猟血の狩人

『猟血の狩人』 第一回

「くぁっ…、うぅんっ……」

「く、くそぅ……」

光も入ってくることが出来ない深い洞窟。その更に奥から、女性の呻き声と喘ぎ声が同時に響き渡ってきている。
そこには、神に仕える証である出で立ちをした二人の女性と、得体の知れない怪人がいた。
苔むした地面に倒れ伏している金色の短髪の女性は、げほげほと苦しそうに血を吐きながら必死になって立ち上がろうとしている。
怪人に背後から組み伏せられている茶色の長髪の女性は、弱々しく身を捩り続けているが、その顔にはなぜか悦びの
色が浮かび、口元からは切なげなため息が途切れ途切れに零れ落ちている。
見ると、女性の首筋に埋もれている怪人の口からは鋭い牙が伸び、女性の頚動脈を刺し貫いている。
女性の鼓動と同時にごぽり、ごぽり、と牙を穿った穴から溢れてくる鮮血を、怪人はごくりごくりと
喉を鳴らしながら注ぎ込んでいっているが、それでも口元に収まりきらない血が一条の糸となって女性の
白い肌を流れ落ちていっている。
「あ……、ああぅ……」
怪人の喉が動くたびに、組み伏せられた女性の顔は喜色に染まっていくが、それに反比例して血の気は
引いていき、病人…いや死人のような顔色になりつつある。
「あ、あぁ…、ニース……」
その姿を、地面に突っ伏している女性は激しい後悔の念と共に凝視していた。


『猟血の狩人』


「発生してから一週間で被害にあった人数が三人…。な、なによこの雑魚は…」
届けられたレポートに目を通して、『教会』の神罰実行機関の一員であり、吸血鬼狩りの専門家『ハンター』
の一人であるティオは、吸血鬼が現れたと報告を受け、討滅するために赴く村から送られてきた報告書
を見て、思わずあきれ返ってしまった。
普通、吸血鬼と言うものは一旦発生すると程度の差はあれ相当の速さで被害を拡大していく。襲われた
犠牲者が新たな吸血鬼となって他の犠牲者を増やしていくのだから当然だ。相当に力の強い吸血鬼に襲われた村が
一夜にして人間が一人もいなくなってしまったなんて話もあるぐらいだ。
それを考えると、一週間で三人というのは被害ゼロと言ってもいいくらいの人数である。
「正直…、私たちが行くまでもないんじゃないかしら。この件」
雑魚一匹退治するためだけに、わざわざ遠出なんかしたくない。ティオの顔には、そうありありと書かれていた。
それを嗜めたのは、彼女のパートナーであるニースだった。
「ダメだよティオちゃん。これは教会が受けた正式な依頼だし、村の人たちではどうしようもないから私たちが行くんだから」
どちらかと言えば世俗的で享楽主義なティオに対し、ニースは非常に真面目でひたむきな性格をしており、
自分より年上のティオに対しても忌憚なく意見を述べてくることが多かった。
「向こうの村の神父がどうにか出来るならこっちに連絡をよこすわけないしね。つまり、私たちが行く相応の理由があるってことでしょ」
「まあ、確かにそうだけれど。あ〜あ、面倒くさいわね」
ティオはぶつくさ文句を言いながら、報告書をくしゃりと握りつぶした後すっと立ち上がった。
「じゃあ、ちゃっちゃと行ってさっさと討滅してきましょうか!」
「うん!」
ティオの言葉に、ニースは顔面に固い意思を滲ませてこっくりと頷いた。
(相変わらず、真っ直ぐな性格ね…)
その顔を見て、ティオはふとニースに初めてあったときのことを思い出した。
数年前、ティオはニースをパートナーとして行動を共にするよう命令されたとき、正直足手まといと思わざるを得なかった。
小柄でどんくさそうで気持ちばかりが先行し、いつか致命的な失敗をする危うさがあると直感的に感じていた。
結果がわかっているものをそのままにしておいても益はない。ティオは直接的な表現は避けながら、ニース
に現在の立場から身を引くように諌めてみた。が、
「…あなた、そんな腕では遠からず吸血鬼の手にかかってしまうわよ。それでもいいの?」
「その時は、ティオちゃんの手で私を討滅してください」
ティオの言葉に対し、ニースははっきりとした意思と口調でいざというときは自らを討ってくれと返してきた。


その後も、ことある事にティオはニースにパートナーを降りろと忠告したが、ニースは頑として受け入れることはなかった。
実際、ニースは体術の方はからっきしだったが法力を使った奇跡の方は人並みはずれて優秀であり、
ティオのバックアップに付く事で任務の達成も今までと比べてはるかに容易になってきていた。
中には、過去のハンターでも殆ど報告例のない貴族級の大物を仕留めた事もある。そのため、教会内では
吸血鬼関連の事件ではほとんど専門と言っていいような存在になってしまった。
そして、パートナーを組んでみてティオがニースに当初抱いていたイメージは、実際のものと結構違っていたものだと再認識していた。
どんくさいと思っていた身体は思いの外はしっこく、先走りそうな性格は思ったより思慮深かった。
ただ、ニースはどんなときでも絶対にティオに対し素肌を晒すことが無かった。例え二人きりで任務に付いているときも
部屋は別々。風呂も別々。夏だろうと全身を隠すようにぶかぶかの法衣を着込み、人前で脱ぐことは決してなかった。
この件に関して、ティオは一度だけニースに問いただした事があったが、『過去に人目に晒せないほどの
酷い傷を負ってしまった』と一言話しただけで、以降は頑としてこの件に答えることは無かった。
その答えには明らかに嘘含みが感じられたのでティオは当初不満を持っていたが、何かしら体に以上があるのは
間違いなく、年頃の女性に深く突っ込むのも酷だと思いそれ以上の詮索をするのはやめていた。
こうした多少の軋轢はあったものの、ティオはニースを信頼に足るパートナーだと認識するに至っていた。
ただ、最初に感じられた危うさは未だに払拭は出来ずにいた。

二人が件の村に辿り着き関係者に事情を聞いたところ、吸血鬼が閉じ込められているという洞窟を改造した
倉庫の前に案内された。もちろん洞窟へと通じる扉は固く閉ざされ、巨大な錠で封印されている。
「なにそれ…。つまりこの中の吸血鬼は自力で外に出ることも出来ないわけなの…?!」
ティオは言うまでもなく、流石にニースもそのことに唖然とするしかなかった。
大抵、吸血鬼と言うものは人間をはるかに凌駕した怪力を持ち、大抵の扉などぶち壊してしまうことが出来る。
もっと上位の吸血鬼になれば自らの体を霧に変えたりして僅かな隙間も抜けることが出来るのだが、
まあそんな存在に出会えるのは本当に稀だ。
言い換えれば、この中に閉じ込められている吸血鬼は自分の体を霧に変えることも出来なければ、力任せに
扉を破ることもできないとんでもない雑魚ということでもある。
「これなら…、一週間で被害が三人ってのも納得できるよね」
それはそうだ。被害が拡大する前に雪隠詰めにしてしまえば広がるわけがない。
「ですが…、我々の力ではここに閉じ込めるのが精一杯。さすがに倒すまでは…」
村に常駐する教会の神父が困り果てた表情で二人に話し掛けてきた。まさかいつまでも倉庫に閉じ込めておくわけにもいかない。
「分かりました。私たちに任せてください。ティオちゃん、行きましょう」
ニースの声にティオはこくりと頷いた。まだ日は高く夜になるまで時間はたっぷりある。洞窟の中だから
陽光は期待できないが、聞いた限りではたいしたことのない相手だし問題はないだろう。
神父が取り出した鍵で扉の錠が外され、ギギギと軋んだ音を立てて開け放たれた。奥は相当深いらしく
光も届かない深淵が広がっている。
いくら雑魚とは言え吸血鬼。暗闇では向こうの方に分がある。
「ちょっと…、まずそうかもね…」
「何言ってるのティオちゃん!私たちの手で討滅しなかったらいつまでもこの村の人が安心できないじゃない。
私たちがやるしかないのよ!」
キッと自分を睨みつけてくるニースを見て、ティオは再び心の中にティオの危うさを思い出してしまった。
(まあ、もし先走ったとしても私がフォローすればいいんだけれどね。
あ〜あ、無茶をやる妹を持つと気苦労が耐えないわ…)
小柄な体にやる気を滲ませているニースを見て、ティオは肩をすくませてクスリと微笑んだ。

ランタンの光が二人の周りを少しだけ明るく照らしている。村の住人の言うことによれば洞窟奥行きは
100mはないそうだが、それでもどこに潜んでいるか分からない吸血鬼に備えなければならないので想像以上に広く感じる。
「ねえ、ニース…」
緊張感を和らげるためか、ティオはランタンを持っているニースに声をかけた。
「前から思っていたんだけれど…、なんであなたそんなに吸血鬼討滅にこだわってるの?」


これまで何度も聞いてきたことであるが、ニースは常に口を固く閉ざし答えることは無かった。
今回も、ティオ自身の気をほぐすためについ口走ったことであり、返事などは期待してはいなかった。が、
「…ティオさん…」
予想外の声が聞こえ、思わずティオはその場で立ち止まってしまった。
返事が帰って来るはずも無いと思っていたのに帰ってきたことも驚きなのだが、それよりも何よりも、
自分のことを『ティオさん』呼ばれたことにティオはビックリしていた。パートナーを組んで以来
ニースはティオの事をいつも『ティオちゃん』とちゃん付けで呼び、馴れ馴れしく接してきていた。
それを鬱陶しく感じたこともあったが、今ではそれが当たり前のことだと思い気にも止めてはいなかった。
しかし、今ティオの耳に飛び込んだ『ティオさん』の声は、それまで聞いたことも無いような暗く、重い声だった。
「ニース……?!」
恐る恐る振り向いた先の薄暗い視界から入ってくるニースの表情は、普段の朗らかな彼女からは想像も出来ないほど無表情で、
その目は憎悪に蒼く燃えていた。
「これ…、見てください」
ニースはランタンを持つ左手の袖を不意に捲し上げた。ランタンに照らし出される白く細い二の腕に不自然に穿たれた傷が目に入ってくる。
「………!」
その傷を見て、ティオは衝撃を禁じえなかった。
少しの間隔を置いて穿たれている二つの傷は…、紛れも無く吸血鬼の歯傷であった。
「ニース!それって…」
「こんな傷を人目に晒すわけにいきませんよね。闇の者へ裁きを下す教会直属のハンターが、吸血鬼の
口付けを受けているなんて、ね…」
ニースが浮かべた自嘲めいた笑みを見て、ティオはニースがいつも厚着をして素肌を人目に晒さないわけを理解した。
吸血鬼に対し誤った知識を持っている人間は決して少なくはない。中には歯傷がある人間を見ただけで
吸血鬼だと誤解する人間だっている。そんな人間が協会に所属しているニースに歯傷があるのを知ったらどうなるか…?
無用の混乱を避けるため、ニースは着たくもない厚着をしていたのだ。
ティオは、過去の自分のあまりの軽率さに顔から火が出る思いだった。自分を見るニースの瞳が、まるで
ティオを非難しているかのように思えてくる。
そんなティオの思いを知って知らずか、ニースの独白は続いている。
「ティオさん。私、両親を吸血鬼に殺されているんです。
私が10歳の時、家に入りこんだ吸血鬼に、父も母も私の目の前で全身を切り裂かれ、血を啜り取られました。
そして、ガタガタと震える私にも、吸血鬼はその食指を伸ばしてきたんです」
ニースの声は低く暗く、洞窟の中に響き渡っている。
「私は必死で逃げました。でも、逃げ切れるはずがありません。
吸血鬼は私の腕を掴み、その牙を埋めてきました。あのときの感触は今でも忘れられません…」
ニースは傷口を手で塞ぎ、全身をブルッと震わせた。その時の感触を肌が思い出しているのだろうか。
「幸い、その時異常を察知した近所の人たちと教会の人が入ってきて吸血鬼はその場から逃げました。
そのため、私はすぐに治療を受けることが出来、吸血鬼になることはありませんでした」
「そんな、ことが……」
まさかニースの両親が吸血鬼に殺されているとは、ティオは想像したことも無かった。ニースのいつもの
様子からは、そんなことは微塵も感じさせないからだ。
「で、でもどうして吸血鬼が家に入ってこれたの?呼ばれない限り、吸血鬼は決して人の家には入れないはずなのに」
ティオにしてみれば心に浮かんだ些細な疑問を述べただけだった。
「?!…それは……」
が、その言葉にニースは全身に漂わせていた憎悪のオーラを憤怒へと変じた。
「二、ニース…?!」

「それは……、両親を殺した吸血鬼が、私の兄だからです!」

「!!」
場所もはばからず大声を出したニースの瞳からは、悲憤とも悔恨とも怨嗟ともとれる涙が流れていた。
「何者かによって吸血鬼にされた兄さんは、玄関から堂々と家に入り込んで父さんと母さんを縊り殺し、
私をもその手にかけようとしたんです!
あの優しかった兄さんが、目を爛々と赤く輝かせ、口を大きく開けて襲い掛かってきたんです!!」
自分の言葉に興奮してきたのか、ニースは拳をわなわなと震わせ顔を真っ赤に染めている。訥々と語るようだった
口調は、湧き上がる怒気を吐き出すかのように激しくなっていく。

「だから私、ハンターになる決心をしたんです。私の家族を目茶目茶にした兄と、兄を吸血鬼にした者を
見つけ、この手で討滅するために!!」
最後の方は、まるで自分の魂を搾り出すかのような絶叫だった。
「………」
もうティオにはニースにかける言葉が思い浮かばなかった。それほどの凄惨な過去をニースが持っているとは夢にも思わなかった。
そして、そうとも知らず自分が過去にどれだけニースを傷つけてきたかと思うと情けなさから涙が出てきた。
はたしてニースはその笑顔の下で自分のことをどう思っていたのだろう。何も知らない馬鹿と罵っていたに違いない。
どんな謝罪をしても偽善としか取ることが出来ないだろう。何がパートナーだ。これほど長く近くにいながら
自分は相方のことを何一つ知ってはいなかったではないか。
ティオの心に暗い自虐の感情がふつふつと湧きあがってくる。目の前のニースは昂ぶった感情を抑えるためか
はぁはぁと息を切らしており、何の言葉も投げかけてこない。
いっそ、自分をぼろぼろに罵ってくれたらどんなに気が楽か。
「ニ、ニース……」
ティオは意を決して恐々とニースに声をかけた時、不意にニースはぱっと顔を上げてきた。
「あ〜、すっきりした。やっぱり気持ちを溜め込んじゃいけないよね」
そこにいるニースは、ティオが知っているいつもの明るく朗らかなニースだった。
「あ…」
その突然の変化にティオは思わず戸惑ってしまったが、先ほど自分がニースへ向けて発しようとした言葉を
思い出し、口をキュッと結び直しニースへと改めて相対した。
「どうしたの?ティオちゃん」
「ニース…、ごめん。私、あなたが過去にそんな傷を負っていたなんて想像もしていなかった。そのため
あなたを散々に傷つけていたなんて思いもよらなかった…。ごめん。ごめん……」
何年も人前では見せなかった涙がぽろぽろと零れ落ちてきている。ティオの『強い部分』しか見たことの
なかったニースもこの涙には戸惑いを隠せなかった。
「ち、ちょっとティオちゃん?!何も泣かなくても…」
「ごめん…。ごめんなさい……」
慌てたニースが思わずティオの手を握ってなだめても、ティオは肩を震わせごめんとただ呟き続けていた。
「本当に、本当にごめんなさ…」

「ティオちゃん!!」

その時、突然ニースが切羽詰った声を張り上げた。その声の緊急さにティオも沈んでいた気持ちを一瞬で
引き締めバッと後ろを振り向いた。
通路の暗闇の向こうに、低い唸り声と共に赤い二つの光点が見える。
「どうやら…、目当てのものが現れたわね…」
「うん…」
ニースはランタンを地面へ置き、懐から聖書を取り出してからぶつぶつと祝詞を唱え始める。
すると、ニースの掌に青い光が集まり始め、周囲を薄く灯していく。
一方ティオも得物である銀製の短剣を右手に構え、近づく相手に対峙する。
ニースの青い光に当てられて現れた者。それはぼろぼろの服を身に纏い、四つんばいで地面を這い、
およそ知性というものが感じられない雰囲気を纏った吸血鬼だった。
村の住人に閉じ込められ、吸血の機会を失っていた『そいつ』は酷く血に餓えているのか、目の前に現れた
二人の獲物を前にして嬉しそうにグルグルと喉を鳴らし、瞳に赤光を爛々と輝かせていた。
「くっ…」
ある程度の力を持った吸血鬼の瞳には、対象を魅了する力がある。最初はそれを警戒していたティオと
ニースだったが、どうやらこの吸血鬼にはそこまでの力も無いらしい。
魔力も高くない。力も大して無い。おまけに知性も無くただ本能のままに動き、襲い、喰らう。
目の前にいる吸血鬼は、そんな吸血鬼としては下の下ともいえる奴だった。
「なんだ…、やっぱり大したことない奴なのね。ニース、そうと決まったら一気にいくわよ」
「わかったわ、ティオちゃん……」

軽い目配せをした後、ティオは短剣を構えたまま、吸血鬼の前へじりじりと歩を進めた。
吸血鬼のほうも獲物を前に今か今かと襲い掛かる機会をうかがっていたようだが、ずいっと間合いを
詰めてきたティオに気を取られてきっかけを逸し、気づくと機会そのものを失ってしまっていた。
こうして目の前の吸血鬼を牽制し襲い掛かってこないよう足止めして、その隙にニースが掌の光をどんどん増幅させていっている。
そして、それが通路全体を照らすまでに大きくなったとき、
「ティオちゃん!」
ニースの声にティオは即座に反応してその場にかがみこんだ。
その後ろからニースが練りに練った青光が投げ放たれ、吸血鬼に向って一直線に飛んでいった。
「ギギッ?!」
完全に不意をつかれた形になった吸血鬼だったが、何とか体を捻って光そのものの直撃は避けた。
が、避け切れなかった左腕が光に巻き込まれ、ジュッと肉がこげる音と共に腕から先が光の中へと消失した。
「ギガアァッ!!」
全身を襲う激痛にたまらず大声を張り上げた吸血鬼だったが、その隙も無く今度はティオが短剣を振り上げて吸血鬼に迫ってきた。
その切っ先は正確無比に、吸血鬼の左胸に向けられている。
(例えニースの攻撃が避けられても、これでおしまい。簡単な任務ね)
吸血鬼はニースの攻撃で体のバランスを崩し避けられるはずも無い。ティオの顔には余裕の笑みさえ浮かんでいた。
が、
「ガアァッ!!」
死に物狂いの吸血鬼は、なんと短剣が自分の体に打ち込まれる寸前にティオの手首をガシッと掴み、その行為を阻止してしまった。
「なにっ?!」
吸血鬼の思わぬ抵抗に、ティオの目は驚愕に見開かれた。まさか、ここで攻撃を止められるとは思っても見なかったからだ。

ミシミシッ!

