Paradaigm Shifter
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パラダイムシフター
【第2部31章】落ちてくる、この空の下で
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「グオラッ」
「ウラア!」
『塔』の壁面に直立するふたりの男は、同時に踏みこみ、それぞれ右の拳を振りかぶる。上空から戦場を見守るリーリスが、両目をおおい隠そうとして、しかし視線をそらすこともできず、顔をかきむしるような格好になる。
「アサイラ! なにをやって──」
ゴシックロリータドレスの女の悲鳴が、途中から遠くなる。いま、この瞬間へむかって、黒髪の青年の神経が極度に収束し、かぎりなく体感時間が遅くなる。
リーリスの言いたいことは、わかる。徒手空拳を得意とするアサイラだが、グラー帝との身体<フィジカ>能力の差は、一度、拳をぶつけあって一方的に砕かれていることからも歴然だ。同じ行為を繰りかえすなど、愚の骨頂。
しかし、ただでさえ凄まじい拳速と対するに、大振りになりがちな両手剣では、とうてい間にあわない。くわえて、動態視力で追うことすら困難な踏みこみによって、間合いの決定権は相手にある。諸肌をさらす偉丈夫は、当然、それをわかって動いている。
(──ならば、どうするか?)
黒髪の青年は、自問する。鈍化した時間感覚のなかでも、グラトニアの専制君主の右ストレートは、なお速い。ふたつの拳が、正面衝突する。
「ム……」
ぱあん、と空気の破裂する音がする。グラー帝は、いぶかしみ、眉を動かす。手応えが、ない。先刻の同様のシチュエーションとは異なり、アサイラの右腕は無事だ。粉砕していない。
「打ちつけあう刹那。拳を止め、腕を引き……余の衝撃を、受け流したか」
利き腕を伸ばしきった姿勢のまま、グラトニアの専制君主は冷静沈着な声音でつぶやく。最後の指摘は、少し違う。黒髪の青年に、そのことを口に出す余裕はない。
「──ゥゥウラアッ!」
アサイラは、己の利き腕を弾き飛ばしたグラー帝の拳圧を利用して、円運動に転化する。突き刺した『龍剣』を支柱として、『塔』の壁面と平行に回転する。
「ァァアアア──ッ!!」
脚が360°の軌跡を描いたところで、黒髪の青年は足場から大剣を引き抜く。身をひねり、相手の勢いと遠心力を乗せて、蒼銀に輝く刃を偉丈夫の首筋へ叩きつける。
「ぐ……ッ」
グラトニアの専制君主は、わずかにうめく。だが、それだけだ。体勢を崩すどころか、足元すら乱れていない。剣の柄を握りしめるアサイラの両手に、鋼鉄の鋳塊を叩きつけたような反動が伝わってくる。
(どれだけ……ダメージを、負わせられたか?)
『塔』の壁面に着地し、ふたたびグラー帝と対峙するアサイラは、自問する。諸肌をさらす偉丈夫は、表情から察するに、おそらく蚊に刺されたくらいにしか感じていない。黒髪の青年とグラトニアの専制君主には、それほどの差がある。
(それでも……かまうものか!)
