頷くとそのまま足音もなく部屋を飛び出していった。
「誰か、この村に入りやがりましたか……。いや、そんなはずはない……」
タオファは万が一のため、この村の四方に異物が入り込んだ際にその存在を自分に知らせる札を張り付けておいた。別に余計な死人を出したくないということではなく、邪魔者が入り込んだり獲物の横取りを防ぐためだ。
その札が反応した気配はない。ということは、この村に外部からの侵入者はいないということだ。
と、いうことはティオはあの深手にかかわらず無事に降りて逃げ延びたということなのか、とも思ったが下に着地した痕跡すらないというのが腑に落ちない。
「……どのみち、私が確かめなくていけませんですか。面倒くさいですねぇ……クソッ」
ごくごく簡単な仕事だと思い実際思惑通りに事が進んできたのだが、少しばかり厄介なことになったことを感じてタオファは軽く悪態をつきながら部屋を後にしていった。





少し時間を戻す。
ニースに外へぶん投げられたティオは、そのまま重力の法則に従い地面へと落下していった。
意識が飛んでいるのか、それとも体を動かす僅かな力も残っていないのかティオは受け身を取ることもなく頭から落ちていく。そして、その頭があと少しで地面に叩き付けられるとき

「先ぱぁーい!」

庭の茂みから闇を切り裂くような速さで飛び出してきたリオンが、間一髪のところでティオの体を抱え込むことができた。
「ま、間に合ったぁ……」
実際、懸命に駆けつけてきた先でティオが窓ガラスを突き破って放り出てきたときにはリオンの止まっている心臓が一瞬ドキン!と跳ねるほど動揺してしまった。
いくら吸血鬼の身体能力を以ってしてもギリギリ間に合うかどうかの距離。だがリオンは躊躇することなくティオの落下地点に向けて駆け出し、なんとかギリギリのところで間に合わせることができた。
もし僅かでも躊躇していたならば絶対に間に合うことはなかった。

が、まだティオのピンチは続いている。
「……ハッ!」
ティオのピンチを救うことができてちょっと気が抜けたリオンの隙を縫うかのように、リオンの周りにはわらわらとリビングデッドが集まってきていた。
元々タオファの策略で館の周りに多くのリビングデッドを配置していたのに、その中で派手に大声を出しながら動いてきたのだから集まってきて当然と言えば当然なのだが。
「くそっ……先輩をお前たちなんかに食べさせるものか!」
僕だってティオ先輩を食べてないのに!とリオンは心の中で叫び、リビングデッドの包囲網を突破せんと猛然と駆け出した。
無数にいるリビングデッドはエサを求めてリオンに襲い掛かりはするものの、そこは同じ動く死体でもリビングデッドと吸血鬼。リオンはリビングデッドにかする隙すら与えずにその場を抜け、再び茂みの中へと姿を消した。
タオファが窓から顔を覗かせたのは、本当にその直後である。本当にギリギリであった。
「と、とにかく……早く身を隠せるところに……」
リオンがちら見していてもティオの傷が深手だとはわかる。
服越しに漂ってくる血の匂いはリオンの理性を蕩かすほど濃く、出血のせいか全身が熱持っているが血が流れているためか顔色は酷く青い。
痛みのせいか時々顔を苦しそうに歪めはするが意識を取り戻す気配はなく、むしろ痛みがあるからそのまま事切れずに済んでいるかもしれないとも言える。
ティオにここまでの深手を負わせられるのはニースしかいないとリオンもわかっており、そのニースに見つかる前に一旦何処かに身を潜めなければならない。
なにしろ自分たちとニースの吸血鬼としての力の差は歴然としており、どう戦っても勝つことなど出来はしない。
ニースに万に一つも対抗できるのはここにはティオしかいなく、ティオが意識を取り戻すまではなんとか逃げおおせなければならない。

「ガアァ―――ッ」

そして、その間にも辺りから動くものの気配を感じたリビングデッドが幾体もリオンの道を阻んでくる。
別にこいつらを避けること自体は問題ないのだが、戦闘の気配をニースやタオファに察知されて近づかれたらおしまいだ。
「くそっ!お願いだから来ないでくれ!!」
そうリオンが願っても、義理も感じる知能もないリビングデッドは容赦なくリオンの前に立ちはだかってくる。両手が使えないリオンにリビングデッドを排除する力はなく、ただ逃げるしかできないためリビングデッドの数は増すことはあれ減ることはない。
「ア、アンナ様……もう限界です……!」
廃屋の中を縫うようにして逃走するリオンは、隠れ場所を確保しておくためといって別れた主人…アンナの元へ駆けつけようとしていた。
普通に隠れたとしても気配を察するに敏なリビングデッドには簡単に見つかってしまう。
そのため、できるだけリビングデッドに見つかりにくい場所をあらかじめ探しておかなければならないのだ。
だから途中でリオンとアンナは隠れ場所を探すのとティオを見つける役目に分かれていた。
アンナが捜索側に回ったのは、万が一ニースがアンナに対する影響力を残していた場合アンナがニースに支配されてしまう可能性を考慮してだ。
そのことをリオンから説得されたアンナは自分の主人をこの手で助けられないこと、リオンを一人で行かせることへの逡巡。
リオンがティオと僅かではあるが二人きりになることへの嫉妬がぐるぐると渦巻き簡単には納得しようとしなかったが、時間が勿体ないのでやむを得ず了承し名残惜しそうに別れていった。
リオンとアンナは主従の関係にあるため互いの場所は感覚で理解でき、リオンはアンナがいると思しき場所にまっすぐ向かおうとしていたのだがリビングデッドの大群がリオンの行く手を思い切り阻んできており、やむを得ず大回りをしていた。
だが、その大回りをせざるを得なくなった結果、遭遇するリビングデッドの数も嫌が応にも増しそれがさらに大回りをするという悪循環に嵌っていた。
リオンが感じるアンナの気配は一点から動く様子を見せない。下手に動いてニースやタオファと偶然遭遇してしまったら全てがおしまいになってしまうから当然と言えば当然かもしれない。
が、最初の計画ではティオ先輩がニース様と遭遇する前にニース様が敵道士の手に堕ちていることを説明し共同して道士を殺そうというものだった。
こっちの吸血鬼の姿を見て面食らうだろうが、そんなものは魔眼でどうにでもごまかせる。

三人一致でいかない限り、ニース様を抑えながらあの糞ったれ道士を殺すことは出来ない。
だがリオンが駆けつけた時、すでにティオはニースと交戦して深手を負い人事不省に陥っていた。これは全くの計算外だ。
少なくとも二人が顔を合わせる前には合流できるはずだったのだが、下手に動いて目をつけられてはと思って慎重に進んだのが間違いだったのだろうか。
とはいえ、こうなってしまってはこっちの体勢を整えティオの回復を待ってから改めて挑むしかありえない。
ただでさえ満月の下で不意打ちが難しく、その上相性最悪の道士と自分たちの親吸血鬼と吸血鬼二人で戦うのは無謀を通り越して無茶だ。
そのためにも、まずは腰を落ち着けるところに行かないといけないのだが……
(も、もう限界だ……!)
道を進むごとに数を増していくリビングデッドに、さすがにリオンも音を上げ始めた。
アンナとの合流地点には一向に近づけず時間だけがぐるぐると過ぎ去っていく。
まだ月が高いので夜明けまでは時間があるが、このままだと日の光を浴びて灰になってしまいかねない。
やむを得ず、リオンは安全が確保されていない廃屋にヒュッと入り込んだ。
とりあえず姿を消すことができればリビングデッドの目から逃げることは出来るし、元々死んでいるリオンも気絶しているティオも余計な気配を出すことはない。
問題は廃屋の中にリビングデッドがいたら前後を塞がれ万事休すになるところだったのだが、どうやらこの廃屋にはリビングデッドは潜んではいないようだ。
「よ、よかった……」
ティオを抱えたままわらわらと湧いていくるリビングデッドの群れの中を駆け抜けたリオンはさすがに疲れたようで、ティオを壊れものでも扱うかのように丁寧に床に卸すと一つ大きなため息をついた。
ここにいればしばらくの間は安全だろう。とはいえ、ニースがリオンたちを探してくるのはほぼ確実なのでそれほど長い間ではあるまい。
それまでの間にこの廃村を抜け出すか、ティオの回復を果たしてニースにとりあえずの対抗をできるような体勢を整えて……
「って、それって……」
と、そこまで考えてリオンは状況がかなり絶望なことに気が付いた。
夜しか動けない自分たち吸血鬼が、夜に同じ吸血鬼のニースの目を掻い潜って安全圏に抜け出すことなど相当な難事であり、ティオの怪我が一晩で治るなどそれこそ吸血鬼でもなければ不可能なことだ。
そして、リオンとアンナの二人でニースに対抗することは絶対に不可能で、どう考えても事態が自分たちにとって非常に悪い状態になりつつある。
「ま、まずいよこれは……」
こうなったら、とにかく先輩だけでも逃がさないと……とリオンが寝かしてあるティオに目線を移した時
「!!」
リオンの体がビクン!と跳ねた。
「あ、あぁ……」
廃屋の隙間から入り込んでくる月光に照らされているティオの寝姿は、リオンにとってまぶしいくらい美しかった。
失血で少し青ざめた顔色。体の各所にこびり付いた出血跡。傷口から漏れ出てくる生命力の匂い。その全てが吸血鬼であるリオンの嗜好に嵌ってくる。
それに人形の姿に変化して数か月間、当然のことだがリオンは一滴の血すら口に含んではいない。
人形だったから血を啜る必要はなかったとはいうものの、吸血衝動までは消すことは出来ず飢餓感にさんざん悩まされてきたのだ。
そんな状態のリオンが改めて無防備に寝ころぶティオを見たとき、吸血鬼としての本能が動くのは当たり前と言えば当たり前のことだった。
(せ、先輩が……、先輩が僕の前で無防備な姿を晒している……!)
月光にさらされて真っ白に輝くうなじ。ティオのあそこに牙を埋めるのはリオンにとって悲願ともいえるものだ。
だが、そんなことを許すティオではないしそんなことをしたらニースが黙っているはずがない。そのため決して叶わない願いであった。
が、それが今少しだけ手と勇気を出せば届くところにある。
リオンの目はティオの首筋にくぎ付けになり、鼓動を打っていないはずの胸がドキンドキンと高鳴ってくる。
自分でも気づかないうちにリオンはティオにふらふらと近寄り、気が付くとティオの顔が視界いっぱいになるところまで顔を近づけていた。
「………」
意識がないティオだが痛みは感じているのか、顔は時折苦痛にゆがみ火傷しそうに熱い吐息がリオンの頬を撫でていく。
その艶めかしい顔も、醸し出される血の匂いも、リオンの吸血衝動を嫌が応にも高めていった。
「せ、せん、ぱいぃ……」
ティオを見るリオンの目は吸血衝動で真っ赤に輝き、興奮で開きっぱなしの口からは白い牙がギリギリと音を立てて伸びてきている。

はっきり言って、現状は自分にとってもティオ先輩にとっても最悪だ。
特に先輩は深手を負っている上に傷の治りが遅い人間だからどう考えてもこの一晩で完治することなどない。
そうなると、この村から生きて脱出することなんてまず不可能だ。
だったら、ここで先輩を吸血鬼にして傷を治してしまったほうが脱出できる可能性が少しだけだが生まれるかも……
本当なら先輩の血はニース様のものだけれど、先輩が死んでしまうよりはましだとニース様も分かってくださるだろう……

リオンの頭の中にティオの血を吸うことへの詭弁が次々に浮かんできている。
何しろ人間から吸血鬼に変わってもリオンはティオに対する尊敬と敬慕の思いを持ち続けてきたのだ。そして敬慕の思いはそのまま吸血衝動へと繋がっていく。
好きな相手の血を啜り、体も魂も自分のものにしたいというのは吸血鬼が持つ根源的な本能だ。
それでも今までなら近くにニースやアンナがいたために自重せざるを得なかった。
が、今はそのニースもアンナもいない。
近くに誰もいないというのが、それまで抑えてきたリオンのティオに対する吸血衝動を一気に解放させ半ば暴走させていた。
「せんぱい……」
相変わらず意識の戻らないティオを、リオンはゆっくりと抱え上げた。背格好の割にはそれほど重さは感じられず意外なほど華奢だ。
普段は法衣姿のティオしか見ておらず、さっきは逃げるのに気が回りすぎてティオの体のことなど頭に入っていなかったリオンは、改めてティオも一人の女性なのだということを再認識した。
「先輩……、こんなに傷だらけになって……」
昼間からの戦いにつぐ戦いによりティオの体は顔も含めて傷だらけだ。
その顔に走っている一本の生々しい傷に、リオンはちろりと舌を這わした。
「………ぁぁ…」
その途端リオンの舌にティオの血と汗の味がいっぱいに広がり、そのあまりの美味しさにリオンの意識は一瞬飛んでしまいそうになってしまった。
吸血鬼になる前から憧れを持ち、吸血鬼になってからはそれに血の渇望を覚えた人間の血の味は、リオンにとって何よりも勝る極上のご馳走だった。
「お、美味しい……。先輩の血、とってもおいしいですぅ……」
舌に残る血の味をリオンは頬を染めながらじっくりと堪能し、改めてティオを睥睨した。
自分が両手で抱えている獲物が無防備に喉首を晒している。
ここに自分の牙を打ち込んで甘い血を存分に啜りつくしたら、どれほどの充足感が得られるんだろうか。
そして、吸われた獲物はどんなあられもない姿を晒しながら自分の下僕に変わっていくのだろうか。
「ふ、ふふふ……。先輩が、先輩が僕のものに……!」
もうリオンの頭にはニースのこともアンナのこともきれいさっぱり消え失せている。
自分が常々狙っていた獲物が手の中に堕ち、血を啜って吸血衝動を満たし忠実な下僕を作ることのみが頭の中を占めていた。
「せんぱぁい……。今から僕が先輩に素晴らしい世界を見せてあげますからねぇ……」
リオンの偽りの熱を帯びた舌がティオの首筋をつつっと撫でる。それに反応したのか、ティオの眉が少しだけ歪み「んんっ…」と軽い艶声が漏れた。
それがリオンの嗜虐心をさらにときめかせ、血の渇望を高めていく。
すでに吸血衝動は我慢の限界を超え、2本の牙は一刻も早くティオの頸動脈に埋めてくれとリオンに訴えかけてきている。
ぱかりと開いた口からは収まりきらない涎がしたたり落ち、ティオの法衣をべっとりと湿らせていた。
「せんぱい……これで先輩は、ぼくのもの……!」
リオンはまるで余韻を楽しむかのようにゆっくりと牙を首筋に近づけていく。
そして、牙がちょんとティオの肌に触れたとき

