Paradaigm Shifter / パラダイムシフター

【第2部31章】落ちてくる、この空の下で
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6

「グオラッ」

「ウラア!」

 小惑星帯を思わせる浮遊がれきのなかを縫って、グラー帝は左フックを放つ。対するアサイラは、張り巡らせたワイヤーのうち1本を巻き取り、己を引っ張って三次元方向に回避する。

「なんだ……無重力状態になって、かえって避けやすくなったんじゃないか?」

「飽きもせず、無意味なことを……一言以ておおうならば、不快の極みである」

「つまり、嫌がらせにはなっているということか。無意味じゃなくて、なによりだ」

 挑発するような笑みを浮かべる黒髪の青年は、慣性に流されぬよう、また別の糸を手繰り寄せる。

 偉丈夫の急接近を、くるくると宙を舞いながらかわしつつ、アサイラは耳にはめこんだ導子通信機へ意識を向ける。

 導子乱流にとまなうノイズに混じって、黒髪の青年の鼓膜に直接、次元巡航艦のブリッジの喧噪と、キーボートの激しい打鍵音が聞こえてくる。

『なんとなればすなわち……このワタシは何故、帰投して早々、キーボードと格闘するハメになっているのかナ!?』

『たたっよたったた! いまはまだ、ララが船長代理なんだから、おじいちゃんは言うことを聞いて、ということね!!』

『ララが、キャプテンハットを返してくれないだけではないかナ!!』

『あー、あー、聞こえなーい! フロルくん、センサーで導子変動のリアルタイム観測を継続ということね!!』

『やっているんだよ、ララ!』

『自分にも、なにかやらせてくれ。アサイラが戦っているのに、じっとしているなどできないからだ……そうだ! 援護のために、再出撃を……!!』

『それはダメということね! 下手に人を出しても、アサイラお兄ちゃんの足手まといにしかならない……お姫さま、導子機器も操作できないし……船長命令、その場で待機!!』

『ふえーッ!?』

 浮遊するがれきを蹴って、グラー帝とつかず離れずの間合いを保とうとするアサイラは、あまりの騒々しさに躊躇しつつも、通信機の向こうのララに対して口を開く。 

「そちらが、どんな状況になっているのかは想像できないが……裸の王さまは、完全に勝ったつもりだ。ララ、どうにか一泡吹かせてやることは、できないか?」

『たたっよたったた! いままさに、そのための準備をしていたということね……いい? お兄ちゃん、よく聞いて……』

 傍受される心配もないだろうに、艦長代理を務める少女は通信機越しの声量を潜める。黒髪の青年は、周囲に浮かぶ石材を素早く飛び渡り、少しでも偉丈夫を攪乱しようとする。

 専制君主の拳が、浮遊するがれきのひとつを粉砕する。無数の破片が、大口径銃弾のごとき勢いで飛来し、アサイラの額をかすめる。その間も、黒髪の青年は、ララの言葉に耳をそばだて続ける。

『……以上が、作戦内容ということね! 正直、突貫工事であることは否定できないけど……たぶん、これが現状、ララたちのできるベスト!!』

「了解した……俺も、うかうかしていられないってことか」

『アサイラお兄ちゃん側の準備も必要だから……それじゃあ、決行は10分後に! 今度こそ、本当の阻止限界点ということね!!』

「ああ……お互いに、健闘を!」

 通信が切れる。グラー帝の姿が、正面から迫る。やや前のめりの体勢で、まっすぐ拳を伸ばしてくる。無重力状態にあるアサイラは、宙でブリッジするような動きをとって回避する。

「ウラアッ!」

「ぐ……ッ」

 黒髪の青年のつま先が、半円を描くような軌跡で、偉丈夫の顎先を蹴りあげる。ダメージはおろか、専制君主の体幹が乱れることすらない。反動を利用して、アサイラは飛び退く。

