心よ原初に戻れ



聖なる、聖なる、聖霊よ
天駆ける羽を、得たるは誰ぞ、常磐の御輪を、得たるは誰ぞ
聖なる、聖なる、聖霊よ
原初の世界へ、さきがけ還らん


「ああ…なんと清々しい…。かつて色褪せて見えた世界が、これほどまでに鮮やかだ…
あらゆる生命が下等な存在…、まるで雑草にも劣る…。これが高次の存在というものか…」

東京の上空に現れた次元の歪み。それは人間のすむ世界…物質界と聖霊がすむ世界、聖霊界の
境界が曖昧になる自然現象。それ自体は別段特別なものではなかったが、今回東京上空に現れ
たものは、その規模の桁が通常の比ではなく、放っておけば二つの世界が溶け合い混ざり合う
境界融解現象を引き起こしかねない物であった。
本来、それほどの歪みならイギリスに本部のある聖霊庁から各国に連絡が行き対策を講じるの
だが、今回は何故か各国にこの事実は伏せられ、次元の歪みは日を追うごとに拡大の一途をた
どっていった。それは発生すると思われる境界融解現象が関東一面を呑み込みかねない規模になるほど。

「さあ、世界はあるべき姿に還る………、いや、原初の姿に進化する!この真理、もはや止められまい」

これはすべて、英国聖霊庁長官、ミルドレッド・アヴァロンの陰謀であった。自身強力な聖女
であり、その力を持って敵を屠り長官の座にまで上り詰めた彼女は、年が経つに連れて自身が
持つ聖女の力が失われていくことを忌避し、今回発生した時限の歪みを利用して聖霊界の力を
吸収し、自らを高次の存在…天使へと進化させ、その力を以って物質界、聖霊界を融合させ
原初の世界を創造することを目論んでいた。

「今ここに!人類の進化の歴史に!大いなる第一歩をここに刻む!私は新たな世界の創造神となる!」

そして、その目論見は成功した。英国聖霊庁所属の、そしてこの地に集まりし聖女の力を媒介
にした魔法陣により、ミルドレッド・アヴァロンは高次の存在へと進化した。男性のように短
く切りそろえていた髪は踵まで伸びて白く光り輝き、藍色だった虹彩は緋の輝きを放っている。
それは確かに天使という神々しさを備えてはいるものの、全てを見下す傲慢さもまた併せ持っていた。

「ミルドレッド・アヴァロン…、あなたは一体、何を望んでいるの?!
これほどの混沌の果てに、フィオナまで利用して、一体何をしようとしているの!!」
東京上空の異変…、それに二年前親友のフィオナを失った時を連想した廿楽冴姫(かぐらさき)は、
その原因を探るために奔走し、果てに辿り着いた東京上空の異空間、夢幻宮。
そこで出会ったものは、二年前に目の前で消え去り、聖霊となって戻ってきたかつての親友フィオナ。
そして、全ての元凶であるミルドレッド・アヴァロン。
「廿楽冴姫、私はね、古の時代に分かれた二つの世界を、本来のあるべきひとつの姿に戻そうとしている
のだよ。そうすることで、人はヒトという殻を捨て、新たなる高次の存在に進化することが出来る。
フィオナにはその手伝いを頼んでいた。おかげで、私の計画は確実に進んでいる。達成まで、あとわずかだ」
喜色満面に語るミルドレッドを見て、冴姫は胸からこみ上げる吐き気を覚えた。
ここに来るまで、夢幻宮のいたるところで生気を失い倒れている英国聖霊庁の聖女達を見かけている。
すべて、ミルドレッドの魔法陣に力を吸い取られていったものたちだ。おそらく、いや間違い
なく上司であるミルドレッドに誑かされ、その力を捧げ尽くしたのであろう。
「そんなことのために…、今までどれだけの人の心を踏みにじってきたの?!…絶対に…、許さない!!」
冴姫の怒りが頂点に達し、憎悪の瞳をミルドレッドに叩き付けた。それに対し、ミルドレッドは
あくまでも余裕の態度で冴姫に対峙している。
「あの太陽が沈んだ時がまさにその時。世界の歪みは頂点に達し、一つに融合し、人は新たな
る段階へと進化する。あとわずかだ、廿楽冴姫、邪魔はさせんよ」
「絶対に…、阻止してみせる!もう…、あんな思いはしたくない!あんな思い、誰にもさせない!」
人間の、世界の行く末を賭けた戦いが、東京上空で始まろうとしていた。