吸血鬼の怪力がティオの手首から嫌な音を生じさせる。いくら吸血鬼討滅のエキスパートと言っても
その肉体はただの人間である。吸血鬼の持つ人外の力とは比べるべくも無い。
「あああっ!!」
あまりの激痛に、ティオは思わず短剣から手を離してしまった。銀の短剣は澄んだ音を立てて地面へと転がり落ちてしまう。
「ティ、ティオちゃん!」
思わぬ事態に、ニースは再び祝詞を唱え、掌に青光を作り始める。が、それが纏まる間もなく事態はより
悪い方向、悪い方向へと舵を切り始めていた。

吸血鬼は短剣が地面へ落ちたのを確認してから、不意にティオの手首を離したかと思うと上から袈裟懸けに
ティオの腹部を鋭い爪でなぎ払った。

ザシュ!

「あぐっ!」
法衣はあっさりと切り裂かれ、ティオの腹に五本の爪痕がくっきりと描かれた。幸い内臓までは達しなかったようだが
時を置かずに赤い血がだくだくと流れ落ちてきてきた。
「ち、畜生……、うあっ!」
腹部を押さえ前のめりになったティオに、吸血鬼は追い撃ちとばかりに体を捻った強烈な蹴りを叩き込んできた。
その衝撃にたまらずティオは吹っ飛び、吸血鬼が狙ったのかどうかは分からないが、その体は後方で攻撃準備を
していたニースに思いっきり突っ込んでいった。
「きゃああっ!」
「ぐはぁっ!」
吸血鬼の力で吹き飛ばされたティオはニースに当たってもその勢いを止めることは無く、そのまま二人とも
壁まで吹き飛びずるずると崩れ落ちた。

ニースの体がクッションになってくれたからか、衝撃の割に肉体へのダメージは重くはなさそうだった。
だが、切り裂かれた腹は焼けるような痛みを伴ってきて、心臓が一つ鼓動を打つたびに脳髄の奥にガンガンと響いてくる。
あばら骨も何本か折れているみたいで、一部が腸に刺さっているのか喉の奥から錆臭い味と共に赤い血が口から噴き出してきた。
この状態ではとても満足に戦うことなど出来はしない。雑魚と油断しきっていたのが完全に裏目に出てしまった。
腐っても相手は吸血鬼なのだ。危険である相手に変わりは無いはずだったのに。
「す、すまない…、ニース。大丈夫か……、っ!」
痛さで霞む視界を必死に矯正し、ニースの方へと振り返ったティオは、ニースの状態に息を飲んだ。
「あ、足が……。つぅっ!」
ティオと土壁に完全に挟まれた格好になったニースの両足は、不自然な方向へと曲がっておりだらりと力なく伸びていた。
どう見ても完全に骨が折れており、これでは戦闘どころか立つことすら不可能だ。
「あ、ああ…」
「ティ、ティオちゃん…、ここはひとまず、逃げて…」
ニースはティオに撤退を促している。二人とももう戦うことが出来ないのは明白であり、かつまだ日は高く、
ここから入り口まではそう遠いものではない。
が、腹をやられ立ち上がることも困難なティオと、そもそも立つことすら出来ないニースが共に逃げるのは不可能と言ってもいい。
「無理だ…。この体じゃとてもあなたをつれてなんて…」
せめてあばらが折れてなければ…、そう思ったティオだったが次のニースの言葉はティオの予想外のものだった。
「ティオちゃんだけなら…、なんとか逃げることができるでしょ…」

「!!」

その言葉にティオは目を見開いた。ニースはティオに、自分を見捨てて逃げろと言っているのだ。
「このままじゃ、二人ともあいつにやられてしまう…。私のことはいいから、早く…」
「バカ!そんなこと、できるわけない…」
「でも………!!」
ティオの困り果てた顔を哀しそうに見つめるニースの視界に、あの吸血鬼が牙を剥いてこちらに向けて
突っ込んでくるのが見えた。狙いは明らかに、自分の目の前にいるティオ!
「ティオちゃん!危ない!!」
ニースは、渾身の力を込めてティオを横へと突き飛ばした。そのおかげでティオは吸血鬼の毒牙から
逃れることが出来たが、その代価は当然ニースが払うことになってしまった。
ニースの手をがしっと掴んだ吸血鬼はニースを無理やり立たせ、露わになった首筋に欲望に赤く染まった
目を向け、乱喰歯が零れる口をガバッと開いた。

「ティオちゃん逃げてぇーっ!!」

吸血鬼の牙が打ち込まれる寸前、ニースはあらん限りの声を張り上げた。
その瞬間を、ティオは絶望に染まった眼差しで凝視していた。


「ふわぁっ……、くふぅんっ…!」
吸血鬼の牙が打ち込まれた直後から、ニースの顔は官能に蕩け悩ましい声を上げている。身を捩って
抵抗するというようなそぶりも見せず、全身の力をくたっと抜いて吸血鬼のされるがままになっている。
吸血鬼による吸血行為は、犠牲者に人外の快感を与えるとされている。それは血の滲むような訓練の末
吸血鬼退治のハンターとして認められたものも例外ではない。
そもそも、ハンターは吸血鬼に『噛まれない』ことを前提に戦闘するよう訓練されているし、万が一
噛まれた場合をフォローするために、パートナーの存在があるのである。
が、肝心の相方であるティオは身動きが取れるような状態ではなく、ニースへの吸血行為を阻む策はなにもない。
「ひ、ひはぁっ…。きもちいい…」
ニースは今、首筋から広がる腰が抜けそうな快感に完全に取り込まれ、飲み込まれていた。
「や、やめ、ろぉ…。この、化け物ぉ…」
今、ティオが目の前で見ているニースは、いつもの日向の向日葵のように明るい彼女からは連想できない
嫌らしくも艶かしい、濡れた蘭のような艶姿を晒していた。
「はあっ、はあっ…。ティオちゃぁん…、い、今のうちに早くにげ、て…。私が血を、吸われているうちにぃ…」
ティオの声が耳に響き少しだけ正気を取り戻したのか、どんよりと濁ったニースの瞳に少しだけ光が戻り
目の先のティオにぶるぶると手を伸ばし、逃げるようにと促している。
が、それも長くは持たなかった。
「血を、血を吸われて、吸われて…、すわぁ……。あぁ…」
ニースの眼が再び霞がかったかのように曇り、口元には恍惚の笑みが浮かんできている。
「い、いいのぉ…。吸われるの気持ちいいの…。兄さんに吸われた時も気持ちよかったのぉ…
やっぱり、血を吸われるのってきもちいい…っ、はひぃぃ…もっと、もっと吸ってぇぇ……!私の全て、吸い尽くしてぇ!
ティオ、ちゃぁん…。ティオちゃんも、吸ってもらおうよ…。とっても、きもちいいよぉ……!」
顔色は既に土気色に変じ、見てわかるくらい全身の精力が抜け落ちているのが分かる。が、その顔は
人外の愉悦に染まりきり、法衣の裾から伸びている脚はびくっびくっと電気反応のように蠢き、快感で
失禁したのか官能で濡れきったのか、太腿の辺りから透明な滴がぱたり、ぱたりと落ちて地面に染みこんでいっている。
(よ、よくもニースを、ニースを……)
元はといえば、ああなっていたのは自分のはずだ。ニースが自分を突き飛ばしたから自分は吸血鬼の毒牙から
逃れることが出来たが、代わりにニースが餌食となってしまった。
(私は、ニースに迷惑をかけてばっかりだ…)
ティオは悔しさのあまり唇をぎゅっと噛み締めた。歯が立ったところから皮膚が破れ血が流れ落ちてくるが
元々口は血で溢れていたためどれほどのことではない。
(これ以上、ニースが私のために酷い目にあうのは…我慢できない!)
脳髄がもたないと悲鳴を上げる。足腰が無理だと警告を発する。内臓が責任をもてないと喚き散らす。
が、そんなことはもう関係ない。
ティオは、左太腿に仕込んいた予備の短剣を握り締めると、動かない体を無理やり起こしニースを咥えたままの
吸血鬼の前にゆらりと立ち上がった。
「この吸血鬼が……、ニースを離せぇ!!」
けふけふと咳と共に零れる血を手で拭い、精一杯の声でティオは吸血鬼に怒鳴りつけた。
その言葉を理解したのかどうか、吸血鬼はニースの首筋に埋めた牙をつぷりと抜き取ると、ニースの体を無造作に後ろに放り投げた。
スローモーションのように宙を舞ったニースは二、三度地面に叩きつけられた後に斃れ伏し、そのままその場で動かなくなった。
その有様に呆然とするティオを、吸血鬼は『言われたとおりにしてやったぞ』と言わんばかりの下卑た笑いを浮かべて眺めていた。

「き、きっさまあぁーっ!!」

吸血鬼の挑発に完全に怒り狂ったティオは、全身が悲鳴を上げているにもかかわらず真正面から吸血鬼に切りかかっていった。
普段の彼女ならそれでも互角以上の戦いは展開できただろう。
が、深刻なダメージを受けているティオの動きは明らかに鈍く、最初の斬檄を吸血鬼は余裕を持って後ろにかわした。
「くそっ!このっ、このぉっ!!」
それでも構わずティオは、ただ滅茶苦茶に剣を振りかぶり吸血鬼へ向けて打ち込んでいく。ティオが何も無い空間を一薙ぎ
する度に腹からの出血は増していき、折れたあばらが内臓を傷つけていくが、ティオは手を休めずに吸血鬼へ切りかかっていった。



吸血鬼の後ろに倒れているニースは全く起き上がってくる気配は無い。このままではニースに死の運命が訪れるのは火を見るより明らかだ。
吸血鬼に吸血され失血死した犠牲者は、時を置かず新たな吸血鬼として蘇り、新しい犠牲者を増やそうとしてくる。
(はやくニースを助けて治療しないと…、ニースが吸血鬼になってしまう!)
ティオはとにかく一刻も早くニースを救い出そうと、ティオは萎えそうな肉体を気迫で必死に奮い立たせていた。
その気迫は肉体の限界を精神で無理やり抑え付け、斬りこみの速度と精度を上げていき、最初は余裕を見せていた
吸血鬼を次第に劣勢に立たせていった。
そして、吸血鬼が後方へと踏み出した脚が地面の石を踏んでバランスを崩した僅かな隙を、ティオは見逃さなかった。
「でやあぁぁっ!!」
ティオの突きが正確に吸血鬼の左胸目掛けて振り下ろされた。もはやかわせはしない間合い!
しかし

ガッ!

咄嗟に伸ばした吸血鬼の右手が、ティオの左腕をがっしりと受け止めた。起死回生の一手に吸血鬼の顔が喜色に染まる。
「………」
だが、必殺の一手を止められたティオの顔に絶望は無かった。まるで、この状態すら読みきっていたかのように。
「かかったな、吸血鬼!」
勝ち誇った笑みを浮かべたティオは、右手を自らの右太腿に潜り込ませる。そこから取り出したものは、もう一本の予備の短剣だった。
吸血鬼の左腕はさっきのニースの攻撃で消失したままだ。つまり、吸血鬼にこの剣をかわす手段は、ない。
「くたばれえぇーっ!!」
ティオは最後の力を振り絞って右手の剣を吸血鬼へ突き出した。後は、剣が吸血鬼の肉を貫く感触を味わうだけ…

ギィン!

しかし、次の瞬間にティオの右手が受けた感触は剣が弾き飛ばされたことによる強烈な痺れだった。
「え…」
状況がよくわからないティオの目に飛び込んできたもの。それは、吸血鬼の左肩から伸びている『左腕』だった。
「なんで…!しまった…」
その瞬間、ティオは自分の迂闊さを呪った。先ほどニースからたっぷりと血を搾取した吸血鬼は力も取り戻していたのだ。
元より吸血鬼の肉体の再生力は並ではない。腕だろうが首だろうがいくら切り落としても繋ぎ合わせるし、再生できる。
ティオはそんな初歩的なことにも頭が回らなかった。冷静に事を進めていたと思ったのはティオの脳内だけだった。
吸血鬼は万策尽きて放心しているティオの右腕もがっしりと掴むと、獲物を手に入れた喜びから牙を剥いてにやりと笑った。
ティオの目の前に、吸血の欲望に目を輝かせた吸血鬼の顔がじりじりと迫ってくる。ぐぱっと開かれた
口からは錐のように鋭い牙が伸び、青い顔色と反比例した真っ赤な舌が涎を滴らせながらだらしなく伸びている。
「あ、あぁ…。いや……」
ティオは恐怖に目を見開き、いやいやと首を細かく横に振った。
(こんなところで、ニースと二人揃って吸血鬼になっちゃうの?そんなの、絶対にいや…!)
ティオは何とか腕を振り解こうと必死にもがくが、吸血鬼の怪力につかまれた腕はびくともしない。
吸血鬼の偽りの息遣いが首筋にすーすーとかかってくる。次の瞬間にも牙が自分の喉笛に打ち込まれるのだろう。
ティオの脳内に、先ほどの乱れまくったニースの痴態が浮かび上がってきた。もうすぐ自分もあのようになってしまうのだろう。
(ごめん、ニース…。さっきから私、謝ってばっかだ…)
ティオはとうとう覚悟を決め、目をつぶってその瞬間を待った。
「………」
だが、いつまでたっても牙が打ち込まれる感覚は襲ってこなかった。
「………?」
恐る恐る目を開けたティオの視界に飛び込んできたものは、呆然とした表情を浮かべた吸血鬼の顔だった。
「グァ……」
眼を下ろすと、吸血鬼の胸板から剣の切っ先が見える。それは正確に吸血鬼の左胸を貫き、傷口からぶすぶすと煙が上がってきている。


「ガ、ガ…ガァッ!!」
吸血鬼は苦悶に顔をゆがめ、ティオを掴んでいた手を離して剣を引き抜こうとした。その間にも煙は
ますますその勢いを増し、ついには青い炎をあげ始めた。
炎は一瞬のうちに全身に燃え広がり、洞窟一体を青い光で照らしている。

「グガァーッ!」

吸血鬼は最後に一声吠え、その直後全身を灰に変えて崩れ落ちた。後には吸血鬼が纏っていたぼろ服しか残っていなった。
「これは…」
ティオは吸血鬼に刺さっていた剣を手にとって見た。それは最初にティオが吸血鬼に切りかかっていた剣だった。
「どうして、これが……」

「ティ、ティオちゃ……」

「!!」
その時、奥から聞き覚えのある声が聞こえてきた。ギョッとしたティオが声がしたほうへ目を向けると
さっきまで倒れていたはずのニースが肩で息をしながら立ち上がっていた。
その右手は何かを力いっぱい投げた後のように、ぶらぶらと力なく垂れ下がっている。
それでティオは直感した。吸血鬼を貫いた剣は後ろにいたニースが投げつけたんだと。
「ニ、ニース!無事だったのね……」
相方の無事に苦痛も疲労も吹き飛び、ティオは利かない脚を必死に引きずりニースの元へとにじり寄った。
ニースは一歩も動くことが出来ないのかうな垂れたままその場で立ち尽くしている。

その時ティオは嬉しさのあまり忘れていた。ニースがさっき両足を骨折して立つことすら不可能だったことを。

「ニース!……?!」
満面の笑みを浮かべてニースに抱きついたとき、ティオは異常な違和感に襲われた。
ニースの体が、冷たい。まるで血が通っていないかのように全身が凍りついている。
「え……」
「ティオちゃん…」
ニースが切なげに声を震わせティオを見つめてくる。その瞳は、いつも見慣れた茶色ではなく…
血のような、真っ赤な色をしていた。
「ニース?!」
「ティオちゃん…。私、おかしいの。体がとてもとても寒くて……、とっても、渇いて……」
顔色は死人のように青白く、それに引き換え唇だけは紅を引いたかのように赤い。そして、口元から零れる青いまでに白い牙。
「そんな…、ああ、ニースぅ……」
手遅れだった。ニースは既に吸血鬼と生れ堕ちていた。
「あぁ…、ティオちゃんから、何かいい匂いがする……」
ニースの目線は、ざっくりと切り裂かれたティオの腹部へと注がれている。流れ落ちている赤い血に、ニースは瞳を輝かせていた。
「ねぇ…、ティオちゃん…
ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから、それ、舐めさせて……」
ニースがティオに一生のお願いとばかりに訴えかけてきた。ジッと見つめる瞳が、ティオの脳内を焦がしていく。
「うっ……」
その赤い瞳に、ティオは一瞬吸い込まれそうな錯覚を覚えた。もしちょっとでも油断していたら無防備のまま
ニースにこの身を預けていただろう。
さっきの雑魚吸血鬼とは比べ物にならないくらいの魅了の魔眼だ。大抵吸血鬼というのは噛んだ親吸血鬼以上の
力は持たないはずなのだが、ニースの力は明らかに親吸血鬼を上回っている。
ひょっとしたら、以前に噛まれた時の何らかの副次効果があるのかもしれないが、今はそれを知る術は無い。
「や、やめてニース…。気をしっかりもって…」
「ダメ…。もう止められないの…。ああぁ…」
ニースの口から真っ赤な舌がティオの傷口目掛けて伸びていく。唾液をふんだんに纏ったそれが傷口に触れた時



ピチュ

「ひあぁっ!」
ティオの背筋に痺れるような快感が走った。
ニースの体は凍えそうなほど冷たいのに、柔らかい唇と真っ赤な舌は火照るような暖かさを持ち、ティオの
体に燃え上がるような官能を運んできている。
「あんっ、んむっ、ぺろぉ……。あぁ、おいしい…」
ニースは目をとろんと潤ませ、夢中になってティオから溢れ出てくる血を舐め取っている。その舌が艶かしく
蠢くたびに、ティオの傷口からは痛みが引き、代わりに快感が込み上げてくる。
(こ、これが吸血行為の快感…?舌だけでこんなのだったら、噛まれたりしたら……)
間違いなくその快感の虜になってしまうだろう。今のところニースは牙を立てようとしていないが、もし噛まれてしまったら…
(………。もう、ダメなのね……)
嬉々として血を貪るニースを見つめ、ティオはある決心した。
「ほら…。こっちのほうがもっとたくさん飲めるわよ」
ティオはニースの頭を一旦自分から引き剥がし、腹で血が一番噴き出しているところへと促した。
「ああっ…、ありがとうティオちゃん…」
口元をティオの血で染めたニースはにっこりと微笑むと、とろとろと血が溢れ出る傷口に唇を付け、ぴちゃぴちゃと音を立てて血を啜り始めた。
「くぅぅ…」
沸きあがってくる快感に顔を顰めながらも、ティオは右手をニースの頭の上へ置いて優しく撫で上げた。
そして左手には…、吸血鬼討滅用の銀の短剣を握り締めていた。

『…あなた、そんな腕では遠からず吸血鬼の手にかかってしまうわよ。それでもいいの?』
『その時は、ティオちゃんの手で私を討滅してください』

過去の会話がフラッシュバックしてくる。いつかはその瞬間が来る気はしていた。が、それが今になるとは思っていなかった。
ニースは血を啜るのに夢中で剣に気づいた様子は無い。これをこのままニースの胸へ刺し貫けば、ニースは
仮初の命を失い、二度目の死を迎えることになる。
(今度は謝らないわ、ニース。だってこれは、あなたが望んだことなんだから)
ニースが口を当てているところのあまりの心地よさに、ティオの心の一部分がいつまでもこうしていたい。
ニースに血を吸われ続けたいと訴えかけてきている。
ともすればその誘惑に負けそうになる心を必死に自制し、ティオは剣を大きく振り上げた。
後はそのままこれを振り下ろすだけだ。が、
「………!」
その剣を、ティオは振り下ろすことが出来なかった。いや、振り下ろそうとはしているのだがどうしても腕が動かない。
「くっ…」

私が油断していたから、最初の段階で吸血鬼の逆襲を許してしまった
私が吹き飛ばされたから、ニースはここから逃げられなくなってしまった
ニースは、吸血鬼に噛まれそうになった自分の身代わりに吸血鬼に噛まれた
ニースは、吸血鬼になりながらも噛まれそうになった自分を助けた
ニースは一体、誰のせいで吸血鬼になった
本来なら吸血鬼になっているのは、ニースではなく私ではないのか?
討滅されなければならなかったのは、ニースではなく私ではないのか?