 苛立ちを隠さないグラー帝が、虚空を踏みしめ、瞬間的移動で追ってくる。黒髪の青年は、張り巡らしたワイヤーを手繰り、即座に体勢を整え、待ち受ける。

「グオオラアァァーッ!」

 地獄の底から響くような雄叫びとともに、傷ひとつない偉丈夫は無数の拳を放つ。ボクシングの構えから、ジャブ、ストレート、フック、アッパーが、アサイラを襲う。

「ウラアアアァァーッ!」

 黒髪の青年もまた、声を張り上げながら、専制君主の拳撃を迎えうつ。両手のひらを開き、大小無数の円と螺旋を描き、そのなかに相手の腕を巻きこみ、軌道をそらす。

「ぐ……ッ」

 グラー帝の目元が、いぶかしむように歪む。人間の動態視力を超えた動きで、限りなく無限に近い拳を放っても、命中させるイメージを描けないのだろう。ここまでの戦いでも、同様の所作で致命傷を回避してきた。

 アサイラは、内的世界<インナーパラダイム>で出会った老師と交わした組み手を思い出す。ほんの刹那、それでいて永遠のような教示。いま、あのときの動きを再現している実感がある。だからこそ、命がつながっている。

 へその下を機転に、全身の微細な動きから導き出される、黒髪の青年の体さばき。次第に心身の機序が一体化し、アサイラの脳裏から焦りも危機感も消え、凪いだ海原のごとき明晰な心理状態へと到達する。

「愚者、蛮人の分際で……なぜ余の拳が当たらぬ……ッ!」

 グラー帝の口角から、明確な苛立ちの言葉がこぼれでる。黒髪の青年は、アルカイックスマイルを浮かべる。

「……なにもかも力任せのおまえには、一生、理解できないか。裸の王さま?」

 かつて、暴走するままに多元宇宙をさまよった俺のように……アサイラが、そう言おうとした後半は、言葉とならない。

 諸肌をさらす偉丈夫は、憤怒のままに大振りの右ストレートを撃ち放つ。黒髪の青年は、スプリングのように両腕を動かして拳を受け止めると、相手の勢いを利用して大きく後方へ飛び退く。

 ララの指定したタイムリミットまで、残り5分。なさねばならない、仕込みがある。延々と組み手を続けて、時間を浪費するわけにはいかない。

 アサイラは微細な粒子となって漂うがれきの欠片を煙幕代わりに使って、グラー帝の視界から身を隠す。全身の感覚を研ぎ澄まし、偉丈夫の動きを探り続ける。

「さて……裸の王さまは、どう出てくるか?」

 黒髪の青年の疑問に対する答えは、即座に実力行使で返ってくる。専制君主が直接に突っこんでくるのとは違う、奇妙な振動をワイヤーが拾う。

「グヌ……ッ!?」

 質量体が高速で接近し、アサイラは真横へ飛んで回避する。がれきの塊だ。グラー帝は、石材の破片を弾丸のごとき勢いで蹴り飛ばすことで、遠隔攻撃してきた。

 偉丈夫が、すぐさま第2射を放つ。正面から、砲撃が迫る。黒髪の青年は、張り巡らせた糸を即座にネット状に編みなおし、飛翔体を受け止める。

 蒼銀の輝きを放つ網がたわみ、運動エネルギーを張力に変換し、相手の圧倒的パワーを逆に利用して、質量体を砲撃者へと跳ね返す。

 がれきの海のなかを、沈黙が満たす。第3射は、飛んでこない。ネットで反射した砲撃が、専制君主に命中したかもわからない。

「……遠距離戦は、あきらめたか?」

「グオラッ」

 戦況を確認するように独りごちたアサイラの眼前に、グラー帝の姿が現れる。さきほどの砲撃戦は、おとりか。視界の悪さも、今回ばかりは黒髪の青年にとってマイナスに働いた。

 偉丈夫は、すでに片足を大きく振りあげている。かかと落としの予備動作だ。アサイラは、反応が遅れた。回避運動をとる余裕は、ない。とっさに頭上で両手首を交差し、防御体勢をとる。

 専制君主の双眸に、捕食者の輝きが宿る。グラー帝とアサイラの身体<フィジカ>能力の差は、文字通り、桁が違う。いなすならともかく、正面から受け止められるものではない。

 必殺を確信し、諸肌をさらす偉丈夫は、断頭台のごとく脚を振りおろす。足首が、黒髪の青年の腕にぶつかる。防御ごと、相手の肉体は砕け、千切れ、両断する……はずだった。

──パアンッ!

