Paradaigm Shifter
/
パラダイムシフター
【第2部31章】落ちてくる、この空の下で
1
/
2
/
3
/
4
/
5
/
6
「グリン……アサイラは、間違いなくグラー帝を倒した。空から落ちてくる次元世界<パラダイム>も、押し返した。それなのに、なんで……今度は、グラトニアの地面が崩れているのだわ!?」
「問いただしたいのは、わたくしのほうですわ! 『淫魔』ッ!!」
リーリスとクラウディアーナは、悲鳴じみた叫び声をあげる。エルヴィーナは、片腕を失った肩を侮蔑するようにすくめてみせる。
「アは、アははハは……やはりドロボウ猫も白トカゲも、人並み程度の知性すら、持ちあわせてはいないようなので……これで、アサイらに手を出そうなんて、思い上がりもはなはだしい……」
「どういうことですわ。この次元世界<パラダイム>に、なにが起こっているのか、簡潔に答えなさい。側仕えの女」
純白のドレスに身を包んだ龍皇女が顔をあげ、ゴシックロリータドレスの女とともに、『魔女』を見据える。眼孔と腕の切断面から、この世のものならざる怪奇物体を垂れ流しなら、三つ編みの女は首をかしげる。
「そもそも、わたシタチが負けたわけでも、あなタタチが勝ったわけでもない……敗北したのは、グラー帝とグラトニア……ついでに、あなタタチにも、ここで退場してもらうつもりなので……」
「グリン。龍皇女の質問の答えになっていないのだわ。『魔女』?」
「アは……ッ。自分で考える脳みそも、足りないようなので……」
殺気立つリーリスとクラウディアーナをまえにして、エルヴィーナはあきれたようなため息を吐き出す。大地のとどろきが、空気の振動となって、高々度まで届いている。
「大前提からして、あなタタチは思い違いをしている……グラー帝を倒せば次元世界<パラダイム>の異常が止まるわけではなくて、あの男が死んだからこそ、いま、グラトニアの崩壊が起きているので……」
「……『淫魔』?」
「嘘でも、ブラフでもないのだわ。困ったことに」
三つ編みの女は眼球を失った顔で、救いようのない愚か者たちだ、とでも言いたげに表情をゆがめる。
「最初から、わたシタチは、グラー帝の勝敗など、どうでもよかったので……仮に当初の計画通り、大規模次元融合を果たしたとして、皇帝も人の子である以上、いつかは死ぬ。そのとき、グラトニアは崩壊する。100年前後の誤差にすぎない」
「グリン……つまるところ、次元世界<パラダイム>の破壊が目的だったのだわ?」
リーリスの問いかけに、わざとらしくエルヴィーナは小首をかしげてみせる。
「……グラー帝の転移率<シフターズ・エフェクト>である『覇道捕食者<パラデター>』の解除、次元世界<パラダイム>同士の引力の乱れ、さらには『塔』という要石の破壊……これだけ並べれば、何事も起こらないほうが不思議なので……」
「『灼光』と『明鏡』の、魔法<マギア>──ッ!」
三つ編みの女の言葉をさえぎるように、龍皇女はふたつの高等魔術を同時起動する。白銀の熱戦が、魔力の鏡に反射して、じぐざぐに屈折しながら『魔女』を狙う。
「アははハはハッ! しょせんは、ドラゴン……ひとの話を聞くよりも、暴力に訴えるほうが得意なようなので……!!」
震える空に哄笑を響かせながら、人間態の上位龍<エルダードラゴン>の魔法攻撃を、エルヴィーナは悠々と空を舞う動きで回避する。
「ダメだわ、龍皇女! 『天球儀』を攻撃の照準から、回避ルート算出のために切り替えて使っている……ちょっとやそっとじゃ、命中させられない!!」
「ぐ! この期に及んで……ちょこざいな真似をするッ!!」
「アは……! ひとつ訂正するのならば、わたシタチの目的は『次元世界<パラダイム>の破壊』ではなく、『多元宇宙に大穴を穿つ』ことなのでッ!!」
「そもそも、さっきから『わたしたち』って言っているけど……あなた、帝国以外に共犯者がいたのだわッ!?」
リーリスの質問に答えることなく、『魔女』は背中から地面へ向かって落下していく。龍皇女は龍態へ変じ、『淫魔』は黒翼を流線型にたたみ、それぞれ追いすがる。