アサイラは、ぎりと奥歯をかみしめ、決意する。何度でも、これを繰りかえす。そう思った刹那、ボクシングの構えをとり、2、3度ステップを踏んだグラー帝の姿が消える。
黒髪の青年は、すぐ隣に大剣を突き刺すと、右手で小さな円を描く。側面にまわりこんだ偉丈夫のボディブローが、まるで動作を予期していたかのようにいなされ、専制君主は双眸を見開く。
「ウラアッ!」
アサイラはグラー帝の手首をつかみ、引くと同時に脚を払い、投げ飛ばす。偉丈夫はよろめいた程度の動きで、超巨大建造物の側面に転がることすらなく、即座に体勢を立て直す。
「先刻、余の首に刃を突き立てたときに……糸を巻きつけ、我が動きを振動で予期したか……」
「そうだ。なかなか便利な剣だと思わないか? さすがは、ディアナどのの謹製だ」
「愚者と思っていたが、汝、戦闘に関しては、なかなか……一言以ておおうならば、機転が利く。蛮人ゆえの感性である、か?」
「俺から見れば……なんでも殴る蹴るで解決しようとするほうが、野蛮じゃあないか。裸の王さま?」
軽口を叩きつつも、アサイラは背中に冷たいものが伝う。人は、天災に立ち向かうことができるのか? 自分と眼前の相手を比較するならば、その程度の差がある。
(……できる)
黒髪の青年は大剣を構えなおしつつ、独りごちる。たとえば、治水、土木工事、天気予報……技術<テック>に限定しても、人間は様々な手段を編み出し、天災という次元世界<パラダイム>の暴威に、対抗策を講じてきた。それが人の歴史であり、文明の発展だ。
(俺も……同じことを、する、か)
グラトニアという広大な次元世界<パラダイム>と一体化した存在であるグラー帝。これを倒すことは、どれほどの困難か。その敵意が振るわれれば、いかほどの厄災か。
針の穴を通すような、糸のように細い、しかし確かに『存在』する可能性。ならば、つかむ。たぐり寄せる。
(そもそも、『蒼い星』への帰還だって、似たような難易度か……だったら、これくらい、できなければ……な!)
黒髪の青年の口元に、ひきつった笑みが浮かぶ。眼前に立つ偉丈夫が、また姿を消す。アサイラは、『塔』の壁面に突き刺した大剣の柄を、左手で握りしめる。
「ほどけろ! 『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』ッ!!」
使い手の意志に応じて、蒼銀のきらめきを放ちながら、『龍剣』の刃が無数の糸へと姿を変じて、四方へ広がる。
「く……一言以ておおうならば、小癪であるッ」
グラー帝が、拳の間合いの外で姿を現す。おそらく、ワイヤーを通じて動きを読まれることを嫌った。だが、アサイラの目は、偉丈夫の見立ての一歩先を捉えている。
「ウラアーッ!」
「……ぐッ」
強靱な蒼銀の糸の1本が、グラトニアの専制君主よりも向こう側の壁面に引っかけられ、黒髪の青年の身体を引っ張る。アサイラは、グラー帝に背中からの体当たりを叩きこむ。偉丈夫の足裏が、1歩、退く。
グラトニアの専制君主の構成導子量──存在の強度は、圧倒的だ、並の次元転移者<パラダイムシフター>では、誤差程度にしかならないだろう。上位龍<エルダードラゴン>のクラウディアーナですら、なお足りない。
しかし、存在の強度だけで、物事を一元的に測れるほど、宇宙は単純にできていない。人間のほうが構成導子量が大きいからといって、魚のように水中で息はできず、鳥のように空は飛べず、モグラのように地面に潜れない。
さらに言えば、体内に『蒼い星』の断片ともいえる導子力を宿したアサイラならば、グラー帝の暴虐的な存在強度に、ほんのわずかながら対抗できる。
「グオォォラアァァーッ」