「っ!!」

背後から物凄い殺気を感じ、とっさにリオンはティオを抱えたままその場からダン!と床を蹴って飛びのいた。
そして、その刹那リオンが立っていた空間を黒い影が弾丸のように通り過ぎていった。
一体何事かとリオンは黒い影に目をやり、絶句した。そこにいたのは

「……………」

全身から黒い殺気を隠すことなく発散させ、睨み殺すかのようなものすごい視線をリオンとティオに向けているニースだった。
「……ニ、ニ、ニ!ニース様……っ?!」
こうもあっさりと逃げ場所を突き止められるとは思わなかったリオンはあからさまに狼狽えていていた。
リオンが逃走している時間を差し引いたとしてもこんな短時間で見つけられるとは到底思えない。

まるで自分たちが隠れている場所が事前に正確に分かっているかのような追跡能力である。
「な、なんでニース様がここを突き止め……ハッ!」
なんでこうもあっさりと隠れ場所を突き止められたのかとリオンは戸惑い……そして思い出した。
ニースはティオに自分の血を分け与えている。そのため、ニースはティオの居場所を正確に知ることができるのだ。
今はタオファの下僕になっているとはいえ、吸血鬼であることにかわりはない。おそらく、吸血鬼の本能でティオの居場所を突き止めたのだろう。
「しまった!!」
自分が血の繋がりでアンナの居場所を把握しようとしていたのに、ニースとティオの血の繋がりを完全に忘れていたことをリオンは激しく後悔した。
ティオを連れている限り、たとえ地の果てまで逃げたとしてもニースは確実にリオンとティオの居場所を知ることが出来たのだ。
「……………」
リオンたちを見るニースの瞳は異様なほどの殺気に満ち満ちている。
それがティオを横取りしようとしたリオンに向けられているのか、殺し損ねたティオに向いているのか、はたまた両方に向けられているのかはわからない。
ただ言えることは、このままここにいると確実にリオンもティオも殺されるということだ。
「ニ、ニース様……」
逃げないと。この場から。先輩を連れて。一刻も早く!
リオンの頭はとにかくこの場から逃げろとリオンの体に警告を発している。
のだが、リオンの体はニースから発せられる殺気に委縮し指一本まともに動かすことが出来ないでいる。
その間にもニースはリオンの息の根を止めようとひた、ひたと近づいてくる。もし今、僅かでも逃げるそぶりを見せたらニースは一気に間合いを詰めリオンをぼろきれのようにちぎって捨てるだろう。
「や、やめてください……、ニース様。二度と、二度と先輩に手は出しませんから……!」
完全に気が動転しているリオンは半泣きのまま意味のない謝罪をニースに繰り返しているが、当然そんなものをニースが聞くはずもない。
無言のままニースはリオンに攻撃が届く間合いまで近づき、無造作に腕をすっと振り上げた。その指の先端からは鉄をも切り裂けるほどの硬度を持つ爪がにょっきりと伸びている。
そのままこの爪を振り下ろせば、リオンどころかティオの体もあっさりと6枚に卸されてしまうだろう。

「やだ、やだ……。う、うわぁぁぁ―――――っ!!」

その恐怖に、とうとう理性のタガが外れたリオンは情けない悲鳴を上げながら唯一の逃げ道である窓へと飛びのいた。
が、もちろんそれを見逃すニースではなく猫のように飛び跳ね、リオンを背中からザックリと切り裂こうと試みた。
そしてビュン!と唸りを上げて爪がリオンの背中に吸い込まれ

”ガッキーンッ!!”

と派手な金属音と盛大な火花がリオンの背中から飛び散った。
偶然か、ティオを両手で抱えているためにリオンは武器の大剣を背中に背負っており、その大剣がニースの爪をリオンとティオから守ってくれていたのだ。
が、ニースの爪はやはり相当な威力があり、自慢の大剣には5本の筋がザックリと刻まれ武器としての信頼度を著しく下げてしまった。
もっとも、大剣を犠牲にしてリオンはニースの一撃から逃れ無事に廃屋を脱出することが出来、リオンは必死の形相で後ろも振り向かずに一心不乱に逃げ始めた。
少しでもスピードを緩めたらその瞬間ニースに切り殺される、という恐怖がリオンの全身を支配し、くたくただった体は嘘のように機敏に動き屋根から屋根へと目にも止まらない勢いで飛んでいった。
だが、どんなに逃げたところでティオを持っている限りニースの追跡から逃れることは出来ない。言うなればリオンの逃走劇は完全に徒労なのだ。
実際リオンは後ろから物凄い勢いで追ってくるニースの気配を捕えている。このままでは少なからぬ時間に追いつかれるであろう。そして待っているのは確実な死だ。

とはいえ、その運命から逃れることもできる。
ニースがティオを追っている以上、ティオを捨ててしまえばリオンはニースの矛先から逃れることもできなくはないのだ。
リオンの心のどこかも先輩を投げ捨ててしまえ。そうすれば自分だけは助かるかもしれないと訴えてきている。
だが、リオンはそんな悪魔の声を完全に無視しティオを抱えたまま絶望的な逃走を続けていた。
(先輩は、絶対に守るんだ!!)

先ほど血の誘惑に負けてティオを毒牙にかけようとした負い目か、それとも敬愛するティオを見捨てるという真似が出来ないのか。
それともこの状況を逆転できるただ一つの可能性を摘みたくないのか。そのいずれか全てか、それともどれでもないのか。とにかくリオンはティオを抱えたままできる限り遠くに逃げようとしていた。
しかし、それもここまでだった。

「っ!!」

リオンの前に黒い影がシュッと動いたかと思うと、リオンの目の前に3体の屍鬼が降り立っていた。
これらは下で徘徊するリビングデッドとは格が違う、タオファが直々に使役している連中だ。
その強さは決して吸血鬼には及びはしないが、無視していけるほど甘い相手ではなく簡単に倒せるほど弱くもない。
ましてやティオを抱えている上に武器の大剣が使用に耐えない現状、リオンにとっては少し戦いたくない相手ではあった。
「うっ……!」
やり過ごせるか否か、リオンは即座の決断が出来ずに躊躇しその歩みを止めてしまった。そして、その躊躇いは致命傷につながる。

「「「………!」」」

3体の屍鬼はリオンが立ち止ったのを確認したのか一斉に3方向から襲い掛かってきた。これでは前に進むことは全くできない。
「しまった!」
リオンは後悔したがもう遅い。屍鬼たちは覆いかぶさるようにリオンに向けて攻撃してきた。これではいずれかの屍鬼の攻撃を受けてしまわざるを得ず、自分に当たらなくてもティオが狙われる可能性はかなり高い。
「く、くそっ!」
やむを得ずリオンはティオを片手で抱えあげると背中の大剣を振りかざし、前に突っ込んで正面の屍鬼の攻撃を受けやり過ごす手段を取った。
その結果、左右の屍鬼の攻撃は空を切り、正面の屍鬼の斬撃に対しリオンは大剣をぶち当て屍鬼を吹っ飛ばすことが出来た。が

”パキィン!”

さっきのニースの爪で傷ついていた大剣は引っかかれたところから砕け散るように折れ、ただの鉄塊に成り果てた。
唯一の武器が失われたことにリオンは「あぁっ!」と絶望の悲鳴を上げたが、そんなことに構わず残り2体の屍鬼が体制を整えリオンに再び襲い掛かってきた。
「畜生!お前たちなんかに先輩をやらせるかぁ!」
すでに柄だけになってしまった大剣をリオンはとっさに投げ捨て、左手でティオを抱きかかえたまま右側から向かってきた屍鬼の懐に飛び込み屍鬼に体当たりを喰らわせた。
リオンの渾身の体当たりを受けた屍鬼はそのまま2軒先まで吹っ飛んで屋根を突き破って消え、返す刀でリオンはもう一体の屍鬼に突進していく。
「うわあああああっ!!」
自らを奮い立たせるように声を張り上げるリオンの右指先には5本の爪が刃のように伸びている。普段の武器は大剣を使っているリオンだが、吸血鬼である以上当然自らの体を変化させて武器にすることは出来るのだ。
そのままリオンは腕を突き出して屍鬼の鳩尾を貫き、一気に腕を薙ぎ払って屍鬼の体を両断してしまった。いくら屍鬼とはいえ、体を切り裂かれてしまっては活動を続けることは出来ない。
「このゴミが!どっかいけぇ!!」
リオンは屋根に転がる2つに割かれた屍鬼を見るのも嫌だという風に蹴り飛ばして地面に落とし、精根尽きたかのように膝から崩れた。
「はぁっ、はぁっ……。危なかった……でも」
さっきからの逃走劇でリオンの体も相当に疲労がたまっている。が、ここで道草を食っていたらすぐにニースに追いつかれてしまう。
リオンは重い腰を何とか持ち上げ、再び走り出そうとした。が、その時

「リオン……、あなたしているのよ。全然来ないからどうしたかと思ったじゃない」

リオンの耳に自分の主人の声が響いた。

 
「ご、ご主人様!!」

まさに地獄に仏といった塩梅で満面の笑みを浮かべてリオンがふり見た先には、月をバックに屋根に立つ主人…アンナの姿があった。
どうやらアンナは待てども一向にティオを連れてこないリオンに業を煮やし、リオンの下へやってきたようだ。その顔は月の光が逆光になってよく見えないが、リオンに対して呆れているのは間違いがないところだろう。
アンナが呆れている。もしくは怒っていると察したリオンは縮こまりながらへこへこと頭を上下に動かした。
「も、申し訳ありませんご主人様!!なにしろリビングデッドがやたらと多くて、先輩を傷つけないようにするのが精いっぱいでとてもご主人様のところには……」
「ふぅん……」
リオンはあたふたとした言い訳を取り繕っているが、アンナはさして関心を示さずにそのままふわりとリオンの目の前に跳んできた。
「先輩は……無事なのね。なんとか」
「はい!疲れと怪我で失神していますが……。もっとも、そのため僕たちの正体も知られていませんが」
「そうね……。動けないでいるのは幸いかもしれないわね……」
「とはいっても、このままじゃニース様を正気に戻すことはとても……アッ!!」
そこまで言ってリオンは思い出した。背後から恐るべき殺戮者が迫ってきていることに。
「そうだ!ご主人様!!ニース様が今も僕たちを追ってきているんです!!
しかもニース様は先輩との血の繋がりで先輩の居場所がわかってしまっているみたいなんです!ですから、どこに逃げても追ってきて……」
「……じゃあ、どうすればいい?先輩を見捨てて逃げようか?」
「み……?!」
アンナの一言はリオンの心にぐさりと突き刺さった。
先ほども自分の心のどこかでティオを捨てれば自分たちだけでも逃げられる、という思いが浮かんでいたからだ。が、その思いをリオンは即座に否定している。
「そ、そんなこと……できるはずありません!先輩はぼ……ニース様にとって大事な人間です!ここで先輩が殺されたら、ニース様にどんな顔をすればいいのか……!」
「……」
リオンが少しだけ口を滑らせた一言にアンナは僅かに顔を曇らせたが、特に詮索することはせずリオンの肩を両手で抱きかかえた。
「リオン、よく言ったわ。それでこそ私の下僕よ」
「……ご主人様!!」
アンナが自分を褒めてくれたことにリオンはパッとときめいた。やはり自分の主人に褒めてもらえることはどんな状況だろうと嬉しい。
が、アンナの口から出た次の一言にリオンは凍りついた。

「私も、ご主人様の獲物をこうして死なせることなく捕まえることが出来てうれしいわ」

「え……」
アンナにとってのご主人様。それは言うまでもなくニースのことである。
だが、今のニースはタオファによって使役される屍鬼にされている。
確かに自分の意思を無くしているとはいえ、アンナにとってニースとの血の繋がりが絶たれたわけではない。今の状態のニースでもアンナにとってはご主人様であることに変わりはない。
しかし、操り人形になったニースを助けるためにティオを救出したというのに、今のアンナの言い方ではまるでニースのためにティオを捕まえたかのような物言い……
「な、何を言っているんですかご主人様。早く先輩を少しでも安全な場所に……」
「…………」
リオンは一刻も早くこの場を離れようとアンナに促すが、アンナは一歩も動こうとはせずリオンの肩を掴んだ両手は力を増してリオンをこの場から逃がそうとしない。
「ど、どうしたんですかご主人様!ご主人様ってば……っ!!」
明らかに様子のおかしいアンナにリオンは泡を食ったが間近で改めてアンナの顔を見たその時、リオンは絶句した。

「!!」

アンナの額には血のような赤い顔料を使った東方の記号らしきものが記されており、リオンを見るアンナの赤い瞳は光なくどんよりと濁っている。

その顔は以前タオファの血を飲まされたニースに酷似しているものだった。
「ご主人様?!」
ご主人様がいつの間にかあの道士の手に堕ちていたことにリオンは酷く狼狽したが、その驚きが収まる間もなく背後から聞こえてきた声にリオンは止まっているはずの心臓がドクンと波打った。

