サーカディア・ナイトメア智美


海上都市ブルージェネシス唯一の教育機関であるアカデミア学院には、生徒の個性を伸ばすため高等部から多くの学科が存在する。
普通科、医学科、史学科、スポーツ科など…そしてここ音楽科。

その音楽科で現在、壮絶な争いが繰り広げられていた。
「お願い…杉浦さん、私の言うことを聞いてほしいの」
「うっさいわねえ篠原先輩、先輩面して説教しないでよ!」
「私たち、弘樹君と一緒に戦う仲間でしょう?」
「音楽と弘樹はカンケーないじゃん。さっさと言いたいこと言ってよ」
またか。講堂のグランドピアノ前で言い争う2人の少女を目にした周囲はすぐ顔を背けた。
音楽科2年の杉浦泉と、同3年の篠原智美。
この2人は見た目も性格も好みの音楽もまるで正反対。さらに相性も悪い。
ショートボブに長身で制服を着たことがなく、バンドのヴォーカル兼作曲を担当する泉。
いかにもお嬢様といった波打つ長髪に細身で、クラシック音楽を愛する智美。
いつもずけずけとストレートにものを言う泉に対し、柔らかい口調と物腰の智美。
これでは気が合うはずもない。
「お願いわかって杉浦さん、音楽会ではクラシックピアノを弾かないといけないのよ」
「だから?あたしこんな古臭いピアノ嫌いなんだけど」
「あなたが趣味でやってるような音楽と違って、1つ1つ音が重要な意味を持ってるの。心を込めて弾かないと…」
それを聞いて、ただでさえ強気そうな泉の顔が険しくなった。
パァン、と乾いた音がし、他人のふりをしていた周囲の人間は驚いてそっちを見た。
そこには頬を押さえる智美の姿があった。
「人の音楽にケチつけてる暇あったら練習したら?
ご両親もピアニストの名門優等生、智美お嬢様が失敗したらピアノコースの恥なんでしょ?
あたしはあんたの引き立て役なんてゴメンなの!」
一気にまくし立てて一息つくと、泉はダメ押しの一言を放った。
「大体あんた、ホントにピアノ好きなの?やりたくてやってる?全っ然、心に響いてこないんだけど!」
「そんなっ…ちゃんと、練習…してます…!」
涙声になった智美は、うつむいて頬を押さえたまま外へ駆け出していった。
「…やっちゃった。あの人が一番頑張ってんのに」
軽い口調で、しかし後悔した様子で泉はつぶやいた。
周囲を見ると、音楽科ピアノコースの学生がひそひそとささやき合っている。
それを見て泉はますますカッとなり、怒鳴った。
「あんたらも人のこと気にしてる暇あったら練習するか、帰れば?
親の七光りとか、篠原先輩ズルいよねーとか言ってて結局何もしてないんじゃん。
運も実力のうちなのに、その差も埋めようとしないで何が言えるの?」
音楽への情熱。そういう意味では犬猿の仲の2人は似通ってはいた。そして超能力を持つ点でも…


一方、智美はそうとも知らず音楽科の個室に閉じこもってしばらく泣きはらした。
「みんな私のことを分かってくれない…どうしてなの…」
いつからか、ピアノを弾くのが楽しくなくなった。
努力すれば親のおかげと陰口を叩かれ、間違えれば智美の努力不足と親や教師に叱られる。
そんな彼女に秘められた能力を見出したのが弘樹と…そして泉だった。
「智美さん、泉さんから能力があるって聞いたんだ。仲間になってくれないかな」
「確かに、篠原先輩は才能あると思うけど…戦えるの?絶対へこたれそうなんだけど」
「怖いけど…杉浦さん、私、生まれ変わったつもりで頑張ろうと思っているの。
せっかく見つけた、自分にしかない力だもの」
だが、ピアノの世界において彼女は「自分にしかない力」を見出したことがない。
「お前がちやほやされるのは父親である私が指導しているからだ。才能などない。
大人しく私の言うとおりに弾けばいいのだ。そうすれば恥などかきはしない」
学校や皆のため努力すれば、泉に「心がない」となじられる。
しかし自分の個性を出すような弾き方を、親や教師は認めようとしない。

