戦国無双・お市



「近寄らないで!!」
小谷城落城前に落ち延び、織田軍に保護された信長の妹・お市。
しかし、夫・浅井長政が処刑されたという噂は、すでに彼女の耳に入っていた。
いかに実の兄とはいえ、愛する夫を討った仇。
長政から与えられた武器・剣玉を手に、彼女は実の兄をにらみつけていた。
「実の兄に刃を向けるか、市」
感情の全く読めない静かな声で、信長が言う。
「長政様が惨殺され、私だけが生き残る。
戦国の世の倣いとはいえ、そのようなことには耐えられません。
あなたは我が愛する人の仇。討たせて、いただきます」
表情一つ変えず、信長は後ろに控える妖艶な美女・濃姫に言った。
「やむを得ぬな。お濃、好きなようにやるがよい。…徹底的に、な」
「はい、我が殿。ふふふ…」
彼女は前に進み出ると、すっと手を掲げた。
ただちに、彼女を護衛する兵士たちがその場に現れる。
「おやめくださいお義姉様。私たちが争うなど詮無きこと」
「そうね。どちらが正しいか、決まり切ったことだもの」
「分かっていない…。お義姉様、大人しく軍を退いてください」
「…戦は避けられない。もう一人、分かっていない小娘がいるもの」

濃姫の掲げられた手が、すっと下る。
瞬間、武者達がいっせいにお市へと襲いかかった。

それと同時に、お市も動いた。
神仏の加護があるという、聖なる剣玉。
縦横無尽に動くそれが、彼女に槍をつけようとする男たちを次々と叩き伏せる。
予想外の抵抗に、軽い気持ちで取り囲んでいた武者たちの顔に狼狽の色が走る。
甘い考えを捨て、本気で切りかかる武者たち。
しかしそれをあざ笑うかのごとく、市の剣玉は舞うかのごとく、近づくものを打ち倒していく。
「くそっ、他の部隊からも応援を呼べ!大勢で取り囲むんだ!」
次第に増えていく敵軍を見ながら、市はため息をついた。
「騒動がこんなに大きくなってしまった・・・
 お義姉様と、その僕どもを片付けて収拾を図りましょう」
とはいえ、敵の大群を打ち伏せ、さらに粒ぞろいの親衛隊を突破して濃姫のもとに行くのは簡単なことではない。
次々と目の前に現れる敵を、お市は撃破していく。
目の前にいる者は、全て倒さないといけない。
次第に考える余裕はなくなり、ひたすらに目の前の敵をひれ伏させること、それだけが目的となっていった。

「市、やるな・・・
 そうまでして、天下一になりたいか・・・」
信長のつぶやきに、お市ははっと我に返った。
いつの間にかお市の周りは、彼女自身が倒した織田軍兵で満ち満ちていた。
「長政が死に、あなたは生きる。多くの兵を仕留め、あなたは一人立っている。
さすがは、傾国の美ね…。私には劣るけど、そういうの、嫌いじゃないの」
「・・・お兄様、お義姉様、黙って」
肩で息をつきながら、それでもお市は気丈に濃姫をにらみつける。
「あなた、本当は従えたいのよ…その手で、すべてを。
あるものを魅了し、あるものを叩き潰す。それが、あなたの本当の心。それが天下一の女」
「違う!お義姉様とは…違います」
否定する自分の声に、思ったほど力がないことに彼女は驚いた。
「そんなに男を倒しておいて、まだ認めないの?」
「私・・・そんなつもりじゃ・・・!」
「そう…それじゃ、もっとその気にさせてあげないとね」
新手が、お市を取り囲む。
その軍団とお市の間にある間隙に、濃姫が火のついた何かを投げ込んだ。
甘い香りが、辺り一帯に広がる。
「これはまさか…お義姉様得意の爆弾!?」
お市の一瞬の動揺を逃さず、すかさず新手の武士が斬り込んだ。
考える暇もなく、お市は激戦を繰り広げるしかなかった。
「そんな無粋なことしないわ。ただの御香よ…あなたの気持ちを落ち着かせるためのね」

甘い香りの戦場。
その中で、お市の心の中に、自分でも気づかなかった感情が芽生えていた。
自分が美しいとは、子供のころからずっと、人に言い聞かせられていた。
だが、それだけではない。自分は強い。
自分の美しさと、強さ。それによってもののふ達が倒れていく。
なんと甘美な…
「…い、いけないわ」
自分の中にある恐ろしい考えに気づき、彼女は首を振った。
しかし辺り一帯に充満する香りが、彼女の思考を奪い去る。
彼女は無我夢中で剣玉を振るった。
最後の一人を倒した時、彼女の口には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「…心地よい…」

