Bitter Choco Liqueur
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ビターチョコリキュール
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「雪落坂」
水面から柔らかい湯気が立ち、はらはらと舞う雪がふれれば溶けて消える。石造りの露天風呂からのぞく周囲の風景は雪の羽毛布団に覆われている。
もう春も近いというのに、しんしんと降りつもる雪は止むことなく舞い落ちてくる。
あらゆる音は根雪によって遮られ、雪山の宿は静寂が支配する。純和風の野外浴場に、湯が注がれる音だけが響きわたる。
「はぁあ……」
俺は肩まで湯に浸かったまま、陰気くさいため息をつきつつ、夜の曇天を仰ぐ。舞う雪が俺の視界に迫り、身体に触れる前に湯の熱で溶けて消える。
乳白色に濁った温泉は身体の芯まで温めてくれるが、俺の心は冷えきっていた。
広い風呂だが、俺以外に入浴客の姿はない。ここ、雪落坂温泉は混浴という話であったが、これでは全く意味がない。
どこから入り込んだのか、猿が一匹、さも当然といった顔で湯に浸かっている。仮に雌だとしても、相手が猿ではありがたみもない。
そもそも、この温泉に浸かる客の数は、俺も含めて最低二人となるはずだった。春休みを利用して、彼女と温泉旅行を楽しもうと予約を取っていた。二人でいちゃついているところを他のお客にも見せつけてやろうと、わざわざ混浴の温泉を選んだ。雪落坂温泉の近くにはスキー場もあり、行楽地としては申し分ない。
今、露天風呂に身を沈めているのは、俺一人。なにがあったかといえば単純で、彼女にふられたのだ。旅行前日のことだった。俺が気づいていないだけで、他に男がいたらしい。
雪見温泉を舞台にしたバラ色の行楽計画は、俺の傷心旅行へと成り下がった。
俺は、再び天を仰ぐ。俺の心を代弁するように、重苦しい空から冷たい雪が舞い降りてくる。
「キキイッ!」
猿が甲高い鳴き声をあげた。俺が視線をおろすと、猿は顔を上げて左右に首を振っている。温泉猿は俺のことを一瞥すると、軽やかに身をひるがえし、雪原の中へと消えていく。
入れ替わるように、宿から温泉へと続く渡り廊下の上から、どやどやと人の気配が近づいてくる。談笑する黄色い声が聞こえた。若い女性客らしい。それも、複数だ。
俺は誰に促されるでもなく、湯の中で正座する。
やがて、湯煙の向こうに四、五人の人影が映し出される。バスタオル一枚、身体に巻いただけの女性が浴場へと入ってくる。
俺は雪景色を眺めているふりをしながら、彼女たちの姿を見る。なかなか可愛らしい容姿をしている。スタイルも悪くない。そういえば、宿の女将が卒業旅行に来た女子大生が泊まっている、と言っていた。
横目に女子大生のことを見つめていると、そのうちの一人と目が合った。彼女が頬を赤らめさせる。
おい。ちょっと待て。
これは脈ありなんじゃないか。
捨てる神あれば、拾う神ありってやつか。
俺は胸の高鳴りを押さえながら、必死に平静を装う。彼女はバスタオルを身体に巻いたまま湯船に入ると、俺のほうに近づいてくる。
なんだ、なんだ。最近の女子は、ずいぶんと積極的じゃないか。
いや、待つんだ、俺。がっつくんじゃない。カッコ悪いぞ。
俺は自分自身に言い聞かせる。当の女子大生は、俺のすぐとなりに近づいている。鼻の下が延びそうになるのを、どうにかこらえる。
「あのお、すいません……」
ついに、彼女が俺に声をかけてきた。
「はい。何でしょうか?」
俺は自分にできうる最高にクールな声で返事をした。
「女友達同士だけで、水入らずで温泉に入りたいので……申し訳ないんですけど、席を外していただけませんか?」
彼女は、はにかんだ笑顔を浮かべながら言った。
「……はあぁあ」
俺は陰鬱なため息をついた。俺は今、浴衣を身にまとい、脱衣所の長いすに腰を下ろしている。瓶入りのコーヒー牛乳を買って、なめるようにちびちびと飲んだ。
脱衣所の壁面はガラス張りになっていて、温泉へと続く中庭の雪景色が一望できる。降る雪は、いっそう勢いを増しているようにも見えた。
結局、俺は半ば茫然自失としながら、女子大生の言うとおりに浴場を後にした。
思えば長い時間、湯に浸かっていた。そろそろ上がる頃合いだったかもしれない。俺の身体からは温かい湯気が上っている。反面、俺の胸中は穏やかではない。
あまりにも、カッコ悪い。
我に返った俺が、真っ先に抱いた感想だった。自己憐憫は、すぐに憤慨の感情へと姿を変える。
そりゃあ、下世話な想像をした俺も俺かもしれないが、女子大生たちにしたって、温泉を勝手に貸しきりにしようとは非常識ではないか。だいたい、女同士でかしましくやりたいなら、混浴温泉など選ばなければいい。
まったく! 最近の女は、なにを考えているんだか!!