ピアノの弾きすぎで指や腕が痛い。しかし今日の夕方には演奏会の本番だ。成功させないと親は納得するまい。
痛み止めを飲み、もう一度ピアノホールへ戻ろうと立ち上がったその時、誰かが外からドアをノックした。
「…智美さん、いますか?」
「その声は…朝倉さん?」
朝倉優美。1学年下で学科も違うが、超能力つながりで一番気の合う仲間だ。
泣くだけ泣いて落ち着いた彼女は、ドアを開けて優美を迎え入れた。
「智美さん、大丈夫ですか?音楽家の人から聞いて、心配で…」
心配する表情の優美。これだけ智美を気遣ってくれるのは、彼女以外には弘樹だけだ。
「ええ、もう大丈夫だわ。…我慢して、しっかり弾かないと」
気丈に微笑む智美に、優美も安心したように微笑んだ。しかし、それと裏腹に口から出る言葉は厳しかった。
「でも智美さん…ずっと我慢して自分を抑えることに、耐えられるの?」
強引にふさいだ傷をえぐる一言を、優しく笑いながら突き刺す。智美の精神が大きく揺らいだ。
「そんな…じゃあ、どうすればいいというの。朝倉さんはそう言うけど、私には何もできないのよ」
「だから…私、智美さんが生まれ変われるよう、励ましに来たんです」
その言葉と共に優美が大きく、素早く踏み込み…唇で智美の口をふさいだ。
「んむ…っ!?」
優美の緑色の瞳が、赤く発光した。
同時に、口伝いに強烈な思念が送り込まれる。
智美は自分が内部からバラバラになるように感じ…そのまま肉体の制御を失った。
「うふふ…普通科の制服ってこんなに着心地悪かったかな。
カモフラージュのため着てみたけど、肌を出していないと落ち着かないわ」
その場に崩れ落ちた智美を、優美は瞳孔を鋭く細めながら見下ろした。


口伝いに侵入したナイトメアは、智美の精神世界「イデア」にたどり着いたようだ。
ようだ、というのは、智美はイデアの中でもなおピアノに向かわされていたから。
「ここは…弘樹君が言っていた、私の精神…?」
彼女は暗い城の一室にいた。狭く、冷たく、ピアノ以外には何もない。
「練習しなきゃ…いいえ、きっとナイトメアが私の中に侵入したんだわ」
よく見ると、小さい窓が部屋のあちこちについている。そこから外を見て、彼女はぞっとした。
彼女がいたのは城の尖塔の屋上。空は一面の黒雲に覆われ、光は全く見当たらない。
そして城は分厚い城壁に囲まれ、出口は見当たらない。
さらにその城壁を取り囲み、覆い隠すように無数の大木が生い茂っている。
よく見ると…大木についた無数の実は、智美を凝視する目のようにも見える。
彼女がピアノを弾くかどうか、じっと監視する人々の冷たい視線のように。
「この狭い部屋じゃ…戦えないわ」
彼女は意を決して、窓から身を投げ出した。自分のイデアの中であれば、高さは関係ない。
ふわりと宙を舞い、彼女は柔らかく着地した…はずだった。だが、彼女はすぐに後悔した。
見上げる木々も城も、塔の上からより一層威圧的で、よりじっくりと彼女を見据えている。逃げることを許さぬかのように。
「…自分のイデアでありながら他人に見られ続ける…憐れだね、人間というやつは」
若い男の声。それと共に、ナイトメア「スティールワイヤー」が現れた。
その声が「タナトス」のものだとは智美は知らない。だが、それが敵だとは分かる。
「ここは私のイデアよ。人間じゃないナイトメアなんかに渡しはしない」
彼女の手から発せられた音が、衝撃波となってナイトメアを襲った。ピアノの和音のように、幾重にも重なって。
長く続く楽曲に押され、ナイトメアは全く反撃をできずにいた。このままなら、勝てる。
だが休符があるように、超能力攻撃も休みなく永遠に連発できるものではない。
一瞬だが智美の手が止まった。
「見た目と全然違って強いのね…智美さん」
その隙を突いて、ナイトメアが声を発した。先ほど聞いたばかりの少女の声を。
「あ…朝倉さん!?」
声だけでない。硬質のワイヤーが変形し、奇妙に絡まり、人間と思しき形を取っていく。
赤く発光するコアが頭部に収まり…朝倉優美となった。長い髪も、優しい笑みも彼女そのもの。
…だが、その身体を包むボディスーツは、不自然な金属状の輝きを放っている。
「朝倉さんの姿をとって騙そうというの?…本当に、怒ってもいいのね」
「違うわ、智美さん。私は本物の朝倉優美ですよ。新たな意識体として進化した…。
あいつ…片山弘樹の言い方を借りれば、『寄生された』っていうのかしら」
「ま、まさか朝倉さん…タナトスに!」
優美はにこりと微笑んでうなずいた。瞳が赤く輝き、彼女の正体を示す。
「智美さんはタナトス様を倒すつもりなのね。それならまず私を倒してみて…」
両手を広げる優美。鋼のレオタードとニーソックスをまとった細身の彼女は、驚くほどに無防備だ。
だが、智美は動けない。
「ふふ…智美さんにできる?できないですよね。友達だもの」
「あ、朝倉さん…目を覚まして!あなたは人間よ。人間とは戦えないわ」
無駄だと知って智美は叫んだ。寄生されてイデアを塗り替えられた以前の意識体が蘇ることはありえないのだ。
だが…その叫びに、優美の笑みが凍りつき、動きが止まった。瞳も緑色に戻っていく。
「とも、み…さん…?」
「朝倉さん!?」
目を覚ましたのか。智美は期待を持って近づいた。