「うふふ〜〜。ティオさんみぃ〜つけたぁ〜〜〜!」

その、どこか間の抜けている声色を聞きおそるおそるリオンが振り向いた先には
外道極まりない道士タオファが10体以上はいる屍鬼と共に立っていた。
「あ、あぁぁ……」
一体あの女はいつの間にここにいたのだろうか。そしていつの間にご主人様をその手にかけたのか。
リオンは絶望的な状況に目の前が暗くなった。そのうちニースも合流するこの状況は、例えティオの意識が戻ったとしてもどうやっても覆そうにない。
「ふふっ、ごくろうさまでしたアンナ。おまけで手に入れた吸血鬼かと思いましたが、なかなかどうして使えるものですねぇ〜〜」
「き、貴様ぁ!僕のご主人様に、ご主人様になにをしたぁ!!」
自分の大事な主人を穢されたことにリオンは本気で怒り、タオファに文字通り牙を剥いて怒鳴りかかったがタオファはいつものようにニコニコと作り笑いを浮かべながらリオンに語りかけた。
「ん〜〜?そりゃ、私の屍鬼になって貰ったんですよ〜〜。
ティオさんをニースが追いかけているとき何故かこの吸血鬼の所にたどり着きましてね、ろくな抵抗も出来ないまま額にちょちょいってね……
正直、あんまりあっさり手に入ったのでこいつ使えるのかな?とも思いましたが、こうして結果を残しましたから全然問題ありませんね〜〜」
「あ……」
そうか、先輩とニース様に血の繋がりがあるのと同様ニース様とご主人様にも血の繋がりがある。
最初ニース様は先輩ではなくご主人様のほうに向かったんだ。そして、突然乱入していたニース様とあの道士にご主人様はろくな抵抗も出来ず……
リオンは納得できた。もしニースが最初からティオとリオンのほうを追いかけていたらもっと早く追いつかれていただろう。
何しろリオンは相当な数のリビングデッドの海を潜り抜けてきたのだ。かなりのタイムロスをしているのは間違いない。
それなのにあれだけニース様が遅れたのは、ご主人様を先にその手にかけていたからだったんだ!
「なんて、ことだ……」
結局は自分たちがしてきたことは全く無意味だったということを思い知り、リオンはガクッと頭を垂れた。
このまま自分たちは全員、あの人間の使い魔に堕されてしまうのだろうか。それだけは絶対に避けたい。
せめてご主人様だけでも正気に戻し、ここから逃がしたい……
が、その願いも虚しいものに終わるだろう。
なぜなら、とうとうニースがこの場にたどり着いてしまったからだ。
相変わらず音もなく影が動くかのように暗闇から現れたニースは、そのまま屍鬼に囲まれたタオファの元へと参じた。こうなってしまっては、リオン一人の力ではどうすることもできない。
「しっかし、ニースだけでなくさらに吸血鬼を2匹も手に入れられるなんてこれはなんという幸運なんでしょ〜!
さらに生きのいいティオさんを屍鬼として蘇らせたら、都合4匹も使える手駒が増えるわけです!こりゃもう、この仕事を受けたかいがあったというものですよぉ〜!」
このうきうきとしたタオファの声を聞いてリオンは背筋が寒くなった。
今言ったタオファの頭数には明らかにリオンも含まれている。まあこの場所には今吸血鬼は三体しかいないのだからそれを推測するのは容易だ。
問題はさらにティオまでこの女は手駒にしようとしていることだ。
それだけは絶対に避けなければならない。先輩が殺されたら先輩の血を味わうことが出来なくなってしまう。
さっきその悲願が成就する寸前までいってしまったリオンにとって、それは強烈な未練になっていた。
もはや手段はほとんどない。だが、この局面を何としてでもひっくり返さないといけない。
そして、リオンが知る限りその手段はもうこれしかない。

「せ、先輩……先輩……!起きてください!助けてください!先輩!!」

周りに縋るものが誰一人いなくなったリオンは、とうとう意識を失ったままのティオに助けを求めた。

もう自分が吸血鬼のままだとか考慮している余裕なんかない。このままでは誰一人助からずに終わってしまう。
「先輩!先輩!先輩!!」
「…………」
だが、リオンに抱えられたティオはどんなに呼ばれようと揺すられようとくたっと力ななくリオンに体を預けたまま一言も発しない。
一日中動き回り全身ボロボロに傷ついたティオはもう人間の疲労の限界をとうに超えており、その意識は体の奥の底の底まで落ちてしまい生半可なことでは覚醒することはない。
「お願いですせんぱい!みんなを、助け……」
「キヒヒヒヒッ!もう無駄ですよ泣き虫吸血鬼!お前たちはみぃ〜んな、私の道具になる運命なんです〜〜!」
泣きじゃくりながら意識のないティオに呼びかけるリオンをタオファは目を細めながらバカにし、指をパチリと弾いた。
それに応じたのかアンナは軽く頷き、リオンを拘束していた腕をスッと外した。
「え……?」
実に唐突に解放されたリオンは半ばあっけにとられていたが、アンナは別にリオンを逃がす気はなかった。

「リオン、そのまま先輩をタオファ様の元へ送り届けなさい」

「?!ご、ご主人様?!」
アンナが発した命令にリオンはギョッとした。よりによって自分に先輩をあの道士のところに持って行けというのはあまりにも無体だ。
だが親吸血鬼の命令は絶対である。リオンの足は自分の意思に反してひょこひょこと勝手にタオファのところに進んでいく。
「や、やめて!やめてくださいご主人様!!僕に、僕にこんなことさせないでください!!」
リオンは懸命に足に力を入れて踏ん張ろうとするのだが、命令の強制力のほうがはるかに強くまるで蟹のように大股になって乗ったり食ったり進む姿は非常に滑稽に映る。
そんなリオンの情けない姿をタオファは腹を抱えて笑いながら眺めていた。
「キャーッハッハッハ!なにその歩き方!大傑作ですねぇ〜〜〜!!吸血鬼を見て笑う日が来るなんて、今まで想像もしていませんでしたよ〜〜!
こりゃ屍鬼にするのが惜しくなってきましたね。呪縛の札をつけて棺桶に閉じ込めて、時々外に出してその無様さを眺めたほうがいいかもしれませんよ!」
「ち、畜生ぉ――!この下衆人間がぁ――っ!!」
生前吸血鬼狩りをしていた時、性根が腐った吸血鬼や人間は何人も見てきた。しかし、この道士はそのどれらより腐りきり醜悪な腐臭を発している。
どこをどうしたらここまで捻じ曲がれるのか想像もつかないが、リオンは人間吸血鬼という枠を飛び越え、タオファに猛烈な殺意を抱いた。が、自分ではどうすることもできない。
そのままタオファに近づいたリオンのところにニースがスッと近づき、リオンからティオを乱暴に取り上げた後さっきの腹いせなのかリオンの腹を思い切り蹴り飛ばした。
「ぐはぁ!」
腹が破られそうになるくらいの強烈な蹴りを受けたリオンは血反吐を履きながら屋根を転がり、落ちる寸前で何とか踏みとどまった。
「う、うぁぁ……先輩ぃ……」
蹴りによる痛みで霞むリオンの目には、ニースに首根っこを握られて宙づりになったティオの前にニヤニヤと笑いながら剣を振りかざしたタオファが見える。
「ふっふ〜んティオさぁん、随分と手こずらせてくれましたね〜〜。もっと簡単にすむと思っていたんで私ちょっといらついちゃいましたよ。
その頑張ったご褒美に……私の手で殺してあげますねぇ。本当なら同僚のよしみでニースに殺させてあげようと思ったんですけど……」
と、そこまで言ってからタオファの顔に突然強烈な悪意が浮かび上がり
「さっさと殺されればこんな手間かけなくて済んだんだよ!ゴキブリみたいに愚図愚図粘りやがって!!」
タオファはそれまで見せなかったような乱暴な言葉遣いを見せながらティオの腹に強烈な膝蹴りを見舞った。
「……っ!」
意識のないティオは軽く咽るとともに口から僅かに吐血してタオファの脚を赤く濡らしたが、タオファはそんなことに構わず二発、三発とティオの腹に蹴りをめり込ませていく。
「こ、この人間……」
無抵抗のティオに血相を変えながら何度も蹴りを叩きこむタオファを見て、リオンはこの道士から感じた恐ろしさが単に自分たちの天敵という認識だけではないということを思い知った。
こいつはとことん自分のことしか考えていない。自分の都合だけですべての物事を考え、自分の思うとおりに事が運ばないと気が済まない性質なのだ。

だから自分に都合よく物事が運んでいるときは機嫌がよく、少しでもずれたら途端に不機嫌になってしまう。
それ故、他人はこいつにとって利用する『モノ』にすぎず、自分が都合よく使う道具でしかない。
その道具が自分の思うとおりに動かなかっただけで、まるでおもちゃが壊れた子供のようにモノに当たり散らしてしまうのだ。
リオンが今まで相対した人間や吸血鬼にも相手を見下す者はいくらでもいた。特に吸血鬼は人間を自分たちより格下に見ているからその傾向はより顕著だ。
しかし、タオファはそんな吸血鬼すら比較にならないほど自己中心的で自分勝手だ。そうでなければ、ここまで無抵抗の人間を痛めつけることなどとても出来ない。
「やめろぉ……これ以上先輩を傷つけるなぁ……っ!」
リオン自身も先ほどのニースの渾身の蹴りで相当なダメージを受けてはいるが、これ以上のタオファの横暴を見ているだけで済ますことはとても出来なかった。
リオンは自由が利かない足腰を何とか奮い立たせて立ち上がり、這いずるようにタオファへと向かっていった。が、そんなリオンを後ろからアンナが羽交い絞めにして動きを封じてしまった。
「ご、ご主人様?!放して。放してください!あのままじゃ先輩が……!」
「……」
だがタオファの傀儡になっているリオンはリオンの声に耳を貸そうともしない。
その間もタオファは憂さを晴らすかのように何度もティオを蹴りとばし続け、吐血しながら微かにうめき声を上げるティオを見てようやっと満足したのか僅かに間合いを離してから手に持った剣を腰だめに構えた。
「ふぅっ……、ちょっと予定外に傷つけてしまいましたけど内臓の傷なら屍鬼にしたときにはあまり不都合は生じませんから問題はありませんね……!
キヒヒッ!じゃあそろそろ……、死んじまいなぁ!!」
「やめろ、やめろ!このクソ人間っ!!」
ニース様もご主人様もあの人間の手に堕ちている以上、今先輩を助けられるのは自分しかいない。が、肝心の自分もまたご主人様に捉われて目の前で先輩が殺される光景を見ていることしかできない。
「うわぁぁ――っ!誰か、誰か先輩を助けてくれぇ――っ!!」
そんなリオンの願いも虚しく夜空に響くだけで、タオファは手に持った剣を嬉々としながらビュン!と突き出した。


第13回 終




猟血の狩人 14回

「やめろぉ―――――っ!!」

リオンは声をからしてタオファを止めようとしたが時すでに遅く、タオファの突いた剣はティオの胸に深々と突き刺さった。
『ぞぶ』と肉を貫く嫌な音が響き、直後にティオの口から真っ赤な血がごぼりと溢れ出てきた。
口からこぼれてくる血は鮮やかな深紅に輝く動脈の血であり、これだけでもティオが内臓に致命的な傷を負ったのは間違いないところだ。
「んふふ〜〜〜。この肉を抉る感触はたまに味わうといいものですねぇ〜〜。うりうり」
剣を握るタオファは満面に笑みを浮かべてティオに刺した剣をさらにぐりぐりとティオへ捻じ込み、傷口から吹き出す血を嬉々として眺めている。
「あ、あ・あぁ……」
その血の芳香はリオンの鼻にも届いており、本来なら静脈ではなく動脈の新鮮な血が醸し出す香りに酔いそうになるところなのだが、リオンはそれ以上にティオが致命
傷を負ってしまった衝撃に心が動揺しきっており吸血鬼の本能すら忘れてしまっている。
「さ〜て、これであとは完全に死ぬまで待ちますか。死体にならないと屍鬼への処置は出来ませんからねぇ〜〜」
ティオの法衣が血を吸って布から血が滴り落ちるくらいにまでなって、タオファは気が晴れたのか剣から手を離し、それを見てニースはティオをポイと興味なさそうに投げ捨てた。
ティオの体はそのまま屋根にドスンと背中から落ち、その拍子でまた傷口から血が派手に噴き出してきていた。
「せ、先輩!先輩先輩せんぱぁ〜〜い!!!!」
ティオの無残な姿を目の当たりにしたリオンは絶望的な叫びを上げたが、もちろんティオはリオンの声にピクリとも反応を示さない。
「き、貴様ぁぁ……!よくも、よくも先輩を……!」
リオンが人間としても、そして獲物としても特別な思いを抱いているティオをあっさりと殺したタオファに、リオンはこれ以上ないというほど怨念を籠めた目で睨みつけた。
恐らくは無意識のうちに魔眼も発動しているのだろうが、死者亡者の扱いに長けているタオファは視線を巧みに逸らしながらニタニタと嘲笑を浮かべている。
以前はニースの魔眼をまともに受けていたこともあったが、あれは油断を誘うためと自分はここで殺されることはないと確信を持っていたからなのだろう。
「殺す!殺す!殺してやる!!先輩を殺した貴様を、決して許しはしないぞ!!」
「キヒヒッ!私の下僕に無様に捕まったままのカスが何バカなこと言っているのかな〜!出来もしない戯言を大声でほざくんじゃねえよバァカ!!」
身動きできず口と目だけで反抗するリオンにタオファは中指を突き立てて挑発し、懐から墨壺と筆を取り出してきた。
墨壺に突っ込んだ筆先からは赤黒い墨が滴ってきており、その色からあれこそアンナの額に書かれた屍鬼を操るために用いる道士の道具だということが想像できる。
「こいつでちょちょいっと印を穿てば、お前も他の連中と同じ私の屍鬼になるのですよ〜
散々生意気な口を叩いている貴様が物言わぬ下僕になった姿を想像するだけで、もう笑いがこみあげて堪えきれませんです〜。フククッ!」
「うぅ……!」
勝ち誇るタオファの憎たらしい顔をリオンは鬼の形相で睨み続けていたが、現実としてもうリオンには打つ手はない。
四肢をアンナに拘束されているのに加え頼みの魔眼もタオファはまともに視線を合わせようとしてこない。
そしてタオファの使う死者を縛る術法にリオンは抵抗する術を持っていない。
だが、ここで自分がタオファの手に堕ちてしまってはご主人様やニース様を救う手だてはない。
いや、それ以上に自分が何とかしないと先輩が本当に死んでしまう。
溢れ出てくる血と共に先輩の生命力もだくだくと流れ出ていっているのが手に取るようにわかる。
一刻も早くという逸る気持ちは心の焦りを生み、逆に何の妙案も思いつきはしない。
自分の情けなさと無力さにリオンは薄く涙目になり、それを見てタオファは堪らず吹き出してしまった。
「……っ、ふくーっ!!な、泣いていますかぁ!きゃはははは!!ここまで後ろの吸血鬼と反応が同じですとさすがに笑いが止まりません!!ああ可笑しい!!」