『心よ原初に戻れ』 〜アルカナハート、バッドエンド・廿楽冴姫ルート〜


冴姫は焦り始めていた。高次の存在へ進化したミルドレッドはあらゆるアルカナの攻撃を繰り
出し、冴姫へ攻撃する暇を与えない。しかも、ミルドレッドとしては日没まで時間を稼げばい
い訳で必ずしも冴姫を倒す必要は無い。
それに対して冴姫は、日没までにミルドレッドを倒せないとそこでおしまいになってしまう。
世界は境界を無くし、かつてない混沌が全てを覆い尽くし、全てが終わってしまう。ミルドレ
ッドもそれを知っているからか、冴姫への攻撃を倒すことではなくひたすらに時間を稼ぐこと
へ終始している。
(はやく………、なんとかして、隙を見つけないと!)
心逸る冴姫の攻撃は悉く空を切り、ミルドレッドの嘲笑すら崩せないでいる。逆に手痛い反撃
を喰らい、仕切り直しを何度も余儀なくされていた。
そんな光景が数度続いた後、ミルドレッドは突然動きを止めた。
「フフフ…、どうやら時間切れのようだ」
「どういうこと………、あっ!!」
周りを見た冴姫が愕然とする。先ほどまでわずかに顔を覗かせていた太陽が、完全に沈んでいた。
「どうだい、わかるだろう。感じるだろう。世界の境界の歪みが、頂点に達したことを。この場を始まりとして!」
言われるまでもない。上に広がる空は、所々に滲み出てくるインクのように別の空が見え隠れ
している。先ほどまであった赤い太陽の替わりに、漆黒の太陽が顔を出し始めている。全ての
輪郭が曖昧になり、色と形を失い始めている。
それはまさに、全ての始まりを為す原初の世界が顕現しつつあることを指し示している。
そして、この感じる感覚。それはフィオナを失ったときに感じたものと同質のものだった。
「嘘…、これって……あの時と同じ…?いえ、あの時よりも、もっと…強い…」
あの時の記憶がまた再生される。不思議な光に巻き込まれ、目の前からフィオナがいなくなっ
ていく記憶。必死に打ち消そうとしてきた、あの記憶。
「さあ、古の時代に分かれた世界が遂にあるべき姿に還る。原初の姿に進化する。廿楽冴姫、
君はそこに立っていたまえ。私が創造する新たなる世界の、最初の住人になる栄誉を与えよう」
ふわり、とミルドレッドの体が浮き上がる。その姿は外に広がる世界同様、次第にぼやけ、輪郭を無くしていく。
「その始終を、私は宇宙の彼方から見届けるとするよ」
「ま、待ちなさいミルドレッド!原初の世界なんて…、始まりの世界なんて、そんなもの、あ
なたが考えているものとは違う!あなたが思っている世界じゃない!
そもそも、『新たなる世界』ってなに?!あなたが世界を、壱から創造しようというの?!」
「もちろんだとも。古き世を破壊によって無へと帰し、創造を持って新たなる世界を創り上げる。
新世界の神である私が行う、当然の行いであろう」
「なんで…、何でそんなことが出来るのよ!今ある世界に何が不満なの?!普通に生き、普通
に暮らしていける世界の、なにが嫌だってのよ!!」
ミルドレッドを止められなかった自分への憤りもあるのか、冴姫はいつに無く感情を爆発させ
ミルドレッドに食って掛かっている。が、ミルドレッドにしてみたらそれは無力な雛が手足を
ばたつかせながら口喧しく鳴いているに過ぎない。
「所詮、高次の存在たる私の考えなど下賎な存在には理解できるはずも無いよ。
いや、もうじき理解できるかな。廿楽冴姫、君には」
意味深な言葉をミルドレッドは冴姫に対して吐いた。『もうじき理解できる』。それは一体、
いかなる事を指すのか。
「なにそれ…、私があなたの考えを理解するですって…?冗談も程ほどに…」
「冗談ではない。先ほども言ったろ?君には『私の創造する新たなる世界の、最初の住人にな
る栄誉を授ける』ってね。
廿楽冴姫、間もなく君は『私の世界の元の高次の存在』となる。フィオナと同じ仲間となるのだよ」
「!!」
ミルドレッドの言葉に冴姫は衝撃を受けた。フィオナと同じ、それはつまり聖霊、天使と同じ
存在になるということ。
「バカ言わないで!私は人間よ!そんなこと…」



