〇四五五 雨あがる


眠っている男の呼気が僅かに変わったが、エルヴィンは男の足元に転がるチェス盤から目を離さなかった。
彼に興味がなかったわけじゃない。むしろ逆だ。彼には興味しかなかった。


リヴァイ。
生まれも境遇もなにもかも不明。どれだけ手を尽くしても彼自身に関してはまだ、ほとんどわかってはいない。
調査兵団に入団する前、彼は地下に住んでいた。壁内の暗都といわれる王都の地下街だ。もっとも地下の人口自体、王都も完全に把握しているとはいいきれないのだから、わからない部分が多いのはしかたがないし、それよりも彼が今手元にいるという事実の方が尊い。

それにわからないのは彼を覆う形式上の事柄だけだ。そのほかのことは、むしろとてもわかりやすかった。
彼と出会う前、調査させた者たちが同じようなことしかいわなかったことを思い出す。

曰く、

「大した身体能力の持ち主」
「潔癖症」
「ぶっきらぼうで愛想がない」

大した身体能力については、すぐ目についた。
捕縛目的の鬼ごっこで、こちらは手練れを集めたのにもうすこしで出し抜かれるところだったのだ。それくらい彼らの動きは早かった。
アンカーを使った立体機動は通常、時間をかけて体得させるものだが、彼はすでに自分のものとして操っていた。数年を経た兵士よりも上手だったのだ。あれは天性のものだろう。

潔癖症。入団してすぐ兵舎の掃除をやっていたという、ミケからの報告には苦笑したものだ。あの地下街で暮らしていながら、兵舎の砂埃程度を気にするとは。
これに関しては今日一日注意深く見つめてきたが、なにか基準のようなものが彼自身のなかにあるようだということくらいしかわからなかった。
だがこれもたいした問題ではない。
入団して数か月。その潔癖で周囲との連携をあやうくするようなことはなかった。今後のことはまだわからないが、まだいまのところは。

ぶっきらぼう。これはまったくそうだとしかいえない。
感情を表に出すのが苦手なのかと思えば、わりと表情はころころと変わる。ただ、その変化が微細で、慣れない人間にはわかりづらいだろう。

愛想。
いわゆる口が上手い部類ではない。だが、思ったことは素直に口に出すタイプで、雄弁ではないが無口でもない。無駄なことはいわないだけだ。
だが一方で思いやりも情も深い男に見えた。あの少女と青年に対する姿を見ていればそれも一目でわかる。永遠に失ってしまった彼らに対してまだ悔恨を抱えている姿は、今日も見た。

総合すると今日一日じっくりと観察するに、リヴァイは報告通りの男だが、じつに優秀な兵士でもあるといえるだろう。
チェスでいえば、クィーンか。どこへでも好きなところに行ける。もしくはナイト。敵味方に縛られず、駒を飛び越すことができる駒は彼にぴったりだ。

自分をぼんやりと目に映す男の視線を感じながら、ふたたび意識をチェス盤に集中させる。
もともと旅用にとエルヴィン自身が店で買い求めたものだったが、今の今まで一回も使うことがなかった携帯用だ。
駒は木箱に収めたので、ただの盤だけを見つめて、エルヴィンは束の間空想のチェスを楽しむ。駒の頭を兵団のだれかにすげかえれば、そのまま机上の作戦検討にもなりうる。
趣味といえるものは、エルヴィンにとってそれくらいしかない。


五分ほど経った。
リヴァイは目を醒まさない。
いや、本当は醒めているのに、醒めていないふりをしているのだ。
気づかれないよう薄目に引き絞って、呼吸を落とし、毛布の間で身を潜めている。まるで隠れていたずらをする子供みたいに。
こちらはもちろん気づいているのだが、今回ばかりは気づかない振りをするのが礼儀だろう。今日一日ずっと観察し、見つめ続けていた、その詫びだ。

ふと目を転じると、彼の足首が毛布の間から覗いていた。彼は終始大人しく丸くなってはいたが、眠っている間に自然とそうなってしまったのだろう。
薄い色をした皮膚が温もりを失う前に、エルヴィンはそっと毛布をかけ直す。刺激に反応して、わずかに彼は身じろいだ。
安心しろ、もっとよく、より深く眠れ。
そういうつもりで、かけ直した毛布の上に手をそっと置く。
「おやすみ、リヴァイ」


やがてちいさくなっていく雨だれの音に混ざって、彼の呼気も深くなる。
ふたたび眠ったのだろう。実際、とても疲れたはずだ。地上に出て暮らし始めて数か月。まだ慣れない馬の旅。しかも一度殺そうとまで思った上官と。
始終気の休まることはなかっただろうと察するのはたやすい。

だが、それでも。
このちいさな旅がそれほど悪くなかったと思って欲しい。
自分が安らぎを感じはじめているように、彼もそうであれば、と願わずにはいられない。

それはエルヴィン自身の彼に対する三度目の欲だった。
一度目は、彼を欲しいと願った。
二度目は、彼を留めたいと願った。
どちらも叶った。だから、そう悲観はしてないつもりだ。
人も関係もゆるやかに変わってゆくものだろうから。

そう、いつか雨が止むように。




 壁博2でペーパーとして配ろうと思ってたSSです。(配れなかった)「遊星レコード」の〇四五〇のあとにこれが来る感じで。