 破裂音が、がれきの宙域に響く。にも関わらず、アサイラの肉体は健在だ。代わりに、きらきらと蒼銀の輝きを放つ断片のようなものが、無数に舞い散る。

「なにが起こったか……わからない、といった様子か?」

 黒髪の青年は、荒く息をつきながら、にやりと口元を歪めつつ、専制君主をにらみつける。ララの提示したタイムリミットまで、残り3分。

「神さま気取りの、裸の王さまと違って……人間ってのは、ミスをするものだ。俺だって、当然、おまえの攻撃を全部さばききれるとは、最初から思っていない……か」

 アサイラは、あらかじめ『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』の糸を全身に巻きてけて、そちらへと受け止めた衝撃を逃がした。グラー帝相手でも、1回だけは使える安全装置だ。

 残り2分。呆然とする偉丈夫が我に返るよりも早く、黒髪の青年は両手首で受け止めた足を捕まえる。肉体を支持するワイヤーの力を借りて、その場で右向きに回転し始める。

「──ウラアッ!」

 不完全ながらジャイアントスイングの要領で、アサイラはグラー帝を浮遊する岩の塊に向かって投げつける。

「汝の行為、存在は、余に対する愚弄である。一言以ておおうならば、完全否定……すなわち、万死に値するッ!」

 諸肌をさらす偉丈夫は、全身に力をこめる。重力が超自然に歪み、投げ飛ばされた専制君主の身体が、空中で静止する。そのまま反撃に転じようとしたとき、異常に気がつく。

「これで、かっきり残り1分か……どうだ、ララ?」

『完璧ということね、アサイラお兄ちゃん!』

 黒髪の青年は、悠然とグラー帝をにらみつけながら、導子通信機と会話する。いくら力をこめようとも、圧倒的な身体<フィジカ>能力を持つはずの偉丈夫の肉体は、ぴくりとも動かなかった。

「ぐ、ぶァ……! なにをした、愚者め!?」

 持ち主の意志に応じて縦横無尽に張り巡らせた蒼銀の糸が、暴君の全身に巻きついている。腕の、脚の筋肉をどれだけ盛りあげようと、引きちぎれない。

「神さま、なんだろ? 俺に聞くまでもないんじゃないか、裸の王さま。人智を超えた力とやらで、ふりほどいてみろよ」

 アサイラの拘束など、誤差程度の意味すら持たないと思っていたのだろう。にもかかわらず脱出のかなわないグラー帝の顔は、怒りと困惑と苛立ちがないまぜとなり、表情が歪む。

 もっとも、拘束は無力と考えていたのは、黒髪の青年にしても同様だ。それが、どうだ。ララの示したプロトコルに従ったいま、暴虐的な力を振るう偉丈夫は、上下からからみつく糸に縛りあげられ、その四肢は微動だにしない。

 嵐のような厄災であろうとも、次元世界<パラダイム>の悪意であろうとも、人は戦える。ともすれば、それが宇宙であろうとも──アサイラは武者震いを覚えながら、柄だけの『龍剣』を握りしめる。

「余の問いに、答えよ。愚者め……! これは、グラトニア皇帝直々の、一言以ておおうならば、詰責であるッ!!」

「愚者呼ばわりする相手から、教えを乞おうなんざ、どうかしているとは思わないのか。裸の王さま? まあ……説明してやるよ、ララの受け売りだがな」

 アメジストの輝きを放つ瞳が眼孔からこぼれ落ちるのではないかと思うほど、目を見開いた専制君主の様子を、もったいぶった言葉まわしを口にしつつ、黒髪の青年は仔細に観察する。

 アサイラの視覚は、精神の経路<パス>によってリーリスと共有されている。ゴシックロリータドレスの女を経由して、リアルタイムで『シルバーブレイン』に情報が送られ、いま、作戦決行のための最終調整が行われているはずだ。

「ラグランジュ・ポイントっていうのか? いままさに空から落ちてくる次元世界<パラダイム>たちと、グラトニア自体が持つ引力……そのふたつが、おまえのいる場所で、ちょうど釣り合い点になっている。世界そのものの力で締めあげられている、ってところか」 