「ウララアアァァァー!」
諸肌をさらす偉丈夫は、なおも反抗を止めぬ蛮人に対して、無数の拳を放つ。黒髪の青年は、全身で円を描くよう動きをもって、暴風のごとき打撃をことごとくいなしていく。
アサイラは、己の内的世界<インナーパラダイム>で邂逅し、一時のみ教えを乞うた白髭の老師との組み手を思い出す。流水のごとき円と螺旋の動きは、あのときに教わった。
あの老人は、何者だったのか。『蒼い星』の虚ろなる住人とは、明らかに気配が違っていた。いや、そんなことは、どうでもいい。いま、この瞬間に集中する。ただ、できることを繰りかえす。
「そうじゃて」と笑う老師の声が、黒髪の青年の耳に聞こえた気がする。グラー帝は破滅的な打撃を際限なく放ち続け、アサイラはもらすことなく紙一重で受け流していく。
「ぐ……?」
「グヌッ?」
黒髪の青年と偉丈夫は、同時に飛び退く。数匹の甲蟲が弾丸のように飛来し、石材との衝突によって潰れて、『塔』の壁面に体液の染みを作る。
同時に横を向いたふたりの視線の先では、真紅のローブを目深にかぶった女が、人差し指を伸ばしている。
「エルヴィーナ。一言以ておおうならば……手出し無用である」
「ご無礼は、承知のうえ……皇帝陛下の支援は、万事に優先される事項なので」
抑揚のない、それでいて、かすかな苛立ちを匂わせる声音のグラー帝に対して、『魔女』もまた、みじんの動揺も見せずに返答する。
アサイラは、荒く息をつきつつ、舌打ちする。敵は、ひとりではない。ようやく、グラー帝のリズムをつかみかけてきたところで、さらなる不確定要素を思い出させられた。
「グラトニア帝国に仕える一員として……偉大なる皇帝陛下の支配にあらがう存在は、決して看過できないので……」
ぼそぼそとつぶやきながら、『魔女』は両腕を広げる。背負うように、左向きに回転する輪のような魔法陣が展開され、ここではないどこかから、生理的嫌悪感を覚える触手が這い出てくる。
「グリン。言葉だけ聞けば、大した忠誠心だけど……本当かしら? なーんだか、あなたの言うこと、イマイチ信用できないのだわ」
どこか茶化すような調子の、別の女の声が聞こえる。ローブのすそを手で押さえつつ、エルヴィーナが振り向くと、そこには黒翼を広げたリーリスと龍態のクラウディアーナの姿がある。
「それに……アサイラは、ひとりじゃない。やるのだわ! 龍皇女ッ!!」
『そなたに命令されるいわれはないですわッ、『淫魔』! ルガア──ッ!!』
ゴシックロリータドレスの女が、『魔女』に向かって人差し指を突きつけると、白銀の上位龍<エルダードラゴン>の開かれた顎から、まばゆい光の吐息<ブレス>が放たれる。
「うぐ……ッ!」
真紅のローブの女は、召喚魔術の詠唱を中断して、急旋回で輝きの奔流を回避する。魔法陣から身の半ばまで這い出ていた触手たちが、灼光に呑まれ、一瞬で蒸発する。
『わたくしはフォルティアの管理者、龍皇女、上位龍<エルダードラゴン>クラウディアーナ……並のドラゴンと同じ覚悟で、この場にいるとは思わないことですわ……『明鏡』のッ! 魔法<マギア>!!』
直線的な吐息<ブレス>の進行方向の先に、魔力で構成された巨大な反射板が現出する。光の奔流がはねかえされ、再度、『魔女』を狙う。
「……あが!?」
白熱する光条にローブのすそを焼かれつつ、エルヴィーナは寸でのところで蒸発をまぬがれる。顔を隠すフードを神経質に気にしながら、龍皇女とは別の方向を一瞥する。
クラウディアーナの放った吐息<ブレス>の向こう側に隠れるように、黒翼を広げたリーリスが飛翔している。もちろん白銀の上位龍<エルダードラゴン>は驚異だが、もうひとりの女も厄介極まりない。