「…そんなに戦いたくないなら、大人しく寄生されればいいのよ」
「きゃああああっ!!」
優美の身体が無数の鋼鉄の触手となり、智美を拘束した。
「抵抗しないの。ふふ…そのほうが簡単でしょ?」
いつの間にか優美の本体は智美の背後に回り、再びボディを形成した。
腕で羽交い絞めにされ、さらに身体から伸びる針金に縛られ、智美はぴくりとも動けない。
「や、やめて…苦…しい…」
「ゆるめてあげるから、もう一度あの塔の上へ行きましょう?」
他者のイデアへ強引に割り込むのは、ナイトメアにとって負担が大きい。
通常の愚かなナイトメアなら何も考えず、それゆえに撃退されることも多い。
だが高い知性を持つナイトメア優美は、智美の精神の中枢へ楽々と入り込んだのである。
暗く狭い部屋。そこには変わらず、豪華なピアノだけがたたずんでいる。
そして窓の外からは木々が彼女を見据えている。
「さあ、智美さん。ピアノの上に座って下さい」
「そ、そん…な…!大切な楽器の上に座るなんて…はぁうっ!」
「ピアノのせいで苦しんでいるのに、どうしてまだ大事にするんですか?
それとも…まだ締め付けが足りないかな」
「あ、あぐぅ…」
ギリギリと締め付けられ、気を失いそうになっても、智美は動こうとしない。
「このままでは意識体を消滅させてしまうわ。…少し、手を変えないと」

智美を縛っていた針金が数本、体から離れ…代わりに彼女の両耳に差し込まれた。
すっぽりと覆われた彼女の耳は外部から遮断され、優美の発する音だけが届く。
「あ、う、ぐぐ、い…い、嫌あ!何なの、この音…」
音楽に長く親しんできた智美は、優れた聴覚とリズムセンスを持っている。
そのぶん、狂音波を聞かされた時のアレルギーも激しい。
物理的なダメージを与える心配もなく、数倍の精神的ダメージを与えることができる。
頭を抱えて悶え苦しむ智美。
その身体に優美は、今度は触手を通じて独特の振動を送り始めた。
「ぐぐうう…う…はぁう…ふっ…?はあ…あう…ん」
苦しんでいた智美の両手がだらりと垂れ下がり、全身から力が抜けた。
音波のリズムに合わせた極微振動を送られ、苦痛感が消えたのだ。
音波は精神を歪ませる働きを、振動は快感を与えて抵抗意識を奪う働きを持っている。
優美がもう一息入れれば、確実に智美に寄生してイデアを奪うことができる。
しかしそれでは、優美の肉体が空っぽになってしまう。