俺はコーヒー牛乳の瓶を、握りつぶさん勢いで手に力を込める。
すると、突然。
宿全体が振動した。地震かと思い、身構えつつ周囲を伺う。揺れは治まらない。小刻みな鳴動は、次第に大きくなっていく。やがて、遠くから地響きが聞こえてくる。まるで迫りくる津波のように、轟音も増していく。
何か巨大なものが宿にぶつかる音がして、ひときわ大きく建物が揺れた。俺は思わずひざを突きつつ、顔を上げる。ガラス戸から見える中庭の様子が、白い雪煙に包まれてホワイトアウトしている。
「雪崩だ! でかいぞ!?」
従業員の叫び声が聞こえた。俺はとっさに立ち上がり、外の様子をうかがう。ガラス戸の外は白く染まり、まったく様子が分からない。
「露天風呂が呑まれた!!」
別の従業員が声を張り上げる。あの女子大生たちは、まだ浴場から出てきていない。冷たい汗が背筋を伝う。
俺は浴衣のまま、露天風呂に続く渡り廊下へと飛び出る。雪煙はいまだ収まらず、視界はほとんどない。冷たい濃霧に包まれたようだ。
外の冷気に鳥肌を立てながら、俺は前進する。先ほどまではなかったはずの壁にぶつかった。
次第に雪煙が晴れて、壁の正体が明らかになる。雪だ。見上げんばかりの巨大な雪塊が、露天温泉に続く渡り廊下を押しつぶし、横たわっている。
「おい、あんた! 大丈夫か!?」
背後から宿の従業員が声をかける。俺は振り返った。
「温泉に、女の子がいるんだ」
俺の言葉を聞いた従業員の顔から、血の気が引く。
「救助隊を呼ぼうにも、ふもとの街から雪落坂までは半日かかるぞ……!」
俺は目の前に立ちふさがる氷雪の壁に向き直った。素手のまま、雪の塊に挑みかかる。自重で締め固まった雪は想像以上に固く、冷たい。雪をかきとろうとした指が、すぐにかじかんでくる。
俺は視線をおろす。手のひらの上には、削り取った雪塊がある。目前の雪山は、少しも大きさを減じない。
宿の従業員たちが、雪かきの道具を手に集まってくる。俺は呆然と、目の前の雪塊を見上げた。
なんだ、俺は無力じゃないか。カッコ悪いな……
従業員たちが総出になっても、雪の掘りおこしは一向にはかどらない。俺たちは、まるで象に群がるアリのようだった。
「おい」
その時だった。男の声が聞こえてきた。妙に静かで低い声だったが、不思議とよく響いた。俺と宿の従業員たちが、一斉に声の聞こえたほうを振り向く。
宿の中庭を横切って入ってきた一人の男の姿があった。
異様な風貌だった。ランニングシャツに薄手のジャンパーという格好は、どう見ても雪山に来るような出で立ちではない。
髪は短く刈られ、あごの周りには無精髭、眼光鋭く、中年と言っていい年齢に見える。足には長靴をはき、手には薄汚れたスコップを握っていた。
「でかい音がしたが、雪崩があったのはここでいいのか?」
男が尋ねる。俺は唖然としたままうなずき、雪に埋もれた露天風呂のほうを指さした。
「分かった。おまえら、下がってろ」
男が短く言った。気がつけば、俺も従業員も男の言葉に従って、道をあける。奇妙な威圧感のようなものがあった。
男はざくざくと雪を踏みしめて、近づいてくる。やがて、雪崩によって生じた雪塊の前にたった。気温は氷点下で雪も降っているというのに、男はかまう様子もなくジャンパーを脱いだ。
ランニングシャツ一枚となった男の背を見て、俺は息を呑んだ。肩胛骨周辺に、鍛えられた筋肉が浮かび上がっている。
男はゆっくりとした、それでいて無駄のない動きでスコップを構えた。時代劇に出てくる剣豪のような構えだ。
男は目を細め、深い呼吸を繰り返す。俺は目を疑った。男の全身から、次第に白いもやのようなものが沸き立ってくる。湯気だ。
男が眼を見開く。手にしたスコップが、電光石火の速さで円を描いた。
少しの間をおいて、中庭に何か重いものが落下する音が聞こえた。雪の塊だ。俺たちの目の前にそびえ立つ氷雪の壁には、クレーターのように大きなへこみが穿たれている。
男はさらに一歩踏みだし、スコップを一閃した。中庭に再び雪の塊が落ちてくる。雪崩の雪山は、さらに表面を削り取られていく。
男は目にも止まらぬ早業でスコップを振り回し、見る見るうちに雪の中に道を築き上げていく。俺も従業員も、拳を握りしめて、男の一挙手一投足を見守った。