「あのドロボウ猫の、能力は……危険なので!」
エルヴィーナは、小さくつぶやく。ゴシックロリータドレスの女が持つ、精神干渉の技。幸い、グラー帝には効果を示さなかったが、真紅のローブの女に対しては、わからない。そして、喰らおうものなら、即座に無力化されかねない。
「絶対に……目を合わせるわけには、いかないので……ッ!」
『魔女』は、自身に強く言い聞かせると、あらためて真紅のローブを目深にかぶりなおし、顔を隠す。粘膜接触、あるいは視線交錯という発動条件を満たしさえしなければ、『淫魔』の技は無力だ。
「……とでも、思ったのだわ?」
「へ──ッ!?」
エルヴィーナは、びくっと背筋をのけぞらせる。急に至近距離に現れたゴシックロリータドレスの女が、上下反転した体勢でフードのなかをのぞきこんでいる。
見開かれた『淫魔』の緑色の瞳孔に、『魔女』の赤黒い目の視線が吸いこまれる。まずい。エルヴィーナは、とっさにリーリスの身体を振り払おうと、腕を伸ばす。
「グリン……」
『魔女』の手が触れた瞬間、ゴシックロリータドレスの女の肉体が、ばらばらに分解する。気づけば、先刻まで『淫魔』だったものが、無数の黒い蝶へと変じて、四方に散っていく。
「……してやられたのでッ!」
真紅のローブの女は、うめく。首をめぐらせ、周囲の状況を確かめる。グラー帝や『塔』はもちろん、アサイラをはじめとする付近にいたはずの存在の姿は消え失せ、足元には黒バラの咲き乱れる花園が現れる。
もっとも避けるべき幻覚に、囚われた。『魔女』は、焦りを押さえる。早鐘を打つ心音が、妙なリアリティをともなって耳に届く。
エルヴィーナは、精神を包みこむ幻惑空間を仔細に観察しつつ、戦乙女<ヴァルキュリア>の王女として学習した魔法<マギア>の知識を検索し、脱出の糸口を探る。心象世界の虜囚を嘲笑するように、大輪の黒バラたちが咲き誇り、風に揺れている。
「……あガッ!?」
真紅のローブの女は、右腕に鮮烈な痛みを覚え、悶える。周囲の幻覚がほどけ、現実の光景が戻ってくる。龍皇女の吐息<ブレス>を喰らい、四肢の1本を失っていた。
『命中の直前に、動かれました。もう正気を取り戻したみたいですし……幻覚のかかり具合が甘いですわ、『淫魔』?』
龍態のクラウディアーナは、ふん、と鼻を鳴らし、黒翼を広げるリーリスは肩をすくめる。
「甘いのは、あなたの狙いじゃないの? 龍皇女……それはそうと、この娘、器は戦乙女<ヴァルキュリア>で間違いないんだけど、ほかの知的生物と比べて、精神構造が異質すぎるのだわ。いったい、なにものかしら」
余裕ぶった調子で話す『淫魔』に対して、ぎり、と『魔女』は歯ぎしりする。エルヴィーナの腕の付け根から、血の代わりに、ぼとぼとと蛆や蛭のような軟体生物がしたたり落ちていく。
「なるほど……『淫魔』の視線を、龍皇女の光の魔法<マギア>で屈折させて、わたシの目とつなげたので……まんまと嵌められました」
『あら、もう手品のタネに気づかれたようですわ。どうするのです、『淫魔』?』
「いいんじゃないかしら。わかったところで、避けられるものでなし……私たち、ぜんぜん性格はあわないんだけど、能力の相性だけは最高なのだわ……荒っぽい殴りあいは男子たちに任せて、こちらは楽しい女子会と洒落こみましょう?」
ぼろぼろになった真紅のローブが風に飛ばされ、謎めいた『魔女』の素顔があらわになる。赤みがかった黒髪を2本の三つ編みにまとめ、眼鏡をかけた、風貌だけを見れば、地味で大人しそうな顔つきだ。
「ぬふふ、ぎんぎらぎんにぴかぴかして自己主張の激しい龍皇女と比べると、清楚で真面目そうな娘じゃない。委員長タイプ、ってヤツ? 私、嫌いじゃないのだわ」
