大人になる日
 男に手を引かれて、古い路地の一角にある狭いアパートに連れてこられたときから、数年経った。ゼブランはもう十三になっていた。
 初めてその薄汚れたアパートに放りこまれた時、ゼブランは、これが噂に聞こえる黒カラスの根城だとはすぐには信じられなかった。
 狭小な部屋がいくつかに分かれており、その中のほぼすべてが子供で埋まっている。床は腐りかけた木の板で、異臭もする。何かにつまづいたと思ったら、ひどく顔色の悪い少女だった。何日かしてその少女は消えていた。そういうことが何回もあったが、そのうち慣れた。
 最初はわけもわからず、ほかの子供に混ざってパンくずを拾い漁っていたが、やがて長じてくると見えてくるものがある。
 ここは、いわゆる予備群のための居城なのだ。
 表向きは孤児院ということになっている。子供ばかりを集めているので、それしか選択肢がなかったのだろう。



 長時間弄ばれた体を引きずって、すっかり明かりも消え失せたアパートに戻ってくると、薄闇のベッドの上で仲間の少年がゼブランを出迎えた。
「首尾よくできたか?」
「タライセン。起きていたのか。この時間まで?もうすぐ……明け方だよ?」
 ほとんど同時に黒カラスに連れてこられた、いわば"同期"の少年は、ゼブランよりも数歳年上に見える。が、実際の歳はわからない。戸籍のない者は沢山いる。タライセンもそのひとりだ。
 黒い髪を短くしたシェムの少年は、ふらつきかけたゼブランの体にたくましい腕を回して抱きとめた。
「可愛いゼブラン。初めてのお相手は?」
「……マスター・ロレンツォ」
「大物じゃないか!」
「と、マダム・シシー」
 途端に、タライセンは驚嘆した声をあげた。
「すげえな、おい!いきなり三人か!……それで?どうだった?」
「どうだったもなにも……、というよりも、どうして知ったんだ?今日が僕の"その日"だって」
 黒カラスの予備軍ともいうべき、多数の子供たちは、この古アパートの中にぎゅうぎゅうづめにされて日々を暮してる。
 ベッドももちろん数は足りず、ひとつに四、五人くらいが固まって眠る。特に体がちいさく幼い者たちほど、生まれたての子犬のように一絡げにされていた。
 タライセンは、ひとりでひとつのベッドを独占している。それは彼の歳を指していたし、強さを示すものでもあった。
 ゼブランはその横にするりと滑り込み、はじめて安心したように彼の胸元に顔を埋めた。
 ひと肌から解放されたのに、またひと肌が恋しい。そう思うのは不自然なことなのだろうか。
 ぎょっとしたように一瞬身を引いたタライセンは、やや逡巡したあと、ため息をひとつついてゼブランの金色の髪に手を突っ込んだ。
「ゼブ。おい、まだ寝るなよ。お前、しかるべき処置はしたのか?」
「……しかるべき処置?」
「中に出されたものをちゃんときれいに洗い流したのか、って聞いてるんだよ。その様子じゃまだみたいだな。そのまま放り出されたか」
「う……ん」
「寝るなよ」
 でも、眠い。ひと肌とベッドについた安心感からか、急激に眠くなってしまい、タライセンの言葉も夢うつつで、ゼブランは聞いていた。
「知らない。終わったと思ったら、また始まって……そのうち、マスターとマダムがやり始めて……、もういいと言われて出てきただけだから」
「来いよ」
 急にタライセンが飛び起きた。
「どこへ?正直、もうへとへとなんだけど……」
「匂うぞ、お前」
 タライセンは顔を歪めて、ゼブランの髪に手を伸ばした。白い残滓が固まって、所々で縺れている。
「起きろよ」
「うん……」
 ひとりのベッドならばそのまま無視して眠っていただろう。だが、仮にもタライセンのベッドを間借りするような形で忍び込んでおきながら、気を遣わせるのはたしかに申し訳ない。
 泥のように疲れ切った体を引きずられるようにしながら、ゼブランはよろよろと立ちあがった。
 腰がひどく傷み、膝は何度か崩れ落ちそうになった。そのたびにタライセンは立ち止まり、冷静にゼブランの様子を眺め、時折、ぼさぼさに乱れている髪にキスをした。
「そんなに変な匂いがする?」
「洗ってやるよ。隅々まで。丁寧に」
 明け方に帰ったのは、結果的に正解だった。ちいさな浴場には誰もいなかった。タライセンは「すこし待っていろ」とゼブランに囁くと、しばらく浴場に彼を放置し、戻ってきたと思ったら手元の桶に暖かい湯を入れていた。それはとても贅沢なことで、ゼブランは目を丸く見開いて友人を見上げた。
「怒られないかな?」
「どうして」
「勝手に火を使ったりして」
「水じゃダメだってことはあいつらも知ってるから平気だろ」
 タライセンのいう「あいつら」が、子供たちを監視する黒カラスの大人たちのことだ。そのくらいはゼブランも知っている。彼らは黒カラスの中でも地位が低く、それゆえに実戦に出されることもなく、こうして子供を相手にしているんだとタライセンは馬鹿にしているようだった。
「水じゃダメって?」
「試してみるか?」
「うーん……やめておくよ」
「正解だ」
 四つん這いにされて、しかるべき処置とやらを施されると、どうしてタライセンが湯を持ってきたのかなんとなく理解できた。たぶん、タライセンも「その時」に誰かに同じようにしてもらったのだろう。
 中に出されたものを取り除かれると白い液体は床を濡らし、ゼブランは自分が粗相をした気分になってすこしだけ顔を赤くした。