男が音速を思わせる勢いで、スコップを振るう。と、固い音が響き、スコップの刃がはじき返された。表面よりも内側の雪のほうが、自重によって押し固められて硬度を増しているのだ。
快進撃もここまでか。男を見守る俺たちの間に、落胆が満ちていく。それでも、男の目は死んではいない。
男が構えを変えた。スコップの先端を脇を通して背後に向けた、居合いのような構えをとる。男は深く腰を落とした。肩から腕にかけての筋肉が、注連縄のように盛り上がる。
男が、動いた。スコップの刃が、歪みない円弧を描く。一度だけではない。二度、三度。何度も男の前をスコップが往復する。
「どおぉおりゃああぁあああっ!!」
男の咆哮が響いた。下からすくい上げるようにスコップが一回転する。ブロック状に切り刻まれていた雪塊が宙に浮き、次々と中庭へと飛んでいった。
「いたぞ! 無事だ!!」
従業員の一人が叫ぶ。男が切り開いた雪の間隙の先に、露天温泉の隅に身を寄せ合ったバスタオル一枚の女子大生たちの姿があった。
「もう、大丈夫だ!」
女子大生たちが、従業員たちの手によって救出されていく。彼女たちの一人が、スコップを手にした男を見た。俺に声をかけた、あの女の子だ。
彼女はあられもない姿のまま、スコップの男に近づく。頬を赤く染めて、男に手を伸ばす。
「あなたが助けてくれたんですね。あの、お礼がしたいですから……」
「バカヤロウ!!」
男が一喝し、彼女の手を振り払った。
男刃それ以上なにも言わず、ジャンパーを羽織り、スコップを握りしめて、来たときと同じように中庭を横切って、温泉宿を後にした。
俺は、浴衣にサンダルと言った格好で男を追いかけた。雪の勢いが、さらに増している。
夜闇の中、上下ともに真っ白に染まってしまった世界を、俺は手足がかじかむのも忘れて全力で走る。一歩踏み出すごとに膝まで雪に埋まってしまい、思うように進めない。
舞う雪の狭間に、ようやくあの男の後ろ姿を見つける。男は積もった雪も意に介さず、まるでアスファルトで舗装された歩道を行くかのように、悠々と歩を進めていく。
「おいっ! あんた、待ってくれ!!」
俺は出せる限りの声を振り絞った。男が歩みを止める。ゆっくりと俺のほうを振り返る。俺は膝を押さえながら、荒く息をつく。
「なんのようだ」
男が煩わしそうに言った。俺は、顔を上げる。
「あんた。さっき、すごくカッコ良かった……どうすれば、あんたみたいにカッコ良くなれる? 教えてくれ!!」
「バカヤロウっ!!」
男の一喝が俺の言葉をかき消し、雪山に反響する。
「俺はカッコつけるために、こんなことをしているわけじゃない」
面食らう俺に、男が静かに言った。
「俺はな。日本海側の、とある漁村で生まれ育った。豪雪地帯の上に、老人だらけの限界集落だ。俺は、物心ついたころから雪かきばっかりしていた……」
男は、遠い目で西北の方角を見つめていた。
「他に雪かきできる奴がいないんだから、仕方ねえ。冬になれば、明けても暮れても、いくつになっても雪をかき続けた。で、気がついたときには、村の年寄り連中はみんな死んじまって、故郷は廃村になった」
スコップを雪の上に突き刺して、男は自分の両手に視線をおろす。
「その時、我に返って気がついた。俺には、他になにもできない。雪かきしか取り柄のないバカヤロウだってことにな」
何年使い続けたのかもわからない古ぼけたスコップを男は握り、肩にかつぐ。
「俺は、いい歳して雪かきしかできないバカヤロウだ」
男は、俺に背を向ける。
「分かったら、戻れ。風邪引くぞ」
そう言うと、男は再び歩き始める。
「あんたは、これからなにをしに行く気なんだ!?」
俺は声を張り上げた。吹雪いてきていた。男は、雪山の頂の方角に、顔を向ける。
「知り合いに頼まれてな。この先に、季節はずれの大雪で孤立した山小屋がある。登山客も閉じこめられているらしい。俺はこれから、雪をどけて道をひらきに行く」
男は歩みを止めることなく、言った。
「あんた! やっぱりカッコいいぜ!!」
俺は、あらん限りの声を振り絞って叫んだ。男の姿は、もう吹雪の向こうに消えていた。
(END)
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