かすんでいたグラトニアの大地が、すぐにゴシックロリータドレスの女の視力でも捉えられる距離に迫ってくる。白銀の上位龍<エルダードラゴン>の言ったとおり、巨大な亀裂が……もはや、脱落と言ってもいいほどの地面の消失が生じている。
エルヴィーナは、健在の右腕と喪失した左腕の両方を伸ばすような体勢をとる。三つ編みの女の背中越しに、地表が失われて現れた闇の底から、名状しがたき異形の影がうごめいている。
「グリンッ! なんなのだわ、あれ!?」
『先刻も言いましたけど、『淫魔』、わたくしのほうが問いただしたいですわ! 我がフォルティアはもちろん、聞き及んだかぎり、多元宇宙に存在するようなモノですらないッ!!』
「アははハは……わたシタチの言った、あなタタチをここで負かすつもり、という言葉も忘れてもらっては困るのでッ!」
赤みがかった黒髪の三つ編みを揺らしつつ、『天球儀』とともに頭から高速で落下していく『魔女』は、指先で魔法文字<マギグラム>を描き、魔法陣を展開する。
墜ちるエルヴィーナと追随者のあいだをさえぎる膜のごとく、獰猛に羽を鳴らす肉食イナゴの群が召喚される。殺人昆蟲が、リーリスとクラウディアーナの肢体を餌食にしようと迫りくる。
「グリンッ!」
『ルガアッ!』
ゴシックロリータドレスの女は、肉食イナゴを幻覚に捉えることで、共食いを誘発する。白銀の上位龍<エルダードラゴン>は、光り輝く魔力障壁を身にまとって、むらがる蟲を焼却する。
ふたりの女は、群蟲のヴェールを突っ切って、落下していくエルヴィーナへ肉薄する。両目の潰れた三つ編みの女は、なおも右人差し指をせわしなく動かし、魔法文字<マギグラム>を描き続けている。
「龍皇女、うしろッ! ていうか、うえだわ……!!」
『今度は……なんですわッ!?』
急降下の速度を緩めることなく、『淫魔』と龍皇女は、背後の空をあおぎ見る。公害に汚染された雨粒のごときケミカルカラーの物体が、無数に落ちてくる。生き残りの肉食イナゴが接触すると、悲鳴のごとき哭き声をあげて、溶解する。
「グリン! 腐食性の粘液を分泌する……ナメクジってところだわッ!?」
『次から次へと、まあ……よくも、こう、気色の悪いものをッ!!』
軟体生物らしき『魔女』の召喚体は、自力での飛行能力こそ持たないものの、数は多く、さらに周囲へ腐食性粘液をまき散らしている。
くわえて、ふたりは追跡のために一直線で下降する体勢となっているため、回避運動の軌道修正も困難。それを見越しての、召喚魔法だ。
リーリスとクラウディアーナは、多少のダメージは覚悟のうえで、エルヴィーナに喰らいつくことを、言葉を交わすことなく同時に決意する。眼球を失った女の口元が、にやりと吊りあがる。そのとき──
『──ドォウッ!』
大砲の発射音のごとき咆哮が、『魔女』のさらに背後から、宙に響きわたる。圧縮空気の弾丸が上空で炸裂し、腐食性のナメクジと肉食イナゴの生き残りが、もろともに吹き飛ばされる。
『気に喰わんぞ……いずれ、ウヌを殺すのは、このオレだと言うことを忘れるな! 龍皇女ッ!!』
『……ヴラガーン!!』
「背中に乗っているのは……グリン! 『伯爵』だわ!?」
「ふむ。貴女と会うのは、セフィロト本社以来……じつに半年ぶりかね、『淫魔』?」
伊達男を乗せた巨龍は、一度、リーリスとクラウディアーナの横をすり抜けて昇る。すぐさま上空で反転、下降すると、ふたりの横に並び、エルヴィーナに顔を向ける。
「よくもまあ、飽きることもなく、ぞろぞろと……とはいえ、そろそろタイムアップなので!」
両目の潰れた三つ編みの女の身体が、地表に生じた亀裂のなかへと呑みこまれていく。白銀の上位龍<エルダードラゴン>が、先陣を切って、あとを追おうとする。
『逃がすつもりはない、と言ったはずですわッ!!』
「待って、龍皇女……あの裂け目の向こう側、なんかヤバいのだわ!?」
リーリスの制止を受けて、クラウディアーナは苦々しげにうめく。黒翼を広げた女と2頭のドラゴンは、急降下をあきらめ、上昇軌道へと進路を切り替えた。
(──アサイラ、聞こえている!? エマージェンシー! 緊急事態だわッ!!)