この事態になるまでの様々な事象がティオの頭に浮かんでくる。ニースがこうなったのは自分のせい。
そう考えてしまうと、どうしても剣を振り下ろすことが出来なかった。
「うっ、うぁ…」
下ろすことも引くことも出来ず、ティオは悲憤でぼろぼろと大粒の涙を流した。ニースをこのままには
しておけない。けど自分にはニースを殺すことは出来ない!


「ティオちゃん…。いいよ…」

その時、傷口に舌を這わしたまま、ニースがティオに語りかけてきた。ティオはギョッとして、思わず剣を手から離してしまった。
「はやく…、私を討滅して。私、吸血鬼になっちゃったんだよね。そうでないと、こんなにティオちゃんの
血をおいしいなんて、思うわけないもんね…」
「ニース、あなた気がついて…」
ニースは吸血行為をやめ、涙顔のティオを見つめてくる。その瞳は赤い吸血鬼の瞳だが、中の光は以前と同じニースのものだった。
「もういいの。このままずっと、人の血を吸ってまで生きたくない。約束してくれたよねティオちゃん。
私が吸血鬼になったら、ティオちゃんの手で討滅してくれって。だから、はやく…」
ニースの表情は悟りきったかのように静かで穏やかだ。そして、それを見るティオの表情は逆に苦悩に満ちている。
剣を持つ手がぶるぶると震えている。
「ティオちゃん、はやくして!もし私を討滅してくれないんだったら私、ティオちゃんも吸血鬼にして
この村全員の血を吸い尽くしちゃうよ!それでもいいの?!」
決心がつかないティオに苛立っているのか、ニースの声が激しさを増していっている。
このままだったら、本当にいったとおりにしかねない。
「………、クッ!」
意を決したティオは、手に握りなおした剣を大きく振りかぶった。それを見てから、ニースは微笑みながら静かに目を閉じた。



洞窟の入り口で待っている村人の前に、暗闇からびっこを引いた人影が出てくるのが見えた。
出てきたのは傷だらけで短髪の女性が一人だけ。もう一人の長髪の女性は見当たらない。
「ティ、ティオ殿、吸血鬼は?!」
村の神父が血相を変えて尋ねてきた。ティオは表情を変えずに一言、「討滅したわ」と答えた。
「あ、あの…ニース殿は……」
続けて尋ねてきた神父に、ティオは一枚の法衣を取り出した。
本人がいなく服だけがある。その意味を神父は即座に理解した。
「それは……、お気の毒です……」
「ファーザー(神父)・ロダン、暫くこの洞窟は封印してください。吸血鬼の鬼気が洞窟全体に満ち満ちています。
それが抜け着るまで封印しておかないと、また新たな吸血鬼を呼び込む羽目になるかもしれません」
「わ、わかりました!」
「私は疲れました…。少し、休ませて貰います」
後ろであれこれ騒いでいる神父には目もくれず、ティオは教会へと続く道を進んでいった。
(あれだけ脅しておけば、洞窟に入るような真似はしないでしょうね。後は、今夜のうちにニースをつれて村を出て…)
ティオは、つい先ほどの洞窟内の出来事を反芻していた。


ガキン!という音を立てて、ティオが振り下ろした剣はニースの胸板ではなくその横の地面に勢いよく突き刺さった。
「なんで…?」
ニースが戸惑いとも怒りとも取れない表情をティオへ向けた。
「なんで討滅しないの?!私、吸血鬼なんだよ!みんな、みんな殺しちゃうんだよ!」
「討滅してあげるわよ。それがあなたと私の約束なんだから」
ニースを見つめるティオの目は、いつになく真剣だ。
「でも、それは今じゃない。私はあなたを討滅するが、それをいつするかは私が決めること。まだ私は、あなたを討たない」
「だから、なんでよ!」
ニースは相当な憤りを感じているらしく、両手の爪はぎりぎりと伸び始め、瞳には邪悪な赤光が明滅し
始めている。今すぐにでもティオに襲い掛かり、喉笛を噛み千切りそうな感じだ。
が、それにも拘らずティオはニースの両肩を抱え正対したまま語りかけた。
「ニース、あなたにはまだやるべきことが残っている。あなたの家庭を滅茶苦茶にした二体の吸血鬼を
探し、その手で討ち滅ぼすという使命が」
「あっ…!」
その言葉に、ニースはビクッと体を震わせた。目の邪悪な光はスッと消え失せて理性の光を灯し始め
長く伸びた爪も次第に元の長さに戻っていっている。
「でも…、私も吸血鬼に…」
「そんなこと関係ない。吸血鬼が吸血鬼を滅ぼしていけないなんてだれも言ってなんかいやしない。
あなたが仇である二体の吸血鬼を滅ぼしたとき、私の手であなたを討滅してあげるわ」
ニースはなんと答えていいのか分からずあわあわと口を動かしている。その様はいつものニースとなんら変わらなかった。
「でも、でも私、吸血鬼だから血を吸わないといけないんだよ?夜しか外に出られないんだよ?
私を滅ぼしに他のハンターが来ることも考えられるんだよ?そんなんじゃ、ティオちゃんも大変なことになっちゃう…」
「血ぐらい、私が与えてあげるわ。外のことも、確か教会の封印庫に貴族が作った昼でも外に出られる
魔法具があったはずだからかっぱらえばいい。ハンターなんか逆に返り討ちにしてしまえばいいのよ!」
ティオの言動は、公然と教会に反旗を翻したといってもいい。今のティオには教義も正義も関係ない。
目の前にいる、自分の身代わりとなって吸血鬼になってしまった親友の手助けをすることが全てであった。
「ティ、ティオちゃん……」
ニースの赤い瞳に涙がぽろぽろと浮かんできた。
「大丈夫。あなたが目的を達するまで吸血鬼にも、ハンターにも手を出させはしないわ」
「ティオちゃんが私を滅ぼすため、だよね」
涙を浮かべたまま笑顔で、ニースはとても洒落にならないことをぽろっと零した。それに対しティオも
「ええ。そのとおりよ」
とにこりと微笑んで返した。
「それじゃあ、あなたは夜までこの中に隠れていなさい。中には誰も入って来れないよう外の連中に脅しを掛けておくわ。
それと、あなたの法衣を貸して頂戴。あなたはここで吸血鬼に噛まれて吸血鬼になり、私に討滅されたってことにするわ」
ティオの言に、ニースはぼろぼろになった法衣を脱ぎティオに渡した。洞窟の中は肌寒いくらいの
体感温度だったが、吸血鬼になったニースには関係ない。
「じゃあ少し辛抱していなさい。もし外の連中が入ってきても、間違っても血を吸ったら駄目よ。絶対だからね!」
「大丈夫。今のうちに適当なところに隠れておくから」
絶対絶対と言う念を押して、ティオは洞窟の出口の方へ消えていった。ランタンはティオが持っていってしまったために
あたりは真っ暗になってしまったが、闇に生きる存在になったニースにはなんということもない。
光が当たらない中、ニースの双眸だけが不気味な赤光を放っている。先ほどティオを一緒にいたときとは
明らかに纏っている雰囲気が重く、冷たくなっている。まるで周りの空気まで低く下がったみたいだ。
「大丈夫…。今はティオちゃん以外の人間の血なんか吸わないよ…。ティオちゃんの血を吸うのは私だけ。他の誰にも吸わせはしない」
だからこそ、自分の親吸血鬼にすら容赦はしなかった。普通、親吸血鬼に子吸血鬼は逆らえないはずなのだが
以前に噛まれた影響があるのか、親吸血鬼を滅ぼす際にも何の葛藤も生まれなかった。
「ゆっくり、ゆっくり血を吸って、私に血を吸われる事しか考えられないようにしてあげるよ。
そして、ティオちゃんが自分から私に吸血鬼にしてくれって言わせるの…。ウフフフ…」
暗闇の中、先ほどティオの前で見せていた普段どおりの自分の仮面を剥ぎ取り、吸血鬼の本性を剥き出しにしたニースが低く微笑んでいた。





『猟血の狩人』第二回

月が中天に差し掛かるような深夜、周りを鬱蒼とした森に囲まれた中にそびえ立つ古城はかつて無い喧騒に包まれていた。
古めかしくも厳かな佇まいを見せる内壁は所々で崩れ、決して趣味がよいとはいえないが高級そうな調度品は
見るも無残ながらくたとなり散らばり落ちている。
そしてこの城の主である吸血鬼…、吸血侯爵ヴァンダールは信じられないといった驚愕の表情を顔に浮かべ
必死の思いで城内の通路を駆けていた。
自慢のマントはボロボロに切り裂かれ、全身いたるところに深手を負い、左腕は祝福を受けた銀の短剣に切り落とされている。
この程度の傷、普段ならどうということも無く再生できる。実際、最初の方は裂かれようがもがれようがその都度再生していたのだ。
それが今や、再生にまわす力も無いほどに消耗しきっている。
「なぜだ…。何故、このようなことに…」
ヴァンダールには現在の自分の状況を受け入れることが出来なかった。最初、女二人組が無謀にも自分の城に入って
きたときは、久しぶりの客人&餌が入ってきたと舌なめずりをして喜び、丁重にもてなさねばと思っていた。
が、件の二人組は恐るべき戦闘力でヴァンダールに襲い掛かり、その命を脅かすまで至っているのだ。
「私は…、私は400年の時を生きた貴族だぞ…!なぜ、なぜあんな小娘どもに……」
ただでさえ青い顔をさらに真っ青にし、ヴァンダールは吸血鬼としての生を得てから恐らく初めて感じる
死の恐怖に体を震わせ、城の地下に通じる階段を駆け下りていた。
地下の最深部には自分の避難用の棺桶と、それを守る分厚い扉がついた部屋がある。そこまで辿り着けば
連中が入ってくることは不可能だ。
敵に背を向けることは、ヴァンダールの貴族としてのプライドを酷く傷つけることになっていた。
が、滅ぼされてしまっては元も子もない。吸血鬼がいうのも変だが、命あってのものだねである。
ヴァンダールの後ろからは、自分を追いかけてくる足音がカッカッカッと聞こえている。足音が出ない
吸血鬼の自分をここまで正確に追ってくるとは、よほど吸血鬼退治に慣れた者なのか。あんなに若い女のクセに!
(だが、それもここまで。ここを曲がれば、もう大丈夫…)
聴こえてくる足音から距離を推測すれば、自分が扉を閉めるまでは十分な時間がある。一度錠を閉じて
しまえば、力では勿論、法術を使っても扉を破ることは不可能だ。ここさえ、曲がれば……
「あ、随分遅かったね」
安全圏に逃れえたと思ってホッとしているヴァンダールの前から突然響いてきた聞きなれぬ声。
ギョッとしたヴァンダールの前にいたのは…、ニヤニヤと笑って扉にもたれ掛かっている一人の女性だった。
「き、貴様!何故ここに?!」
予想外の事態に慌てふためき裏返った声を上げたヴァンダールを、目の前の女は赤く輝く目で小馬鹿にするように睨みつけた。
「あのねえ、私たちだって何の下調べもしないでこんなところに来たりはしないの。
ちゃんと城の見取り図も手に入れたし、どの道がどこに繋がっているかってのも把握はしている。
そして、私たちを無視して一目散に逃げる場所。道順を辿っていけばどこか予想がつかないくらい馬鹿じゃないよ」
女性の言っていることは理屈では分かる。逃げ道を予想し、そこを抑えておくのは獲物を追い込む手段と
しては基本的なことである。もっとも、本来狩る者であるヴァンダールが狩られる側に回っているのはいい皮肉であるが。
が、手傷を負っているとはいえヴァンダールは侯爵を名乗る吸血鬼。追いかけて追いつくならいざしらず
追い抜いて先回りをするなど人間に出来る芸当ではない。

人間で、あれば。

「なぜだ!なぜ貴様が、吸血貴族たる私を狙うのだ!!
き、貴様も夜の闇に生きる吸血鬼だろう!なぜ餌に過ぎない人間と手を組み、私を滅ぼそうとするのだ!!」
そう、ヴァンダールの目の前に立っている女。それはヴァンダールと同じく血も通わぬ白蝋色の肌。禍々しく光る
紅い瞳。口元に治まりきらず顔を覗かせる牙を持つ吸血鬼だった。
ヴァンダールは最初、人間と一緒に行動する彼女に不審の目を持ち、次にあからさまに侮蔑の視線を向けた。
自分たちよりはるかに下等な人間に使われている情けない吸血鬼。見ているだけで不快な気分になってくる。
とっとと灰に帰して、相方の鮮血で喉を潤そう。そう考えていた。
が、その思惑はあっさりと打ち砕かれた。
人間の女もさることながら、この女吸血鬼の力は想像を絶していた。ヴァンダールの攻撃を全く意に介さず、
一発一発が致命的な攻撃を行き着く間もなく繰り出してくる。果たして一対一でも勝てるかどうか。
これほどの強さを持つなら爵位を名乗っていてもおかしくはないし、そうであれば自分の耳に届かないわけが無い。
だからこそ納得がいかなかった。この女吸血鬼が、なぜ人間と行動をともにしているのかが。
「どのような理由があるかは知らぬが、我々が人間に使役されるいわれは無いのだ!
今からでも遅くは無い。私と手を組んであの人間の血を飲み尽くし、共に享楽の宴を……」

バキィッ!

「ぐおっ!!」
必死に目の前の女吸血鬼を口説こうとするヴァンダールの顔に、音速を超えた速さで女吸血鬼の裏拳が
飛んできた。自慢の牙を含めた歯を数本へし折られ、ヴァンダールは無様にも床に倒れこんでしまった。
「は、はにをぉ………!」
口元を右手で押さえ、恨みがましく女吸血鬼を見上げたヴァンダールの顔が恐怖で凍りついた。
ヴァンダールを睥睨する女吸血鬼の顔は、凍りつくほどの冷たさを持った怒りで満ち満ちていた。
「バカなことを言ってるんじゃない…
ティオちゃんの血は私だけのもの。あんたみたいな薄汚い下衆が口にしていいものじゃないわ…」
長く生え揃った爪を持つ右手が、ヴァンダールの頭をがっしりと掴み吊るし上げた。メキボキと頭蓋骨が
割れ壊れる音が通路に響き、直後にヴァンダールの情けない悲鳴が続いていった。
「あがっ!い、痛いっ!骨が、砕けるっ!!」
「貴方の馬鹿可愛さに免じてい優しくしてあげようと思ったけれど…、気が変わった。
お前はティオちゃんを手にかけようとした。手にかけようと私に持ちかけてきた。身の程を知れ、クズ」
爪が骨に食い込み、ヴァンダールの額からだらだらと血が零れ落ちてきているが、女吸血鬼は全く力を緩めず
ヴァンダールの首をごきりと180度曲げ、強引に自分の方へと振り向かせた。
「一つ聞いておくわ。お前、アルムって名前の吸血鬼を知っている?私くらいの年恰好で、青い髪をした…」
「し、知らん!聞いたこともない!だから、もう許して……」
女吸血鬼の質問をろくに聞くこともなく、ヴァンダールは必死に命乞いをしてきた。
が、それが女吸血鬼の勘気にさらに触ってしまったようだった。
「本当に使えない奴……。だったら、お前はもう用済みよ」
ぎらつく紅い瞳を軽蔑で細く歪ませ、女吸血鬼の口元から零れた牙がヴァンダールの首筋へと近づかせていく。
「覚悟しなさい。とびっきり痛く苦しくしながら、お前の血と魔力を吸い取ってやる」
「なっ!き、貴様『共喰らい』か?!やめろ、やめろぉっ!!」
普通、吸血鬼は自らの飢えを満たすため他者の血を搾取する。が、中には血とともに魔力等を奪い取る力を持った者もいる。
勿論通常は力ある人間を襲い奪うのだが、もっと手っ取り早いからとより強い魔力を持つ同族の吸血鬼を狙う事もまれにあった。
それは吸血鬼の間でも禁忌とされ、『共喰らい』と呼ばれ忌避の対象とされてきた。
「共喰らいが我ら吸血鬼にとって、どれほど罪深いことであるか知らないのか!」
「お前たちの理屈なんか知るもんか」
必死に自らを狙う牙から逃れようと吸血鬼としての正論をヴァンダールは叫び散らすが、女吸血鬼は
まるで意にも介さないといた風に淡々と言葉を返した。
「そう言えば、これまでも幾人もの吸血鬼がそうやって命乞いしてきたね。ちょっと前までは威勢がよかった
貴族が私に牙を剥かれた途端、涙声になってやめてくれ、やめてくれってせがむのよ。
まあ、もちろんみんな吸い尽くしてやったけれどね。吸っている最中にちらっと顔を見たら、苦しくて
喘いでいる顔が見る見るうちに干からびていくのよ。それが楽しいったらなくてね。ククク……」
「ひ、ひいぃ…」

この瞬間、ヴァンダールは理解した。自分を拘束している女吸血鬼は自分など及びもつかない化け物だということに。
いったいこの化け物は、どれほどの同族を手にかけ魔力を搾取してきたのか。
見誤っていた。最初に対峙したその時、人間と一緒にいたことで侮り、内に込められた魔力を計り損ねていた。
「さあ、お話は御終い。そして、お前の命もおしまい」
女吸血鬼はぺロリと上唇を舐めると口をガッと開き、ヴァンダールの喉笛に勢いよく齧り付いた。