 黒髪の青年は、左手の人差し指で、まっすぐグラー帝を指さす。手足を縛りあげられた偉丈夫の額に青筋が浮かぶ、おそらく拘束を破ろうと、持てるかぎりの膂力を振り絞っている。それでも、蒼銀のワイヤーからの脱出はかなわない。

 自分の能力ながら、恐ろしく頑丈な糸だ。次元巡航艦のブリッジにいる少女が言うには、『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』の強度がなければ、この作戦は実現しなかった。

 なにかひとつでも、ピースが欠けていたら──アサイラが、龍剣解放に至らなかったら。覚醒しても、違う能力だったら。『魔女』か、生き残りの征騎士に妨害されたら。ラグランジュ・ポイントが少しでも、ずれていたら。

 針の穴を通すような無数の可能性を重ね合わせた、この『解』へは到達できなかった。

「ともかく、裸の王さま。おまえの身体は、次元世界<パラダイム>たちの力によって、天と地から縛りあげられている。世界と同化した相手を封じるなら、世界そのもの重さを使う……ってわけか」

「……一言以ておおうならば、戯れ言である! たとえ事実であろうとも、すぐに釣り合い点の三次元座標は移動し、余の構成導子量も増大する……いままでの時間稼ぎと、なにも変わらぬッ!!」

 拘束からの脱出がかなわないグラー帝は、鼻息荒く、アサイラに対して声を張りあげる。痛みを覚えるほどに鼓膜を揺らされながら、黒髪の青年は暴君に対して冷ややかな視線を向ける。

「そうだ、わかっているじゃないか。だからこそ……最後の仕上げを、手早く済まさせてもらうッ!」

『たたっよたた! パラメータの最終調整、完了……アサイラお兄ちゃん、こちらはいつでもスタートできるということね……シミュレーションすら抜きの、超ぶつけ本番だけど!!』

(グリン、こちらもオーケーだわ。あとは……アサイラがゴーサインを出すだけ!)

「だいじょうぶだ。ぶつけ本番なら、いやと言うほど慣れている。よし……行くかッ!!」

 導子通信機からのララの声と、脳裏に直接響くリーリスの言葉に、アサイラは同時に返事をする。宙に浮く黒髪の青年の身体が、びくんとのけぞる。得体の知れない不快感に、奥歯をかみしめる。

 アサイラとリーリスのあいだに形成された精神の経路<パス>に、ドクター・ビッグバンが強引に導子ハッキングをしかけ、割りこんだ。

 白衣の老科学者の肉体である『人間演算装置<マン・フレーム>』は、『シルバーブレイン』の制御コンピュータと直結され、この10分間、突貫で構築された導子プログラムを、直接、アサイラという存在そのものへインストールしていく。

「グヌ、ヌヌゥ……はあっ、はあ……ッ!」

 金縛りにでもあったかのように身を硬直させていた黒髪の青年は、荒い呼吸をくりかえしながら、まえのめりになる。膨大な導子情報が、四肢はもちろん、己の身体の一部である『龍剣』の糸の末端までも染み渡っていく。

『インストール完了ということね! アサイラお兄ちゃん。気分は、だいじょうぶ?』

「最悪か……だが身体は動く、問題なく! 予定に変更なし、作戦続行だッ!!」

『了解ということね! 立体型導子スリンガトロン……遠心開始ッ!!』

 顎を破壊するかと思うほどの力で歯ぎしりをするグラー帝をまえにして、アサイラの身体が縦方向へ回転を始める。黒髪の青年の両足首にからみついたワイヤーを巻きとる勢いで、見る間に速度は増し、少しずつ円運動の直径が大きくなる。

 ララが即席で用意したものは、アサイラの『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』を特定の形状に変化させ、制御するためのプログラムだ。これによって、本来であれば持ちこむことすら困難な巨大遠心機が、瞬時に戦場で展開された。