『わたくしとの比較は余計ですわ、『淫魔』?』
おどけて見せながらも警戒を緩めぬリーリスとクラウディアーナに対して、エルヴィーナは焼却された肩先をおさえながら、屈辱に表情をゆがめた。
『それはそうと……ダンスを再開するまえに、ひとつ、質問ですわ。あの男、グラー帝は、いったい何者なのです?』
龍態のクラウディアーナが、重々しい気配をともなって問う。『魔女』は、片腕をもがれた激痛に耐えながらも、敵愾心をむき出しにして、にらみかえす。
「あの御方は……この宇宙に存在する、すべての次元世界<パラダイム>の頂点に君臨する……偉大なる、覇者なので……」
「グリン。そーいうタテマエは、どうでもいいのだわ」
三つ編みの女の言葉をさえぎるように、黒翼を広げたリーリスが口を挟む。『淫魔』の緑色の瞳が、妖しい輝きを放つ。
「私たち、そろそろ打ち解けてきた頃合いじゃない? あなたの本音を聞かせてちょうだい……なんなら、精神を無理矢理ファックして、記憶の家捜ししてやってもいいのだわ」
ゴシックロリータドレスの女は、にたりと笑う。エルヴィーナは、額に脂汗を浮かべつつ、弱々しいため息をつく。
「いいでしょう。この程度のことを、話しても……いまさら、結果がくつがえることなど、ありえないので……」
消え入りそうな声音で言葉を紡ぐ『魔女』に対して、白銀の上位龍<エルダードラゴン>は6枚の龍翼を展開し、顎を開いた体勢を構える。
三つ編みの女が不穏な動きを見せた場合、即座に吐息<ブレス>か魔法<マギア>で対応する。自害しようとするならば、治癒魔術を行使し、死ぬことも許さない。
一方の『淫魔』は、『魔女』の瞳を凝視し続ける。精神感応能力は、シンプルな嘘発見の手段として、尋問において有効に機能する。
リーリスとクラウディアーナが、内心、息を呑むなか、ゆっくりとエルヴィーナは唇を動かす。
「グラー帝は……わたシが作り、育てた……理想の転移律<シフターズ・エフェクト>を持つ、次元転移者<パラダイムシフター>なので……」
『……『淫魔』?』
「嘘は、ついていないのだわ……いまのところ」
白銀の上位龍<エルダードラゴン>のアイコンタクトに返事をしたゴシックロリータドレスの女は、しかし『魔女』の言葉を聞いて、眉根を寄せる。龍態の顔で判別しがたいが、龍皇女も同様だ。
「グリン……だとしても、話の頭から、わけがわからないのだわ。転移律<シフターズ・エフェクト>なんて、個人の性向が影響するとはいえ、どんな能力が発現するかなんて、フタを開けてみるまでわからないじゃない」
『理想の次元転移者<パラダイシフター>、という言いまわしも不可解ですわ。なにをもって、理想とするのか……単純な強さというのならば、あの皇帝とやらは、確かにそうですが』
苦悶の表情を浮かべる三つ編みの女は、そんなこともわからないのか、と言いたげにため息をつく。
「だから……グラー帝の素体を用意するのには、苦労したので……結局、セフィロト社在籍時代のプロフに、人体実験用の赤ん坊を横流ししてもらいました。数は……最終的に、1万ほどだったか……」
リーリスとクラウディアーナの表情が、いっそう険しくなる。不可解を通り越して、嫌悪感が露わになる。
「ちょっと待つのだわ……グラー帝になった以外の9999人は!? そもそも、次元転移者<パラダイムシフター>を作る、ってどうやって……」
あきらかに動揺した声音の『淫魔』に対して、龍皇女の瞳には沈痛な、それでいて落ちついた色が宿る。
『聞いたことがありますわ……古代グラトニア王国は、人為的に次元転移者<パラダイムシフター>を産み出す儀式魔術を持っていた、と。そのために造られたのが……』