「ガアアァァァッ!!!」

ヴァンダールの魂を切り裂くような悲鳴が辺り一帯に響き渡った。



女吸血鬼がヴァンダールの血を吸い上げている最中、けたたましい足音とともに一人の人間の女性がこの場に入り込んできた。
その出で立ちは傍目から見ると教会に所属している神罰実行機関『ハンター』の制服と同じものだったが
ハンター所属を示す教会の機関章を、彼女は身につけていなかった。
「ニース!」
「…あ、ティオちゃん。随分遅かったね。もうあらかた吸い尽くしちゃったよ」
ニースと呼ばれた女吸血鬼は、相方の女性〜ティオを目にした途端吸血行為を中断し、血と魔力を絞り尽くされ
ボロ雑巾のようになったヴァンダールを片手でぶんぶんと振り回した。
「あなたと違って私は人間なの。そんなに早く走れないわよ。で、どうだった?」
「ん〜〜…、いまいちかな。こいつ偉ぶっていたわりには魔力も血も大したこと無かったよ。
やっぱりティオちゃんの血が一番かな」
にひひと笑うニースにティオは一瞬きょとんとしたが、直後あきれたかのように肩を竦め言葉を返した。
「誰が血の品評をしなさいって言ったのよ。あなたの仇の手がかりつかめたか、ってことよ」
「あっ、ゴメン!そりゃそうよね。でも、そっちの方も収穫なし。全然駄目よこいつ」
口に付いたヴァンダールの血をぺロッと舐め取り、ニースは照れくさそうに頭を掻いた。さっきヴァンダール
の前で見せていた凄絶な表情からはとても想像できない。
いや、吸血鬼になってしまう以前からニースと一緒にいるティオにとっては、今のニースの姿こそが普通のニースだった。
逆に、ヴァンダールに見せていたニースの姿こそがティオにとっては想像の範囲外のものである。
(まったく、吸血鬼になっても以前とちっとも変わらないんだから)
そんなニースの姿にティオは苦笑しつつも、腰に下げた短剣をすらりと抜き払った。
「じゃあ、そいつはもう討滅しても構わないのね」
「うん。いいよー」
ニースは吸い尽くされからからに干からびたヴァンダールをひょいと持ち上げ、ティオ目掛けて振りかぶった。
「や、やめぇてぇ……」
「そぉれー!」
擦れて殆ど聞こえないヴァンダールの懇願を完全に無視し、ニースはヴァンダールをティオへ向けて放り投げた。
放物線を描いて飛んでいくヴァンダールの落下地点には、ティオが抜き身の短剣を構えて待ち構えている。

「塵は塵に。灰は灰に、還れ!」

気合とともに突き出された剣は、唸りを上げて正確にヴァンダールの胸板を貫いた。

「ギィやあアアァッ!!」
神の祝福を受けた剣に弱ったヴァンダールの体は抗しきれる事は無く、たちまちのうちにヴァンダールは青い
浄化の炎に包まれ、400年に及ぶ長い生涯の幕を閉じた。
「さて、と。あとはこいつの灰を聖水で………。ちょっとニース、あなたまたやってるの?」
懐から浄化用の聖水を取り出そうとしたティオが眼にしたもの。それは手にした小瓶にヴァンダールの灰をせっせと詰めているニースの姿だった。
「いいでしょ。どうせこの程度の灰じゃ復活なんか出来はしないんだし」
吸血鬼を滅ぼして灰に還したとしても、それで事が終わるわけではない。吸血鬼というのは灰にしても
完全に死ぬわけではなく、ある程度の血を灰に振り掛けると血に含まれる生命力を吸収し復活してくることがある。
それを防ぐために灰を聖水で洗い流すか、燃えさかる炎に灰を投げ入れて初めて吸血鬼を完全に討滅することが出来る。
だから、今ニースがしているみたいに灰を残しておくというのは、何かの拍子で滅ぼした吸血鬼が復活しかねない危険な行為なのである。
もっとも、少ない灰で吸血鬼を復活させるには莫大な量の生命力と魔力が必要となるため、小瓶程度の量ではまず不可能ではあるが。
見ると、ニースの法衣の裏生地には夥しい量の灰入りの小瓶がストックされている。コレクションのつもりなのだろうか。
「全く…、吸血鬼になって変な癖がついたものよね…」
最初、吸血鬼の灰を収集しているのを目の当たりにしたときには何をしているのかと目を疑った。
ニース曰く『吸血鬼を討滅した証なの』とのたまっていたが、灰を手元に置くことが危険なことであることに変わりは無い。
確かに、小瓶に入る程度の灰なら復活する可能性はほとんどない。よほどの魔力を持った血でも振り掛けない限りは。
でも、もしそんな血があったとしたら…
「あ、もう瓶が二つしかない。町に戻ったら買っておかないとね」
後ろの方でニースが何事か呟いていたが、構わずティオはヴァンダールの亡骸である灰に聖水をどぼどぼと振りかけていた。
「さて、と。じゃあ麓の町に戻りますか。まだ夜が明けるには間があるけれど、ちゃんと上は被っておくのよ」
「わかっているって」
ニースは懐から黒に金の装飾がされたフードを取り出すと、すっぽりと頭から被ってティオと共に城を後にした。
後には、長い間連れ添った主を失った古城だけが月明かりの下寂しく佇んでいた。

日が昇り、人々が日常の営みを始める時間帯。
小さな旅館を営む親父が客を送り出してから玄関前の掃き掃除をしようと表に出た時、玄関前に人が二人立ち並んでいた。
一人は長身で金色の髪を短く刈りそろえ、教会の出自を思わせる法衣を来た女性。
もう一人は頭までフードをすっぽりと被っており、何者かはよくわからない。
「あの……、どういったご用件で……?」
親父は箒を握り締めたまま、目の前の不審人物に恐る恐る声をかけた。
「こんな朝早くすみませんが…、数日部屋を借りたいのです。なにぶん、夜通し歩いてきたので…」
どうやら、二人は夜を徹して町まで歩いてきたらしい。よく見たら、金髪の方は顔に疲労の色が出ているし服も所々くたびれている。
「わかりました。ではご案内いたしましょう。どうぞ…」
親父に連れられ、二人は旅館の中へと入ってきた。
「あ、なるべく北向きで日が入りづらい部屋をお願いします」
随分変な注文をする客だな、と親父は思った。大抵日差しがよい方を客は好むのに、悪い方を選ぶとは。
そう言えば、もう片方の客は一行にフードを取ろうとしない。
(もしかして…この二人、何か良からぬ素性の人間では…)
親父が不審に思ったのも無理はない。
「もし…、よろしければお召し物をお預かりいたしますが…」
「あっ、大丈夫です。お構いなく…」
「?!」
フードの中から聞こえてきた若い女性の声に、親父は思わず後ろを振り返ってしまった。
そして、目に入り込んできた衝撃でぶっ倒れそうになってしまった。
そこには、フードを捲り素顔を晒した女性の笑顔があった。
艶やかな黒い長髪。透き通るように白い肌。血のように赤い唇。
「………」
その人とも思えぬ妖しさに、親父は動きを止め目を見開いてじっと凝視していた。
「あの…、部屋の方は…」
金髪の方の声に、親父ははっと我に帰り顔を真っ赤にして謝りながら、部屋の方へと向き直った。
「しかし、ここまで夜通し出歩いてくるなんて大胆なことをなさいますな〜」
親父は照れ隠しなのか、二人に向けてどうでもよさそうな話題を振ってきている。
「ここの近くには強大な吸血鬼が住む古城があるんですよ。下手をするとお客様みたいな若い女性は連れ去られてしまいますからね〜」
「ああ、その点ならご心配なく」
また親父の足がぴたりと止まった。え?ご心配なく?どういうことだ?
「その吸血鬼なら、昨晩私たちが討滅致しましたから」
「え゛?!」
親父は今度こそショックでぶっ倒れてしまった。


「ふう…」
あの後、何とか蘇生した親父に部屋に案内されてから、ニースは大きなため息をついてベッドに腰掛けた。
心なしか、ただでさえ白い肌がさらに白くなっているような感じを受ける。
「ニース、大丈夫?まさか、『降闇(ふるやみ)』のどこかが破れていたとか…」
ニースのどこか体調が悪そうな振る舞いに、ティオは心配そうに声をかけた。
吸血鬼であるニースは、当然陽光の下にいることは出来ない。僅かに日光に触れただけでもそこから発火し
放っておけば全身に火が回り死に至ってしまう。それはいかなる吸血鬼でも逃れることは出来ない。
が、それに抗おうとした一人の貴族が、気の遠くなるような年月を掛け一枚の魔導着を作り上げた。
それは、纏った者に夜の闇を降らせて陽光を遮り、日中でもその中だけ夜の状態にすることが出来る代物である。
作った貴族はその魔導着に『降闇』と名づけ、これで自分は太陽を克服できたと大いに喜んだ。が、
わざわざ日の元に出るメリットを見出すことが出来ず、結局使われることの無いままハンターに狩られてしまった。
その後、『降闇』は教会の資料庫に封印され無為の時を過ごしていた。
それを、半年前ニースを失ったことを理由に教会をやめたティオがちょっくら拝借して現在に至るところである

吸血鬼であるニースは降闇がなければ日中外を歩くことが出来ない。いや、降闇を纏っていたとしても
やはり日中の行動は吸血鬼であるニースにとって相当な負担になっているのは疑いが無い。
人間である自分の時間に合わせてもらっているニースに、ティオが神経質になるのも止むを得ない。
そして、心配そうなティオに対し、ニースは首を力なくぷるぷると横に振ってか細い声で答えてきた。
「ううん。そうじゃないの。ただ…」
「ただ?!どうしたのよ!」
ただならぬ雰囲気のニースに、ティオの声も自然荒くなる。が、そこまで言ったあとニースは突然顔をパッと上げて
「最近、ティオちゃんの血を飲んでいないから体がだるくて、ね…」
と喋った後、舌をぺロッと出してきた。
「………」
からかわれた。とティオが理解したのは、ニースの言葉から暫くたった後だった。
「ニ、ニースぅ……。
わかった。今日は久しぶりに血をあげようと思ったけれど、そんな軽口が言えるんならまだ大丈夫よね」
腕組みをしつんと横を向いたティオに、ニースはたちまち涙目になって袖口を掴んできた。
「ああ!うそうそ!!本当はすぐに倒れそうなくらい力が出ないの!
ねえ、頂戴ちょうだい!ティオちゃんの血、頂戴よぉ!」
子どものように駄々をこねているニースの潤んだ瞳が赤い光をキラキラと放っている。
対象を虜にする力を持つ吸血鬼の魔眼だ。
「こらぁっ!魔眼なんて使うんじゃないの!
わかったわかった。そんなものを使わないでもちゃんとあげるから落ち着きなさい!」
ティオの命令で人間の血を吸うことを禁止されているニースは、基本的に同族である吸血鬼の血を搾取して
生命を保っているが、やはり人間の血を全く吸わないわけにはいかず、定期的にティオの血を体内に受け入れている。
「やったぁ!ありがとうティオちゃん!」
ニースはティオの言葉にたちまち目を別の光で輝かせ、口から牙を覗かせたままにぱっと微笑んだ。
「全く…あれほど魔眼には気をつけろって言っているのに…」
「えへへ。ごめんごめん」
それほど多くはないのだが、ニースはティオにおねだりをするときに魔眼を放ってくるときがあった。
多分、吸血鬼としての本能が相手に言うことを聞かせるために無意識に力を発動させているのだろうが
くらうティオにとってはたまったものではない。
最初の頃はもろに魔眼を見てしまい意識が飛んでしまったこともあった。はっと気が付いたときには
ニースの眼前に喉首を晒しており、ニースが泡をくって謝っていたものだ。
「じゃあ、用意するからちょっとベッドに座っていなさい」
ティオはニースをベッドに腰掛けさせると、脇に置いておいた荷物から愛用の短剣を取り出しすらりと引き抜いた。
きらりと光る刀身がティオの瞳に反射してくる。
(しかし…、あの子もおねだり上手になったわよね…)
元々妹のように思っていたニースなので、面と向って頼まれるとつい我侭を聞いてあげたくなるような気になってしまう。
しかも吸血鬼になってから以前より開放的になったのか、それとも過去のわだかまりを全て暴露したから
なのか、ニースは以前にも増してティオに積極的に絡んでくるようになった。遠慮が無くなった、といえば
語弊があるが、巧みにティオの心を動かして自分の求めることを通すようになってきた。
(まあ、ニースが喜ぶ顔を見るのは嫌いじゃないし…)
苦笑しつつティオは剣を持ったままニースの前まで進むと、おもむろに短剣の切っ先で左腕をすっとなぞった。
「っ!つぅぅ…」
剣が沿った後をなぞるように焼けるような痛みが走り、じんわりとティオの赤い血が腕に滲み出てきた。
「あ、ああ…。ティオちゃんの血、血ぃぃ…」
こぷこぷと溢れてくる血を目の当たりにし、ニースの瞳は大きく見開かれ、また自然と赤光を帯び始めた。
荒い吐息が部屋の外に聞こえんばかりに響き渡り、口元からはつぅっとはしたなく涎が零れ落ちてきている。
「ほら…、早くしないと滴り落ちちゃうわよ。私の血だって限りがあるんだから…」
「う、うん!!」
目の前にすっと出されたティオの左腕に、ニースは待ちきれないかと言わんばかりにむしゃぶりついた。

チュッ

「くぅ!」
ニースに口をつけられた瞬間、ティオは背筋に走った刺すような快感に思わず軽い悲鳴をこぼしてしまった。
(い、いつものことだけど…、この感覚は、やばいわよね…)
吸血鬼に血を吸われるという行為は、対象者に虜にさせるような快楽をもたらしてくる。一度その快感を
味わってしまうと、体のみならず魂までもがそれに溺れてしまい、自らの肉体が破滅するまでその快感を
求め続けることになる。勿論その果ては自らも吸血鬼と化してしまうことである。
ニースがティオの傷口に舌を這わすたびに、ズキズキと響く痛みが引いてじんわりとした暖かさと共に
心の中にぴりぴりとした疼きが顔をもたげてくる。唇が肌に触れるたびにゾクリとした快感が込み上げてくる。
こくりとニースの喉が動くたびに、自分の命がニースの中に注ぎ込まれていく感覚が心の中をよぎり
自分の命の全てをニースに吸い取られたいという気持ちが一瞬ではあるが浮かび上がることがある。
ニースが流れている血を舐め取っているだけでこんな気持ちになってしまうのだ。もしニースが牙を剥いて
ティオの首筋に喰らいついて血を啜りとる。なんてことになったら…

自分の意思で喉をニースの前に晒し、牙が埋められるのを心待ちにして股を濡らし
ひやりとした肌を密着させて互いに抱きつき、喉に喰らいついた頭をしっかりと抱きしめ
全身の血を吸い取られる快感をじっくりと味わい、身も心もニースに捧げ尽くしてから達し
その後吸血鬼として目覚め、ニースの柔肌を思いっきり堪能した後、その首筋に長く伸びた牙を突き立てて
ニースの甘い吐息を感じながら思いっきり吸血の快感を味わい…

「…ティオちゃん、どうしたの?ボーっとしちゃって…。もしかして、吸いすぎちゃった?」
幸せそうな顔をして血を舐め取っていたニースが、目を剥いたまま上の空状態のティオを見てどうしたことかと
傷口から口を離し心配そうに声をかけてきた。
「?!」
その声にティオは妄想の世界から現実に引き戻された。
(わ、わ、私ったら何を考えていたのよ!ニ、ニースに血を吸われることを求め、き、吸血鬼になって
ニースを求めるだ、なんて…!不浄にも、程があるわ!!)
曲りなりとはいえ神に仕えたことのある身でありながら、人外の快楽に身を委ね、自ら人をやめることを望む…
そんな考えを浮かべてしまったことにティオはぞっと体を震わせた。
顎に何か冷たい感触が走っている。恐る恐る右手で拭ってみると、それは自らの口元から零れていた涎だった。
あらぬ妄想に身をやつし、果ては涎をたらしてまで浸っていた。それをニースに思いきり見られた!
「〜〜〜〜〜〜〜!!」
たちまちティオの顔は熟れたりんごのように真っ赤になり、自由になっている右手で拳骨を作り、ぼかぼかと
自らの頭を叩きまくった。
「ティ、ティオちゃん?!」
「ごめんニース!やっぱり私ちょっと疲れているみたい!悪いけれど寝かせて貰うわ!」
(きっと疲労で思考回路がおかしくなっているのよ。そうに決まっている!!)
まあ、夜通しで吸血鬼を討滅してから町まで休憩抜き出歩いてきたのだから疲れていないほうがどうかしている。
ティオはそう自分で決めつけ、捲った腕に包帯を巻いて止血すると、向かい側のベッドにどすん!と飛び込んだ。
「ごめんね、勝手なこと言っちゃって…」
「いいの。ティオちゃんが疲れているのにそんなに血を貰うわけにはいかないもの」
ニースはあくまでティオを気遣い、嫌な顔一つ見せていない。それがティオの心にさらに罪悪感を植え付けてしまっていた。
「私も日が出ているから表に出られないし。夜までゆっくり寝ているよ」
「うん…。じゃあ、おやすみ…」
ティオは申し訳なさと恥ずかしさでニースの顔を真っ直ぐ見ることが出来ず、ニースとは反対方向を向いてから
きゅっと目を閉じた。とにかく早く眠りにつき、疲労を取り除いてあんな変な妄想を抱くような心を静めるために。

「………」

やっぱり疲れが溜まっていたのか、ティオは目を閉じてから数刻もたたないうちにすっと眠りに付いた。
すーすーと軽い寝息が、静まり返った部屋の中に響き渡っている。

そんな静かな時間がいくらか経過した時、
突然、ティオと共に横になっていたニースの眼がカッと見開かれた。
音も無くゆらりと立ち上がったニースは、そのままティオの元へ歩を進める。
「ティオ…ちゃん…」
そっとティオの耳もとで名前を囁くが、眠りについているティオはぴくりとも反応しない。
「ティオちゃん…。ティオ、ちゃぁん…」
ニースの顔に、普段ティオの前では絶対に見せないような笑顔が張り付く。いつもの無邪気な微笑では
なく、欲望に塗れた薄ら笑いが。
「ごめんね、ティオちゃん…。私、やっぱあれくらいじゃ全然満足できないの…」
ニースはティオの掛け布団をまくり、するするとベッドの中に潜りこんでいった。ティオの暖かい体温が
体温が全くないニースの体に肌越しに伝わってくる。
「……ん…?」
もぞもぞと自分の体に纏わりつく感触に、さすがにティオの意識は呼び起こされ閉じていた瞳がうっすらと開いていく。
だが、今の状況でティオ起きるのはニースにとっては余り好ましい物ではない。
「ティオちゃん、まだ起きなくてもいいのよ。今はゆっくりと眠っていればいいの。ゆっくりと、ね…」
開きかけたティオの瞳を、ニースは赤く光る目でジッと射抜きつつ、暗示の篭った言葉を投げかけた。
「あ……」
ニースの魔眼に見つめられたティオの瞳が一瞬だがぼぅっと赤く輝き、そのままティオは再び深い眠りへとついていった。
「ウフフ…。ティオちゃんったら本当に単純なんだから」
目の前でニースがクスクス笑っていても、ティオは起きる気配すら感じさせない。魔眼でかけられた暗示
により、しばらくの間は例え真横で鐘を鳴らされても起きることはないだろう。
「もう…、このまま食べちゃいたいくらい…」
ティオの健康的な肌色をした喉首が、ニースの眼前に無防備に晒されている。それが視界に飛び込んできたとき
一瞬だがニースの心に、このまま牙を埋めて血を味わい、ティオの全てを蹂躙したいという気持ちが湧き上がった。
「…ダメ。ダメよ」
だが、ニースはその気持ちを必死に打ち消した。
「そんな簡単に堕としちゃったら面白くない。もっと、もっと時間をかけて、本当にティオちゃんが
私に身も心も捧げるまでになってくれないと…」
もうその兆候は現れている。ティオちゃんは私がいうことにだんだん逆らえなくなってきている。
自分に自覚が無いまま、私の虜になりつつある。
ティオは吸血行為に対して誤解をしていた。
牙を穿たれて吸血されたら、犠牲者はその吸血鬼の虜になってしまい吸血されることを焦がれる下僕と
なってしまう。そのため、ティオはニースに血を与えるとき、あらかじめ自分で傷をつけ、溢れ出る血を
ニースに飲ませていた。
だが、吸血鬼になってニースは吸血というものがどういうことか知ることができた。
吸血は相手の血をすうと同時に、相手の命も吸うのだ。そして、吸って減った分の命を吸っている吸血鬼の力で満たしていく。
それにより血=命を全て吸われた時、吸われた相手に残っているのは吸っていた吸血鬼の力のみ。その力に
よって血を吸われた犠牲者は新たな吸血鬼になって、血を吸った相手に絶対の忠誠を尽くすことになる。
「牙で吸おうが舐めとろうが関係ないの。『血を吸う』という行為そのものが、相手を取り込むことなんだから、ね」
ニースが右手の人差し指をぴっと伸ばした。その先の爪がギリギリと長く伸び、錐の様に鋭く尖っている。
「まだ牙で吸ったりはしないよ。噛み跡が目立っちゃうし、楽しみがなくなっちゃうしね」
もちろん牙で吸った方がより多くの命を取り込め力を吹き込めるから早く対象を堕とすことはできる。
でもニースはそれを望んではいないので、わざわざ爪で傷をつけようというのだ。
ニースの長く伸びた爪が、ティオの首筋にゆっくりと近づき、プツッと軽い弾力感と共につぷつぷと埋められていく。
「んっ……」
さすがに痛みを感じたのかティオは顔を軽く歪めるが、暗示の効果か起きることは無かった。
そして、そのまま進んだ爪は静脈を軽く傷つけ、爪と肌の間からぷくーっと血の珠が吹き出してきた。
「それじゃあ、いただきまーす」
爪を引き抜いたニースは、じわじわと血が溢れてくる首筋に直接唇をつけ、ちゅうちゅうと音を立ててティオの血を飲み込み始めた。