どうやらアンナもニースとタオファに襲われた際、リオンと同じく抵抗らしい抵抗も出来ない自分を呪い涙目になり、そのまま下僕に堕とされたようだ。
その光景を思い出してタオファはゲラゲラと笑い転げ、リオンは自分が笑われていると感じる以上に主人であるアンナがバカにされたと感じてさらに憤り、目を真っ赤にして泣きながらアンナへ訴えかけた。
「ご、ご主人様!後生ですから放してください!この、このクソ外道にせめて一矢報いないと僕は、ぼくは……ぐはぁっ!!」
が、その懇願の最中、タオファの体重の乗った拳がリオンの鳩尾にめり込んできた。
「…おい、これから貴様のご主人様になる私にクソ外道とは、ずいぶんな口のきき方するじゃねえか!貴様の立場がどういうものか、少し躾けてやる必要があるみたいだな……。アンナ!!」
「……はいご主人様」
タオファはアンナに対し首を掻っ切るようなしぐさを見せ、それに反応したアンナは拘束していたリオンを持ち上げるとそのまま屋根へと叩き付けた。

「げは!」

吸血鬼の怪力で叩き付けられたリオンの肋骨は軋んだ不気味な音を上げ、あまりの痛みに目の前が真っ暗になる。
だが、アンナの責めはそんな程度では終わらず、そのままアンナはリオンの上に圧し掛かりその牙をリオンの首筋に埋めてきた。
「!!はうっ!」
久しぶりに感じた主人の牙の甘い感触に一瞬リオンは陶然とした表情を浮かべたが、その顔はすぐに凍りついた。
リオンの首筋にかぶりついたアンナは喉を鳴らして血を啜り始め、血と一緒にリオンの精気を飲み込んでいくのだがその勢いは尋常なものではなかった。
2本の穿った牙は頸動脈どころか喉までも喰い破り、リオンの精気を体の隅々まで根こそぎ吸い尽くさんばかりに啜りこんでいく。
「あ…あ、あ!ご、ごしゅじんさまぁぁ!!」
自分の体から精気が見る見るうちに抜けていくことにリオンは悦楽に蕩けていた顔を強張らせたが、主人に血を吸われている以上抵抗することさえもできずにアンナに血を吸われ続けるほかない。
吸血による強烈な快感の上にさらにけだるい倦怠感がリオンの体を包み込み、抵抗のするための力も意思もどんどんと萎えさせていく。
「キヒヒッ、いい様だなぁおい。殺したいほど憎んでいる相手の前でアへ顔晒してチンポ勃たせているなんざぁとんだ変態吸血鬼様だな!あぁ?!
どうした。せっかくこうして顔を合わせてやったんだ。自慢の魔眼で私を縛ってみればいいさ。ほら、ほらぁ!」
タオファはリオンの髪の毛を掴んで強引に自分のほうへ顔を向けさせ、これでもかというほどにリオンを罵倒する。
もしリオンに少しでも先ほどまでの怒気が残っていたならこの魔眼で捕える千載一遇の機会を逃しはしなかっただろう。
が、今のリオンはアンナの強烈な吸血で頭にピンク色の霞がかかっていてそこに気を回す余裕は残っておらず、涎を垂らしながら半開きになった口から意味をなさない悲鳴を僅かに上げることしかできなかった。
そして、リオンが魔眼を使える余裕など持っていないとわかっているからこそタオファもそんな挑発が出来たのだろう。
「……ふふっ、どうやら抵抗の意思も根こそぎ吸い取られたみたいですねぇ〜。まったく身の程知らずもいいところですよ〜」
リオンがおとなしくなったことでタオファも心の平静さをとりもどしたのか、いつものどこか小馬鹿にした口調に戻ってにんまりと微笑んだ。
「それじゃあそろそろ、リオン君にも下僕の刻印を刻ませてもらいましょうかね〜。アンナ、リオン君を立たせて下さい〜
そのままじゃちょっと額には書きづらいですから〜」
タオファの命令にピクッと体を震わせたアンナはすぐにリオンの首筋から牙を引き抜き、リオンの両脇に腕を絡めるとぐいっと力を入れてリオンの体を持ち上げてきた。
強引に立たせられたリオンの目には、ちゃぽちゃぽと墨壺に筆を突っ込みにやけながら近づいてくるタオファの姿が見える。
「あ、あぁ……」
このままでは自分もタオファの屍鬼にされてしまう。という警戒音をリオンの心はけたたましく鳴らしている。
だが、アンナに血と精気を相当量吸い取られたことによりリオンの体には力が全く入らず、アンナの拘束を引き離す気も力もまったく生まれてこない。
「ふっふっふ〜、もうあなたもティオさんやニースさんのことで気を悩ませる必要もないのですよ〜〜
なにしろこれからは、私の言うことを聞くだけでいんですから。悩むどころか考える必要もないんですから!ああなんて素晴らしい人生なんでしょ〜!
て、もう死んでましたねあなたは!ごめんなさ〜いキヒヒヒッ!!」
タオファの嫌味満載の挑発にもリオンはもう反論することすら出来ない。倦怠感と脱力感に支配されたこの体では何の抵抗も出来はしない。

(もう、だめだ……)
ここに至り、リオンはもう全てを諦めてしまった。自分へのふがいなさと情けなさに自然と涙があふれ出てくる。
(すみません先輩……。先輩を、みんなを助けてあげられませんでした……)
リオンは、屋根の上で死を待っているティオのほうへ泣きじゃくった情けない顔を向け……

絶句した。



時間を少し前に戻す。
(……?)
胸にとすりと受けた熱い感触に、ティオの闇の底にあった意識が僅かに目覚めた。
(あれ?なんだろ……)
まるで起き抜けのように働かない頭をくるくると回転させティオは自身に何が起こったかを知ろうとするが、それを判断するまもなくティオの体はふわっと宙を舞い、固い瓦に背中からズドン!と叩き付けられた。
(あいたた……え?)
叩き付けられた強烈な痛みにまだ霞があったティオの意識は急速に回復し、焦点が合った瞳に映ったものは……
胸から伸びている、一本の剣だった。
(え……?私、なんで……剣が……)
一体いつの間に、どのような経緯があって自分に剣が刺さっているのか。というか、今自分はどのような状態なのか。
まるで記憶がすっぽりと抜けているような自分の状態にティオはなんとか最後におぼえていることを思い出そうと頭を巡らし、最後に見た怒りに満ちたニースの顔を思い出した。
(あ、そだ……。私、ニースに蹴られて……)
蹴られて窓を破って外に投げ出されたことは思い出した。が、そのあとは意識を失ったようで何が起こったのかは思い出せない。
そして、なんで自分に剣が刺さっているかもまた思い出すことは出来ない。
(私が……意識がない時に何が……うっ!)
一体何が何だか訳が分からず混乱するティオだったが、突然胸がカッと熱くなったと思ったら喉の奥から凄い勢いで何かがこみ上がってきて、咽たティオが「ゲホッ!」とえずくと口から大量の血が溢れ出てきた。

「うぁ……!ゲホッ、ゲホォッ!!」

一体自分の体のどこからこんなに血が溢れ出てくるのかとまるで他人事のようにティオは思ったが、血は口からだけでなく剣が突き刺さっている胸からもとめどなく溢れ出してきており、血が抜けていくのに併せて自分の体温と生命力が抜けているのが手に取るようにわかる。
(あぁ……。私、もうだめかも……)
今まで『死』を感じたことは何度もあったが、ここまで『死』を身近に捉えたことはない。
その原因がわからないのは癪ではあったが、こうなってしまってはもう死から逃れられることは不可能だろう。
(ごめんね……ニース。約束、守れなくて……)
事が成った暁には自分がニースを滅ぼす。この約束を果たせないままニースを残して死んでしまうことはティオにとって非常に心残りなことだった。
自分が死んでしまった後、ニースはどうなるのだろう。
そういえば、なんでニースは自分に襲い掛かってきたのか。それよりニースはなんで、タオファさんが使役している屍鬼みたいな服を着ていたのだろう。
一体なにがニースに起こっていたのだろう……
様々な疑問がティオの頭の中を駆け巡ったが、それに対する答えを連想させるほどの思考力はティオには残っていなかった。
血が抜けすぎたティオの意識と生命は、すでに闇の中へと喰われつつある。
(……もう、だめ……。私、死ぬのね……)
様々な思いが逡巡するが、それも次第に闇に食われていく。
碌に働かない頭を動かすのを諦め、ティオは力なくかくんと天を見上げた。
そこには、満点の星に加えて満月が煌々と輝いていた。

(……あ、きれい……。こんなに、綺麗な月を見るの……はじめ、て かも ……)
まるで死にゆく自分を看取っているかのように輝く月を見てティオは少しだけ顔を綻ばせ……
次の瞬間

(………ッ!)

ティオの瞳はギラリ!と金色に輝き、開き切っていた瞳孔がキュッと縦長に切れ上がった。



「ん?」
それまで悔恨でくしゃくしゃに崩れていたリオンの表情が突然サァッと青ざめたことにタオファは一瞬不審に思ったが、リオンが自我をなくすことへの恐怖で青ざめていると判断し、怯えるリオンを見て愉しそうに顔を歪めた。
「そんな怖がる必要なんてないんですよ〜〜。すぐに、怖いなんて感じることすらなくなるんですから〜〜
ほぉら、もうすぐ、あとちょっとで書いちゃいますよ、ちょちょいっとねぇ〜〜。うりうり」
タオファはリオンをいたぶるかのように墨のついた筆先をちょんちょんとリオンの額に近づけていく。
ところが、リオンはそんな筆なんかには視線も向けず、ある一点をじっと凝視している。その視線の先はタオファですらない。
「……?何見ているですかお前……、なななななぁっ!!」
これはさすがにおかしいと思ったタオファは後ろを振り返ってリオンが何を見ているのかを確かめ、目をひん剥いて驚いた。
リオンとタオファが驚きの視線を向けている先には、死にかけているはずのティオがゆらりと立ち上がっていたのだ。
当然ながら胸にはタオファの刺した剣がいまだに突き刺さっているのだが、不思議なことに傷口から流れてくるはずの血は一滴たりとも零れてきてはいない。
いや、ティオの口元も法衣も血まみれではあるのだが、それらはすでに乾いてこびり付いているものか空気に触れて酸化し真っ黒に変色しているものばかりで今吹き出してきている新鮮な赤い血は全くないのだ。

「テ、ティオさん?!あああなた、まだ生きているんですかぁぁ?!」

タオファからすればそれは絶対に考えられないことだった。
さっきのタオファの一撃は間違いなく心臓を貫いた感触があった。心臓を破られて生きている生物などこの世のどこにもありはしない。
ニースたち吸血鬼も心臓を杭などで貫かれたら絶命するのだ。死ななければおかしいのだ。
もしかしたら死ぬ寸前の最後のあがきかもしれない。タオファはそうも考えた。
だが、あのティオはどう見ても力が抜けて死ぬどころか溢れ出る力を抑え込むかのように背中を丸めて小刻みに震え、絶え絶えだった息はまるで深呼吸するかのように荒く、かつ強く吐いている。
「ウゥ……、ウゥウ……!」
カチカチと細かく歯が震える口元からは人が発するとは思えない重く太い唸り声が漏れ、大きく見開かれた瞳は夜の闇の中鮮やかな金色の光を放っていた。
そして腰の法衣が不意にぴょこんと持ち上がったかと思うと、厚い法衣の布地を突き破って中から鮮やかな金色をしたふさふさの尻尾が飛び出てきた。
「え?!なに!!尻尾?!一体、なんなんですかこれは?!」
ティオの突然の変化に混乱するタオファとは裏腹に、リオンの顔はこれ以上ない恐怖に彩られていた。

「あ、あああ……!あの、あの先輩は……!!」

そう、リオンは以前見たことがある。
あんな金色に輝く目をした、かつて自分もアンナも、ニースすら圧倒したもうひとつのティオの姿を。

「グゥゥゥ……!!」
タオファやリオンが呆然と見つめる中、不気味に唸り続けるティオは自分に刺さった剣の柄を握りしめると一気に体から抜き放ち、そのまま手で握りつぶしてしまった。
「うそ!剣を?!」

タオファが驚くのも無理はない。普通の人間で鋼でできた剣を素手で壊すなどという真似ができるはずがない。
しかも、今まで死にかけていた人間がだ。

が、ただの鉄くずになった剣を投げ捨てたティオは死にかけどころか体中から猛々しいまでの生命力を放ち、その力にふさわしい姿へと変貌していっている。
動きやすくするため短く刈っていた髪が風もないのにざわざわと棚引いたと思うと恐ろしい勢いで伸び始め、あっという間に腰までの長さにまで達するボリュームになった。
しかも伸びているのは髪の毛だけではないようで、ティオの着ている法衣のあちこちが膨らむと同時にあっさりと千切れ、その奥から鉄よりも固く且つしなやかな獣の毛が顔を出してくる。
月光に照らされた金髪は色が抜けるかのように銀色に変化し、腰から伸びた尻尾もそれまでの数倍のボリュームに広がっていき髪の隙間から2つの獣の耳が顔をだした。