「なにを、している……愚者め! とるに足らぬ、蛮人どもめッ!!」

 偉丈夫の怒鳴り声に、バケツの水に一滴ほどのおびえの色が混ざる。専制君主の疑問に答えるように、高速回転するアサイラの通信機からララの言葉が響く。

『ララたちは、皇帝をやっつけるだけじゃなくて、落ちてくる次元世界<パラダイム>を押し返さなくちゃいけない。ふつうだったら、同等の質量体……世界の重さなんて用意できないけど、いまは目のまえに、ちょうどいいオブジェクトがあるということね!』

 舌をかまないか心配になるほど、少女の声が早口に告げる。緊張の色が、隠せない。おそらく確認のため、自分自身に言い聞かせている。

 いま、アサイラとララは、リーリスとドクター・ビッグバンによって中継され、回転速度、遠心半径をはじめとする各種パラメータを共有し、精密に調整し続けている。

『……すなわち、グラー帝! 融合した次元世界<パラダイム>と同じ構成導子量になるのなら、それをそのまま落下する世界を押し返すための弾体として使っちゃえばいい、ということね……遠心力を利用したマスドライバー、スリンガトロンでッ!!』

「だってさ、裸の王さま……といっても、導子通信の内容までは聞こえようもないか。自称、神さま、なのにな」

 黒髪の青年の声が、ドップラー効果に歪んで響く。超音速を超える遠心速度で回転する状態で、アサイラの視力は、すでに用をなさない。

 ただ、いまだグラー帝が必死にもがき続けている感触が、蒼銀のワイヤーを通じて伝わってくる。何本か、糸を引きちぎられた。ラグランジュ点が、ずれつつある。暴君自身の腕力も、相変わらず増大を続けている。

「間に合え……ッ!」

『……間に合う! 絶対にッ!!』

 アサイラの祈るようなつぶやきに、精神のリンクの向こう側にいるリーリスの思念が、導子通信機でつながっている次元巡航艦のブリッジのララ、ドクター、アンナ、フロルの声が、合唱となって返事をする。

 黒髪の青年は、脳へとダイレクトに伝達される電子情報から、回転速度、遠心力の双方が、計算上の最大値へと到達したことを知る。肉体がグラー帝の真下へ至ると、導子プログラムの導くまま、急上昇の軌道へ入る。

「余は……! 余はッ!! グラトニア帝国皇帝、グラトニオ・グラトニウスであるッ!!!」

「ウラアアアァァァァァ─────ッ!!!」

 アサイラの雄叫びが、偉丈夫の怒声を打ち消す。天へと昇る龍のごとき垂直方向の蹴りが超音速で放たれ、専制君主の肉体を捉えた。



「なんだい、ありゃあ……」

 修道服を身にまとう大柄な初老の女性が、蒸気自動車のハンドルを切りつつ、急ブレーキを踏む。ただでさえ舗装されていない荒野を走っていた車体が、大きく揺れる。

 助手席に座る孤児院の少年の抗議を無視して、運転手の女──シスター・マイアは、フロントガラス越しに目を凝らす。

 地平線の果てから、アメジストのような輝きを放つ光点が、空に向かって昇っていく。まるで、流れ星の天地を逆にしたような光景だ。

「50年は、生きてきたが……こちとら、まるで見当がつかない、初めて見るシロモノだねえ……妖精さん、なんだかわかるかい? 左向きにまわる空は、凶兆だ、って言っていたが……」

 シスター・マイアは、運転席から背後をあおぐ。後部座席には、孤児院の少女に応急処置を受けながら横たわる、巫女装束のエルフ──ミナズキの姿がある。

 そもそも、シスター・マイアと彼女の運営する孤児院の少年少女は、重傷を負った状態でミナズキを保護した。安静にしていろ、という忠告を固辞し、龍皇女とメロのあとを追うよう懇願したのは、巫女装束のエルフのほうだ。