「っ!!」
その瞬間、ティオの体がビクン!と跳ね、寝ているはずの瞳がカッと見開かれた。
が、その瞳には光が射しておらず、周囲に対しても何の反応も示してはいない
それは、ティオの意識そのものは未だ深い眠りの中にあることを示している。
それでも、ニースが吸血を始めた瞬間から、その顔には虚ろな笑みが浮かび熱い吐息を吐きはじめている。
シーツを掴む手にぎゅっと力が込められ、興奮で真っ赤に染まった全身からは滝のように汗が滲み出てきていた。
「んっ、んぐっ……」
「ふわぁっ、はぁっ…」
ニースが滲み出てくる血を口を窄めて吸うごとに、ティオの見えていないはず瞳が悦びに濡れ、語るはずのない
口からは悦びの声が漏れ出でて、動かないはずの体がニースの下でじたばたともがいていた。
「ぷはぁっ…。
ティオちゃんったら、寝ているのにそんなに感じちゃって…。かわいいの」
「あぁ…。すごぃ…、いいの。吸われるの、いぃぃ……」
ティオは、自分の血を吸っているニースの頭を片手で抱え、うわ言のようにぶつぶつと言葉を繰り出している。
その姿は、先ほどティオが妄想し、必死に打ち消そうとしていた自分の姿そのものだった。
「ふふふっ、そうよ。それがティオちゃんが心の底で本当に望んでいることなの。
わかっているわよ。さっきティオちゃんが何を考えてポーッとしていたのか…
こうしてほしかったんでしょ?私に、体中の血を吸い尽くされたかったんでしょ?」
「そ、そうなの…。ニースに、私の全て、吸われたかったの……」
「私と同じになって、私と同じ気持ちを味わいたかったんでしょ?」
「うん…。私も、ニースと同じになりたいの…」
無意識のまどろみの中にいるティオは、ニースの言われるままに全てを肯定し、その言葉を深層意識
の中に刷り込ませていっている。
こうしたことが過去に幾度も繰り返され、ティオは無意識のうちにそれらニースに吹き込まれたことを
さも『自分で妄想して心の中に浮かんできているように』捉えるようになってしまっていた。
「ウフフ。かわいいティオちゃん…。さあ、いつもの時間よ」
「うん…」
眠ったまま、ティオはベッドから身を起こしてちょこんとその場に座り、ニースはティオの目線に顔を
あわせてから、おもむろに自分の人差し指を鋭い牙でガリッと刺し貫いた。
「さあ、私の眼を見るのよ」
指から血をポタポタと垂らしたまま、再びニースが赤く光る目でティオの瞳を射抜く。
それに伴いティオの瞳もまたボゥッと赤く輝いた。
「ぁ…」
「いい、ティオちゃん。ティオちゃんは私のもの。ティオちゃんの体も、血も、命も、ぜ〜んぶ私のものなの」
「うん…。私の全ては、ニースのもの……。この体も、血も、私の、命も」
瞳を赤く輝かせたまま、ティオはニースの言ったことを抑揚のない声で反復していく。その声を聞いてから
ニースは赤く濡れた人差し指をティオの眼前へと突き出した。
「これがある限り、ティオちゃんは私から離れることが出来ない。ティオちゃんの血が私の中に入り、
私の血がティオちゃんの中に入る。お互いの血が繋がっている限り、私たちは離れることは出来ない」
ニースの指がティオの唇にちゅっと触れ、溢れる血がティオの唇を濡らしていく。
「んぅ…ちゅっ……」
その血を、ティオは艶かしく舌を動かして舐めとっていった。その時、一瞬だけだがティオの瞳が一際赤く輝いたように見えた。
「ティオちゃん、おいしい?私の血は」
「ああぁ…、おいしい、です……」
吸血鬼でもないのに、ティオはニースの血を本当においしそうに舐め取っていた。いや、瞳を赤く輝かせて
血を舐めとるその姿は、遠目から見たらどう見ても吸血鬼そのものと言っていい。
「フフフ、もう私の血を何の抵抗も無く飲めるようになったわね。眠っている間だけだけれど…
そう、この味を覚えておくのよ。ティオちゃんを虜にする、甘い血の味をね…」
いい加減放っておくといつまでも指を舐っていそうなので、ニースはティオの口から指をつぅっと放した。

「あっ、もっと…」
慌てて指をしゃぶりなおそうとするティオをニースの魔眼が捉え、ティオの体がビクン!とその場で立ち留まった。
「今日はこれでおしまい。目が醒めたら、ティオちゃんは今のことを全部覚えていない」
「は、はい…」
「でも、心の片隅では決して忘れずに覚えている。いいわね」
「うん。わかり、まし、た……。ニー ス、さ   ま…」
ティオの瞳の赤い光は次第に消え失せ、それに続くようにティオの瞳も閉じられてゆき、再びティオは
すーすーと安らかな寝息をたて始めた。
「ふふっ、堪能堪能。じゃあ私も寝るとしましょうか。やっぱり吸血鬼は日が出ている時は寝るのが当たり前だしね…」
腹が膨れたからかニースの方も急激に眠気を催し、ベッドに戻り頭から掛け布団を被った。
それから二人はぴくりとも動かずこんこんと眠り続けた。




「んん…」
軽い呻き声を上げ、ティオが目を覚ましたのは日も傾いた夕方頃だった。雨戸から僅かに入ってくる
光は、もうオレンジ色になっている。
「あっちゃあ…。少し寝すぎたかな」
失敗失敗と自分を責めながら、ティオはベッドから身を下ろした。
その時、首筋からチクン!とした痛みが体に響いてきた。何事かと思って鏡を見てみると、左の首筋に赤く腫れた跡がある。
「寝ている間に虫にでも刺されたのかしら…?」
自分が寝ている間、何が起こったのか全く覚えてないティオはそれ以上深い詮索はしないでくしゃくしゃになった
服を着替え、外に出る準備をしていた。
夜通し歩いた後そのまま旅館に入り、何も食べることなく寝てしまったのでさすがに空腹が限界に達してきている。
「ニース…、はまだ寝てるか」
ニースの方はベッドに体を突っ込んだまま、まるで死んでいるかのように静かに眠っている。
まあ、吸血鬼のニースは普通に生きているとはいいがたいのでその表現が適当とは思えないが。
「そのまま、寝かしておいてあげますか」
夕方とはいえまだ日も出ているし、ニースに普通の食事は全くの無意味だ。なら、このまま寝かせておいた方がいい。
「じゃあ、私はちょっとご飯を食べてくるので…。ゆっくりと眠ってなさいね…」
ティオはなるべく音を立てないようにしてドアを開き、表へと出て行った。

夕方とはいえ、表通りの人の数はまだまだ多い。活気がある人ごみの中を、ティオはすり抜けるようにして進んでいった。
「さて、どこか適当な店は…」
ニースに血をあげてしまったので、心なしか頭が重い。血の回復のために何か鉄分を多く含んだ食事を
取らないとと思い、ティオはそれらしい料理が置いてある店を探し回っていた。
その時、

「先輩?先輩じゃないですか!!」

ティオを呼び止めるどこかで聞いた事がある声が聞こえ、思わずティオは後ろを振り向いた。

第二回終



『猟血の狩人』 第三回

「先輩?先輩じゃないですか!!」

不意に、後ろからどこかで聞いた事がある声が聞こえ、はっとしたティオは思わず振り向いてしまった。
そこには、普段ティオが着ている法衣と全く同じものを身につけている二人の人間がいた。
一人は、ティオより背が低くて細面でやや幼い印象を与え、肩より少し伸ばした髪を赤い紐で結わき、
背中に自身の身長ほどもある大剣を背負っている少年。
もう一人は、少年より肉付きがよく髪を無造作に短く切り揃え、地面に届きそうなほどの長い外套を羽織った物静かな女性。
そのうち、少年の方が手をぶんぶんと振り回してティオに向って声をかけていた。
「えっ、リオン…。アンナぁ?!」
自分の目に飛び込んできた二人の顔を見て、ティオはギョッと目を見開いた。
半年前に教会を辞めたティオだが、その時身につけていた狩人(ハンター)の制服ともいえる法衣は
機能性に優れ頑丈で、多少だが退魔の効果もあるので今でも変わらず身に付けている。
その法衣を纏っている前の二人は、当然ながら教会の人間であり、ティオの知り合いでもある。

リオンもアンナも自分が狩人に入ってから2年ぐらい後に入ってきた後輩で、リオンは下手をすると少年としか思えないような面差しを
しており、また狩人志願とは思えないような大人しい性格をしていたので、ニースとは別の意味で狩人に向いていないのではとティオを不安がらせていた。
が、生来の真面目さと熱心さからかめきめきと頭角をあらわし、同期の中では1、2を争うほどの腕前となっていった。
逆にアンナは普段から人付き合いが悪く、口下手なのか滅多に他人と言葉を交わす機会が無いので周囲から少し浮いた存在
だったが、いざ戦闘となると闘志を剥き出しにして襲い掛かり、吸血鬼のみならず周りにも甚大な被害が発生することがままにあった。
そして、その後始末に追われたパートナーが過労でぶっ倒れたことも一回や二回ではきかない。
それ故、教会は暴走しがちなアンナを抑える役目としてリオンをパートナーとして組ませる措置を取っていた。
実際これは成功しており、それ以降にアンナ絡みの被害報告を聞いたことはない。
そのかわり、そこまで事態を至らせないようにしているリオンの気苦労は想像を絶するものだろうが…
そして、ティオはリオンの実技研修や戦闘訓練を指導した事があり、教会にいた頃から先輩先輩と慕われていた存在だった。
それだけに、ティオが教会を辞めると聞いた時は顔をくしゃくしゃにして泣き出し、考え直してくださいと
裾を引っ張ってまで懇願してきたものだった。

そのリオンとアンナが目の前にいる。その時ティオは思わぬ場所で旧知の人間に再会できた喜びよりも先に
警戒感から無意識に身を強張らせてしまった。
ティオは教会を辞める際に、倉庫から教会の封印物である降闇を拝借したという少々まずい経歴がある。
倉庫の奥の奥にしまわれており、ほとんど人目に晒されることも無かった代物なのでそうそうばれることは
ないはずなのだが、万万が一ということも無くはない。
それを知った教会がリオンとアンナを差し向け、降闇の奪還とティオの確保を命じられていたら…
いや、それ以前にティオは本来狩るべき対象である吸血鬼と行動を共にしている。
いくら人を襲わないと盟約を立て、それを実行していたとしても教会にとってはそんなことは関係ない。
教会にとって吸血鬼とは排除すべき存在であり、いかなる理由があったとしても考慮にすら入れられない。
ティオが死んだと報告しているニースが吸血鬼となってティオの傍にいることを教会が知れば、教会は
吸血鬼であるニースも、それを庇おうとしたティオにも容赦はしないだろう。間違いなくニースは狩られ
ティオも捕縛され、教会に連れて行かれ審判を受ける身となってしまう。
別に自分の身がどうなろうと知ったことではない。
が、自分の失敗から図らずも吸血鬼になってしまったニースを再び死の淵に追いやるわけには絶対にいかない。
(ここにリオンとアンナがいる。これは偶然なのか、それとも…)
ティオは無意識に腰を落し、警戒されないレベルで二人の一挙手一投足も見逃さないよう気を張り詰めた。
そんなティオに対し、リオンは全く無警戒にティオに近づいてきた。その顔には無邪気な喜色が満面に溢れかえっている。
「やっぱり先輩だ!こんな所で会えるなんて思いませんでしたよ!」
「え、ええ…。私も…」
毒気を抜かれそうな笑顔にふっと気が緩んだティオの手を、リオンの手ががっしりと掴んだ。

(!!しまった!)
これではろくな抵抗も出来ない。自分の迂闊さにティオは唇をギリッと噛んだ。
だが、リオンは嬉しそうに手をぶんぶん揺するだけで別にティオを押さえ込んだりとかはしてこない。
リオンの後方にいるアンナもリオンのさせるがままにしており、ティオを捉えようとしてきたりはしてこない。
「あ、あなたたち…、どうしてここにいるの?」
もしかしたら、この二人は本当に自分たちとは関係が無いのかもしれない。薮蛇になる可能性はあったが
ティオはリオンにここにいる理由を尋ねてみた。
「ええ。実はこの町の近くにいる侯爵を名乗る吸血鬼の討滅命令が出たんです。それで、アンナと二人で
この町まで来たら、前の方に先輩によく似た人を見かけて、声をかけてみたら本当に先輩だったわけで。
いや、本当にビックリしましたよ!」
リオンの声には屈託が無く、ティオと再開したことを本当に心から喜んでいるように見える。
(元々素直でウソがつけない子だったし…。どうやら、取り越し苦労だったみたいね…)
ここで、ようやくティオは心に余裕を取り戻し、対峙する後輩に対する緊張を解き放った。
「そうだったの…。それはご苦労様。
でも、ちょっと遅かったわね。その吸血鬼は…、!」
と、そこまで口に出してティオはハッと口を噤んだ。
吸血鬼は討滅した。なんて言ったらいくらなんでも二人は自分に疑いを持ってくるだろう。

なんで狩人を辞めたのに吸血鬼を狩っているのか。
どうやって一人で吸血鬼を狩ったのか。
もしかして、誰か協力者がいるのか。

まさか吸血鬼になったニースと一緒に吸血鬼を狩っているなんて言えるわけがない。それこそ藪を突付いて蛇を出してしまう。
「え?先輩…。吸血鬼が、どうかしましたか?」
(ま、まずい!)
ティオが変なところで言葉を止めたためきょとんとしているリオンに対し、何とかごまかそうと考えたティオは短絡的な発想に思い至った。
(ち、ちょっと恥ずかしいけれど…、背に腹は変えられない!)
とにかくリオンの気をそらせるために、ティオはいきなりリオンをぎゅっと抱きしめた。
「わぁっ!せ、先輩?!」
「あ、あはは!びっくりしたのは私のほうよ!まさかこんな所であなたたちに会えるなんて思いもしなかったものね!」
腹芸などほとんど出来ないため、かなりわざとらしい気がしないでもないが、リオンにはそんなことを考える余裕はない。
身長がティオより頭半分小さいリオンにとって、ぎゅむっと抱きしめられたリオンの頭は、まさにティオの胸の真上。
ぷよぷよとした柔らかい感触が、頭に浮かんでいたもやもやとした感じを一瞬にして吹き飛ばし、脳内を真っ白に染め上げてしまった。
「せ、せ、先輩!いきなり何を…」
突然のことに顔を真っ赤にしてあたふたするリオンに、どうやらごまかすことができたとティオは胸を
撫で下ろしたが、それと同時に別の感情がまたこみ上げてきた。
(あっ…。やっぱこの子かわいいわ…)
ちょっとのことでも、表情をくるくると変えて反応するリオンは昔から見ていて楽しい存在だった。
こんなあからさまで稚拙でバレバレな色仕掛けにも真っ赤になるリオンを見て、ティオの心に悪戯心が芽生える。
(もう少し…、からかってみますか)
「なにって、可愛い後輩のための実演指導よ。抱きつかれただけで泡くっていたらこの先大変よ。
相手をする吸血鬼だって、男ばっかりとは限らないんだから…」
少し声に艶っぽさを込め、リオンを抱える腕にぎゅっと力をこめる。さらに胸に頭が食い込んだリオンは、漫画のように手をばたばたと振るわせた。
「い、いや。別に、ダメってわけではなくて、せ、先輩のむ、胸……」
「口答えしているんじゃな・い・の・よ!」
しどろもどろになって受け答えするリオンのこめかみを、ティオはいきなり両拳でぐりぐりとこねくり回した。
「ああっ!い、痛い!やめて先輩!!」
涙目になって悲鳴を上げているリオンを見て、ティオは背筋をゾクゾクと震わせていた。
かつて指導していた時も、リオンのおどおどした態度を見ているとティオは少しだけ嗜虐心をそそられて
ついいらぬちょっかいを与えていたことがままにあった。

しかも今回は久しぶりに会ったからか、リオンの様子に今まで以上に嗜虐心をそそられている自分を感じている。
「やめてくださいよぉ…、先輩…」
「ウソ言わないの。私に会えて嬉しいんでしょ?私に触れられて嬉しいんでしょ?そうじゃないの?」
実際、リオンは口では嫌がっていつつも本気でティオを振り放そうとはしていない。傍から見ても久しぶりに
会った知り合いがじゃれあっているようにしか見えていないのもまた事実だ。
そんなリオンを眺めていると、ティオの心にもっともっとリオンを嬲ってみたいという邪な想いがこんこんと湧き上がってくる。
自分でも知らないうちに、ティオの顔には獲物を嬲って悦ぶ狩猟者の笑みが浮かび上がっていた。
(私…、こんなにサドッ気があったかしら…?リオンの困り顔を見るのがこんなに楽しいなんて…
まあいいわ。こんなにも面白いんだし…)
リオンを見下ろすティオの瞳には、僅かではあるが赤い光が宿っていた。