「ウワォ―――――ン!!」

丸く輝く満月を称えるかのように遠吠えをし、ぼろきれになった法衣を鬱陶しいかのようにあっさりと引きちぎった中から現れた肢体は、かつて吸血鬼アルマナウスの手によって変化させられた人狼のものであった。

「な!け、獣憑き?!ティオさんは獣憑きだったんですか!!き、聞いていませんよそんなの!!」
目の前で人狼に変化したティオにタオファは明らかに動揺していた。
死者を操るのは容易い。人を騙すのも容易い。
だが、獣を相手にするのは完全に想定外だ。今回はそれ用の武器の手持ちはほとんどない。
「………ウゥ……」
月光に照らされたティオの銀毛はキラキラと青く輝いて、透けるような白い肌と合わさって神秘的な美しさを見せている。
が、その美しさは愛でて鑑賞する美しさではなく、無駄なものをすべて捨て去り破壊と殺戮に特化した機能美としての美しさだ。
そしてそのままタオファのほうへと振りむくと、月夜にもわかる真っ白な牙を剥きだしにしてニッと微笑んだ。
まるで、獲物に狙いをつけた肉食獣のように。

「ヒィッ!!」

自分を狙っている!そう直感したタオファは筆を投げ捨て後方に飛びのいた。
そして、その動きに反応したかのようにティオは屋根を蹴ってタオファに跳びかかってきた。
「ガァ―――ッ!!」
「ニ、ニース!!私を助けなさぁい!!」
夜空を跳躍してくるティオを見たタオファは血相を変えてニースに命令し、ニースも即座に反応してティオとタオファの間に強引に割り込んできた。
ニースはティオがタオファめがけ振り下ろしてきた右腕を両腕で受け止め、そのまま右足を即座にティオの腹へと蹴りこんでティオを後方へ吹き飛ばしてタオファとの間合いを開かせた。
そうしてタオファへの安全を確保してからニースはタオファを助けるためティオめがけて突撃し、急な割り込みに不意を突かれたティオも体制を整えると向かってくるニースを迎え撃つ形で相対した。
「………」
一足飛びにティオに接近したニースは素早い突きを交互に繰り出してティオに攻めかかる。もちろん先端には鋭い爪が顔を覗かせておりまともに当たれば家の壁も難なく貫く破壊力を持っている。
が、ティオのほうも自分に襲い掛かる幾重もの腕を上体のみを使って巧みにかわしている。

ニースの突き出す腕も目では追い切れないくらいのものすごい速さなのだが、ティオの獣の動体視力は全てを確実に捉え紙一重どころかぎりぎり掠めるレベルの間合いで見切り続けていた。
「………!」
当たりそうで決して当たらないティオへの攻めに感情をあまり露わにしていないニースに明らかな焦りと苛立ちの表情が浮かび上がり、逆にティオはニースが攻撃を重ねれば重ねるほどその表情が歓喜で鮮やかに染まっていっている。
「クハハハハハッ!!」
自分の身体能力を惜しみなく使わせてくれるニースにまるで感謝しているかのようにティオのニースを見る目には殺意も怨恨もなく、悦びの気持ちを露わにしていた。
それはともすれば余裕を見せているようにも見え、そう感じたニースはティオへの敵愾心を一層燃やし突きだけではなく蹴りも交えたラッシュをかけてきた。
突きという前からの攻撃だけではなく時折交える下方や上方から飛んでくる腰の入った蹴り。
並大抵の相手ならその動きに目が追い付かず、いつかはどちらかの攻撃をまともに喰らうことになるのは間違いない。
が、それすらティオにとっては対処の範囲内であるようでニースがどんなに不意打ちを狙おうとしてもティオの体には当たる気配を見せない。
「ああもう!なにをやっているのですかニース!そんな獣、さっさとひき肉にでもしちゃいなさい!!」
意外、というか予想外にてこずるニースにさすがにタオファは苛立ちを隠せず、声を張り上げてニースを叱咤する。
そしてニースも命令を遂行するためさらに攻撃の激しさを増していった。
「………っ!!」
手は単純に突くだけではなく払ったり薙いだり振り下ろしたりと攻撃の角度を変え、蹴りも両足同時に繰り出しとかフェイントをかけるとか、とにかくティオの意表を突くように変化をつけてきている。
「グッ…!」
これにはさすがにティオも対応しきれなかったのか、右回し蹴りを上体を逸らしてかわした後に間髪入れずにニースが放った左手の突きに対して、体が伸びきってしまっていたティオは反応はしたが上体を動かして避けることはできなかった。

「やった!!」

それを見たタオファはニースの突きがティオの胸板を貫くことを確信し勝利ガッツポーズまであげてしまった。
が、それはティオがニースの攻撃を躱せなくなっただけで避けられないわけではなかった。
「ニィッ!」
ティオはニッと微笑むと右手をブンっ!と払ってニースの突いてきた左手をそのまま弾き飛ばして攻撃を防いだ。
パーン!と腕を払われたニースは左手を泳がせたまま呆然とした表情を浮かべている。
そしてこれが決定的な転換点になった。

「フウゥッ!」

ニースの攻撃が止んだこの一瞬を付き、今度はティオが攻勢に打って出た。
無防備な姿を晒しているニースの懐に一気に飛び込んだティオはそのまま強烈なタックルをぶちかまし、バン!と弾かれたニースはそのまま家の煙突まで吹っ飛ばされ古くなったレンガと埃を派手に周囲にまき散らした。
「えっ?!ニ、ニース!!」
勝ちを確信していたところのあっという間の形勢逆転に、さすがにタオファは狼狽した。しかも、ティオのターンはまだ終了してはいない。
「ガウウウゥッ!!」
ティオは煙突に突っ込んで動きが止まったニースに反撃させる間も与えまいというように突っ込んでいった。
「………っ!!」
そしてもうもうと上がった埃の中からよろよろと出てきたニースが目にしたのは、弾丸のような疾さで自分に迫ってくるティオの姿だった。

慌ててニースは腕をクロスさせて突進のショックを食い止めようとしたが、それすら許さない圧倒的な速さでティオの右ストレートがニースの腹にめり込んできた。

「……グハッ!!」

このインパクトにはさすがにニースも堪えきれず、あまりの痛みに蛙がつぶれたような悲鳴を上げてニースの体は前屈みになってしまう。
その姿を見てティオは、追い打ちとばかりに腹を打った右手を引き戻すとそのままブォン!と振り上げた。
振り上げた手にはニースのものと比べてもそん色のない硬度と切れ味を持つ五つの爪が伸びており、これがまともに食いこんだらニースの体もさすがにただでは済まない。
「クゥゥッ!!」
気が遠くなるような痛みをなんとか堪えたニースは限界まで体を逸らしてティオの爪から逃れようとした、が、僅かに間に合わなかった。
前のめりになっていたニースの顔をティオの爪は捕え、爪は額をざっくりと切り裂きついでにニースの額に貼られた札までバラバラにした。

「…………ぁ」

その瞬間、ニースの額に描かれた呪紋と札が効力を失いタオファの術に捉われ濁りきっていたニースの瞳にスッと光が戻った。
が、それを確認することもせずティオは棒立ちになったニースを力任せに蹴り飛ばし、ニースはそのまま向かいの家まで吹っ飛び屋根を突き破ったまま出てくることはなかった。


「ニ……ニースが、ニースがあんなにあっさりと……?!」
タオファは目の前で起こったことがどうしても信じられなかった。
自分が手に入れた屍鬼の中では間違いなく最強のニース。動く死体の中では最高峰の材料である吸血鬼であり夜の闇の中では絶対無敵の力を持つ。はずだった。
なのに、獣憑きだったティオに完全に圧倒され、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。
こんなはずはない。これは何かの間違いだとタオファの頭の中は今あった現実を受け入れられず完全にショートしていた。
そんな感じでしばしタオファは呆然としていたが、自分を見る射るような視線を感じてハッと我に返った。
「あ、あぁ……!」
自分をじっと見ているティオの視線。
それは、まだ自分の力を振るう獲物が残っていることへの悦びに満ち溢れ、抑えきれない暴力への衝動からくる輝きを爛々と放っていた。
このままでは確実に殺される!
「お、お前たち!あの、あの犬っころを殺せ!殺すのよ!!絶対に!!」
湧き上がる『死』への恐怖にタオファは完全に取り乱し、泡を喰いながら従えている全ての屍鬼にティオへ襲い掛かるよう命令した。
その命令に従いタオファの後ろにいた屍鬼は一斉にティオに向かって跳躍し、アンナもリオンを放り捨ててティオへと向かっていった。
タオファが侍らせていた屍鬼は普通のリビングデッドに比べたら身体能力は当然のことながら比べ物にならないほど高く、屍鬼は連携でもとっているかのごとくティオの四方八方から同時に攻撃をかけてきた。
普通の人間も並みの化け物もこの同時攻撃を喰らえばただですむはずがない。ないのだが
だが、屍鬼が襲い掛かったのは『並み』の化け物ではなかった。
自分に向かってくる無数の獲物にティオは弾む心を隠すことなく顔を輝かせ、一番最初に自分に飛び込んできた屍鬼めがけ屋根を蹴ってジャンプした。
「!!」
まさかティオが向かってくるとは考えていなかった屍鬼は、ティオに攻撃する間もなくティオに顔を掴み取られそのままぐしゃりと握りつぶされてしまった。
そのままティオは空中で屍鬼の体を両手で抱えて左下から腕を突き出してきた屍鬼に首なし屍鬼を投げつけ、2体の屍鬼はそのまま屋根に叩き付けられてしまう。
その重なった屍鬼にティオは落下する加速度を重ねた蹴りをぶちこみ、腹に大穴があいた屍鬼はそのまま2つに千切れてしまった。

「キャハハハハハァ!!」

暴力をふるうのが楽しくて仕方がないと言わんばかりにティオは屍鬼をげしげしと踏みつけながら高笑いを上げ、ついでに上から飛び込んできた屍鬼を左手で突いて串刺しにしてしまい、もう片方の手で顎を掴んでから左手を振り下ろし屍鬼を2枚におろしてしまった。
「「「………!!」」」
あっという間もなく3体の仲間がバラバラの死体にされたことで、残りの屍鬼は波状攻撃を止めて一旦ティオとの間合いを開けようをしていた。
が、ティオには攻撃を躊躇する理由はまったくない。
「フウゥ……ハアアッ!!」
ティオは一つ大きく息を吸うと、自分から逃げようとしている(ように見えている)獲物に目では追い切れないほどの速さで襲い掛かった。
自分たちが反応できる以上の速さで突っ込んできたティオに屍鬼たちは完全に対応が遅れ、最初の屍鬼はティオが振り下ろした爪で袈裟切りにされ、自分が何をされたのか分からないまま屋根にごろりと上半身が落っこちた。
「………!」
次に狙われたのはアンナで、さすがに吸血鬼であるアンナはほかの屍鬼たちよりかはティオの動きに対応でき、ティオが繰り出してくる爪撃をヒュン!ヒュン!とギリギリでかわし続けた。
アンナとしてはこの間にもう一体の屍鬼がティオを仕留めてくれればと思っていたのかもしれない。
が、それが叶う間もなく屍鬼はティオのアンナへ対する爪撃に巻き込まれ、頭をすっぱりスライスされて屋根に崩れ落ちてしまった。
「っ!」
しかも、その屍鬼の体にアンナが躓いてしまい体のバランスが大きく崩れてしまう。
当然その隙をティオが見逃すはずがなく、ティオの横殴りの爪撃がアンナの腹を大きくえぐりアンナは腹から大量のどす黒い血を吹き出しながらドォッと倒れこんだ。

この間、時間にすればものの数分もないであろう。

「ウオォォ〜〜〜ン!!」

圧倒的な戦闘力をティオは月夜に見せつけ、血まみれになった手をぶんぶん振るって誇らしげに遠吠えをしていた。
そして、いよいよ最初に狙いを決めた獲物に襲い掛かろうとタオファのほうへと顔を向けると
「…ゥ?!」
すでにタオファはその場を逃げ出しており、辺りにはボロボロになった屍鬼や戦闘不能のリオンなど身動きできない肉の塊が転がっているだけで動いているものはなにもなかった。
どうやらタオファは屍鬼たちがティオに襲い掛かったあたりですでに逃げ出していたようで、すでにティオにはタオファの気配は全く感じ取ることは出来ない。
だが、だからといってタオファを見逃すという行為をティオがするはずがなかった。
別に、人狼になっているティオにタオファに対する恨みや憎しみといった気持ちはない。そんな感情は人狼にはない。
ただ単純に、一度狙った獲物は決して逃がさない。そういった純粋な獲物をしとめる狩人の本能がティオの心を支配していた。
「フゥッ!」
いずこかへ消えた獲物を求め、ティオは何一つ動くものがなくなった屋根から飛び降り、夜の闇へと消えていった。