ぐっと後ろから羽交い絞めにされ、甘い匂いに酔っていた彼女ははっと気づいた。
いつの間にか濃姫が背後に回り、彼女の首に鋭い鉄爪を突きつけていたのだ。
彼女の肌から、髪から、衣から、一層強い香りがつんと匂ってくる。
「は…うう…」
「言ってご覧なさい。私は天下一になりたいんです、と」
耳元でささやき声がする。
「はあっ・・・く・・・い・・・いやです・・・」
だが、口で否定しながら、彼女の目は別の世界を見ていた。
信長の妖気と濃姫の甘い香りを身につけた自分が、天下一の美女として君臨する世。
自分には強さと美しさがある。あとは天下人に従えば、全てがかなうのだ。
うつむきながら、口をかすかに動かすお市。
その考えを読んだかのように、濃姫はくっと彼女の顔を指で支え、周囲を見せる。
「こんなに倒して……口に出して言ってしまいなさい」
自分の足元に伏している、無数の兵士達。
本気で魅了しようとすれば、どれほどの者たちがこのようにひれ伏すのだろうか。
自分でも抑えようのない甘美な感情が、彼女を満たしていく。
「私・・・本当は・・・自分で・・・天下一の・・・美・・・」
「あら…?もっと、はっきりとおっしゃいなさい」
口に出したとたん、彼女は気持ちが楽になった。
濃姫の術に抵抗することを止め、彼女ははっきりと言った。

「この自分の手で…天下一の美女となり…すべての殿方を…しもべに」

その言葉とともに、今まで見られなかった艶然とした微笑が、お市の麗しい顔に浮かんだ。
「やっと本音が出たわね。我慢してるときより百倍素敵よ、市・・・」
「はい、お義姉様…。我慢しないことが、こんなに心地よいことだったなんて」
恍惚とした表情のお市に、濃姫はさらにささやきかける。
「堕ちてみない? 深い闇に」
「もちろんですわ。私は魔王の妹。業を背負うことが私の定め。
ならばいっそ・・・・羅刹女となり、お兄様やお義姉様と共に、血塗られた覇道を歩みます」
お市の体から、信長のものと酷似した、暗紫色の妖気が放たれ始める。
その気にあてられ、お市のまとう美女桜染めの衣が、暗黒色の装束に変化していく。
「ククク…さすが我が妹よ。
その気を以って、我が敵を平らげるがよい。残らず、な」
「はい…もちろんです、お兄様。
市はお兄様とお義姉様の僕。この魅力、この力、すべては織田家のために…ククク」

やがてお市は信長の命令により、織田家第一の家臣にして勇将である柴田勝家と再婚。
新たな夫と共に、織田の先方として存分な活躍を見せる。
「お市よ、戦はわしに任せるがよい。戦場ではわしが主役ゆえな」
「いえ、市も参ります。お兄様の敵は、平らげなければ。残らず、ね…」
勇将・勝家が一瞬ぞっとするような妖しさ、そして麗しさを備える女・お市。
彼女の急激な変化に気づき、信長に疑念を持った男がいた。
「実の妹の心までも弄ぶか・・・もはや放っておけん、信長!」

かくして、織田信長は本能寺に滅ぶこととなった。
そしてその日も、お市は勝家と共に陣中にあった・・・。
「うっ・・・?あ、頭が」
お市が急に頭を抑える。
「どうした、市!病か?」
勝家があわてて彼女の元に駆け寄った。
お市の顔からいつもの妖しい笑みが消え、薄倖の少女の面影が蘇っている。
頭を抑え、悶絶しながら、彼女は何事かをつぶやいている。
「お、お兄様に、何か・・・くうっ・・・わ、わたしは何を・・・
な、長・・・政、さま・・どこ・・・」
「し、しっかりせい!殿はご無事ぞ、心配するな!濃姫もご一緒なのだから」
「お・・にいさ・・ま。お義姉・・・様」
低い声でつぶやくと、彼女は急に落ち着いた。
やがて、頭を上げた彼女の顔に、いつもの妖艶な笑みが戻ってきた。
「ククク・・・うろたえる必要はございません。私はもう大丈夫です。
勝家様。すぐに兵を準備なさるよう」
「何?」
「お兄様がお義姉様もろとも何者かに討たれましたわ。
すぐに取って返し、裏切り者を討つのです。
そうすれば、覇権は勝家様のものですわ。
織田家に、栄光をもたらすの。私たちで、ね」
「む…それは一大事ぞ!!しかし、市よ…」
「実の兄が討たれたから何かある、と?
ククク、私はそんな弱い女ではありません。お兄様は死すとも、地獄から見ていらっしゃいます。
命果てる日まで、市は魔王の僕・・・そして、お兄様が命じたとおり、勝家様の妻にございます」
彼女の暗く染まった瞳が何を見ているのかは、誰にも分からない…



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