               …ドクン

「今、私と君がいるこの場、こここそ私が創造する新しい世界の始まりの場所。むこう側の力と
この世界の力が収斂し融合し、『私の世界のの力』として一帯を覆い尽くしている。
そして、君は先ほどの私との戦いで、私が放つ力を全身に浴び続けた。私が頂点であり唯一であり
秩序である『私の世界』の中で私の力の洗礼を浴びた君は、『私の世界の秩序』に組み込まれる資格をもつ」

                ドクン

「光栄に思うがいい。新たなる門出を迎える世界の、一翼を担う存在になれるのだからな」
「なんですって………」
では、先ほどの戦いで私を積極的に倒そうとしなかったのは、私を陥れるためだったというのか。

                ドクン

「そんなこと………、させはしない!!」
その姿が次第に消えつつあるミルドレッドに、冴姫は残っている力を振り絞って突進した。無駄
な抵抗とは思いつつも、せめて一太刀浴びせねば気がすまなかった。
しかし
「うぐっ!」
冴姫が繰り出した爪先蹴りは、ミルドレッドに届く寸前ピタリと止まってしまった。別に止め
ようとしたわけではない。足が、それ以上どうしても前に出ないのだ。
「な、なんで………。このぉっ!!」
ならばと思い振り下ろした手刀も、やはりミルドレッドには届かない。まるで、見えない壁に
ぶつかるかのように止まってしまう。
冴姫は、まるで自分のものではなくなったような両手、両足を呆然と眺めた。
「どうして………」

                ドクン

「無駄だよ、廿楽冴姫」
ミルドレッドが嘲笑を込めて呟く。
「創造主に手を出すことなど、いかなるものであろうと出来はしない。君はもう私の世界の一
員となっている。私に逆らうことなど、出来はしないのだよ」
「そ、そんなこと………、そんなこと、が………」

                ドクン!

「があああぁぁっ!!」
突然、冴姫の体の中で爆発が起こった。比喩ではあるが、それは爆発といって全然差し支えの
ない、内から溢れる力の奔出だった。
「フフフ、どうやら始まったようだね。私が流し込んだ力が、君の細胞の一つ一つを高次の存
在へと作り変えていくのを感じるだろう?」
「ああああああぁぁぁっ!!!」
次々と溢れ出てくるミルドレッドの力。それは冴姫の肉体の中を荒れ狂い、皮膚にあたって乱
反射し、四肢の隅々に無秩序に広がりつつある。焼火箸を全身に突き刺されたような感覚に、
冴姫は瘧(おこり)を起こしたかのように蹲り、両肩を抱えてがくがくと震えている。あまりの
衝撃に瞳孔は開ききり、ぽっかり口からは熱い吐息が絶えず漏れ続けている。
「熱い、熱い、熱い!熱い!!あ…」




                ドクン!!