「そう……現在となっては、本来の名も忘れられた『遺跡』なので……あの内側に、1万人の赤ん坊を放りこみました……」
エルヴィーナは、白銀の上位龍<エルダードラゴン>を一瞥すると、小さくうなずく。リーリスとクラウディアーナは、息を呑む。
「1万人のなかから、次元転移者<パラダイムシフター>に覚醒したのは……100人ほど。そのなかから……古代グラトニアの建国王と同じ転移律<シフターズ・エフェクト>──『覇道捕食者<パラデター>』を獲得した1人の赤ん坊を、グラー帝として育てたので……」
「グリン。ほかの赤ん坊たちは……って、聞くまでもなさそうだわ……」
「ええ……不死を実現できるロックと、広域集団洗脳が可能なアウレリオは、使い道がありそうなので、生かしました……ほかは、いくらでも替えの効く、不要な異能だったので……」
ゴシックロリータドレスの女は、露骨な嫌悪感を顔に浮かべる。『魔女』の言葉をさえぎるように、龍皇女が口を開く。
『仔細、理解しました。皇帝の側仕えの女、そなたは危険な存在ですわ。我がフォルティアはおろか、全宇宙を蝕みかねない……いま、確実に、この場でとどめを刺します』
「グリン! 待つのだわ、龍皇女!! グラー帝を作った手段はわかったけど、まだ、その目的も聞き出していないし、なにより、そもそも何者なのか『ドクター』に分析させるから、せめて生け捕りに──ッ!?」
「わたシとしても……これ以上、話すつもりはないので……」
龍態のクラウディアーナが、顎を開き、のどの奥に収束する魔力の光が見える。リーリスは、白銀の上位龍<エルダードラゴン>に思いとどまるよう主張しながら、エルヴィーナのほうを見る。
ゴシックロリータドレスの女は、一瞬、我が目を疑う。『魔女』は、人差し指と中指を伸ばし、躊躇することなく自身の両目を刺し潰した。
「なにやってるのだわ!? 私の幻覚対策だとしても、そんなことして──ッ!!」
『ルガア──ッ!!』
龍皇女の口腔から、白光の吐息<ブレス>が放たれる。三つ編みの女は、ひらりと空中で身をひるがえし、まるでクラウディアーナよりも光条の軌跡を理解しているかのごとく、悠々と回避運動をとる。
「グリン……! なんらかの魔法<マギア>で、視力を代替しているのだわ!?」
『どうやら違うようですわ。あまりにも、よく『見』え過ぎている……まさか、こんな隠し玉を持っていたとは……』
「年増の白トカゲは、察しがいいようなので……」
エルヴィーナは頬を大きく膨らませると、胃液にまみれた球形の物体を吐き出す。リーリスには、見覚えがある。
「あーっ! 私の『天球儀』だわ!? どこに行ったかと思っていたら……まさか、グラトニア帝国が、次元転移ゲートを運用できていたのって……!!」
「もとより、あなタの所有物というわけでもないでしょうに……ともかく、これをドロボウ猫が手放してくれたおかげで、もろもろをスムーズにこなすことができたのは事実なので……」
『なんてことをしてくれたのですわ! 『淫魔』ッ!?』
「あれは、不可抗力だわ! というか、あのとき龍皇女が回収してくれたって、よかったのに!!」
顔を突きあわせて、唾を飛ばしあうリーリスとクラウディアーナを包みこむように、触手の球が召喚される。異形の集合体は、ふたりを呑みこもうと、見る間に直径を縮めていく。
「く、ぐっ、『光牢』の……魔法<マギア>ッ!」
触手との接触を避けるため、体積を減らすべく人間態へと変じた龍皇女は、素早く魔術を発動する。方形の光が、背中合わせのリーリスとクラウディアーナを包みこみ、輝きの向こう側で、じゅうと肉の灼ける音が響く。