 ミナズキは、難儀そうに顔をあげると、グラトニアの端の空を見あげる。その口元に、弱々しく微笑が浮かぶ。

「……吉兆です。それも、とびっきりの」

 巫女装束のエルフがそうつぶやいたとき、メロは天頂へと昇っていく流星を、ライゴウとともに永久凍土の雪原のうえで見た。

 少しまえまで敵として対峙し、命のやりとりをしていた魔法少女とスモウレスラーは、いま、並んで白銀の大地のうえを歩いている。

「……ライゴウおじさん、いまの見えたのね?」

「ああ、見えるにゃ見えたが……嬢ちゃんにやられた首が痛くって、頭をあげられないってことよ……」

 よろめくライゴウをメロが支えながら、ふたりは黙々と雪原に足跡を刻み続ける。

「なに……負けちまった征騎士に、もはや、なにが起ころうと関係ないってことよ。それよりも……早く、こんな雪国からグラトニア本土に戻らにゃあ、嬢ちゃんが風邪引いちまう」

「もう、おじさんのほうが、なんでメロの心配しているんだか……これじゃあ、どっちが勝ったんだかわかんない……本当、あきれるくらい頑丈な身体。イクサヶ原の人って、皆、そうなのね?」

「応。そのなかでも相撲取りは、とびきり頑丈だ……それを負かしたんだから、嬢ちゃん、大したものってことよ」

 重傷を負ったライゴウと方角を見失ったメロは、互いを見捨てることができずに、奇妙な同行者となってグラトニア本土を目指す。

 そのころ、ナオミとシルヴィアは帝国軍のジープを奪い、別働していたリンカとも合流して、一路、『塔』へと車を走らせていた。

「どうだ、リン。ウチの相棒は、治りそうか? 敵の本陣についたら、もう一働きしてもらわなきゃならないだろ」

「さもありなん、アタシはカラクリやら蒸気機関やらは門外漢なのよな……まあ、コイツは鎖が絡まっているだけだが、どうすりゃこんだけ葛か藤のツタみたいに絡まるんだか……」

 ハンドルを握るナオミが、アクセルを緩めることなく荒野を突っ切るなか、後部座席ではリンカがフルオリハルコンフレームのバイクと向き合っている。魔銀<ミスリル>の鎖が、複雑怪奇に車輪とかみあって、とうてい動きそうにない。

「ナオミ……いまの、見えたのだな?」 

 先の戦いで体調不良に陥いり、ぐったりと助手席の背もたれに身を預けていたシルヴィアが、小さくつぶやく。すぐとなりで、赤毛の運転手がうなずく。

「ああ……確かに、見えただろ」

「のんべんだらり……こんなときに、なにがあったのよな?」

 フロントシートのふたりの会話を聞いた灼眼の女鍛冶は、頭をあげ、はっと息を呑む。重苦しい、まるで落ちてくるような左回りの空の中心へ向かって、紫色の輝きが昇っていく。

 同時刻、グラトニアと次元融合したアストランの境界地帯では、激しい砲撃の音が響きわたっていた。

 グラトニア帝国軍の激しい掃討に追い立てられていたアストランの戦車団たちは、マム・ブランカの到着と同時に統制を取り戻し、反攻に打って出た。

 普段はいがみあっていた勢力たちが手を結び、連携し、鋼野の無法者どもは、ついに帝国の地上部隊を撤退まで追いこんだところだった。

『──マム! うえをッ!!』

「帝国の連中が、航空戦力でも持ちだしたか!? だったら、腑抜けどもは下がりな……『スカーレット・ディンゴ』が、引き受けるッ!!」

 友軍からの通信を受けて、マム・ブランカはがなり声で返事をする。有力戦車団『ドミンゴ団』の頭領である初老の女戦車乗りは、状況を確認しようと、愛車『スカーレット・ディンゴ』のハッチを開けて、肉眼で上空を仰ぎ見る。

 そこで、マム・ブランカは我を忘れる光景を見る。はっきりと昇りいくアメジスト色の光点が、いままさに天の中心へと至ろうとしていた。

「……みんなッ!」

 見張りを務めていた若い戦乙女が、地下室のなかをのぞきこみ、声をかける。場所は、インウィディアの凍原に墜落した牧場の浮き島、その地下室だ。

 ドヴェルグたちの執拗なヴァルキュリア残党狩りから逃れて、弱々しく身を寄せあるけが人たちのなかから、牧場主であるシェシュとエグダルの夫婦が立ちあがる。

「外! なにがあったの!!」

「ドヴェルグたちが、攻めてきたんも!?」

「そうじゃないんですけど、天の様子が……」

 要領を得ない見張りの言葉を聞いて、ヴァルキュリアとドヴェルグの夫婦は階段を駆けのぼり、空を見あげる。

 昼間にも関わらず、はっきりと視認できる紫色の光が天頂へと至り、ひときわ大きな瞬きを放った。刹那、ゆっくりと左向きに回転していた空は、たがが外れたかのように右巻きへと動きを逆転させる。