リーリスの声が、けたたましく脳裏に響き、アサイラは閉じかけたまぶたを開く。心身は完全にスリープモードに陥っていて、四肢の先から五臓六腑に至るまで気だるさに満ちている。
「どうした、リーリス……モーニングコールには、早すぎるんじゃないか? 少しは、ゆっくり休ませろ……」
(グリンッ! 寝ぼけている場合じゃないのだわ。早く対処しないと……ッ!!)
「こちとら連日の激務と修羅場で、意識を保つのも精一杯か……なにが、どうしたのか、せめて要点だけでもまとめて言ってくれ……」
『たったよたったた! それは、こちらから補足するということねッ!!』
錯乱状態のリーリスとの会話に割ってはいるように、耳の導子通信機からララの声が聞こえてくる。
『現在、『塔』の基部があった場所を起点にして、グラトニアの地表に大規模な亀裂が発生、拡大しているの……このままだと、あと数時間足らずで次元世界<パラダイム>が崩壊するということね!』
黒髪の青年の心臓が、どくんと脈打つ。脳細胞から興奮物質が分泌され、死力を尽くしたはずの精神と肉体が急速に覚醒していく。ことが済んだあとの反動は、ひどいものだろうな、とぼんやり思う。
かすんでいた視界が、晴れていく。頭から落下しているアサイラは、首をあげて地表へと視線を向ける。薄雲のヴェールが邪魔して、大地の様子や亀裂とやらは見通せない。ただ、びりびりと空気が異常な振動を帯びていることだけは、わかる。
「それで……これから俺は、どうすればいいのか?」
(それは、わたくしに考えがございますわ。我が伴侶)
(ちょっと、龍皇女! 私とアサイラのホットラインに、割りこまないでほしいのだわ!?)
黒髪の青年の脳裏に響く声が、ひとりぶん増える。軽い頭痛を覚えて、左右のこめかみに人差し指を当てる。
(緊急時ゆえ、些事を気にしている場合ではないですわ、『淫魔』……それよりも、我が伴侶。そなたの『龍剣』を、この次元世界<パラダイム>の中心、『聖地』に突き刺してくださいまし。その剣は、本来、そのために造られたのですから……)
(そうか……アサイラの『龍剣』は、もともと龍皇女の次元世界<パラダイム>の崩壊を止めるために造られたものだわ……可能性が、あるとすれば……ッ!)