このままリオンをいじめ抜きたい。どこかに閉じ込め、一日中その肉体を責めさいなみたい。
少女みたいな初々しい顔を、羞恥に歪めてみたい。リオンの心を、私だけに染めてみたい。
そして、欲しい。その、瑞々しい体に流れるものが。ほら、こんなに無防備に晒している。今すぐ埋めて…

「先輩、ここは往来の中です。ご自重を」
妄想が暴走しかけたティオの耳に、一歩引いていたアンナの声が飛び込んできた。

「!!」

その声にはっとティオは我に帰った。
(わ、私ったらまたとんでもないことを考えて!)
「〜〜〜〜〜!!」
顔が昇ってきた血で真っ赤に染まり、心臓が飛び出さんばかりにばくばくと鐘打っている。
最近どうもおかしい。さっきのニースの時もだったが、今まで禁忌と思っていたことに妙に心が震え
触れてみたい衝動に駆られることがある。
どうしてそうなったのかはわからない。ただ、ニースが吸血鬼になったあの時から、自分を取り巻く歯車が
少しづつ狂い始めている様な感じがする。
それに、最後に感じた衝動。なにかとは明確にいえない。が、確かに私は、リオンの何かを求めていた。
一体、何…
「あの…先輩、そろそろ、許して……」
「あっ!ご、ごめんリオン!」
リオンの消え入りそうな声に、ティオは慌ててリオンのこめかみに押し付けていた拳を放した。
「あいたたた…。先輩、相変わらずですね。ちょっと、安心しましたよ」
自分のこめかみを手でさすりながら、リオンはティオに微笑みかけてきた。
「そう言われると…、嬉しいのか情けないのか……」

ぐうぅ

ティオの声を遮るように、どこからか非常に間の抜けた音が響いた。
「 」
声を出そうとしたままの形でティオの全身がかちりと固まり、非常に緩慢な速度でその視線が自身の下半身へと移動する。

ぐうぅぅ

再び謎の音が発せられた。
その音は、明らかにティオの下腹から発せられていた。

(そういえば私、とってもお腹がすいていたんだっけ)

ティオの心の中で、非常に冷静な自分が現在の状況に明確な答えを出している。
はしたなくも、人前で腹を鳴らしてしまった自分のことを。
「あ……」
ただでさえ赤くなっていた顔が、お湯でも涌かせるのではと思えるくらいに真っ赤に染まっていっている。
恐らく、頭のてっぺんからは湯気が噴き出ていたことだろう。
「あ、あの。あのあのこれは…」
なにか体のいい言い訳を取り繕うとあたふたしているティオに、何と返していいのか思い浮かばずリオンもアンナもただあんぐりと口を開けていた。
が、何も言えずただ手をばたばた動かすティオに、さすがに可哀相になってきたのかリオンが助け舟を出してきた。
「せ、先輩。もう日も暮れてきましたし、よろしければどっかで夕食をご一緒しませんか?」
「う、うんうん。そ、そうさせていただくわ…」
リオンの誘いに、ティオはただただ頷くしかなかった。
「じ、じゃあ早速どっかに……」
「先輩、ちょ、ちょっと待って…!」
照れ隠しなのか、ティオは走るような速さで人込みを掻き分けて先へ進み始め、それを見たりオンが慌ててティオの後を追っていった。
その光景を、アンナは表情を変えずじっと見ていた。
ただ、外套に隠れている拳は、力強くきゅっと握り締められていた。



「どうぞ、先輩」
恥ずかしさのあまりろくに選びもせず適当に選んだ食堂に入り、テーブルに座っていたティオの前へリオンが食事を運んできた。
目の前に並べられた食事を目にして、はしたないことではあるがティオの瞳はぱっと輝いた。それほどお腹がすいていたのだ。
「じゃあ、ありがたくいただかせてもらうわ」
食事代は全額持つとリオンがティオに話し掛けてきた時、ティオには後輩に奢られる気恥ずかしさとお金が浮くという喜びが葛藤していた。
教会を辞めたティオにははっきり言って安定した収入はない。別に吸血鬼を狩ったとしても誰かが褒美に
賞金を出してくれるはずも無く、吸血鬼が貯蔵している金目の物を売り払って生計を立てているありさまであった。
それだけに、余計な出費を抑えられることはなによりも嬉しい。
が、後輩にお金を出してもらうのも先輩としての甲斐性の無さを示してしまうことになりかねないので気が引ける。
「………」
ほんの少しの葛藤の末、ティオは相伴に預かることにした。今のプライドより明日の資金難である。

ぱくぱくぱくぱくもぐぱくぱくぱくぱくばくばくもく

何も声を発することなく、ティオはさらに並べられた食事を見る見るうちに腹の中へと詰め込んでいく。
リオンとアンナがあっけに取られる中、山盛りと積まれた肉も野菜もあっと言う間にに消え去っていった。
「先輩、お茶はどうでしょうか?」
アンナが木のコップに注がれた熱い茶をすっと差し出してきた。一気にいっぱいに詰め込みすぎて多少胸焼けを起こしていた
ティオは喜んで受け取ると、ぐーっと一気に飲み乾してしまった。
「いやー、ご馳走様でした。満足満足」
まだちょっと足りないけれど。とはさすがに口に出してはいえなかった。それくらいのプライドは残している。
「ど、どうも……」
リオンが引きつった笑みを浮かべている。まあ、目の前の壮絶な光景を見せられればそうもなろう。
「本当に助かったわ。正直今手持ちのお金がやばくてね。久しぶりに思いっきり食べられたわ」
あははと笑うティオに相槌を打っていたリオンだったが、不意に真面目な顔になりティオに話し掛けてきた。
「先輩…。そんなにお金に困っているんなら、なんで教会を辞めたんですか?
狩人を辞めても教会に残ることは出来たはずですよ。そうすれば、そんなお金に困るようなことも無かったんですし…」
「うっ…」
リオンの問いかけにティオは言葉に詰まってしまった。
「正直、僕たちは先輩に教会に戻って貰いたいんです。狩人としていたくないなら僕たちの指導に当たる
教官でもいいんです。先輩、どうか教会に戻ってはもらえませんか?先輩がいなくなって、改めて先輩の凄さが理解できたんです」
「先輩、私からもお願いします」
二人の後輩がジッとティオを見つめてくる。子猫が親を見るような視線に、ティオの心がズキンと疼いてくる。

が、暫くの沈黙の後、ティオはその首を横にぷるぷると振った。


「ごめんなさい…。今の私は、教会にはいられない…」
その顔には申し訳なさに満ち満ちている。可愛い後輩を放り出して教会を辞めたのは未だに引け目がある。
しかし、今のティオには教会にいられない明白な理由がある。
「…やっぱり、ニース先輩のことが。なんですか……」

「!」

リオンの言葉に、ティオは心臓が飛び出しそうな衝撃を受けた。そこで、ニースの名前が出てくるとは思いもよらなかったからだ。
(まさか…、やっぱりこの二人は私とニースのことを…)
先ほど打ち消した警戒心がまたぞろ頭をもたげてくる。が、
「ニース先輩をあんな形で失ってしまったショックが、忘れられないんですか……」
リオンが続けた言葉に、どうやらリオンはニースが吸血鬼に襲われ命を落してしまったことをティオが
悔やみ続け、そのため教会を去ったと勘違いしているようだとティオは悟った。
まさか吸血鬼になったニースを庇い、そのためには教会にいるのは都合が悪すぎるという理由から教会を辞めたなどとは絶対に言えない。
(ならば、そう思っていてくれたほうが得策か…)
ティオは暫く沈黙を続けた後、こくりと無言で頷いた。
「あれは避けられない不幸な事故だった。と言われても先輩は納得なさらないのでしょうね」
アンナの言葉にもティオは沈黙を守り続けた。下手なことを言ってぼろを出すわけにはいかない。
「…今日は二人にあえて嬉しかったわ。これからも、仕事を頑張って……」
潮時か、と思い椅子から立ち上がったティオだが、その時不意に頭にズキン!と痛みが走った。

「えっ……?!」

慌ててテーブルに手をついたが、それでも体を支えきることは出来ずティオはそのまま床にずるずると突っ伏してしまった。
「「せ、先輩?!」」
リオンとアンナが慌てて体を支えてくるが、どうにも体に力が入らない。
「あ、あれぇ…。どうしたの、かな……」
「先輩、ちょっと無茶しすぎなんじゃないですか?!すぐに休まなきゃダメですよ!」
「私、横になれるところがあるか店主に相談してきます!」
アンナは飛ぶような速さで店の奥へと消えていった。
(ちょっと…、疲れが出ちゃったのかもな……)
がんがんと響く頭痛の中、ティオの意識はすーっと薄れていった。



食堂の店主が好意で貸してくれた従業員用の仮眠室。そのベッドの上でティオはすーすーと軽い寝息をたてていた。
その横では、リオンが厳しい顔をして立ち、アンナがティオの首筋に軽く手を当てている。
「アンナ…、どうだい?」
リオンの声に、アンナはすっとティオの首から手を離し、沈痛な顔で振り向いた。
「やっぱり…、わずかながら吸血鬼の力を感じる。
先輩は間違いなく、吸血鬼に魅入られているわ」
「そうか……」
この町でティオを見つけたのは本当に偶然だった。最初は市井に戻ったティオに遠慮して声をかけるのを
躊躇ったリオンだったが、アンナがティオの体から発せられる人とは違った気配を感じ、嫌な予感がしたリオンは
ティオに声をかけて誘い、お茶に仕込んだ眠り薬で意識を失わせここに運び込んだという寸法だ。
「………」
リオンは首から下げた十字架に僅かばかりだが自らの理力を込め、ティオの傍にそろりと下ろしてみた。


「ぅ……ぅぅん…」

意識が無いはずのティオは、顔の近くに掲げられた十字架にピクリと反応し、顔を反らして十字架から離れようとしていた。
顔から脂汗が滲み出てきて、首筋にある小さな傷が赤く充血してきており、半開きになった瞳は鈍い赤光を放っている。
携帯していた聖水をティオの首の傷口に一滴垂らすと、シュウゥと音を立てて傷口から煙が吹き、ティオは苦痛から顔を歪めた。
そのどれもが、ティオの吸血鬼化が侵攻している何よりの証拠だ。
「先輩っ……
アンナ、一刻も早く先輩を捕らえている吸血鬼を見つけ出して討滅し、先輩を救い出そう!」
「待って…。今日はもう日が暮れようとしている。ここは先輩をまず吸血鬼が入ってこれない教会に移し、明日の日中に…」
そう。もう日は完全に傾き地平線へ沈もうとしている。夜は吸血鬼の時間だ。
「それに、おそらくティオ先輩を絡め取っている吸血鬼は…」
「そんなの関係ないよ!
例え夜だろうが、例えニース先輩が相手だろうが、先輩を酷い目にあわせている者は許せない!」
リオンの目には厳然たる決意が見て取れた。そこには自分の道を遮る物は、例え何者であろうと排除するという意思が感じられる。
「僕は絶対に、ティオ先輩を取り戻し、先輩にまた教会に戻ってもらうんだ!」
「わ、私は、夜は危ないと思うから…」
あくまでもリオンを止めようとするアンナを、リオンは普段の幼げな外見からは想像も出来ないような凄みのある目で睨みつけた。
「だったら僕一人で行くよ!アンナは先輩をしっかり看て守っていてくれ」
アンナの態度に業を煮やしたリオンは、アンナを残したまま部屋を出て行こうとした。
その行動に慌てたアンナは、ぱっと立ち上がってリオンの裾を掴んだ。
「ま、待って!わかったわ。私も行く!」
アンナの言葉に、リオンはにっこりと子どものような笑みを浮かべた。
「わがままを言ってごめんね、アンナ…
行こう。先輩を蝕む吸血鬼を滅ぼし、先輩を助けてあげるんだ!」
「え、ええ…」
決意を新たに、リオンとアンナは眠っているティオを残して部屋を後にした。
その際、仮眠室のドアを閉める時にアンナはちらりとベッドに横たわるティオに視線を移した。
ティオを見つめるその瞳は、凍りつきそうなほどに冷たかった。


「ん………」
日が暮れ、夜の帳が街を多い隠さんとしている時、窓の隙間から入ってくる闇の気配に当てられたのか
ベッドの中に包まって寝ていたニースは、ゆっくりとその目を見開いた。
「あぁ…、そっか。満腹になって寝ちゃったんだっけ…」
いくら吸血鬼になって身体能力が増したといっても、動けば消耗するし疲れる。そして、満腹になれば眠りもする。
ベッドからむくりと起き上がったニースは、ぐるりとあたりを見回してみる。忌々しい太陽の気配はほとんど
なくなっており、自分の時間が来たことを体が感じている。
そして、一緒に向かいのベッドに眠っていたはずのティオの気配もまた、この部屋からなくなっていた。
「ティオちゃん……、はいないか。
多分ご飯を食べにいったんだろうね。あ〜あ、ひどいな。自分ひとりだけで食べに行くなんてさ」
ニースはちょっとだけ頬を膨らませ、どさりとベッドに寝転んだ。
「そりゃ私は吸血鬼だから普通の食事なんかいらないけどさ…。いつでも一緒にいたいじゃないのさ普通」
暫くの間、ニースは寝転んだままぶちぶちとグチを垂れていたが、そんなことをしていても何も解決する物ではない。
「…ちょっと外、出てみるか」
もう殆ど日の光は無いので、振闇を羽織っていれば何も問題はない。あとはティオの気配を辿っていけば
見つけることはそうは難しくは無いはずだ。先ほど血の交換を済ませたばかりだから、ティオとの繋がりも問題はない。
ニースは壁に掛けてあった裏地に小瓶をいっぱい仕込んである振闇を手に取って、肩からかけようとした時、
旅館の階段を上ってくる足音に気がついた。
最初は気にも留めてはいなかった。が、その足の運び方を察した時、ニースの警戒心がピクリと反応した。
「これって…、狩人が獲物を追い詰める時の歩行法だ…」
この歩行法はもちろんニースもティオも心得ている。が、ティオがニースに対してこの歩行法をする道理はない。

(となると、近づいてきているのは敵!)

ニースが扉から離れようと一歩足を引いたその瞬間、目の前のドアがバタン!と大きな音とたてて開き、二人の狩人が部屋へ乱入してきた。
「あ…、や、やっぱり……、ニース先輩…」
「先輩、生きていた…、とは言い難いんでしょうね。今の先輩は」
大剣を構えたリオンはわかってはいたがそれでも信じられないといった驚愕の、外套に腕を入れたままの
アンナはあくまでも予想内のことといった冷静な表情をニースへと向けていた。
「あ、リオンにアンナじゃない。久しぶりね。元気してた?」
緊張した面持ちでニースへ対峙している二人に、ニースは以前のニースと全く変わらない表情、言葉づかいで
声をかけてきた。その姿は、リオンとアンナが知っているニースそのものだった。
が、その態度は二人はニースへ向ける警戒をさらに色濃く変えていった。
なるほど、外見は以前のニースとなんら変わりはしない。が、その内から発せられる気配は目で見えるほどに真っ黒な物だった。
「リオン、騙されちゃダメ。あれはもう、ニース先輩じゃない」
「うん…。この物凄い鬼気…、外からでも感じられるくらいだったもの」
実際、ここまでニースが簡単に見つかるとはリオンにもアンナも思ってはいなかった。が、日が暮れるにしたがって
膨れていく巨大な吸血鬼の気配が感じ取れるようになり、労せずしてニースの居場所を特定することが出来たのだ。
「二人共、すっかり狩人の顔になったわね。でも、普段からそんな顔していると疲れちゃうよ」
ニースはあくまで昔と変わらない態度で二人に接してきている。それが何を意図しているのかいまいち測りかね
リオンもアンナも踏み込んだはいいが次の一手が打てずにいた。
「もう、どうしちゃったのよ二人とも。まるで私を吸血鬼を見るみたいな目で見てさ」
「先輩…。ごまかしてもダメです。今の先輩は、吸血鬼そのものじゃないですか」
リオンの言葉に、笑顔を浮かべているニースの顔がピクリと動いた。その赤い瞳に、邪悪な光がちらつき始める。
「ふ〜〜ん。じゃあリオン君は、吸血鬼の私をどうしたいの?
私の体にそのぶっといモノを突き刺して、オスの征服欲に浸りたいのかしら?」
「な?!」
ニースはリオンの持っている剣を指差しながらも、ニヤニヤと笑いながらわざと卑猥な表現でリオンに食って掛かってきた。
頭では違うと分かってはいるのだが、予想もしていなかった言葉にリオンの顔がボッと赤く染まる。

「それとも、私に血を吸って貰いたいのかしら?
いいわよぉ。血を吸われるのってとっても気持ちいいの。すぐになぁんにも考えられなくなって、私に
血を吸われることばっかり願うようになるの。そして、幸せな気分のまま永遠の命と若さを手に入れられるのよ。
どう?なんならアンナから吸ってあげようか?リオンの血、最初に吸わせてあげるから、さ」
ニースは、時折扇情的な仕草も交え、リオンとアンナの心の平静をわざと失わせるかのように振舞っていた。
実際リオンは羞恥と怒りで顔を真っ赤にし、アンナもニースに凍りつきそうな冷たい視線を投げつけている。
(こんな簡単に挑発に乗るなんて…、まだまだね)
ニースにしてみれば、リオンとアンナは懐かしい後輩でもなんでもなく鬱陶しい闖入者でしかない。
本来ならとっとと切り裂くか血を吸い尽くしてしもべにでもしてしまいたい。
が、人目がつく旅館でそんなことをしてしまっては間違いなくティオの耳に入ってしまう。それだけは避けたい。
(後は冷静さを失った心に魔眼で暗示をかければ問題ないわ)
魔眼で『吸血鬼はここにいなかった』とでも暗示をかければ、騒ぎを起こさずにこの場を収めることが出来る。
二人とも心の動揺で、吸血鬼と退治した時は魔眼を防ぐために真正面から向き合うなという原則すら忘れ自分を睨みつけている。
(さあ、二人ともとっととこの町から出て行きなさい!)
謀が成功したことを確信したニースは、二人の脳髄を焼き尽くさんばかりに魅了の魔眼を投げつけた。

が、ニースは少しばかり二人を甘く見ていた。

ニースが魔眼を投げつけるより早く、外套に隠れたアンナの腕がブン!という音を立てて飛び出してきた。
「!!」
唸りをあげ、顔面目掛けて飛んできた物体をニースはすんでのところで顔を捻ってかわした。
後ろの壁にドカカ!と三本の小刀が突き刺さる。
(そうだった!アンナは投剣使いだった!)
危なかった。と、思う間もなく立て続けにリオンが大剣を振りかぶって襲い掛かってきた。
「うわああぁっ!」
「きゃっ!」
ニースの体を掠めて振り下ろされた剣は、ニースが座っていたベッドを真っ二つに切り裂いた。
「ち、ちょっと!人が寝るベッドを壊すなんて。それでも聖職者なの?!」
「安心してください先輩!もう先輩は寝る必要なんてありません!だって先輩はこの場で討滅されるんですから!」
リオンは重い大剣に振り回されること無く、ニース目掛けて必殺の斬撃を打ち込んでくる。別にそれそのものは
かわすのはわけないが、その隙をフォローするかのように投げられてくるアンナの小刀が非常に鬱陶しい。
(これは…、狭いところにいるのは不利だ!)
形勢がまずいことを悟ったニースは、まだ完全に日が暮れていないにも拘らず振闇を適当に羽織ってから窓を蹴破って旅館の屋根の方へと逃げ出した。
「「逃がすものか!!」」
もちろんリオンとアンナもそれを追っかけ、外へと飛び出していった。