「あうっ!」
その時、身体の感覚が反転した。
それまでは起こる衝撃に苦痛しか感じなかった身体が、その衝撃に悦びを感じ始めたのだ。
(な、なにこれ………、私、気持ちがいい………?!どうして?!)
冴姫は、必死に湧き上がる気持ちを否定しようとする。しかし、内から湧き上がった衝動は収まる
どころかますます広がりを見せてきている。まるで、細胞一片一片が変化を心待ちにしているかのように。
「いや………、こんなの、嫌ぁぁっ!!嫌なのに、いやなのに気持ちいいなんて、絶対嫌ぁっ!!」
恐怖、屈辱、悪寒に冴姫は泣き叫んだ。だが、その顔に張り付いている表情は、湧き上がる快感に
打ち震える歓喜の笑みだった。
「もう、そろそろか。君はよく頑張った。そんな君にプレゼントを上げよう」
遠くからミルドレッドの声が聞こえてくる。その声は相変わらず居丈高だが、冴姫の耳には何
とはなしに絶対の主のものとして聞こえ始めた。
「もうすぐここに、君の親友がやってくる。下賎な下等動物として君の手にかけるもよし。
同じ時を生きるものとして君の手で高次の存在に進化させるもよし。全ては君次第だ。
では、しばしの別れだ。世界の始終の顛末が付き次第、また会おう」
「ミ、ミルド、レッド………、まち、な…」
しかし、冴姫が話すべき相手は、既に消えうせていた。
「ま、ち…う、うああぁ!あはあぁ………」
恐ろしい勢いで自分の体が全く別の物に書き換えられていくのが嫌でも感じられる。そして、
それを次第に心待ちにしている自分の心の変化も。
(こ、こんなの、とても耐えられない!身体が、心がどんどん気持ちよくなってく!抗う心が
どんどん削り取られていく!創造主様…ちがう!ミルドレッドの支配力がどんどん強くなってく!
もういや!こんなに苦しみたくない!いっそのこと、全部受け入れて楽になりたい…
ダメッ!あんなやつの思い通りになんて、絶対になりたくない!
そんなことになるくらいなら、死んだ方がまし!!)
ミルドレッドに対する嫌悪、それが今廿楽冴姫の自我を維持する術の全てだった。それ以外の
ことを心から排除することで、今にも消え失せそうなか細い自分を、かろうじて支えることが出来た。
だからこそ、それが崩れるのが自分が無視できないもの。自分が捨てられないものが眼前に
現れたときに起こるのもまた、必然だったのだろう。
「わーっ!冴姫ちゃーん!!」
彼方から、ミルドレッドとは別の声が響いてきた。冴姫の親友、愛乃はぁとの声だ。
「はぁと?!」
込み上げてくる快感の中、冴姫の瞳にはぁとの姿が入ってくる。心配そうに近づいてくるはぁとの
顔を見たとき、冴姫の心の中で叫ぶものがあった。

欲しい

「!!」





                はぁとが、欲しい


かわいいはぁとの顔を私色に染めたい甘い声で鳴かせてみたい大事なところを愛撫してよがり狂わせてみたい
その柔らかい肢体を思うまま味わいたい肉の中に私を埋めてみたい私の中の力を注ぎ込んで私と同じ存在にしたい

自分の中に湧き上がる衝動に冴姫は愕然とした。そして、それを心の奥で望んでいたことも同時に再認識した。
このままでは、はぁとを巻き込んでしまう。早く自分の下に引き寄せないと。ちがう、自分の下から引きはなさいと!!
「駄目、はぁと!すぐにここから逃げて!私が私でいられるうちに逃げて!!」
「冴姫ちゃんをおいて逃げられないよ!それに冴姫ちゃん、とっても苦しそうじゃない!!
一緒に逃げよう!私も手を貸すから!」
「来ないで!これ以上近づいたら、私!」
「わがまま言わないの冴姫ちゃん!ほら早く!」
はぁとの手が、冴姫の手首を握り締めた。
「ひゃぁん!」
その暖かく、柔らかい感触に全身に電流が走ったような刺激を受け、思わず冴姫は甘い悲鳴をあげた。
「えっ?!さ、冴姫ちゃんゴメン!痛かった?!」
自分が強く握ったから冴姫が声を上げたと誤解したはぁとが、冴姫の顔を覗き込んでくる。
目の前に広がったはぁとのあどけない顔に、冴姫の表情が凍りつく。
「あ、あ、あ、ぁ、ぁ…」

欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい

抑え込んでいた感情が、際限なく膨らみ始めている。もう、自分では制御できない。
それまで必死に保ってきた自我が、はぁとの顔により一瞬真っ白になる。その隙を体内の力が
見逃すはずがなく、残っていた廿楽冴姫自身の細胞は一瞬で書き換えられ、新たな生命としての産声を上げる。
「かはっ……………」
呆けたような声を上げ、全身の力がくたりと抜ける。この瞬間、廿楽冴姫は人間としての生命を終えた。
「さっ、早く行こっ、冴姫ちゃん!!
……………冴姫ちゃん、どうしたの?」
様子がおかしい冴姫に、はぁとは不審そうな目を向ける。その時、冴姫がぼそりと呟き始めた。
「ごめん…ごめんなさい……
はぁと…、ごめん…、ごめんね………。なにもかも、全部、ごめん……」
冴姫は俯いたまま、はぁとの手を握り締めぶつぶつと呟いている。
「冴姫ちゃん…?」
「私がしっかりしないから、はぁとを巻き込むことになっちゃった…。本当はこんなことになりたくなかった。
なりたくなかったのに、なのに…」
「冴姫ちゃん、何を言ってるの?!それよりも早く…」
「でも、こうなることを私は心の底で望んでいた。そして、今なら創造主様の言うことも理解できる。
この感覚………、確かにヒトでは絶対辿り着くことは出来ない………。ふふふ…」
次第に、はぁとの手を握る力が強くなっていく。呟いている声にも含み笑いが加わってきている。
「い、痛いよ、冴姫ちゃん…。ねえ、どうしたの?早くここから逃げようよ」
はぁとは冴姫の手を引っ張り、共にこの場から離れようとした。
が、冴姫はそれに続こうとはせず、その場に立ち尽くしたまま動こうとしなかった。握ってい
る手もそのままなので、はぁとはガクンとつんのめってしまった。
「冴姫ちゃん、何をしているの?!このままじゃ…」
「はぁと………、逃げる必要なんて、ない」



「冴姫ちゃん………?」
この時点ではぁとはようやく気が付いた。冴姫の身に纏っている雰囲気がいつもと全く異なること。
冴姫の身体から、まるでアルカナと対峙しているような波動が発散されていること。
「はぁと…、あなたは感じないの?今、私たちがいるこの場、こここそ新たに創造される世界の始まり
原初の地点だってことを。
今、私たちは世界の創造の瞬間に立ち会っているのよ。素晴らしいことだと思わない?」
冴姫はさも嬉しそうに表情を崩しはぁとに問い掛ける。だが、はぁとには周囲の光景は、混乱と
混沌の極みに達しようとしている無秩序な世界にしか見えない。何が素晴らしいのか、寸毛ほども理解できない。
「冴姫ちゃん、何を言っているの?私、全然わからないよ!」
訳がわからず混乱するはぁとの顔を見て、冴姫は落胆とも嘲りともとれるような表情を作った。
今までの冴姫なら、はぁとの前では絶対に作らなかった表情を。
「そう………、そうよね。所詮ヒトのはぁとじゃ、この素晴らしさを理解できるはずもないか。
ゴメン、聞いた私がバカだった」
どこか小馬鹿にしたような語感を含めて冴姫ははぁとに答えかけた。はぁとは今まで冴姫が自分に
対して向けたことが無いような冷たい瞳に背筋が打ち震える感触に襲われた。
はぁとを握っている手も凍えるほどの冷たさを発しているように感じてくる。その冷たさが伝播
したのか、はぁとの身体までガクガクと小刻みに震え始めた。目の前にいる人間は確かに自分の
知っている廿楽冴姫だ。でも、そこに存在しているモノは自分の知っている廿楽冴姫では断じてない。
まるで昔テレビの洋画劇場で見た、中身が宇宙人に入れ替わった人間のような、そんな感じ。
「さ、冴姫、ちゃん………どうした、の………」
発する声も自然、震えが混じってしまう。子犬のように怯えているはぁとの姿を見て、冴姫は
優越感からかにっこりと表情を崩し、あやすように語り掛けた。
「でも大丈夫。はぁともすぐこの素晴らしさを理解できるようになる。ちっぽけなヒトの殻を
脱ぎ捨てて、新しい世界の門をくぐる資格を私が与えてあげる。
はぁとに、新しい世界を見せてあげる…」
「冴姫ちゃ……、え…ええっ………?」
はぁとをじっと見つめる冴姫の瞳は………、自分を生まれ変わらせた創造主と同じ、鮮やかな緋色をしていた。