「うぅ……御主人様ぁ……」
ティオがタオファの後を追って消え去った屋根の上で、リオンは自由が利かない体を騙し騙し動かしてアンナの元へ這い寄っていた。
アンナがリオンを投げ捨ててティオの元へ向かっていった時、リオンは掠れる声でアンナに行ってはダメだと叫んだのだがもちろんアンナは聞く耳を持たずにティオへと襲い掛かっていた。
そして、その顛末はリオンが予想した通りアンナが返り討ちにあう形になってしまった。
リオンとしてはすぐにでもアンナの安否を確かめに行きたかったのだが、少しでも動いたりしたら間違いなくティオに狙われるためティオがいなくなるまで息を潜めてじっとしてるほかなかった。
「ご主人様……大丈夫ですかご主人様……」
リオンはアンナの額に記された忌まわしい紋様を手で擦り落とし、目を虚ろに開いたままのアンナに必死に呼びかけていた。
皮肉にも先ほどリオンから吸い上げた血によって相当量の力を体に受け入れたことで、相当の深手を負っているにもかかわらず生命力が尽きて滅びる気配は感じられない。
が、やはりタオファに操られていたことの心の負担と肉体のダメージからかアンナは意識を取り戻す気配を見せず、リオンはこのまま意識を取り戻すことがないんじゃないのかと気が気でなかった。
その時、向かいの家の壊れた屋根がガラガラと音を立てて崩れたかと思うと、中から人影が一体ぬっと顔を出してきた。
「………ぅぅ……」
中から現れたのは、顔を血まみれにしたニースでありその姿を見てリオンはサッと顔を青ざめた。
何しろリオンはさっきニースに殺されそうになっているのだ。ニースを見て恐ろしく思わないほうがおかしい。
ところがニースは別にリオンに襲い掛かるわけでもなく、拳をわなわなと震わせながら悔しそうに唇をかみしめていた。
「うぅぅ……畜生。なんで私が……ティオちゃんに……」
「……!ニース様……」
ニースの口から放たれた『ティオちゃん』の単語を耳にしたリオンは、それまでの青ざめきった顔を喜びでパッと綻ばせた。
それはニースへのタオファの呪縛が解けたことを示すものであり、正気に返ったことを表すものだったからだ。
「よかった!ニース様!あの人間の術が解けたんです……ね……?」
が、そんなはしゃぐリオンをニースはギロッ!と殺意がこもった目で睨みつけた。
「……あったのよ。あいつの術に捉われてからも、私の自我は。私の心は。
あいつがティオちゃんを殺せと命令してきたときも、私の心はちゃんと起きていたのよ。それがわかっていて、あいつは私にティオちゃんを殺せと言ってきたのよ。
そんな命令、聞けるはずがない。ないはずなのに……
私は逆らえなかった。私の心は必死に拒否ってるのに私の体はあいつの命令に黙々と従ってティオちゃんを殺そうとした!
人狼になったティオちゃんに呪縛を解かれるまで、私の心と体はバラバラになって悲鳴を上げて、ティオちゃんを殺したくないのに殺そうとして……!」
ニースの声は怒りと悔恨で最後は絶叫に近くなり、真っ赤な目をさらに赤く染めてはらはらと泣き腫らしていた。
「くそっ、くそっ!なんて情けない私!!あんな奴の罠にまんまとはまって、ティオちゃんをあんな目にあわせて……挙句の果てにまたティオちゃんが人狼に……
許さない。許さない……あいつも……私も!!」
「ニ、ニース様……」
ニースが怒っているところはこれまで散々見てはきたが、ここまで自分に対して怒った姿はリオンは見たことがない。
それほど、自分の意思に反してティオを殺そうとした自分とそうさせたタオファに対しての怒りが大きいのだろう。

「殺してやる!殺してやるタオファ!!たとえ地の果てまで逃げても絶対に見つけその血を吸って……じゃない!吸っちゃだめだ!!
吸わずに全身バラバラに千切ってばら撒き家畜の餌にしてやる――っ!!」

ニースは村中に響き渡りそうな大声でがなり立てると、いずこかへと消えたタオファを追うため屋根瓦を蹴り壊して飛び降りあっという間に見えなくなってしまった。
かなりの傷は負ってはいるもののあの様子なら心配はいらないとリオンはひとまず肩を撫で下ろし、より深手を負っているアンナを少しでも介抱しようとアンナのほうを向いたとき
「!ご主人様?!」
なんと、アンナの全身から真っ白い煙が吹いているではないか。
「ど、どうしたんですかご主人様!!どこか、体におかしいところがあるのですか?!」
いきなりの異変に度肝を抜いたリオンが必死にアンナに呼びかけるが、アンナの意識は戻らず吹き出す煙もさらに勢いを増しアンナの姿が見えないレベルにまで達しており、あまりの勢いに直視できないほどだ。
そして、ある程度煙を吹き出したところから急速にその勢いは落ち、リオンの視界が晴れてきたところで目の当たりにしたものは……
「ご、ご主人様ぁ?!」
そこにいたのは、いやあったのはアンナの形をデフォルメした例の人形だった。
「な、なんで……ハッ!」
なんでアンナがあの人形に戻ってしまったのか訳が分からず困惑していたリオンだったが、ふと見ると自分からも同じような煙が体の節々から吹き出していることに気が付いた。
「こ、これって……、人形の呪いはまだ解けてないって、ことなのかぁ――っ?!」
つまり、ニースの大量の血によって二人は人形から吸血鬼の姿に戻れたのだが、それはニースの血に含まれる大量の魔力によって人形の呪いを抑えていただけで魔力が切れたらまた人形に戻ってしまうということなのだ。
そのことにリオンが思い立った時、リオンもまた全身を煙に包まれ人形の姿に戻っていた。


「ヒイハァ、ヒィハア!!」
一方タオファは屍鬼たちを捨て駒にしてティオの目を引き付け、自身は一目散に逃げ出していた。
ニースをほとんど一蹴したティオの実力を見れば、ニースより数段劣る他の屍鬼ではティオを倒すことはまず不可能、というより時間稼ぎ程度にしかならないのは分かりきっている。
ならばあの場で屍鬼が全滅するさまを呑気に見物しているよりはとっとおさらばしたほうが利口というものだ。
「な、なんなんですかティオさんは……、ティオさんが獣憑きだったなんて、聞いてないですよお〜〜!」
最初にこの依頼を引き受けたときは、どれほど実力を秘めていようが所詮はバカ正直な人間だから騙くらかすのは訳がないと思い込み、実際ティオはタオファの意図通りに動いてまんまと騙された。
その後に出てきた弱い吸血鬼たちの乱入もタオファからすれば予想されるイレギュラーの範囲内だった。
だが、ティオが獣憑きで獣人に化けたのは完全に予想の斜め上だった。しかも、かつて見たことのある獣憑きとは比べ物にならないほどの戦闘力をもっている。
一瞬、あれを屍鬼にしたら……などという考えが頭をよぎったりもしたが、今のタオファの手持ちの武器では不意打ちでもしない限りあれを仕留めることは難しい。
となると、今は何とかこの場を逃げて対策を練り直すしかない。
「はあぁっ……はあっ……。つ、疲れましたぁ〜〜……」
後ろも振り替えずただただティオから離れるようにタオファは逃げてきたが、さすがに息が切れたのか家と家の隙間の壁にもたれかかるとぜいぜぃと切れている息を整えようとした。
そもそもこんなに必死になって逃げたことはここしばらくの間覚えがない。相手を嵌めて自滅させるのが得意のタオファにとって体力勝負はいまいち得意ではないのだ。
「ま、まったく……なんでこんなに疲れなければいけないんですか……。屍鬼たちも恐らく全滅でしょうし、これじゃ割に合わなさすぎますよぉ……」
タオファは自分にティオを殺すように依頼してきた相手を恨めしく思った。
もっと簡単な仕事じゃなかったのか。これじゃあ例え依頼を果たしても収支は完全に赤字になってしまう。
「あのクソッ垂れ野郎……。もしティオを仕留められたら金をもらうついでにティオに殺させてしまおうか……」

そうすればまた新しい屍鬼の材料が……などとタオファがぶつぶつと考えているその時、タオファの周囲がフッと暗くなった。

「!!!」

その直後、真上からすさまじい殺気を感じたタオファは跳ねるようにその場を離れ、その直後にタオファが立っていた場所の上からティオが爪先をぴいんと立てて蹴りこんできた。
ドカン!とすさまじい音と土ぼこりが舞ってタオファが立っていた場所はぼこりと陥没し、もし一瞬でもタオファが逃げるのが遅かったらタオファの体はぺちゃんこに潰れていたことだろう。
「ガウウウゥ……!!」
「テ、ティオ……!そんな、早すぎる……」
相手が獣ということでそうそう簡単には逃げきれないとタオファも覚悟はしていたが、こうも短時間で屍鬼が蹴散らされしかも自分の居場所を突き止められるとはさすがにタオファも予想はしていなかった。
まさに獲物を地の果てまで追いかけ追いつめる猟犬そのものと言っても過言ではなく、タオファはティオが想像を超えた化け物であることを再認識せざるを得なかった。
一方ティオのほうはようやっと追いついた獲物を前に喜びを隠せず、尻尾をピンと立てながら背中を丸め襲い掛かる機会をうかがっている。もしタオファが何らかの動きを見せれば、それを契機にティオはタオファに襲い掛かるのは間違いない。
「……もう、ここまで来たらティオさんを仕留めない限りは村から逃げ出すことは出来ないみたいですね……」
どうやらタオファは覚悟を決めたようで、両腕を一旦ブン!と大きく振り腰の剣をスラリと抜き放った。
「さあ来なさいティオさん!こうなったら私も逃げも隠れも致しません!」
タオファが武器を抜いて対峙したことにティオはそうでなくてはとばかりに体をブルッと武者ぶるわせ、両手をわきわきと戦慄かせながらタオファに真正面から突っ込んでいった。
それに対するタオファは剣を構えて受け止める……のかと思いきや、何を思ったのかぴょんと後ろに飛びのいてしまった。
突進を続けるティオの顔はタオファの不審な動きに僅かに曇ったが、ティオの跳躍はタオファが多少間合いを離したところで一気につめられるだけの突進力は持っている。
そのためティオはそのままタオファに追いつこうとさらに飛び込んだが、その時ティオの額に何か糸のようなものががグイッと食い込んできた。

「キャハハーッ!!引っかかりましたね――!!」

それを見たタオファは勝ち誇った笑みを浮かべる。
実はタオファは先ほど手を振りかぶった時、家と家の壁の間に一本の鋼線を張っておいたのだ。
この線はタオファが刃物のように砥ぎこんだ刃鋼線で、表面を指でなぞるとそれだけで手が切れて血が滲み出すほどの鋭さをもっていた。
そんな刃鋼線にまともに力いっぱい突っ込んでしまったら、そのまま皮膚だけでなく肉も骨も真っ二つに裂けてしまうのは間違いない。
数少ないティオに手傷を与えられると思われる武器なのだが、普通に使ってもティオを仕留めることはまず不可能。
だが、この狭い場所ならティオはまっすぐ突進してくるだろうというタオファの見事な読みが生んだ会心の策だった。
「しょせんは犬っころ、人間様の英知には勝てはしないのです!!」
いくらなんでも脳みそを破壊されて平気な生物はいないだろう。あとはスライスされたティオの頭をつなぎ合わせて屍鬼の処置をするだけだ。
「しかも吸血鬼と違って獣憑きなら昼間でも使えます!これなら今までの損失もチャラに……」
ティオを手に入れた後の皮算用を早くも目論んでいるタオファだったが、次の瞬間その余裕も吹き飛んだ。

「ガアアアアァッ!!」

なんと、ティオの額に食い込んだ刃鋼線はティオの頭を二つに割くどころか傷一つ与えることは出来ず、突進するティオの力を受け止めきれずにビィン!と千切れ飛んでしまった。

ティオとタオファの上には満月が昇り地面を明るく照らしている。
人狼は満月の時に最大の力を発揮することが出来、この日は人狼自身が望まない限りはいかなる武器でも人狼を殺すどころか傷一つつけることもできない。満月の日は人狼は吸血鬼以上の不死身の肉体を持つことになるのだ。
これはティオたちにとっては常識なのだが東方地域ではこちらでいう人狼そのものが存在せず、動物の死霊などが人間に憑く獣憑きとタオファは混同してしまっていたのだ。
もちろん獣憑きに人狼並みの肉体能力はなく、それ故タオファも今の策で確実に仕留められると考えていたのだろう。

「え、ええええええ!!ウソウソウソウソ―――――――っ!!」

あまりのことにタオファはパニックに陥って剣を構えることすら忘れてしまっており、ティオに対し一瞬ではあるが無防備になってしまった。
その隙を付き、ティオはタオファとの間合いを一気につめるとその眼を眩ますかのように上へと跳んだ。
ティオの爪が天頂に輝く月光に反射して幻想的に煌めき、光の筋を描いてタオファの脳天へと振り下ろされていく。
「ひぃっ!!」
その美しさと恐ろしさを兼ね備えた爪撃にタオファは慌てて両手で剣を握りしめ渾身の力を込めて受け止めようとした。が
ティオの爪は鋼の剣を飴細工のようにあっさりと切り裂き、そのままタオファの右腕の肘から先までバラバラに切り落としてしまった。

「ぃっ!!ぎゃああああ――っ!!!」

自分の腕がまるでハムのように斬られる様を目の当たりにし、次の瞬間に傷口が燃えるような熱さに包まれたかと思ったらまるで噴水のように赤い血が吹き出し、タオファはこの世の終わりを見たかのような絶叫を上げた。
「て、手が!私の手がぁ!!」
地面に転がる剣と自分の右手だったものを見てタオファは半狂乱になり、怒りと恐怖で血走った眼をティオへと向けた。
「こ、この犬っころぉ!よくも、よくも私をこんな目にぃぃ!!」
一方ティオは血にまみれた右手の爪をべろりと舐めまわしながら、溢れる血の匂いに酔って恍惚の笑みを浮かべている。
ただ、それでもまだ満足はしていないのかタオファの怨念籠った視線を感じてタオファのほうへと顔を向けると、牙を剥きだしにしてニィッといやらしく微笑んだ。
もっと、もっと私を満足させて。血の匂いと肉の暖かさを味あわせて。逃げちゃダメよ。逃がさないから……
口でこそ言わないもののティオの発する気配からタオファにはティオの欲望が痛すぎるほど感じられる。
(冗談じゃない。手前の欲望を満たすためだけに殺されてたまるか!)
それを自分がするのは愉しいのだが相手にされてはたまったものではない。
多分に自分勝手な理屈だが、タオファはズキズキと痛む手を左手で抑えながら今にもとびかかってきそうなティオを懸命に牽制していた。
とはいえ、今の状態では反撃すら碌に出来はせずなぶり殺しにあうのは確実だ。なんかしてこの場から逃げきらないといけない。
だが、今は少しでも逃げるそぶりを見せたらティオはその瞬間タオファへ襲い掛かり命を取るだろう。残念だが今のタオファにそれを阻止する力はない。
どうすれば、どうすれば……とタオファが逡巡しているとき、思わぬ助けが飛び込んできた。