黒髪の青年は、右手に意識を向ける。5本の指は、意識を失ってもなお、蒼銀の輝きを放つ刀身の大剣を、しっかりと握りしめている。
「ララッ! グラトニアの中心はどこかッ!? それと、タイムリミットの算出も頼む……!!」
アサイラは、導子通信機に向かって声を張りあげる。次元巡航艦の船長席に座っているはずの少女から、わずかな沈黙がかえってくる。
『たったよったたた……ちょっと待って、亀裂の発生している場所、導子センサーの値がめちゃくちゃで……マイナスの導子値ですらあり得ないなのに、なんで虚数値まで計測されるということね!?』
『なんとなればすなわち、落ち着きたまえ。ララ……逆に考えればいいかナ。異常値を示している地点が亀裂、正常値の場所が無事な土地だ』
パニックを起こしかけた少女に、老科学者が冷静な助言を投げかける。通信機越しに聞こえる呼吸音から、ララが平静を取り戻したとわかる。
『そっか……そう考えれば、次元世界<パラダイム>の崩壊速度を算出できるということね。あとは……世界の中心、『聖地』の場所を調べないと! おじいちゃん、帝国のデータベースを検索して!! フロルくんは、監視衛星経由で地表のデータを……』
『……『遺跡』だよ』
導子通信機から、いままで黙っていた少年の声が聞こえてくる。艦橋にいるメンバーの振り向く姿が、幻視できる。
『古代グラトニア王国時代に建造された『遺跡』のある場所、そこが『聖地』だよ。『塔』の基部として、組みこまれていたはず……』
『でも、『塔』の根本は、亀裂の発生源でもあるということね!? 光学カメラの観測では……ああ、だめ! 瘴気みたいなものが噴き出していて、見通せない!!』
次元世界<パラダイム>が割れ砕けていく中心地となれば、真っ先に呑みこまれてしまった可能性が高い。アサイラは、歯噛みする。
(いえ……無事ですわ! わたくしの眼で確認いたしました、我が伴侶ッ!!)
(だから! このホットラインを使うなと言っているのだわ、『龍皇女』ッ!?)
アサイラの頭のなかに直接、クラウディアーナの声とリーリスの文句が響く。この混沌とした状況のなかであっても、上位龍<エルダードラゴン>の視力が捉えたとなれば、信用に値する情報だ。
「ララ。タイムリミットのほうは、どうか?」
『えーと……亀裂の拡大速度とグラトニアの構成導子量から算出して……そのまえに、アサイラお兄ちゃんの放出導子量を考慮するとなると……』
「……早ければ、早いほどいい、で間違いないか」
黒髪の青年は、己と一緒に自由落下しているがれきたちを、天地逆転した状態で蹴り渡り、地表に向かうスピードを加速する。
薄雲のヴェールを突き抜け、アサイラでも地表の様子を目視できるようになる。黒髪の青年は、眼前の光景を疑う。もはや、亀裂と言うレベルではない。視界の範囲の大地が崩れ落ち、闇が満ちている。
それでも、クラウディアーナの言葉は、事実だ。漆黒の海原に浮かび、瘴気の大波に翻弄される孤島のように、『遺跡』の建つ土地は頼りなさげながらも健在だ。
崩落した地表の闇のなかに、いくつかの巨大な影がうごめいているのが見える。無数の異形の眼球が、何色とも形容しがたい奇怪な光を明滅させている。
アサイラは不思議な既視感を覚え、いま現在に意識を集中させるために、ぶんぶんと首を左右に振る。両目の焦点を、未だ小さく見える『遺跡』の中心へ定める。
『崩壊速度、上昇! タイムリミットを計算しなおさないと……』
(思ったより、瘴気も濃くなっています……わたくしたちは上空へ待避ですわ、『淫魔』ッ!)
(どさくさにまぎれて、あたりまえに念話しているんじゃないのだわ! 『龍皇女』!? ああ、もう……あとで、グッチャグチャに暗号化してやるんだからッ!!)
脳裏に、仲間たちの喧噪が反響する。黒髪の青年は、眼を細める。これは、次元世界<パラダイム>が負った傷だ。それも、深い。手当てをするなら、早ければ早いほどいい。
目指すべき『遺跡』は、まだ遠い。翼を持たず、魔法<マギア>の心得もないアサイラでは、これ以上、降下速度を増すことはできない。黒髪の青年は身をひねり、『龍剣』を握る右腕を振りかぶる。
「ウラアアァァァ──ッ!!」
自分に残された導子力を刀身へ注ぎこみ、黒髪の青年は『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』を力のかぎり投擲する。身の丈ちかくある刃は、蒼銀の輝きを放ちながら一直線に飛翔し、『遺跡』の中心点を違わずに捉えた。
──ザンッ!