「さあ智美さん…ピアノの上に座って」
音波と振動にもうひとつ和音が…優美の命令が、重なる。
智美はもはや抵抗せず、言われるがままにピアノの上に座った。
靴で椅子が、そして鍵盤が汚れるのも構わずに。
「智美さん…ピアノに座った後だと、周りの木々はどう見えますか」
狂った快感に酔いしれながらも、智美は窓の外に目をやった。
「んん…馬鹿みたいね。見ていても私…ピアノなんて、弾かないのに…」
彼女の口元に、はっきりと歪んだ笑みが浮かんだ。
「そうですよ智美さん。人間の下卑た眼なんて、気にしなければいいんです」
「下卑…」
「人間なんて、下らない生き物」
「下らない…あう…人間は、下らない…」
ぼんやりとつぶやく智美に、優美はいっそう甘くささやきかけた。
「でも智美さんは違う。もっと高等な意識体に進化できる。
そうすればより肉体を自在に操れるわ。苦しまずにピアノの達人になれる」
「ほ…本当…っ?」
「そうよ。それをできるのは、タナトス様なの」
「タナトス…様…ああ…それなら、私に、力を…」
うっとりと微笑む智美の目の前に、優美の本体が移動した。
「私はタナトス様の分身。タナトス様からの預かり物を、智美さんに授けてあげる。さあ…」
優美はワイヤーで智美の体を自分のいいように制御すると、ぐっと唇を奪った。
深い口付けと共に、口から、耳からもナイトメアの因子が注ぎ込まれる。
どくん、どくんと智美の体がそれに合わせて揺れる……。


L
長いキスの末、優美はすっと智美から離れ、鋼の触手も一斉に彼女の中に戻った。
智美はピアノの上に座ったまま、動こうとしない。
「そろそろ私は限界。智美さん、また現実世界でね」
優美はそう言うと、再びナイトメアの姿になって消え去った。
一方、智美は静かに笑い始めた。
「くすくすくす…くっくっくっく…」
自身ありげに、ゆっくり足を組む。同時に、彼女のイデアが再構築を開始した。
塔に絡み付いていた細いツタが伸び始め、城を、城壁を、ピアノを、そして智美自身をも包んでいく。
そのツタから、黒と紫の毒々しいバラが咲き乱れた。
城壁を覆い尽くしたバラはそれだけで収まらず、その外にある木々にまで恐ろしいスピードで這い寄った。
たちまちのうちに樹木はツタに締め付けられ、花の苗床となり、樹液を吸い尽くされ朽ち果てた。
智美はその様子を、憎憎しげに見つめていた。
「ふ…いい気味だわ」
彼女が着ていた音楽科の紫の制服も消滅し、代わって黒と紫のナイトドレスがその身を包んでいる。
波打った金色の髪には黒いバラが一輪。
一見髪飾りのようだが、見るものが見ればその花が超能力の根を張っていることに気付くだろう。
そして彼女の大切だったピアノはツタに埋め尽くされ、女王を迎える玉座と化していた…。


「智美さん、大丈夫?」
「……」
智美が目を覚ますと、目の前には不安そうな優美の顔があった。
もちろん普通科の制服を着用している。自分も音楽科の制服だ。あれは夢だったのだろうか。
ふと髪に手をやると…黒バラでできた髪飾りがその手に触れた。
「もちろん、夢ではないですよ…智美さん」
「…そう。そうよね」
優美の優しい笑顔の奥に、ちらりとナイトメア特有の冷酷さが見え隠れする。
それがはっきり分かるということは、自分もつまり…
「あ、もうすぐ演奏会ですよね。頑張ってください、智美さん」
きっ、と智美の眉が不機嫌そうにつり上がった。
「下らないわね…でもまあ、余興にはいいかもしれないわ」