「見つけたぞ!タオファァァ!!」

ティオとタオファのにらみ合いが続いている中、金切り声を上げながらニースが二人の前に飛び込んできたのだ。
タオファにとっては一見敵が二人に増えてさらに絶体絶命に……と見えてしまうのだが、それはティオとニースに意思の疎通があればの話である。
ところが実際は

「!!っ♪♪」

目の前にいる怪我をして動きが鈍ったタオファに比べてピンピンしている活きのいい獲物が現れ、ティオはニースのほうへクルッと振り向くとニパッと顔を綻ばせた。
「もう絶対許さない。八つ裂きにしてやるから覚悟……、え?」
タオファをバラバラにする意気込みで表れたニースだったのだが、ティオが自分のことを爛々と輝かせている目で見つめているのに気づきギョッとなった。
「え?ちょ、ちょっと待ったティオちゃ……。あっち、あっち……」
「グルルルゥ………!」
明らかに自分を狙っているティオに対してニースはタオファを両手で指差してティオに翻意を迫るが、ティオはもう壊れた獲物には興味がなくより楽しめる獲物であるニースに興味が満々だったりする。
(こ、これは……チャンスです!)
もちろんこの機会を逃さないタオファではなく、出来るだけティオの興味を引かないようにそろりそろりとその場を離れ、建物の影に入った直後脱兎の速さで逃げ出した。
「あぁっ!こら待てタオファぁ!!」
そんなタオファを、ニースはつい大声を出しながら追いかけるために一歩足を踏み出した、その時

「ガウ――――ッ!!」

動き出すきっかけを待っていたティオが牙を剥いてニースへと跳びかかってきた。
「わぁっ!!ティ、ティオちゃん?!」
ビュイン!と空気すら斬り裂くような鋭さで飛んできた爪をニースは懸命に避け、路地に消えたタオファを追いかけようとした。
が、ティオは逃げようとしている(ように見える)ニースを逃がすまいと前へと回り込み、間髪入れずに両腕をものすごい速さで振るってニースへと襲い掛かってくる。
「どいて、やめてティオちゃん!このままだとあのタオファを見失っちゃうよ!!」
「ガウウウウゥッ!!」
満月の人狼に何の攻撃も通用しないことを身をもって知っているニースはティオを気絶させて止めることも出来ず、愉しそうに自分に攻撃してくるティオを何とかいなしながらどうにかしてタオファの後を追いかけようとした。

が、結局それは叶わず月が天頂から傾いて僅かばかり空が薄く白み始めた頃、散々暴れたティオは満足したのか突然フッと力が抜けたかと思うとその場にくてっと突っ伏した。
月の光を受けて白銀色に輝いていた体毛も光を失ったかと思うと元の金色に戻っていき、髪から覗いていた耳もスッと引っ込んでいった。
ただ、尻尾だけは消えずに相変わらずティオの腰から伸びており、時たまぱたん、ぱたんと地面を叩いている。
「お、終わった、ぁ……」
もしかしたらこのまま元に戻らないのではと危惧していたニースはどうにか元に戻ったティオにホッと胸をなでおろし、そしてどんなに感覚を鋭敏にしてもタオファの気配が全く掴めないことに悔しさをにじませた。
「くそぅ……逃げられたか……」
まあ、さんざんティオに付き合わされていた故とてもタオファのほうに気を回す余裕はなかったので仕方がないといえば仕方がないのだが、ティオの命を狙ってきただけでは飽き足らず、自分を使ってティオを殺そうとしたタオファへのニースの怒りは半端ではない。
このままティオの殺害を諦めてくれれば万々歳なのだが、あの歪んだ性格からしてそうなるとはとても思えない。
「次あった時は……必ず、殺してやる……」
ティオに危害を加えようとする者には容赦はしない。
ニースは怒りに燃える目でタオファが逃げ去った路地をじろりと睨んだ後、地面に気を失って倒れているティオを抱きかかえた。

「ん……。んぅ……」
疲れ果てて寝ているティオはニースの抱えられても起きはせず、ニースの腕の中でゆったりとまどろんでいる。
「……元々、今回の原因はティオちゃんなんだからね。ティオちゃんがほいほいあいつの言うことを信用したりするから……
わかってんのか、おいこら」
あまりに幸せそうに寝息を立てているティオに、ニースは少しは反省しろと言わんばかりにティオの額に軽く頭突きをかました。
ゴチン!と軽くというには鈍すぎる音がした気がしたが、これくらいはしておかないとニースとしては気が済まなかった。



一方、ティオとニースの同士討ちの間隙をぬって何とか村から脱出できたタオファは傷口の応急手当てをした後癇癪を爆発させていた。
「ざーけんじゃねぇーっ!!何が簡単な仕事だってんだぁ!!
あのバカの言うことをほいほい聞いたせいで、屍鬼は全部やられて腕まで失くしちまったよ!!」
あまり大きな声を出すとニースたちに届いてしまうのではないか、なんてことを考える心の余裕なんてない。
なにしろ2本しかない大事な腕を一本吹っ飛ばされてしまったのだから。
「殺してやる!殺してやる!!ティオもニースも吸血鬼のガキ共も、全員纏めてぶっ殺してやる!!」
もう強力な手駒が増えるとか貴重な素材だとか、そんなことはどうでもいい。四肢を八つ裂きのバラバラにして屍鬼に全身食いちぎらせながらじわじわと命を奪うくらいのことをしないとこの気持ちは収まりそうにない。
「見てろよティオ、ニース!てめえらの首は絶対この私が獲ってやる!この腕の恨み、万倍にもして返してやるからな!!」
そうと決めたらさっそく戦力の補充をしなければならない。
まずは全滅してしまった屍鬼軍団を再生させるために生きのよく優れた肉体を持つ死体を集め直さないといけない。
身体能力ばかりで脳みその足らないバカを騙すのは訳ないからその辺は数週間もあればある程度の数は揃うが、問題はあの二人をどうやって嵌めるか。
今度はさすがに警戒してくるだろうから、もっと手の込んだ……
などとタオファがいかにしてティオとニースを殺すかの算段を立てている、その時

「……何をやっているんだ、お前は……。依頼もこなせずに逃げ出すなんて、前金も渡しているんだからきちんと仕事をしてほしいな」」

タオファの前に、歳は二十歳に届くか届かないかというくらいの美青年が現れた。
「お前は……」
その青年を見てタオファの顔は一気に強張った。
この青年こそタオファにティオの抹殺を依頼した張本人であり、タオファが散々な目にあう原因になった男なのだ。
タオファは依頼主の尊大な態度に少し収まった怒りが一気に吹き出し、怒りに肩を震わせながら青年に詰め寄った。
「あのねぇ……、なにが人間一匹狩るだけの簡単な依頼よ!何が寝ていてもできるような楽な仕事よ!
その口車に乗ったおかげで私は手駒をすべてなくし、挙句に腕まで失くしちゃったのよ!見なさいよオラァ!!」
タオファはぎゃんぎゃんと捲し立てながら肘から先がなくなった右腕を突き出した。
「これはこれは……随分と派手に斬られたもんだ。しかし、あの人間が剣の使い手だと言うのは教えていたはずだけど……」
青年の口調はタオファが油断しすぎていたのではないかという嗜めの色がこもっている。が、タオファはそんな青年の態度にマジ切れし、残った左手で襟首を掴みあげた。
「んなのはわかってんだよ!でも貴様、ティオが狼女だなんてこと、一言も言ってなかったじゃねぇか!!」
「狼、女……?」
その一言は青年にとっても予想外だったようで、初めて青年の顔に動揺の色が走った。
「そ、そうなのか……それはすまなかった。しかし、人狼とは……」
「今更謝っているんじゃねえ!ただの人間と聞いていたからそれに対する策を持っていったらご覧のありさまだよ!!」
タオファは青年を絞殺すくらいの勢いで襟首を掴み取っていたが、悲しいかな片手では勢いだけで決して絞め殺すまでには至らない。
「あいつらは絶対に許さない!!ティオもニースも、みんな纏めてぶっ殺してやる!私の腕を取った報いを、思い知らせてやる!!」
「ち、ちょっと待った!僕の依頼はティオ・スダートのみの抹殺だぞ!他に殺せとは一言も言っていない!」
ティオだけでなくニースも殺すと聞き、青年は慌ててタオファに語りかけた。がタオファはすでに聞く耳をもってはいない。それだけ二人への恨みは深いものがあった。
「うるせぇ!!お前は良くても私は良くないんだ!もうあいつらがバラバラのグチャグチャになるところを見ないと、どうにも収まりはしないんだよ!!
『吸血鬼』の貴様に人間様の考えなんかわかる訳ないんだから引っ込んでろ!!」

そう、この青年は吸血鬼だった。闇夜に光る赤い瞳。血が通っているとは言い難い白蝋色の肌。どれをとっても人間のものではない。
タオファは依頼人がどんな種族というのはあまり考慮に入れていない。人間だろうと怪物だろうと死体だろうと、金を払ってくれるのがいい依頼人であり金を踏み倒すのが悪い依頼人なのだ。
「わかったらさっさと帰れ!ティオ以外の奴は報酬なしのサービスで殺してやるからさ!!」
タオファは襟から手を外すと吸血鬼をドン、と突き飛ばした。もうこんな奴に関わっている時間すら勿体ない。早く手勢を増やし、あの連中を葬る算段を考えなくてはいけないのだ。
が、突き飛ばされたはずの吸血鬼は目の前から吹っ飛んでいかない。変わらずタオファの眼前に相対している。
その時タオファは気が付いた。自分の左腕が吸血鬼にがっちりと掴まれていることを。
「っ?!何しているんだバカ野郎!お前にはもう用はないってんだよ!」
勝手に手を掴まれたことにタオファはイラつきながら吸血鬼の手を振りほどこうとした。が、吸血鬼は放すどころかますます力を込めて掴みかかっており痛さで手が痺れてくるくらいだ。
「あぅっ…!ちょっ、いたいっ……。手を離し……て?」
これはさすがにただ事じゃないとタオファは少しばかり冷静さを取り戻して吸血鬼に頼み込んだが、吸血鬼の顔を見てタオファはギョッとなった。
吸血鬼はなぜか怒りに怒っており、夜の闇にもはっきりとわかる赤く輝く目でタオファを睨みつけてきていた。
「え……?!」
「誰がティオ・スダート以外の者を殺せと言った。言われたことすらきちんとできない癖に余計なことをしようとするな」
先ほどまでの小馬鹿にしている雰囲気はあっても少なくとも礼儀は心得ていた姿とは打って変わって、吸血鬼は高圧的な態度でタオファに接してきている。
一体何が吸血鬼の逆鱗に触れたのかが全く分からないが、今の吸血鬼からは明らかにタオファに対する敵意に満ち溢れている。
「ち、ちょっと待って……!なんでそんなに怒ってるの……?私、あんたに何かした……」
「黙れ。口先だけで何の役にも立たないお前のような屑がニースを殺そうとするなど許されると思っているのか」
え?なにそれ。なんであんたが私がニースを殺すのを許さないのよ……、と理不尽極まりない吸血鬼の主張にタオファが当惑しきっているその時、吸血鬼の残っていた左手がタオファの顔面を鷲掴みにしてきた。
顔面一杯が凍るような冷たさの掌に覆われ、タオファは何をするのよ!と吸血鬼に怒鳴りつけようとしたが、それよりも早く吸血鬼の親指と小指がタオファのこめかみにずぐり、と突き刺さってきた。

「ぎぃっ?!」

脳天を抉られるような痛みにタオファは背筋をビクンッ!と震わせたが、まだこれは障りに過ぎなかった。
吸血鬼の指が穿たれたところがカッと燃えるように熱くなっていき、逆に体からはどんどんと熱が奪われていくような感覚が全身に走っていく。
(こ、これって……まさか、吸血されて、いる……?!)
そうタオファが思うのも無理はない。タオファが奪われている熱だと感じているものは間違いなくタオファの生気であり、生気が奪われていくにつれ全身から力も抜けていくのが実感できている。
だが、こめかみからは一滴の血も流れ出てはおらず血が奪われているという感じもない。
というか、血を吸われているならむしろタオファの思うつぼなのだ。
タオファの血は死体を使役する力があり、迂闊に血を飲んだりしてしまったら血の虜になって逆にタオファに支配されてしまう。そう、先ほどまでのニースのように。
ところがこの吸血鬼はタオファの体に触れているだけで直接血は吸っていないのにタオファの体から生気をどんどん奪っている。
しかもそれだけではない。体から抜けていく生気を埋めるかのように吸血鬼の指からどす黒い吸血鬼の鬼気が流れ込んできている。
もしこのまま生気をすべて抜かれ吸血鬼の鬼気にすり替えられたらタオファも吸血鬼と化してしまうのは間違いない。
実際、タオファの顔色はどんどんと血色を失い顔から首、首から胸へと範囲を広げていっている。
「な、なにをしやがりますか……や、やめ……!」
吸血されない吸血の恐怖にタオファは切羽詰った叫び声をあげ吸血鬼の掌をなんとか顔面からはがそうと試みる。