アサイラの投擲した『龍剣』は、不可能物体を形作る石材製の骨組みの『遺跡』をくぐり抜け、その中央の地面に刀身深々と突き刺さる。
「あやとれ! 『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』ッ!!」
漆黒の瘴気にかすみ、見通せぬ視界のなか、黒髪の青年は上空から右腕を伸ばす。目視による確認はできないが、己の意志が剣に通じた手応えはある。
その証拠に、闇の荒海のなかを、蒼銀の輝きが無数に走っていく。刀身の変じたワイヤーが、ぱっくりと開いた大地の裂傷を、縫合糸のように結びあわせ、ふさごうとする。
黒い亀裂の幅が、狭まっていく。このまま、地表を修復できるか──そう思ったとき、拡幅と収縮、ふたつの力が拮抗し、大地の動きが止まる。
「グヌ──ッ!?」
次元世界<パラダイム>の割れ目から噴き出す漆黒の瘴気に身をあおられながら、アサイラはうめく。
闇の荒海のなかから、巨大な魚影のようなものが、大地の割れ目に頭突きを繰り返している。影をまとった蜘蛛のような生物の脚の先端が、亀裂を押し開こうと力をこめている。
黒髪の青年は、背筋が凍りつくような感触を覚える。ひび割れた地面の向こうにいる得体の知れない存在たちは、明確な意志を持って、こちら側へと這い出ようとしている。
「なんだ、これは……そもそも、次元世界<パラダイム>の裂け目の外には、虚無空間が広がっているんじゃないのか……ッ!?」
『なとなればすなわち、アサイラくん、その現象は──』
黒髪の青年の疑問に答えようとしたドクター・ビッグバンの通信が、途絶する。まるで何者かが、聞かれては困る、という意図を持っているかのように。
「なにか……虚無空間とは違う、得体の知れない場所に、ねじ曲がってつながってしまっているのか……?」
『──ルガアッ!』
『──ドオウッ!』
アサイラから少し離れた地点で咆哮が響き、クラウディアーナの白銀の光とヴラガーンの圧縮空気の吐息<ブレス>が、闇の荒海のなかへと撃ちこまれる。亀裂の向こう側の異形に命中し、その勢いをひるませる。
しかしながら、ふたたび大地の裂傷は広がりはじめる。黒髪の青年が剣にこめた導子力が、早くも尽きはじめ、地面を結び直そうとする力が弱まっている。
「グヌウ。やはり……直接、剣を握らなければダメか……ッ!」
黒髪の青年は、大波に揉まれる1枚の葉っぱのごとく翻弄されながら、思案する。だが宙を舞うまま、制動すらままならないアサイラは、それどころではない。
周囲に満ちる漆黒の瘴気が、愛撫するような気色悪い感触で四肢に絡みつく。剣に手を触れるどころか、このまま、闇の荒海に引きずりこまれる数秒後の自分を幻視する。
「……相変わらず、蛮勇のごとき無茶をする男だ、アサイラ。翼なき者は、戦乙女<ヴァルキュリア>ほどにも、空を自由に飛ぶことなど、かなわないのだから……」
「アンナ……ッ!?」
両脇から自分の身体を持ちあげられるような感触を覚えて、振り返った黒髪の青年は、背中に純白の翼を広げる、たなびく金髪の女性の顔を見る。
アサイラを救出した戦乙女<ヴァルキュリア>──アンナリーヤは、漆黒の瘴気のなかから脱出を試みるべく、双翼を羽ばたかせ、高度をあげようとする。
「離れるのは、だめだ……アンナ! 俺を、『遺跡』へ……この次元世界<パラダイム>の中心へ、運んでいってくれッ!!」
「どこまでも無理を重ねる男だ、アサイラ。だが……つき合おう! どうせ、自分が言葉を重ねたところで、貴殿は己の意志を曲げるなどあり得ないだろうから……!!」
黒髪の青年をぶら下げたまま、戦乙女の姫騎士は滑空姿勢をとり、闇の荒波をかすめながら、アサイラの指し示す方向を目指す。
眼下では、一度は影の底へと潜った異形どもが、ふたたび浮上の機会をうかがっている。クラウディアーナとヴラガーン、2頭のドラゴンが断続的に吐息<ブレス>を撃ちこみ、牽制する。