 牧場主の夫婦は、見たことも聞いたこともない光景に言葉を失う。ひとり、またひとり、と地下室のなかから避難民が出てきて、空の様子を確かめる。あまりに重々しく超常的な天の有り様に、誰からともなくひざまづき、祈りはじめた。

『たたっよたったた……導子圧の急速な低下を確認……各種パラメータ、正常値へと遷移を開始……アサイラお兄ちゃん! 大規模次元融合の阻止作戦、成功ということね!!』

「……そう、か」

 すべての爆心地、グラトニアの中心に鎮座したいた『塔』の残骸のなかで、アサイラはうめく。導子通信機の向こうから、次元巡航艦のブリッジに響く快哉が聞こえる。

 黒髪の青年は宙に漂いながら、なにか言葉を紡ごうとして、しかし、かなわない。全身は、文字通りぼろ布のようになり、ひどい痛みと疲労感で指一本動かすことすら難儀なありさまだ。

 アサイラの眼前の光景が、かすみはじめる。重力の中和が解消され、浮遊していたがれきが、大地へ向かって引っ張られていく。黒髪の青年の肉体もまた、本来の物理法則にしたがって落下していった。



「アはは! アははハはハッ!!」

 眼孔から膿汁と肉片と毒蟲をまき散らしながら、『魔女』は狂ったように哄笑する。踊るような動きで空を舞いながら、指先で魔法文字<マギグラム>を描く。共鳴するがごとく、エルヴィーナのすぐそばに浮かぶ『天球儀』の輪が、淡い光を放つ。

「グリンッ! 龍皇女、左右両方から同時だわッ!!」

 クラウディアーナの魔法<マギア>によって、三つ編みの女が持つ『天球儀』と左目の視界を直結させているリーリスが叫ぶ。ふたりの女を挟みこむように禍々しい魔法陣が展開し、蛆のわいた腐った巨人の腕が召喚される。

「──『破光』の! 魔法<マギア>ッ!!」

 ゴシックロリータドレスの女の合図とほぼ同時に、人間態の龍皇女は詠唱を完了する。柏手を打つように目標を叩き潰そうと、腐肉の巨腕が迫る。刹那、幾本もの銀色の軌跡が走る。穢れた腕が、汚濁液を飛散させながら、細切れと化す。

「グリン……気持ちわるッ! 臭いだって、ひどいものだわ……」

 黒翼を羽ばたかせるリーリスは、悪臭を振り払うように、ぶんぶんと頭を振ると、空を仰ぐ。そこで、ぴたりと動きを止める。

「『淫魔』、どこを見ているのですわ!? 側仕えの女の、次が来ますわよッ!!」

 6枚の龍翼を白銀に輝かせるクラウディアーナは、背中をあわせるゴシックロリータドレスの女の動きを見咎め、そこでなにかを察知する。

 天を見つめる『淫魔』の口元には、笑みが浮かんでいる。自ら眼球を潰したはずの双眸を空へと向ける『魔女』からは、逆に歯ぎしりの様子が見てとれる。

 純白のドレスのクラウディアーナは、眼前の三つ編みの女に注意を向けつつも、ゆっくりと頭上を見やり、目を見張る。

 左向きに回転していた空が、時を巻き戻すかのように逆方向へ動いている。ふたをされたかのような、天の閉息感が消滅している。基部を破壊されながらも、未練がましく宙に留まり続けていた『塔』の上層部が、重力に従って崩落していく。

「どうやら、私たちの勝ちのようだわ。『魔女』……あなたの目的は、潰えたんじゃない? どういう動機だったか、まださっぱりだけど、そちらはこれからゆっくり聞かせてもらおうかしら……」