が、左手は抑えられ右手は失っている以上体を揺するとか吸血鬼を蹴り飛ばすくらいしかなく、その程度の抵抗で吸血鬼を引きはがすことは出来なかった。
(あ、ああぁ……。このままじゃまずい。まずい、のに……)
最初のほうこそじたばたともがき抵抗していたタオファだったが、生気が抜けていくに従いその抵抗も弱くなり声にも力がなくなると同時に艶っぽいものが増えていく。
掌の下から僅かに見える口元は歓喜に綻び、とめどない涎が滴り落ちてきている。
吸血鬼へ抵抗する心や吸血への嫌悪感は見る見るうちに消え失せ、自分の全てを吸血鬼に捧げたいといった従属の心が爆発的に広がっていく。
それに抵抗しなければという思いもあるにはあったのだが、強烈な吸精による脱力感が抵抗を実行しようとする気持ちをあっという間に萎えさせ、気が付けばそんな思いは圧倒的な快感の前に掻き消されていった。
「あぁ……や、やめ……

やめ、ないでぇ……」

そしてついにタオファから吸血を求める言葉が飛び出し、爪先まで血の気が抜けた四肢を吸血鬼に絡めてより深く吸血鬼を感じ取ろうとしてくる。
その四肢もやがて力なくだらりと垂れ、『彼』が掌を離すとタオファはその場にどさりと崩れ落ちた。
「……結構遊んでいるみたいであまり美味くはなかったな……。まあ、食べるのが目的じゃないから贅沢は言わないけどな……
ほら起きろ。そして、あの村で起こったことを仔細漏らさず詳しく教えるんだ」
吸血鬼はタオファを掴んでいた手を汚いものでも払うかのようにブンブンと払うと倒れているタオファに語りかけ、その声に反応したタオファはゆっくりと腰を上げて吸血鬼を赤く潤んだ瞳で見上げた。
「……承知いたしました。ご主人様」
吸血鬼にニイッと媚びた笑みを浮かべるタオファの口元からは、生えたばかりの真っ白な牙が伸びていた。


「なるほど……。しかし、意外だったな……。まさかあいつが使い魔を作っているなんて……」
自分の下僕と化したタオファから事の顛末を聞き、『彼』は妙に晴れやかな顔をしていた。
「てっきりニースがあのティオ・スダートに使役されていると思っていたのに、ティオ・スダートのほうがニースの使い魔だったとは。いや意外意外」
吸血鬼であるニースが人間に扱われているのが癪だから『彼』はティオを殺すように依頼したのだが、どうやら早とちりをしていたようだった。
普通人間と吸血鬼が一緒にいて、且つ人間が人間のままでいる状態を見れば人間が吸血鬼を何らかの方法で使役していると考えるのが普通だ。
もし吸血鬼が主導権を持っていれば人間が人間のままでいるはずがないのだから。
が、タオファの言い分が正しいとしたらニースはティオを使い魔にして自分を護らせていると考えるのが妥当だ。普段は主従の関係には見えないのは多分ニースの趣味なのだろう。
「しかし、あいつも使い魔を作れるくらいに力を増したのか。アレからそんなに時は立っていないというのに……」
今でも思い出す。追いつめられたニースが怯え、竦み、立ち尽くしていた姿。その白い腕を掴み牙を突き刺した感触。
血を吸い上げたときの恍惚の笑み。腕を回して『もっと吸って』とせがんだ甘い声……
あれからもう幾らになるだろう。吸い足りないからあの時には吸血鬼化は出来なかったが、なにかのきっかけで無事吸血鬼に生まれ変わることは出来たようだ。
しかも人間を使い魔に出来るほどの力を得て。
「やっぱあいつには素質があったようだね。あの時あいつだけは殺さないでおいて正解だったよ」
元々、ニースが使役されていると思って癪に障ったからティオの抹殺を思いついたわけで、ニースが束縛されてないとわかったからにはティオを殺す道理はない。
もっとも、ティオがニースの使い魔だと思っている時点で『彼』は酷い誤解をしているのだが、そこに気付くことは今の『彼』には出来なかった。
「さて、じゃあご主人様の元に戻ろうかな。ご主人様の元にニースを連れて行くわけにはいかないし……」
『彼』を下僕にした親吸血鬼は女の吸血鬼が嫌いで、もしニースを連れて行こうものなら問答無用で滅ぼしてしまうだろう。それではニースを助けようとした意味がない。
「じゃあね、ニース……可愛い妹に夜の祝福があらんことを」
そう言い残し『彼』、吸血鬼アルムはタオファと共に夜の闇に消えていった。

…女吸血鬼嫌いの主人の元になぜ吸血鬼化したタオファを連れていくのか。
それはもちろんニースを殺そうとしたタオファに死の恐怖を改めて与えるためだ。
主人であるアルムがどんな殺し方をしようともタオファは悦んでそれを迎え入れるだろう。
それではだめだ。妹を滅ぼそうとしたゴミ屑にはこの世に生まれてきたことを後悔させるくらいの恐怖を与え死ななければならない。
ご主人様ならそれをタオファに与えてくれることができる。
「うふふ〜〜ご主人様、タオファは永遠にご主人様の下に付いていきますねぇ〜〜」
顔を紅潮させて後をついてくる下僕に、アルムは顔色一つ変えず振り向きもしないで丁重に無視した。
どうせすぐにいなくなる下僕だ。気に掛ける時間も勿体ない。



「話は分かったわ……。つまりタオファさんは……いえタオファは最初から私を殺すつもりで接触してきたってことね……」
ニースから事の次第を聞き、ティオは自分の不明さと迂闊さに臍を噛んでいた。
あの笑顔と態度にころっと騙され、自分もニースも危機に陥らせてしまったのはティオ一世一代の不覚と言わざるを得ない。
ただ、何故自分が狙われるのか。その点だけはさっぱりと分からなかった。
もし『狩人』が吸血鬼を匿っている自分に制裁を加えるためにタオファを寄越したならばこんな回りくどい真似はしないだろうし、なによりニースに手を付けてこないはずがない。
が、ニースの言う限りにはタオファの目的はあくまでもティオのみであってニースは含まれていないとのことだ。
だとすると、タオファは一体誰に頼まれて自分を殺しに来たのか、全く見当がつかない。
「ま、タオファが私を狙っている以上また私たちの前に現れるでしょうから、その時に分かるかもしれないわね。しかし……」
そこまで言って、ティオは自分の腰をちらりと見た。
そこにはふさふさの金色の尻尾が人狼になった影響からかいつもよりさらに毛量を増してもっさりと伸びている。
「まさか私、また人狼になるなんて……全然覚えていないわ……」
ティオには自分が人狼になってタオファや屍鬼を圧倒したときの記憶が全く残っていなかった。
何しろ意識を取り戻したとき自分が真っ裸で一瞬パニックになり、さらに立派になった尻尾をみて卒倒しかけたのだ。
ニースに説明を受けてなんとか納得はしたものの、自分が知らないうちに人狼になってしまったというのはあまり気持ちの良いものではない。
ちなみに今はニースが着ていた屍鬼用の袖長の東方風の服を着込んでいる。ニースに丈を合わせているので多少つんつるてんであり、スカートではないので収まりが悪い尻尾は腰を緩めて外に出している。
「で、でもまあそのおかげでタオファも逃げたんだから万事オッケー。今回ばかりはね……!」
そう、今回ばかりはティオに残された人狼の残滓に感謝するほかはない。あれがなかったら間違いなくティオは死に、ニースはあの憎ったらしいタオファの傀儡になってしまっていたのだから。
とはいえ、それはあくまでも特殊な状況なわけで、出来ることならあの忌々しい尻尾を取って元のきれいな血のティオに戻ってほしいのがニースの本音だ。
そのためにはあの吸血鬼兄妹、アレクサウスとアルマナウスを滅ぼさねばならない。
(……クソガキ吸血鬼め、感謝するのは今回だけよ……)
アレクサウスとアルマナウスにはティオだけでなくリオン、アンナにかけられた人形の呪いもかけられた恨みがある。
今回リオンたちから自分の血を大量に浴びせれば一時的に吸血鬼の姿に戻れるということは聞いたが、一時的にしか戻れないというなら痛い思いをするだけで全然割に合わない。
そして、タオファを雇った謎の敵。こっちは正体も目的も見えないだけにアレクサウスたち以上に油断が出来ない。
(くそっ、ティオちゃんを他の奴に奪われたり殺されてたまるものか。
ティオちゃんは私のものだ。ティオちゃんの体も心も血も、全部全部私ひとりのものなんだから……)
ティオを奪われまいとする妄念が悶々と湧き上がり、ニースの顔は自然と険しくなる。その時

「あぅっ……」
突然ティオが苦痛の悲鳴を上げ、くたくたと腰から崩れ落ちた。
「えっ?!ティ、ティティオちゃんんん?!」
突然体調を崩したティオにニースはただでさえ悪い顔色をさらに血相変えてティオに飛びついた。
もしかしたら人狼化の後遺症で体のどこかに不調が出ているのか、それともタオファが自分が知らないところでティオちゃんに何らかのちょっかいを出していたのか。
とにかく、せっかく危機を脱したというのにここでティオに倒れられてしまってはなんの意味もない。
「どうしたの!ティオちゃん、ティオちゃん!!」
「あ、頭が……」
腰砕けになったティオは額を片手で押さえながら苦しそうに顔を歪めている。その痛みは相当なようで脂汗がじくじくと滲み出し顔色も真っ青になっている。
「頭?頭が痛いの?!ティオちゃん!!」
「………」
ニースの悲鳴に近い問いかけにティオは応えるそぶりも見せない。そうする余裕もないのだろう。
(なんで?なんでなんでなんで?!もう大丈夫だと思ったのに、なんでティオちゃんが……頭に……)

頭?

その時ニースはふと思い出した。
さっき、幸せそうに眠るティオの頭に一発頭突きをかましたことを。
「あ……」
まさかもしやと思い、ニースはティオの手を掴み額から放すと、そこには大きく真っ赤に腫れたこぶが一つ出来ていた。
「頭、すごく痛い……。私、人狼になっていた時にどこかに思い切りぶつかったのかしら……」
「あ、ああぁ……うん、そうだよ。きっとそうに違いないよアハハ」
(ち、ちょっと強く打ちすぎたかな……?でも、あの何も知らずに寝ているティオちゃん見ていたらなんか無性に腹が立っちゃったし……)
まさか自分がしたなどとは言えるはずもなく、ニースは顔をひきつらせながらティオに悟られないように相槌を打っていた。
「すぐにここから出ようと思ったけど……ちょっと気分が悪すぎるわ……。しばらく横になるね……」
顔を真っ青にしたティオはそのまま横になり、あっという間もなくスゥッと寝入ってしまった。
人狼から人間に戻った際に寝ていたとはいえ、考えてみれば朝から歩き通しとリビングデッドと終わりのない戦いを繰り広げ、挙句一晩中駆けずり回ったうえ変身までしたのだ。
ニースの頭突きだけが原因ではなく疲労そのものも限界に来ていたのだろう。
ニースはそう結論付け、自分のせいだけじゃないと思い込むことにした。
これでやっと一安心……と思った時
「……お腹すいた」
ニースは無性に空腹を感じてきた。
そういえば疲れているのはティオだけではない。ニースも日中ティオと共に駆けずり回り、タオファとの戦いで大量に血を流したり人狼のティオと本気でバトルして来たりしたのだ。
これまでは緊張や怒り、はたまた操られていたことで自我が薄れていたりでそんなことを思う余裕はなかったのだが、こうして落ち着くと一気に他の欲望が顔を覗かせてくる。
「………」
ニースの前には無防備にティオが横になっている。その真っ白な喉首がちらりと晒され嫌でもニースの目に入り込んでくる。
その艶やかな姿についニースは喉を鳴らし、するすると腰を落としてティオの喉へと顔を近づけていく。
「ティ、ティオちゃん……?」

耳元でティオは全く起きる気配を見せない。いくら知っている仲とはいえ吸血鬼の前でここまで無警戒に寝られるのは迂闊というか大胆というか。
とにかくティオが目を覚まそうにないことでニースの吸血衝動もムラムラと大きくなっていく。
(す、少しだけなら。少しだけなら……)
その肌に牙を突き立てても疲労の極みにあるティオは起きないかもしれない。起きはしないがその体は吸血に反応しあられもない姿を晒すことになる。
意識のないまま吸血の快楽に悶えるティオを想像するとそれだけでニースの気分は昂ぶってくる。
「い、いいよね……。いいよねティオちゃん……!」
ティオの返事がないことは分かっているがニースは形だけティオに問いかけ、返事がないのをいいことにその牙をティオの喉元へと近づけていく。
その眼は欲望で薄暗い部屋全体を照らすぐらいに真っ赤に輝き、真っ白な牙はぎりぎりと音を立てて伸び鋭さを増していっている。
そして、その先が今にもティオの肌に触れそうになった、が
「……ダメ。抑えろ自分……!」
ニースは湧き上がる吸血衝動を必死に抑え、乾きかけの糊をはがすかのようにゆっくりと未練たらたらにティオの首から口を離した。
今までニースはティオから血を貰うときは必ずティオの傷口から吸っており、直接牙を立てて吸ったことはない。
直接吸うときは、それはティオが自らの意思で吸血鬼となることを求めニースに喉首を晒す時と決めている。
それまでは決して牙を立てないと決めているのだ。いくら疲れて意志が弱まり吸血の本能が先走ろうとも、それだけは絶対に破るわけにはいかない。
「……ふぅっ……。全く、罪な女だよティオちゃんは……」
何とか吸血衝動を心の奥に仕舞いこんでニースは一息を付き、くぅくぅと静かな寝息を立てるティオの顔を覗き込んだ。
どうせ日が暮れるまでここから出たくもない。なら夜までティオと一緒に寝ていよう。
「おやすみ、ティオちゃん……」
ニースは牙を立てる代わりにティオの額に軽くキスをしてそのまま横になり、そのまま瞼を閉じた。


第14回終



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