『気に喰わんぞ、貴族かぶれめ……オレの背に乗るならば、相応の働きをせんか!?』
「ふむ。貴龍の言い分は、至極もっともなのだが……我輩、完全な魔力切れだ。これでは、葉っぱ1枚動かせないかね……」
『そなたもですわ、『淫魔』ッ! いつの間にやら、当然のように、わたくしの背中にしがみついて!!』
「グリン。私が、空を飛ぶの、そんなに得意じゃないの、龍皇女なら知っているはず。足手まといにならないための、私なりの配慮だわ」
視界の通らない離れた地点から、別働隊の面々のわめき声が聞こえてくる。アサイラも含めた全員、グラー帝の打倒を最終目標に据えていた。故に、ロスタイムのために残された余力は、ごくわずかしかない。
闇の瘴気の噴き出す隙間から、ちらりと石造りの『遺跡』の姿が、かいま見える。ヴァルキュリアの王女と、抱えられる黒髪の青年の身体が、大きく揺れる。
「悲憤慷慨だが……これ以上の接近は、困難だ! 瘴気が濃すぎるから……せめて、迂回路を……!!」
「わかった。アンナは、先に艦へ戻っていてくれないか……? ウラアッ!」
「……ふえッ!?」
戦乙女の姫騎士が身につけた魔銀<ミスリル>の胸当てを、アサイラは両足で蹴って、跳躍する。身にすがりつく闇を勢いで振り切りながら、『遺跡』に向かって飛ぶ。
「見えた……かッ!」
黒髪の青年は、古代グラトニア王国に造られた構築物の真上に出る。身をひねって、軌道を下降方向へと曲げると、不可能物体を形作る『遺跡』をくぐって、落下していく。
「ウラアアァァァ──……ッ!!」
闇の荒海に浮かぶ、わずかな地表が迫ってくる。アサイラは、右腕を振りかぶる。握りしめた拳に、あらんかぎりの導子力をこめる。
『遺跡』の地表に深々と突き刺さった『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』の柄頭を、アサイラは全力で殴りつける。拳にこめた存在のエネルギーがたたきこまれ、波紋のような輪を描きながら、周囲を満たす闇の瘴気のなかへ広がっていく。
一度は緩みかけた蒼銀のワイヤーに、ふたたび強い輝きがよみがえる。次元世界<パラダイム>を縫い止めようとする力が強まり、亀裂が急速に狭まっていく。
世界法則そのもに穿たれた割れ目が修復されていくのを見た、影のなかの異形どもは悔しげに身じろぎすると、深淵のなかへと潜行していく。
持てる力を搾り尽くしたアサイラは、己の身体の一部ともいえる『龍剣』を抱き抱えるような格好で、意識を失った。
「……こういうのも、枕元に立つ、って言うのか?」
夢か現かも判然としない状態で、アサイラはつぶやく。大の字に身を投げ出す黒髪の青年のかたわらには、白ひげの老師が立ち、見下ろしている。
「よくやった。これで御身も、基本は修めた、と言っていいじゃろうて」
翁は、人なつっこく柔和な、それでいて、どこかいたずら気な微笑みを浮かべる。
「……ここまでやって、免許皆伝どころか、初級卒業がせいぜいか? とんだスパルタトレーナーも、いたもんだ」
白ひげの老師に対して、黒髪の青年は弱々しく口角を吊り上げて応じる。仙人を思わせる翁は、かか、と声をあげて笑った。
「しっかりするのだわ、アサイラ! 気を強く持って……早く目を覚まして!!」
「うるさいですわ、『淫魔』ッ! 詠唱の邪魔ですから、治療魔術が使えないなら、黙っていなさい!!」
「──グヌッ」
黒髪の青年は、小さくうめく。かしましい声が耳元に響き、眠りが妨げられる。まぶたを薄く開くと、白と黒、それぞれのドレスにおおわれた、ふたりぶんの豊満な乳房が、ぼやけた視界に映し出される。
「ああ、意識が戻ったみたいだわ! だいじょうぶ、アサイラ!?」