夕闇が次第に濃くなっていく空が屋根伝いに追いかけっこを繰り広げる三人を覆い隠し、いつしか三人は
人気のない廃屋の屋根の上で対峙していた。この広い空間ではアンナの投剣はそれほど効果的ではなく、リオンも不安定な足場で大剣を
思うようには振るえない。が、ニースにしても僅かながら日が顔を覗かせている屋外では力を揮いにくく双方決め手に欠ける展開になっていた。
「いい腕になったのね、二人とも。先輩として鼻が高いわ」
「そうやって日没までの時間を稼ごうとしても無駄ですよ、先輩」
リオンとアンナはニースとの間合いをじりっじりっと詰めてきている。日没になればニースはその力を
全開発揮できるため、リオンたちにとって甚だ不利になる。なんとしても日没までに討滅しなければならない。
「さっさと先輩を討滅して…、ティオ先輩を助け出してみせる!」
リオンの口から出たこの言葉。その言葉にニースはピクリと反応した。
「ティオちゃんを…、救うですって?」
「そうです!ニース先輩に魅入られているティオ先輩を救うには、それしか手が無いのは先輩も承知のはずでしょう!
ティオ先輩のためにも、ニース先輩!あなたはここで滅ぼさせてさしあげま…」
リオンの言葉は最後まで続かなかった。目の前にいるニースの表情がみるみる険しく、鋭くなっていく。

髪の毛がざわざわと蠢き、両手の爪が急激に伸び始めている。瞳の光は赤を通り越して金色に輝き、伸びきった牙ががちがちと音をたてている。
「ふざけたことを言っているんじゃないわよ…。私からティオちゃんを取り上げる腹積もりなの…?!」
ニースが憎悪に塗れた目でリオンとアンナを睨みつけた。
「うっ…、な、なんて威圧感なんだ…」
「これが、先輩の本性なの…」
魔眼が発動していないにも拘らず、その瞳が放つ薄ら寒さに思わずリオンとアンナは一歩後じさってしまった。
「魔眼で暗示を与えて穏やかに追い出そうとしたけれど…、気が変わった。お前達には死よりも辛い屈辱を与えてやる…」
二人を睨みつけたまま、ニースは懐を手でごそごそといじりまわすと、一個の小瓶を取り出した。
それは、あのニースがコレクションしていたと自称していた、吸血鬼の灰が入った小瓶だ。
「普通、灰になった吸血鬼は、ある程度の量の纏まった灰がないと肉体を再構成しきれない。
もちろん、こんな小瓶に入る量では、通常では復活なんか到底覚束ないわ」
そう言いながらもニースは小瓶の蓋を開けて、ぽいと下へと投げ捨てた。
「でもね」
ニィッと笑ったニースは親指をガリッと噛み、滴り落ちる血を一滴、小瓶の中へと垂らした。
すると、その瞬間小瓶から一筋の煙が吹き始め、高々と天へ登り始めた。
「強大な魔力を持った血があれば、充分に復活させることが出来るのよ!!」
派手に煙が吹き始めた小瓶を前へと投げると、小瓶はパン!と音を立てて弾け、次の瞬間には一体の吸血鬼がその場に立っていた。
その吸血鬼の姿を見て、リオンとアンナは思わず息を飲んだ。
「ア、アンナ…。あれって…、もしかしてヴァンダール、じゃ……」
「なんで…。私達が討滅するよう言われた吸血鬼が、いきなり…」
そう、ニースが復活させた吸血鬼は、先日仕留めたばかりのヴァンダールだった。
「あら、お前達こいつを討滅しに来たわけなの?残念でした。こいつはもう私とティオちゃんの手で仕留めちゃったの。
そして今は殆どの魔力を私に吸い取られ、私の血で忠実なしもべになってしまったのよ。そうよね、ヴァンダール?」
「はっ…」
ニースの声に、ヴァンダールは虚ろな顔でこっくりと頷いた。

リオンとアンナは声も出ない。
侯爵を名乗るほどの強大な吸血鬼をしもべに出来る力とはいったいどれほどのものか。
たったあれだけの量の灰を、ただ一滴の血で吸血鬼にまで再構成できる魔力は一体どれほどの物なのか。
目の前にいるかつて先輩だったものは、間違いなく今までに目にしてきたどの吸血鬼よりも強大な存在だった。
「おまけに、吸血鬼の灰はこいつだけじゃないわよ。ほら!!」
ニースが振闇をばさっとめくると、そこには10ではきかない数の小瓶がぞろっと縫い付けられていた。
「こいつらを全部復活させて、この町を吸血鬼だらけに変えて見せましょうか?アハハハハ!!」
声高らかに笑うニースの顔には、人間の命など気にも止めない残忍な吸血鬼の本性が色濃く張り付いていた。
「さあいけヴァンダール!私が町中にしもべをばら撒くまでこいつらの相手をしておくのよ!」
「御意!」
ニースの命令を受け、ヴァンダールはリオンとアンナ目掛けて轟然と突撃してきた。それと同時にニースは踵を翻し、町の奥へと走り出した。
「まずいアンナ!先輩を行かせてはダメだ!ヴァンダールは僕が何とかする。アンナは先輩を止めてくれ!」
さっきのニースの言動からすると、ヴァンダールはかなりの力をニースに取られているらしい。それなら
自分ひとりでも何とか倒せるかもしれないと踏み、リオンはアンナを一人で向わせることを決断した。
「でもアンナ、決して無茶はしないで!危ないと思ったらすぐに戻ってくるんだ!」
「わかったわ、リオン!」
ヴァンダールの相手をリオンに任せ、アンナはすぐさまニースの後を追いかけ始めた。
が、この時アンナには、また別の思惑が生まれつつあった。
うまい具合にリオンと別行動を取ることができた。
これは、好機だ。と。

屋根伝いに町の奥へと走っているニースは、自分を後ろから追ってくる気配が一つあることを感じてほくそ笑んでいた。
「バカな奴。私がこの町を吸血鬼だらけにするわけないじゃない。クフフフ…」
そんなことをしたら、ティオの不興を買うだけではなく自分にも収拾がつかない事態になってしまう。
リオンとアンナの強さは二身一体のコンビ攻撃にあるので、この二人を分断できればニースにとっては敵ではない。
思惑通りに二人を離れ離れに出来たことで、ニースは込み上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。
「来ているのは…、アンナか。このまま誰にも邪魔できないところまで誘い込んで、ゆっくりと血を吸って吸血鬼にしてあげる。
そして、リオンと仲良く殺しあうがいいわ。ティオちゃんを私から獲ろうとした報いよ」
ティオと交わした『人間を襲ってはダメ』などという約束も最早関係ない。
ティオを自分から奪おうとする輩を、ニースは絶対に許すわけにはいかなかったのだ。
「さあ、追っかけてきなさい。すぐにその頭をリオンの血のことしか考えられないように…って、えっ…?!」
おかしい。アンナの気配がどんどん自分から離れていっている。だからといって、リオンの方へ戻ってもいない。
まるで他に何か重要な目的でもあるみたいに見当違いのほうへと進んでいる。
「どういうこと……」
ニースは動きを止め、アンナが向う方へ意識を集中させる。一体アンナに、何の思惑があるのか探るために。
そして、程なくニースが捉えた気配は、いま自分と一番繋がっている存在のものだった。
「これは…、ティオちゃん?!ティオちゃんの所に、行こうとしているの?でも、なんで…」
背中がゾワゾワと悪寒で震える。なにか、とてつもなく嫌な予感がしてきた。
「っ!」
矢も盾もたまらず、ニースは逆にアンナを追っかけ始めた。何故かは分からない。だが、そうしないと絶対に後悔すると吸血鬼の感覚が教えていた。



アンナの目の前で、ティオがすやすやと寝息を立てている。
眠り薬はまだ十分に効いている。あと二時間は目は醒めないだろう。
仮眠室全体を不可視の結界で封印した。ここで何が起こっても誰も何も関心は持たない。
纏っていた掛け布団は捲っておいた。これで布団に穴は開かない。
眠っているティオの体の向きを変えた。これでこちらに正対する形になる。
全く表情を変えずに、アンナは懐から小刀を三本取り出した。大きく振りかぶり、その狙いを定める。
「………っ」
ピュッと放たれた小刀は、寸分狂わずティオの胸へと吸い込まれていった。そして、それが突き刺さろうとする瞬間

バンッ!!

「だめええぇっ!!」
閉ざされていた雨戸が破り壊され、矢のように飛び込んできたニースがティオの前へと立ちはだかった。

ドドドッ!

懸命に伸ばした左腕に小刀が次々と突き刺さり、小刀に篭められた浄化の力がニースの腕を焼き、ジュウジュウと嫌な音を立てた。
「うわあぁぁっ!!」
苦痛の余りニースは左腕を押さえながら大きな悲鳴を上げた。その様をアンナは苦々しげに眺めていた。
「や、やるじゃないアンナ…。わたしがティオちゃんに固執しているのを見て、まさかティオちゃんを狙うなんてね……
動けないティオちゃんを狙われたら、さすがに私も、こうするしかない…、痛ぅぅっ!!」
ニースの左腕は焼け爛れ、血と肉が焦げた匂いを発しながらボタボタと床に垂れている。動かそうとしても全く反応しない。
(このまま、ティオちゃんを狙われ続けたら、体が持たない…っ!)
だからと言って、この状況で盾代わりに小瓶からしもべを解放しようとすれば、即座にアンナは右腕を封じにかかるだろう。
追い詰めたと思った獲物が思わぬ形で牙をむき、いまや形勢は逆転しようとしていた。
が、そんな好転した状況にも拘らず、アンナの顔は未だに憮然としたままだった。
「この部屋には不可視の結界を張っていたのに、なんで…」
「おあいにく様…。私とティオちゃんは互いの血で繋がっているわ。言ってみれば自分がもう一人いるのと同じ。
自分の居場所がわからなくなるバカなんていないわよ…」

と、そこまで言ってからニースは不可解なことに気がついた。
「って、ちょっとまって!不可視の結界?!なんで、ティオちゃんを隠すような真似をしたの?」
ティオを餌にしてニースを釣り出すつもりならば結界などは不要だ。ティオを隠す意図があるなら、それは
ニースからティオを遠ざけるのが目的であって、ティオを狙う意味はない。
そして、アンナの口から紡がれた言葉はニースにとって予想外の物だった。

「余計な、ことを…」

「え…?」
ニースは最初、アンナが何をいっているのか理解できなかった。自分がティオを庇うのが、なんで余計なことなのか。
「…。せっかくその女を殺すチャンスだったのに、よくも邪魔をしてくれた」
アンナの表情はいつにも増して重く、暗い。闇に生きる存在になったニースすらぞっとするほどの冷気が漂ってきている。
「ち、ちょっと待ちなさい!あなた、ティオちゃんを殺す気?!
もしかして、それって教会の命令なの?!だったら、そんなこと絶対にさせな…」
「教会は、関係ないわ。これは私自身の意思」
かちり、という音と共にアンナの両手に小刀が何本も迫り出してくる。それで狙う目標の目線は、明らかにニースの後方を指している。
「その女がいると…、リオンが命の危機に晒される。だから、殺す」
その表情には、かつての先輩を敬うとか憧れとかいう感情は全くない。獲物を狙う狩人の瞳でもない。
邪魔者を目の前から排除する、冷徹な執行人の顔をしていた。
「ふざけるな!ティオちゃんを…、お前なんかに殺させはしない!」
「ならば防いでみろ!」
アンナは横っ飛びに跳ね、ティオの体の真正面から小刀を打ち放った。直接受けるわけにはいかないニースは
動く右手で小刀を払おうとしたが、全てを弾き飛ばすことは出来ず一本右腕にもらってしまった。
「うあっ!」
「そうやって私の刀を受け続ければ、いつかお前も力尽きて倒れる。そうすれば、ゆっくりとそいつを殺せるというもの。
リオンには、先輩はお前に操られて盾にされたって言っておくわ。私が殺したっていうわけにはいかないからね!」
アンナの瞳に次第に狂気がちらつき始める。いつも感情を表に出さず冷静沈着なアンナが、ニース(というかティオ)に感情剥き出しにして襲い掛かってきている。
投げ放たれる小刀はあくまでニースではなくティオを標的としている。動かないティオは小刀を避けようがないので、
自然ニースが受け流す羽目になるからニースを狙っていると言えなくもないが。
ニースにはそこまでティオの殺害に執着するアンナが理解できなかった。
「なんで…、そんなにティオちゃんを殺そうとするのよ!そんなにティオちゃんに近くにいて欲しくないなら
とっととここから出て行けばいいじゃないの!ティオちゃんはもう教会と何の関係もないのよ。会う可能性なんて、殆どないじゃない!!」
「…!」
その言葉を聞いた時、アンナはぴたりと動きを止めた。
「関係ない…?いいえ、その女がいる限り…、この大地のどこかにいる限り関係はある…」
狂気の色に包まれていたアンナの表情が、見る見るうちに鎮まっていく。
代わりに、伏せがちの顔に浮かんできたのは悔恨とも怒りとも取れないものだった。
「その女がこの世界のどこかで息をしている限り、リオンはそいつのことをどこかで気にかける。
今日だって、日が沈むから明日にしようといった私の言葉を無視し、『先輩を助ける』とか言ってわざわざ
夜に吸血鬼と対決するような無謀な行為を選んだ。普段のリオンなら、こんなことを絶対にしはしない。
私と一緒の時はこんなことはしない!そいつが絡んでいるから、リオンは無茶な真似をした!!」
「アンナ…」
次第に激高していくアンナの感情を、ニースはようやっと理解することが出来た。
これは、嫉妬だ。
「そいつがいる限り、リオンは私のものになってくれない!私と一緒にいても、リオンの心はそいつに向っている!
リオンが好きな私の心に、リオンは絶対振り向いてくれない!!
だから殺す!!そいつを殺して、リオンの心を私のものにしてみせるんだぁ!!」
これが、物静かでクールな印象をもたれているアンナなのだろうか?嫉妬の炎を撒き散らしながら大声を
張り上げるその姿は、普段の彼女からは想像も出来ない。いや、普段の戦闘時での周りの被害を顧みない苛烈さ
を考えると、この姿こそがアンナの本質で普段は巧みにそれを隠していたとしか考えられない。

「なんて、奴なの…」
そのあまりに自分勝手な言動に、あっけにとられたニースの心にふつふつを怒りが湧き上がってきた。
「どこまでバカなのあなた…。普段ろくに自分の気持ちも喋らないくせにリオンが振り向いてくれない、ですって?!
そんなにリオンのことを想っているんだったらちゃんと口にしていいなさいよ!黙っていてもいつか相手が
自分の気持ちを理解してくれる。空気を読んでくれ。なんて、現実にあるわけないじゃない!
自分の気持ちはきちんと相手に言わないと、永遠に理解してもらえないのよ!!
どうせ、度胸が無くて告白も何もしていないんでしょ!この意気地なし!!」
「ぐっ!」
図星を突かれたからか、アンナの顔が一瞬引きつり血の気がサッと引いた。
「だ…、黙れ黙れぇ!とにかくお前とそいつを殺せばリオンは私のほうを向いてくれる!
その女は特製の眠り薬であと数時間は目が醒めない。この部屋には結界を張ってあるから誰も何が起こっているのかわからない!
誰にも知られず苦しまずに殺してあげるのがせめてもの慈悲だと思えぇ!!」
が、自分の弱さを認めることが出来ないアンナはムキになって否定し、両手にもてるだけの小刀を持ち構えた。
さすがにあれだけの数の小刀を防ぐ手立てはニースにはない。
(クッ…、せめてティオちゃんが起きていれば……っ?!
寝ている?意識がない?!そうだ!!)
ニースがあることに思い至ったと同時に、アンナは怨念が篭められまくった小刀を持つ手を振り上げた。
「死ねええぇっ!!」

「ティオちゃん、アンナの動きを止めて!!」

「!!」
それと同時にニースが放った声。その直後、薬によって眠らされたティオの双眸がカッと開き、人外の速さで飛び起きた。
「えっ?!!」
予想外の事態に小刀を投げる手が一瞬止まった隙を見逃さず、ティオはアンナの後ろに回りこみ、後方からはがい締めにしてしまった。
「なっ!せ、先輩起きてたの?!」
アンナは驚愕に目を見開き、なんとかティオを引き剥がそうとするが、元々無理な体勢に加えティオの
人間離れした膂力に組み伏せられ全くびくともしない。
「そんなバカな。少なくとも、後一時間は絶対に起きてこないはずなのに…!」
「起きていないわよ。ティオちゃんの意識はまだ、ぐっすりと眠っているの」
再びの形勢逆転に、ニースの顔に勝ち誇った笑みが浮かんだ。
「今の私は、眠っているティオちゃんに限って意のままにすることができるの。状況が状況なんですっかり忘れていたわ」
「なんですって?!」
アンナは比較的自由になる首を何とか動かして、後方のティオの表情を覗いて見た。
「………」
その顔は全く表情が無く虚ろなままで、瞳は吸血鬼のように紅く輝いていた。
「ウフフ、うまく私を使って思いを遂げようとしたけれど、その浅知恵が命取りになったわね」
ニースがアンナの方へじりっじりっと近づいてくる。体中傷だらけで満身創痍だが、その目だけはギラギラと赤光を放っている。
「あ、あ…」
アンナは、ニースが何をしようとしているのか理解できた。ニースは自分の血で傷を癒すつもりなのだ
「い、いやあぁっ!ティオ先輩、離して。離してぇっ!!」
が、もとより意識がないティオは、アンナの懇願にも眉一つ動かさない。
「誰か、誰か助けてぇっ!!」
しかし、結界を張っている部屋からは外へ声が漏れることもない。
自業自得だった。アンナは数々の策を張り巡らせたが、その全てが自分への代償として跳ね返ってきたのだ。
ニースの血まみれの手がアンナの顎をつぅっと撫で上げた。
「ひいぃぃっ!!」

血を吸われる。血を吸われる!いやだ、いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだぁっ!!!



「そんなに恐がらないの…。私はあなたの血を貰うけど、私からもあなたにあげるものがあるんだから」
ニースの言葉にアンナはさらに震え上がった。吸血鬼が人間にあげるものといえば、あれしかない!
「いらないいらない!永遠の命なんていらない!不老不死なんていらない!いやいやいやいやぁぁ!!」
アンナは大粒の涙を流しながら、かろうじて自由になる頭をぶんぶん振って抵抗した。
「そんなものじゃないわ。私があなたにあげるのは『勇気』よ」
「ゆ、ゆう、き……?」
ニースのあやすような優しい声に、アンナはピクリと反応した。勇気とは、一体何か。
「そう、勇気。リオンに告白することが出来る勇気と力を、あなたにあげるわ…」
そこまで言ってから、ニースは瞳を愉しげに歪めて口をガッと開いた。鋭い牙が部屋の灯りに反射して輝いている。
「リオンを自分の物にすることが出来る、吸血鬼の力をね!!」

ガシュッ!!