「これは、本来、敵を閉じこめるための魔法<マギア>であって、防御のために使うのは想定外ですわ……それでも、これで少しは時間を──」
「──稼げないみたいだわ。龍皇女」
光の結界の内側に、超常の小さな肉坑が開き、極彩色の粘液をしたたらせた大蛭が這い出てくる。とっさに龍皇女は『光牢』の魔法<マギア>を解除する。
ばらばらと宙に散らばる異形の群を、ふたりの女は、じぐざぐに旋回しながら必死に回避する。かつてリーリスが所持していた『天球儀』のおかげか、『魔女』の攻撃精度と速度は、いまや大きく上昇している。
「グリン……龍皇女! あなたの魔法<マギア>で、私の視線を『天球儀』とつなげるのだわッ!!」
小刻みな方向転換を繰りかえし、ぶよぶよと膿汁を含んだ肉片をかわしながら、ゴシックロリータドレスの女が叫ぶ。純白のドレスの龍皇女が、人間態の顔を向ける。
「勝算はありまして!? 『淫魔』ッ!!」
「ぶっちゃけ、幻覚に捕らえるのは無理だけど……相手の攻撃の照準だったら、読めるのだわ! なんにもないよりは、マシでしょ!?」
リーリスの額に浮かんだ冷や汗が、風圧に流される。『魔女』は、腕の切断面と両眼孔から、腐肉の断片と汚汁をしたたらせつつ、嗜虐的な笑みを口元に浮かべていた。
「グオラッ」
ボクシングスタイルで両腕を構えたグラー帝は、右足の裏を『塔』の壁面へ強く叩きつける。地震のごとく足場が大きく揺れたかと思うと、地割れのような亀裂が生じ、アサイラを呑みこもうと迫る。
「ウラア……ッ!」
黒髪の青年は、大剣を握ったまま側転し、足元に口を広げる顎から逃れる。回転しつつ、蒼黒い瞳は筋骨隆々とした偉丈夫から視線をそらさない。
アサイラが逆の立場だとしたら、この地割れは牽制だ。相手がかわしたところで、本命の一撃をたたきこむ。そう考え、グラトニアの専制君主の動きを注視する。
しかし、グラー帝の接近……に伴う瞬間的移動は、ない。2本の脚で、その場に立ち続けている。違う。偉丈夫の上下が、いつの間にか逆転している。
「……グヌ!?」
黒髪の青年は、当惑する。自身の足裏が、倒立状態から超巨大建造物の側面へ接地しない。グラトニアの専制君主がひっくり返ったのに併せて、重力方向が逆転している。このままでは、空中に放り出される。
「──ウラア!」
頭上へ向かって大剣の切っ先を伸ばし、アサイラは『塔』の壁面に刃を突き刺して、どうにか身を支える。石材の破片が、ぱらぱらと双肩に落ちてくる
「グオラッ」
虚空を踏みしめて立つグラー帝は、真上へ向かって勢いよく拳を突きあげる。音速を超えるアッパーカットが、超巨大建造物の側面を貫き、亀裂が四方へ広がり、がらがらと音を立てて石材が砕けていく。刃が、『塔』の壁面から抜け落ちる。
「グヌウ……ッ!?」
『──アサイラお兄ちゃんッ!!』
黒髪の青年は、うめく。やや離れた地点から戦況を見守る『シルバーブレイン』、その艦橋にいるララが、声を張りあげる。
超巨大建造物の側面の崩壊にともない、身の支えとなっていた大剣とともに、身体が真横方向へと『落』ちていく。そう思った瞬間、ふたたび『下』の向きが変わる。
アサイラは顔をあげて、グラー帝のほうを見る。拳を構える偉丈夫は、文字通り、天に向かって足を伸ばしている。重力が、専制君主の体勢にあわせて変動する。
「グヌ……二重、三重に攪乱してきた……かッ!」
「然り、である。愚者よ……汝は、幾たびもの致命傷を避け続けてきた故、次は……一言以ておおうならば、万全を期す」
黒髪の青年の身体が、くるくると風に翻弄される木の葉のように回転する。歪んだ重力によって、天頂へ向かって足を引っ張られる。グラー帝は泰然として、アサイラの落『下』を待ち受ける。