「まだ、だいじょうぶなわけ、ありません! 『淫魔』は、下がってらっしゃいッ!! コホン……我が伴侶は、身体を楽にして、動かないでくださいまし。『鎮痛』と『治癒』に続いて、『安寧』と『賦活』の魔法<マギア>をかけますわ」
黒髪の青年は、龍皇女クラウディアーナにひざ枕をされる格好で、身を横たえている。かたわらから、ゴシックロリータドレスの女──リーリスが、アサイラの右手を握りしめて、顔をのぞきこんでくる。
「グリン。偉そうにも、ほどがあるのだわ。龍皇女ったら……ちゃっかり、ひざ枕のポジションまでとっちゃって。目ざといったら、ありゃしない……まさに、年の功ってヤツ?」
「我が伴侶。『淫魔』の戯れ言は、お気になされませんよう……次は、『再生』の魔法<マギア>ですわ」
頬をふくらませて、にらみつけるリーリスを無視して、クラウディアーナは、アサイラに治療のために複雑な魔術を重ねて施していく。龍皇女が一言、二言の詠唱をするだけで、黒髪の青年の苦痛と疲労が軽減されていく。
「だいたい、なんでそんなに偉そうなのだわ。龍皇女……あのあと、アサイラを真っ先に見つけだしたのは、私のほうでしょ?」
「あの状況で、『遺跡』以外の場所にいるなど、考えられません。そもそも、我が伴侶と『淫魔』が精神の結びつきを作っているのならば、発見できて当然ですわ……ああ、念のため『清浄』の魔法<マギア>も」
「グリン。その通りだわ、龍皇女……だから、アサイラ。なにかして欲しいことがあったら、しゃべらなくてもだいじょうぶ。思い浮かべてくれれば、私が、すぐに用意するから」
いやらしく両手の指を動かしながら、にやりとリーリスは笑う。クラウディアーナはあきれたように、ふう、とため息をつく。
人間態の上位龍<エルダードラゴン>が、高度な治癒魔術を重ねがけしてくれたおかげで、持てる力を搾り尽くして衰弱死寸前だった黒髪の青年は、首を動かせる程度まで回復した。
周囲には、古ぼけた石のかたまりが転がっている。少し離れた場所に、アサイラの『龍剣』が地に突き刺さっている。あの『遺跡』は、動乱のなかで崩壊したか。
「グヌ……ッ!」
起きあがれるか試そうとした黒髪の青年は、身を裂かれるような激痛を覚えて、せきこみながら、けいれんする。ゴシックロリータドレスの女は、鼻同士がこすれあいそうなほど顔を近づける。
「ほら、まだ動かない! 絶対安静だわ、アサイラ!!」
「『淫魔』は下がって、と言っているでしょう? 『弛緩』の魔法<マギア>をかけますわ……」
黒髪の青年は、自分の脚で立ちあがるのはあきらめ、もうしばらく龍皇女の施術に身を任せることにする。
クラウディアーナの人差し指が白銀の魔力を輝きを放つと、アサイラ自身も気づいていなかった筋肉の緊張がほどけていく。
さすがに一朝一夕で快癒とは、いかないか。黒髪の青年は、内心、嘆息する。それでも、グラー帝との死闘を思えば、五体満足なだけでも奇跡的だ。
「グヌ……いま、シルヴィアの声が聞こえたか……?」
「幻聴……ではないようだわ。ナオミやリンカも一緒みたい。たったいま、到着したところ」
ようやく声を出せるようになったアサイラの質問に応じつつ、リーリスは別働隊の女たちに向かって手を振る。ジープのクラクションとエンジン音が、遠くから近づいてくる。
「ディアナどの……メロとミナズキは、どうした。一緒では、なかったか……?」
「フォルティアの宮殿で、待っていてもらおうと思っていたのですけど、どうしても一緒に来る、と言って聞かなくて……ふたりとも、道中でグラトニアの手の者の足止めを、自ら買って出ましたわ」
「……そう、か。ふたりらしい、な」
「ご安心なさいまし。メロとミナズキなら、きっと、だいじょうぶですわ。我が伴侶の治療が一段落つきましたら、わたくしが責任を持って、迎えに行きます」