「きゃあああぁぁーーーっ!!」
深々と穿たれた牙の衝撃に、アンナは魂を振り絞るような悲鳴を上げた。が、勿論その声は外には届かない。
「ああっ、あがぁ……」
頚動脈を深々と貫いた部分がカァァッ!と熱もってくる。まるで、体中の体温を集められているようだ。
『どう?牙を挿された感触は…?とっても気持ちいいでしょ』
アンナの頭の中にニースの声が直接響いてきている。
『でも、吸われる快感はこんなものじゃないわよ…』

チュッ

ほんのちょっと、傷口から溢れ出てきた血を啜られただけだった。
「ひあぁっ!」
だが、その瞬間アンナの体内に腰が痺れそうな快感が走った。
(な、なに、これ……。これが吸血の快感…?!)
たちまちアンナの瞳には薄い霞みがかかり、口元は知らずのうちに悦楽の笑みが浮き出ている。
頭の中は気持ちいいで塗りつぶされていき、思考するのも億劫になってきている。
それだけに、消えかけている理性はこの状況に危機を発していた。

この快感は危険だ。これに溺れてしまったら、二度と浮き上がることは出来なくなってしまう。
考えられる理性があるうちに、なんとしても引き剥がさないと!!

が、それを実行に移す間もなくニースによる本格的な吸血が始まった。
『さあ、狂わせてあげるわ』

チュッ、チュッ、チュゥ…

「ああぁっ………!」
ニースの喉がこくり、こくりと動くたびに、アンナの目の前に雷が落ちたかのようなフラッシュが走る。
ニースの牙がアンナの血を啜るたびに、自分の命もニースの中に獲られている実感が湧く。
でも、そんなの関係ない。
(凄い!吸われるの気持ちいい!とっても、とっても気持ちいい!)
吸血には快感が伴うことは聞いたことはあるが、これほどとは思わなかった。リオンのことを想って自慰をしたことも度々あったが
その時もこれほどの快感を得たことは無かった。
吸血鬼の犠牲者が盲目的に吸血されることを求めるという気持ちも今ならわかる。
こんな快感を知ってしまったら、もうこれがない世界に戻ることなんてできっこない!
「ああぁっ!凄い!血を吸われるの気持ちいい!もっと、もっともっともっと吸ってぇぇっ!!」
とうとうアンナは口に出してまで吸血を求めてしまった。
が、それを聞いたニースはつぷっと牙をアンナから引き抜いてしまった。

「あああああっ!!なんでぇ?!なんで抜くのぉ?!吸って。吸ってぇ!吸ってくださぁい!お願いしますぅ!!」
恥も外聞も無く喚き散らすアンナを、ニースは面白そうに眺めていた。
血塗れだった左腕は白煙を上げ、物凄い速さで再生していっている。もう傷口は塞がっており、怪我する前となんら変わりはない。
「フフッ、ご馳走様。見ての通りあなたにやられた傷は完全に元に戻ったわ。もう血を貰う必要もないの。
それに、これ以上血を吸ったらあなたも吸血鬼になってしまうわ。そうしたら、リオンも悲しむでしょ?」
もちろんここで吸血を終わらす気など全くないのだが、ニースは意地悪くアンナに語りかけてきた。
「え…」
それを聞き、アンナの顔からざっと血が引いた。
もう自分の血は必要ない。もうこれ以上自分の血を吸ってくれない。もうあの快感を味わうことが出来ない!
それは、今のアンナにとって死ぬよりも辛いことだった。
「いやあぁっ!もっと、もっと吸ってくれないといやぁっ!吸って!私の血、吸い尽くしてくださぁい!!」
アンナは光をなくした瞳に涙を浮かべて懇願してきた。しかし、それでもニースは動かない。
「いいの?これ以上吸ったら、あなた本当に吸血鬼になってしまうわよ?」
「いいの!吸血鬼になってもいいの!だから、吸って!吸って!!」
もうアンナの頭には血を吸われる快感を味わうことしか浮かんでこない。
「もう何もかもどうなってもいい!私の血をすべて吸われたいんです!お願いします!ニース様ぁぁっ!」
「…ククッ」
完全に堕ちた。それを確信したニースはようやっとその牙をアンナの喉元へと近づけていく。
「そこまで言われてはもう私も遠慮する必要はないわね…
じゃあ、あなたも連れてってあげるわ。猟血の輩の世界にね!」
ガッ!とニースの牙が突き刺さった瞬間、アンナの顔が満足げに歪んだ。
「うあはあぁっ!いいっ!気持ちいいよおぉっ!」
ニースとティオに挟まれながら、アンナは腰を大きくひくつかせて快感に喚いた。
その瞳には紅い光が次第に大きく輝き始め、だらしなく舌が零れ涎を流している口からは鋭く牙が伸びてきている。
その様を、ティオは意識が無いまま紅い瞳でじっと見つめていた。



「アンナ…、どこに行ってしまったんだ?」
あの後、ヴァンダールを何とかしとめたリオンは、アンナを探して街中を彷徨っていた。
無茶はしないでとは言っておいたものの戦闘になったら何が起こるかわからない。ましてや相手は強大な魔力を持ち、
自分達のことをよく知っているあのニースなのだ。
(もしかしたら…、僕はとんでもないミスをしたのかもしれない…)
リオンは今更ながら、アンナと離れ離れになってしまったことを悔いはじめていた。ティオを助けるために
夜に吸血鬼と戦う危険さを承知していながらも強行してしまい、怒ったニースに街中に吸血鬼をばら撒かれる
ような事態を作ってしまった。これは戦闘を日中に行うようにしていれば容易に防げたことだ。
幸い、今まで街中に吸血鬼が出没したという話は聞こえてこない。アンナがうまくニースを防いでいると
思いたいが、もし、もしも実はニースがアンナを手にかけるのに夢中で他に手が回っていないのだったら…
(お願い、アンナ!無事でいて!!)
焦る気持ちを必死に押さえ、リオンはニースとアンナが消えていった方角を必死に駆け抜けていった。
そして、薄暗い角を曲がった時、リオンの目の前にふらりと一人の人影が現れた。
「う……、リ、リオン……」
「!!あ、あ……」
その服はボロボロに引きちぎれ、胸を抑えて蹲っている。日がすっかり暮れてしまった上に明かりも指さない
路地裏なのでおぼろげにしか全身像を見ることは出来ないが、その姿は見間違えもしない…
「ア、アンナ!!」
「リオン……、ようやっと、会えた……」
リオンの耳に届くアンナの声は今にも消えそうなほどに小さい。酷い怪我でもしているのか苦しそうにゼェゼェと息を吐いている。
「アンナ!あれほど無茶はしないでって言ったのに…」
これは自分のミスだ。アンナを一人にしてしまったためにこんなに酷い目にあわせてしまった。
リオンは悔しさに臍を噛みながらも、アンナの状態が心配なので無防備にアンナへと近づいていった。

「でも…無事でよかった。とにかく、今は状態を立て直して……っ?!」
蹲るアンナの手を優しく握った時、リオンの体に戦慄が走った。
アンナの手から体温を全く感じない。いくら夜になって冷えてきたとはいえ、ここまで体温がないなんて人間ではありえない。
「ア、アン…!」
リオンが思わず手を離そうとした時、アンナがもう片方の手でリオンの肩をがっしりと掴んだ。
「リオン……、もう離さない…。フフフ…」
ゆっくりとリオンのほうを向いたアンナ。その瞳は、燃えるように紅い血の色をしていた。
「そんなっ!アンナ…」
驚愕から思わずアンナの瞳を覗いてしまった時、アンナの瞳から発せられた赤光がリオンの瞳に飛び込んできた。
「あうっ…!」
その瞬間、たちまちリオンの全身から力が抜け、くたっとアンナにもたれかかるように倒れてしまった。
「アハハハ…。さあリオン、二人でゆっくりできるところに行こうね。そこで、たっぷりと可愛がってあげる…」
リオンを抱えたまま、アンナは路地の闇へと消えていった。



「うあっ、おああっ!!」
人気のない納屋の中で、決して外には漏れないリオンの絶叫がこだましていた。
敷き詰められた藁の上で、裸に剥かれたリオンがアンナに組み伏せられたまま蛇のようにのたうっている。
アンナはリオンの太腿にその牙を埋め、ジュルジュルと音を立ててリオンの血を吸い取っていた。
『ウフフ、どうリオン?血を吸われるのって気持ちいいでしょ?
私もついさっき、ニース様からこの快感を味あわせてもらったの。だから、リオンにも体験して貰いたくて、ね…』
リオンをよく見ると、もう片方の太腿にも、首筋にも胸板にも生殖器にもアンナの牙の噛み跡が見える。
猫がネズミを弄ぶかのように、アンナはリオンの体のあらゆる部分からじわり、じわりと血を搾取していた。
「ア、アンナぁ…、や、やめて……」
が、吸血の快感に溺れそうになりつつも、リオンは必死に理性を奮い起こし抵抗しようとしていた。
それがアンナには気にくわない。
自分がニースに吸われた時は一瞬にしてその牙の虜になってしまった。なぜ、自分はニースと同じように出来ないのか。
何故すぐに、リオンは自分の物になってくれないのか。
太腿から牙を引き抜いたアンナは、リオンのがちがちに勃っているペニスに目を向けた。
「やっぱり、ここから吸うのが一番いいのかしらね…」
アンナは両手でリオンのペニスを握り締めると、その先にがぶりと噛み付いた。鋭い牙の感触が海綿体を
ずぐずぐと抉り、溜まりに溜まった血を吸い上げていく。
「うわあああああぁっ!!!」
その魂までも吸い上げようとするアンナの吸引に、快楽中枢を直撃されたリオンはたちまち射精し、アンナの口の中に精液を迸ってしまった。
「んっ!んんぅ……」
紅い生命のエキスと共に飛び込んできた白い生命の種を、アンナは一滴のこぼすことなく飲み乾した。
「ぷぅ……。どうだったリオン。気持ちよかった?」
射精が収まってからアンナは口を離し、リオンの顔を覗き込んでみる。
「あぁ…、ふわあぁ……。きもち、いぃ……」
放出の魔悦にリオンの顔は今までにないほど蕩けきり、口元にはだらしない笑みが浮かんでいる。
無意識に腰をビクッビクッと動かすリオンを見て、アンナはクスリと微笑んだ。
「ようやっと吸血の気持ちよさが分かってくれたみたいね。どう?もっと私に吸ってもらいたい?」
「あぅ…。そ、それは……」
まだ僅かに理性を残しているのか、なおも躊躇うリオンにアンナはぼそっと呟いた。
「今より、もっともっと気持ちよくしてあげるわ。おちんちんから精液、びゅーびゅーって出させてあげる」
「び、びゅーびゅーっ、て……」
たった今体験した腰も抜けそうな快感。アンナの口へ自らの血液と精液が吸い取られていく快感。
わかっていた。それがどれほど気持ちよいことなのか。それに浸るのが、どれほど心地良いのか。
しかし、それに溺れるのが恐かった。今までの自分が目茶目茶に壊れ、全く違うものになってしまう恐怖があった。
が、もう引き返すことは出来ない。アンナという毒蜘蛛の巣に捕らえられてしまっている以上、ここから逃げ出すことはもう出来ない。
なら、我慢したところでそれが何になるというんだ。

「お願い…。私、リオンに気持ちよくなってもらいたい…」
アンナが悲しそうな目でリオンを見つめている。吸血鬼になってしまっても自分のことをこんなにも想ってくれている。
(二人で堕ちるのも…、悪くないか……)
「アンナ…、吸って。僕の血、たっぷりと吸って!!」
リオンの言葉に、アンナはピクッと反応した。
「いいの?本当にいいの?リオンの血、吸っちゃってもいいの?!」
「いいよ!吸って!もっともっと僕を、気持ちよくさせて!!僕の血、全部吸い取っちゃってぇぇ!!」
リオンの堕ちた声に、アンナはニタァと欲望を剥き出しにした笑みを浮かべた。
ようやっとリオンが私の物になってくれた。これでリオンは私だけの物。私だけを見て、私のためだけに存在してくれる。
もう絶対に手放さない!永遠に私のしもべになる!!
「アハハハハッ!じゃあリオンは私のしもべよ!他の誰も見ない。永遠に私の物になるのよ!いいわね!!」
「わかった…、いや、わかりました!僕は永遠に、永劫にアンナ様のものです!
だから、だから早く吸ってぇ!」
「わかったわ!!リオンの血も精液も、全て吸い尽くしてあげるわ!!」
勝ち誇った笑みを浮かべたアンナは、リオンの真っ赤に腫れたペニスに勢いよく牙を打ち込んだ。
「あーーーーーっ!!」
壊れた笑みを浮かべたリオンは、血と精液を放出し続けながら人外の快感に身を委ね続けた。
そして、その鼓動がしだいに小さくなるにつれ、虚ろな瞳に邪悪な光が宿り始めていった。



ニースが二人がいる納屋に入ってきた時、リオンとアンナは人間では絶対に経験できない情交を交わしていた。
「ふわぁっ…、アンナ様の血、凄くおいしい……」
「リオン、リオンゥ…。あなたは私のもの……」
リオンとアンナはお互いの首筋に顔を埋め、互いの血を貪りあっていた。吸血する快楽と吸血される快楽が
双方を燃え上がらせ、行為をエスカレートさせていた。
「あらあら、二人ともすっかり立派な吸血鬼になっちゃって。ついさっきまで聖職者だったってのが嘘みたいね」
後ろから聞こえたニースの声に、アンナは血塗れの口をそのままに後ろに振り返った。
「だぁって…、吸血鬼の体と快感を与えてくれたのはニース様ですよ…。
こんな素晴らしいことを知ってしまった以上、過去の自分なんて省みる気にもなりませんよぉ…」
「僕もアンナ様に吸血鬼にしてもらって、今まで人間をやっていたことがすっごくバカバカしい気分になってきましたよ。
吸血鬼がこんなに素晴らしいものだって分かっていたら、以前に討滅した吸血鬼のどれかにさっさと
吸血鬼にされていれば良かった。って気になってきましたからね…」
リオンの方も、生えたての牙を惜しげもなく見せびらかしながら、以前のリオンからは想像も出来ない言葉を口走っていた。
「あぁ…、アンナ様の血もおいしいけれど、早く人間の血を思いっきり啜りたいよぉ…」
「すぐに吸えるわよ。そうしたら、一匹の人間を二人で一緒に啜りましょ!こんなふうに!!」
アンナは、再びリオンの首筋にガブリと勢いよく噛み付いた。
「う、うん!こんなふうにね!!」
吸血される快感に頤を仰け反らせたりオンは、我慢できないといった顔をしてアンナの首筋に噛み付いた。

「「んんーーーっ!!」」

うっとりと目を細めて吸血の快感に浸り始めた二人に、ニースはゆっくりと近づいていった。
その手には、リオンが持っていた大剣が握り締められているが、吸血に夢中な二人は気づく由もない。
「二人とも立派な吸血鬼になってくれて嬉しいわ。でもね…
後先考えず人間の血を吸われるようになったら、こっちとしてもまずいのよね」
互いに血を貪りあうリオンとアンナの胸板目掛け、ニースは大剣を勢いよく振り下ろした。

「ん…?」
ティオが重い瞼をゆっくりと開け放った時、部屋の中にはティオ一人しかいなかった。
「あれ…、リオンとアンナは…?」
身支度を整えて部屋を出てレストランの店員に話し掛けると、『仕事がある』とかいって二人は出て行ったと聞かされた。
「そっか…。あの二人、ヴァンダールの城へ行ったんだ…」
といっても、城の中はもぬけの空のはずだから、行ったらさぞビックリするでしょうね。と、ティオは軽く微笑んだ。
「せめて別れの挨拶でもしたかったな…」
少し寂しい気分になりつつ、ティオはレストランを後にした。ニースを一人残しているのが少し気がかりだったからだ。
(あの子のことだから二人に気づかれることはないだろうけれど…)
夜とはいえ人通りが多い大通りをとことこと歩いていると、前の方から見慣れた姿がちょこちょこと近づいてきた。
「やっほー。ティオちゃーん!」
「ニ、ニース?!」
その姿に、ティオはぎょっとした。もし二人がまだこの近くを歩いていたら、間違いなくニースに攻撃を仕掛けてくる!!
「どうしたの?ティオちゃ……、きゃっ!!」
呑気に手を振りながら近づいてくるニースの手をティオはガシッと掴み、近くの路地へと物凄い速さでカッ飛んでいった。
「な、なにがおこったのティオちゃん!」
「何が起こったのじゃないわよ!あなた、何一人で勝手に歩いているのよ!!」
ティオの凄い剣幕にニースはちょっと引きながらも、手に持っていた紙袋をおずおずと差し出した。
「なにこれ……?ああっ!!」
そこには、例の小瓶が一ダース入っていた。
「この前、空の小瓶が全部なくなっちゃって、買いに行っていたの…」
ニースが振闇をぱっとめくってみる。なるほど、裏に縫い付けられた小瓶にはすべて灰が詰まっている。
「まったく……。さっき、リオンとアンナに出会ったのよ。私」
「えっ……!それって、あのリオンとアンナ?!」
ニースはまるで初めて聞いたふうにギョッとした表情を浮かべた。
「そうよ。もし会っていたらこんな街中で大立ち回りをするはめになったじゃないの。ちょっとは自重しなさい」
「ごめんなさ〜い」
ニースはしゅんと頭を下げ反省したそぶりをした。意外に素直に謝ったことで、ティオも怒りの気分がスッと抜けていった。
「まあいいわ。二人はもう町を離れていったみたいだし、気をつけていれば大丈夫でしょう。わかったわね」
「うん。でも私も、久しぶりに二人に会いたかったな〜」
「冗談はほどほどにしなさい!!!」
調子に乗りすぎだ。と、ティオはニースの頭に拳骨を一発見舞った。
「痛った〜〜〜い!」
「知らないわよ!!」
頭を抑えて痛がるニースを省みることなく、ティオは表通りへ一人でずかずか出て行った。それを見たニースが慌てて後を追いかける。
「ま、私も別れの挨拶くらいはしておきたかったけれどね…」
ニースのほうを振り返ることなく、ティオはぼそりと呟いた。
(大丈夫だよティオちゃん…。会おうと思えば二人にはいつでも会えるんだ…)
それを耳にしたニースは心の中で呟き、小瓶が縫い付けられている部分にそっと手を触れた。
そこには、ヴァンダール戦の後2つ残っていた空瓶に詰めたリオンとアンナの灰がある小瓶がある。
(ティオちゃんが吸血鬼になってくれたら、一人づつしもべにして暮らそうね。それはとてもとても面白い生活になるよ…)
吸血鬼になったティオに二人が甲斐甲斐しく付き従う姿を夢想し、ニースはほんの少し唇をゆがめて微笑んだ。






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