と、腕組みする偉丈夫は、つまらなそうに目を細める。黒髪の青年の円運動が、ぴたりと止まる。空へ向かって『落』ちてくる気配が、消える。天を足蹴にして立つ専制君主と、鏡合わせに上下反転した状態で、アサイラは向かいあう。
「今度は、どんな小細工を弄した? 一言以ておおうならば、不快である」
「そいつはどうも。場数だけは、踏んできたおかげか」
グラー帝は、ゆっくりと首をめぐらせて、重力に逆らうようにぶら下がっている黒髪の青年を仔細に観察する。右手に握る大剣の刀身が、消えていることに気がつかれる。
「なるほど……『龍剣』の刃を、糸と化して伸ばし、網のごとく広げ、汝の足を支えている……ということ、か」
グラー帝の指摘に、アサイラは返事をしない。図星だ。とっさの思いつきにしては上出来だという自己評価だったが、頭上の偉丈夫には一目で見破られた。
「そして……『塔』の壁面を利用しただけでは、このような平面展開は不可能……最低限、もうひとつの頂点が必要である。つまり……」
「──ララ! 艦を逃がせッ!!」
黒髪の青年が叫んだ瞬間には、すでにグラー帝は空中を踏みしめ、瞬間的移動を開始している。偉丈夫の姿が次に現れたときには、『シルバーブレイン』との距離を半分ほど詰めている。
アサイラは、『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』をネット状に編みあげ、超巨大建造物の側面と、次元巡航艦の船主を支点として展開した。グラー帝は、それを一瞬で見抜き、もっとも脆い『シルバーブレイン』へ狙いを移した。
「あの艦は、一言以ておおうならば……汝らの母船であり、すなわち急所。考えてみれば、最優先で破壊すべき存在であった……」
黒髪の青年に背を向ける偉丈夫は、再度、虚空を蹴る。姿が消え、さらに次元巡航艦へ接近した地点に現れる。
『たたっよたったた……急速旋回しても、とても間にあう移動速度じゃないということね! 導子力場<スピリタムフィールド>をオーバーロード展開しても、たぶん、防御は不可能ッ!!』
数秒での解析結果を、導子通信機越しのララの声が、早口でアサイラへ伝達する。
『あーっ、とフロルくん! 捨て身で艦を守れないか、なんて自己犠牲精神でものを考えないこと! いまからじゃあ、船外に出るのだって、間にあわないということね……じっと大人しくしていなさいっ、船長命令!!』
『ぎゃむぅ……』
艦長代理の少女に思惑を見透かされ、うめく同席者の少年の声が混線する。グラー帝が、宙を踏み切る。次に姿を見せるときは、すでに次元巡航艦に肉薄しているだろう。
「ララ! 10秒、いや、5秒でいい……時間を稼げるか!?」
『了解ということね──ッ』
黒髪の青年の叫び声を聞き止めながら、『シルバーブレイン』の艦首やや上方に、偉丈夫が現れる。屈強なる専制君主から見た次元巡航艦は、ガラス細工のように繊細な、大きく脆い方舟だ。
「さて、どうする? 愚者よ……打つ手があるとすれば、糸の巻き取りの勢いを利用した跳び蹴りである、か?」
グラー帝は、アサイラの取り得る手段を予測する。ワイヤーの勢いを使った打撃は、すでに見た。そこそこ威力はあるが、攻撃軌道は予測がつく。また繰りかえすというのならば、裏拳のカウンターをたたきこむ。
「……ム」
1秒、2秒。導子技術の結晶である次元巡航艦を、しげしげと見つめていた偉丈夫は、双眸を見開く。アメジストのごとき輝きを放つ瞳が、上部甲板に身を伏せる、ひとつの人影を見て取った。
第2節へ
第4節へ
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