龍皇女が言うのならば、そうなのだろう。クラウディアーナの言葉を聞いて、アサイラはあらためて、グラトニアの空へ視線を向ける。
旋回する戦乙女<ヴァルキュリア>──アンナリーヤに先導されるように、ゆっくりと次元巡航艦『シルバーブレイン』が高度を落とし、着地する。タラップが大地へ向かって伸びて、乗組員たちが降りてくる。
「なんとなればすなわち……ご苦労だったかナ、デズモンド! このワタシの特製エナジードリンクで、疲れを癒してくれたまえ!!」
「ふむ……我輩、ドクの発明品の数々には実際のところ助けられたし、感謝もしているのだが……その飲み物だけはどうしても好きになれない、と言わなかったかな」
「まあまあ。つれないことは言わず、試してみてくれないかナ。デズモンド! 日々、レシピはバージョンアップしているのだ!!」
艦から先陣を切って飛び出してきたドクター・ビッグバンは、アサイラたちから離れた地点で待機していた『伯爵』に、蛍光色の液体で満たされたビーカーを押しつける。
白衣の老科学者は、飲み物とは思えない液体をひとなめして、しかめ面を浮かべる伊達男の隣にたたずむ、山のような巨龍を興味深げに見あげる。全身に深く切り傷が刻まれ、とくに両翼の火傷は痛々しい。
『……なんぞ、老人。かみ砕かれたいのか?』
「なんとなればすなわち……フロルくんから、話は聞いている。ヴラガーン、と言ったかナ……キミも、我々の協力者だろう? 礼と言ってはなんだが……もしよければ、その傷の治療、このワタシが引き受けよう」
『フン……初対面の相手に身を任せるほど、オレはお人好しではないぞ』
満身創痍のドラゴン──ヴラガーンは、荒く鼻息を鳴らす。アサイラをひざ枕するクラウディアーナが、そのやりとりに気がつき、首を巡らせる。
「うふふ……ならば、ヴラガーン。消去法でわたくしが、そなたの手当をすることになりますが? 無論、我が伴侶の施術が済んでから……ああ、メロとミナズキも探してきて、そのあとですわ」
『気に喰わん連中ばかりぞ……この程度の傷、自分でなめていれば、治る』
暴虐龍の異名を持つドラゴンは大地を揺らしながら、毒気を抜かれたように、その場で丸くなる。
ドクター・ビッグバンに続いて、ふたつの小さな人影が次元巡航艦のタラップから降りてくる。ギプスと包帯で全身の負傷をおおった少年──フロルが、キャプテンハットをかぶった少女──ララに、身を支えられている。
グラトニアの大地に降り立った少年は、申し訳なさそうな視線をヴラガーンに向けたあと、草原に身を横たえるアサイラのもとへ近づいてくる。
「アサイラお兄ちゃん。こちら、フロルくんということね……協力者のひとりで……」
「……見下ろすような格好で失礼します、アサイラさん。僕のほうも、身をかがめることもできないような有り様で」
「お互い様か……気にするな」
「まず……アサイラさんにお礼を言わなくては、と思っていました。あなたには、2度も助けられました」
フロルの言葉に、アサイラはけげんな表情を浮かべる。この少年とは、初対面のはずだ。いや、わずかながら見覚えのある顔だ。だとしても、すれ違った程度だと思うが。
「まず1度めは、僕の命をセフィロトのエージェントから。そして2度め……今回は、僕の故郷、グラトニアをグラー帝から……助けていたきました。ありがとうございます」
深々と頭を下げようとして、傷の痛みにバランスを崩しそうになったフロルを、ララが慌てて支える。
ばか丁寧な少年の礼の文言に、黒髪の青年は面食らい、まぶたを閉じて、深く呼吸をする。冷涼な微風が、頬と髪を撫でる。
「……そうか。故郷、か」
アサイラは、目を開く。陽が傾きはじめ、深い蒼色となった空に、かすかに一番星が輝いたような気がする。黒髪の青年は口元に微笑みを浮かべ、なにかをつかもうとするように、天へ向かって右手を伸ばした。
第5節へ
▲