 視線を降ろしたリーリスは、左目をつむりながら、眼前のエルヴィーナを右の瞳で見据える。

「あなたが、真っ当な神経の持ち合わせていたら、って前提だけど……この様子じゃ、ご自慢のグラー帝だって、無事じゃあない。そろそろ、降参するタイミングだと思うのだわ?」

「……『淫魔』、この女は存在自体が危険ですわ。なにをしでかすかわからない以上、いま、ここで消却します」

「どうどう、龍皇女……待つのだわ。私、カワイイ女の子には、等しく優しくするのが信条なの」

 殺気を隠そうともしないクラウディアーナに対して、ゴシックロリータドレスの女が制する。人間態の上位龍<エルダードラゴン>は、少しばかり気分を害したかのように『淫魔』を一瞥する。

「逃がすつもりがないのは、私だって同じだわ。ただ、この娘が何者で、どこから来たのか徹底的に知っておく必要があるってだけで……」

「アは……! アははハはハッ!!」

 リーリスの説明をさえぎるように、突然、三つ編みの女は哄笑をあげる。黒翼を広げる『淫魔』と、6枚翼の龍皇女は、ほぼ同時に身構える。

「あら……気でも触れましたかしら?」

「グリン。私の見立てでは、さっきまでの精神状態と目立った違いはないのだわ……もともと、奇怪な心理構造しているけど」

 ゴシックロリータドレスの女は、『魔女』の心理状態をつぶさに観察しつつ、閉じていた左目を開く。『天球儀』とつながる視界が開かれる。

「動揺の色も、奇襲の気配もなし……あなた、この期に及んで、なにを企んでいるのだわ……?」

「アははハッは、ハ……別に、なにも? あの男──グラー帝もしょせん、この程度かと思っただけなので……アサイらのことを、殺しそうだったし。わたシタチは、すべてを試したのだから……いまさら、ひとつくらい策が曲がったところで、どうとも……」

 追いつめたはずはずのエルヴィーナをまえにして、リーリスとクラウディアーナのほうが代えって緊張の色が濃くなっていく。

「『淫魔』! この女は、いったい……なにを言っているのですわ!?」

「グリンッ! 私のほうが聞きたいのだわ、龍皇女……思考が読めるからって、わかるのは、嘘をついていないことくらいで……言っていることが最初から意味不明なら、理解しようがないッ!!」

 ゴシックロリータドレスの女の額に、冷や汗が浮かぶ。三つ編みの女の表層意識は、はっきりと捕捉している。狂気にとらわれたわけではなく、大願の頓挫に絶望しているわけでもなく、苦しまぎれの攻撃を企んでいるわけでもない。

「ただ、単純に……この娘の考えていることが、欠片も理解できないのだわ!」

「アは……ッ。ドロボウ猫も、白トカゲも、思ったより頭の中身は軽いようなので……バカとなんとかは高いところが好きと言いますけど、少しは足元のほうも気にしてみてはいかが?」

 あざける『魔女』の言葉を聞いた『淫魔』と龍皇女は、周囲の空気がいままでと異なる振動を帯びていることに気がつく。

「グリン……私の視力、人並みだから、この高々度から地上までは見通せないのだわ。龍皇女、見える……?」

「……『淫魔』、そなたは側仕えの女が妙な動きをしないよう見張っているのですわ」

 クラウディアーナは、ドラゴンの瞳を凝らして、地表を見据える。龍皇女の双眸が見開かれる。気に喰わない相方のただならぬ気配を、すぐにリーリスは察知する。

「なにが見えたのだわ、龍皇女ッ!?」

「『淫魔』、そなたは視線を動かさずに! 大地が割れているのですわ、『塔』の根本から……まるで、次元世界<パラダイム>全体が、崩れるような勢いでッ!!」

 ゴシックロリータドレスの女は、相変わらず攻撃の気配のない『魔女』を見据えながら、人間態の上位龍<エルダードラゴン>の言葉に耳を傾ける。

 満身創痍のエルヴィーナは、リーリスとクラウディアーナのふたりをまえにしながら、むしろ勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべていた。


第4節へ 第6節へ


▲