「痛くないか?」
「うん。痛くはないけど、なんだか変な気分だね。これって毎回そうしなきゃダメ?」
「した方がいいと思うぜ。まあ、そんな自由が許されればって話だけどな。……中はこれでいい。次は体と頭だ」
 暖かい湯だけではなく、いい匂いのする石鹸もどこからか仕入れてきたようだ。タライセンはそれを泡立てるとゼブランの頭をごしごしと洗い始めた。
 頭を洗うだけなら自分でもできる。でも、人にやさしくしてもらえる機会などそうそうはないから、素直に甘えておくことにする。
 タライセンは、ことさら念入りにゼブランの髪を洗った。
「ゼブ」
 頭を洗い、首筋から耳の裏、背中、腹……と手が下りてくる。ためらいがちな動きに、やがてその先へも当然下りていくだろうと覚悟をしていたのに、ふとそれは止まった。
「おれたちでコンビを組まないか?もうじきおれはカラスの一員になる。ここからも出ていかなきゃならない。そうなる前に……」
「約束を取り付けておくってこと?僕がそうなるのはもうすこし先だから?」
「ああ」
 別に年の順番でカラスの一員になるわけではなかったが、タライセンは体も大きく、もう相応の技術を身につけている。反対にゼブランはエルフの出が邪魔をしてか、人間の子供よりもさらにちいさく、普通に考えても迎え入れられるのはまだ当分先に思えた。
「いいよ」
 濡れた髪から水が滴るのを見つめながら、ゼブランはあっさりとうなづく。
 あまりにすんなりと受諾したせいか、すぐそばでタライセンの喉の音がごくりと鳴った。
「いいのか……?本当に?」
「もちろん。一緒に仕事をする奴は選べって教えてもらってるし、タライセンは短刀の使い方が上手いもの。頭もいいし。度胸もある。誰かがいってたよ、将来のマスター候補だって」
ゼブランの言葉にタライセンは嗤う。
「俺はお前よりもここでの生活が長いから知ってる。ガキの頃にどこからか連れてこられて、この年になるまで生きていられる奴の方が圧倒的に少ないんだ。それがどういうことかわかるだろ。しぶとく生き残れる奴がマスターになるんだ」
「うん」
「そうじゃなかったらいずれ死ぬ。死ぬか、生きるかだ。そのどちらかしかねぇんだよ。……泡残ってるぞ。ほら、もっと頭下げろ」
「く……っ、ふふっ」
 急に笑いだしたゼブランを、訝しむようにタライセンは見下ろした。
「なんだよ」
「ごめん。あのね、やっぱりタライセンはマスターになると思うよ。僕はそう思うな」
「どうして」
「僕の頭に残っているほんのちょっとの泡も見過ごさないなんて!君は自分の仕事にはとても神経質で、そして丁寧だ。だろ?そういうのが仕事では大切だって、僕たちよくどなられているじゃないか!」
 返事はない。代わりに頭からすこし多めの湯が降ってきた。
 ゼブランの体はどこもかしこも新品の人形のようにつるつると光り、そして柔らかい本来の肌が戻ってきた。
 タライセンは物も言わずに桶を小脇に抱え、出ていこうとする。
「タライセン?」
「なんだよ」
「これだけで、終わり?その……しないの?」
 てっきりそのつもりなのだろうと思っていたので、ゼブランは不思議に思い、疑問をそのまま口に出す。
 「その時」が来たということは大人になったという証拠だ。闇の儀式なので決しておおっぴらにされることはないが、どこからかその話はまわりまわって、昨日まで口をきいたこともなかった人間からも誘いを受けたりするのだという話は聞いていた。
 その代り「その時」がくるまでは、カラスの子供はカラスの羽の内側で大切に保護される。それでも年に何度か乱暴される者はいて、その犯人は一般人ならここにいる世話人か、もっと地位が高い相手であっても必ず黒カラスの暗殺者が始末する、そういう独自の法があるようだった。
 「その時」が来たら、いわば鍵が外れたようなものだ。誰と睦みあっても怒られたりしない。
 その相手がタライセンなら構わない。むしろまったく知らない人間を相手にするよりも、タライセンが良かったのに。
 本音をいうのなら、疲れた体を引きずられて浴室へと連れ込まれた時に、ほとんど覚悟はできていたのだ。
 タライセンがしようといえば、もちろん「いいよ」とすぐに答えるつもりだった。
「するつもりだったけど、やめた」
 出て行こうとしたところを立ち止まり、黒い髪の年上の少年は、振り返る。
 わけがわからず戸惑っているゼブランの頬へ、その手が伸びてきた。
 もうほとんど大人のものと変わらない大きな手は意味ありげにゼブランの耳殻を撫で、尖った先を擽り、頬を滑ってちいさな鼻をぎゅっと思い切り抓んだ。
「……ガキ」
 そうして、なぜか彼は自分よりも年下のゼブランの体につよい力でしがみついた。
「タライセン……?」
「うるさい」
「痛いよ。もうちょっとだけでも……緩めてくれたらいいんだけれど」
 だが、やはり返事はない。
 普段の、自信家で狡猾で頼りがいのある彼ではなかった。これではまるで、アンティヴァの路地を迷っている老犬のようだ。
 そうさせたのは自分らしいが、いよいよゼブランには理解できない。
 ただ、子供みたいにタライセンがしがみつくばかりなので、はるか遠いあの娼館の女のやさしいタッチを思い出しながら、ゼブランはまだ子供のような手でその背を撫で続けた。