演奏会には弘樹と泉も見に来ていた。
「泉さん、来たんだね。ケンカしたって言うから…」
「ホントは来たくなかったし、あたしにとっちゃケンカじゃないの。でも篠原先輩気にするからさあ」
しゃべっている間に、アナウンスが篠原智美の名を告げる。
ステージ脇からピアノの方へ歩いてくる智美を見て、ざわざわと客席がどよめいた。
この演奏会は学院主催のものであり、決まりはないが制服で演奏するのが普通である。
だが今日の智美は肩を出し、大胆なスリットの入った漆黒のナイトドレスに、黒いバラの髪飾りを挿している。
審査員や音楽科の生徒が顔をしかめるのも無理はなかった。
だが、智美が鍵盤に触れると同時に、一同は完全に演奏に引き込まれた。
寸分の狂いもなく、素人にも分かるほど巧みで、悪魔が宿ってるのではないかと思うほどの美しい音色。
ただ1人を除いては、全ての人間が完全に魅了された。
「あ…あれ?泉さん、どこ行くの?」
「帰る。…篠原先輩の演奏元々嫌いだけど、今日のは特に胸くそ悪いから」
「そ、そんな?こんないい演奏なのに」


終了後の会場はまさに興奮と狂乱のるつぼだった。
その中で弘樹は、音楽科の数人と知り合いということで楽屋まで通してもらえた。
「智美さん、すごい演奏だったよ!みんな大興奮さ。はい、これ花束」
さぞ喜んでいるかと思いきや…智美の眉と目はつりあがっている。
不機嫌というよりも、攻撃的といったような印象を受ける。
にこりともせずに一礼して花束を受け取ると、智美は冷たく言った。
「片山君…どうしてここにいるの?」
「ど、どうしてって、音楽科の人が通してくれたから…」
「私は演奏後は疲れているから、人と会いたくないの。…目障りよ」
あまりにとげとげしい智美の口ぶりに、弘樹は驚きを通り越して何も反応できなかった。
そこに優美が現れた。
「あ、優…」
「ふふ、弘樹君。智美さんは疲れて気が立ってるの。
私は片づけを手伝うから、悪いけど弘樹君は邪魔せず消えてくれる?じゃあね」
優美は明るく微笑むと、問答無用でドアを閉めた。

「どうかね、篠原智美。イデアの吸収と再構築は順調かな」
智美と優美だけのはずだった部屋の奥に、いつの間にか御剣晃…「タナトス」が立っている。
「はい、イデアは完全に私の支配下に」
智美は目を閉じて誇らしげに言った。以前には全く感じられなかった自信が、今の彼女にはある。
「よし。お前はしばらく音楽科に残るのだ」
その言葉に、智美は眉間にしわを寄せ、不満そうにタナトスをにらみつけた。
「どうしてです。…こんな下らない茶番、もう我慢できないわ。
私は一刻も早く、愚かな人間どもを消し去りたいのです。
せめて人間と接触する必要のない特化コースへの転籍をさせて下さい」
そこに優美がいつもの微笑みで間に入った。
「智美さん、タナトス様は、より多くの分身をお望みなんです。
もっとたくさんの姉妹を作り出せば、タナトス様も私達も強くなれます。
それに、哀れな人間どもを欺いてあげるのも今では容易でしょう?ふふっ」
それを聞いて、智美の顔に笑みが…ただし攻撃性に満ちた冷酷な笑みが浮かんだ。
「そうね…人間の望む役割を演じてあげるのも悪くはないわ。
それが私のご主人、タナトス様のご命令とあればなおさらのことね。
だって、私は生まれ変わったんだもの。ふふふ…」

朝倉智美は名実ともに音楽科随一のピアニストとなり、
一部では有名なピアニストである父を超えるほどの腕ではないかとの噂も立った。
親も教師も音楽科の生徒も、一転して智美を持ち上げ、あるいは媚びるようになった。
それと比例するかのように、以前物腰柔らかだった彼女の性格は高慢かつ攻撃的に変わった。
愛らしく微笑む彼女の顔など皆忘れ、智美と言えば目をつり上げ「目障り」とつぶやく姿を思い浮かべる。
しかし誰もそれを責めようとはしない。ある1人以外は。

あの演奏会から後、ボディガードが部屋の外を守る中、智美は個室で見せかけの「練習」に励んでいる。
今までどおり制服はきちんと着るし、常に黒バラを髪に挿す以外は外見に大きな変化はない。
そして人格の変容も、個室をずっと使うことで上手くごまかせていた。
「唯一、私に媚びない女がいるようね。
人間風情で私を崇めないなんて…腹立たしいわ。
まあ能力も使えるようだし、分身にするには悪くないかもしれないわ。…屈服させてやる」