カラスの子
 アンティヴァは、土と、風と、革の匂いがする。乾いた、それでいてどこか懐かしい匂いだ。
 懐かしいという感情自体は、その時はまだそれほど、しっかりと認識していたわけじゃない。
 ゼブランは7歳だった。デイルズ出身だったという娼婦の母にそっくりで、特に足は痩せすぎという以外、欠点の見当たらないまっすぐな形を保っていた。娼館に取引を持ちかけてきた男も、ゼブランのそこを特に褒めた。
 金貨数枚という、破格値ともいえる値段で奴隷商人に買い取ってもらえたのは、そのおかげだとすら思った。
「じゃあな、坊主。さよならをいいな」
 毛むくじゃらで、大きくて、熊のように怖い顔をした奴隷商人は、そういって薄い背中に手を伸ばし、ゼブランに挨拶を促した。
 これが最後の機会だと教えてくれたのだ。そう思うと、顔は怖いが、彼はよき人だったのかもしれない。
 よき人、というのは、社会通俗的な"いい人"ではない。
 彼にとって、理由なく殴ったりしない人のことを指している。殴られるのはもちろん痛いし、嫌だったけれど、……いけないことをして、そうされるのは仕方がないことだ。
 たとえば、稼ぎの悪い娼婦。稼ぎが悪ければみなが飢えるだろう。
 たとえば、失敗したスリ。これだって同じだ。
 よき人は、稼ぎがいい娼婦には手を上げないし、成功した掏摸の子供にはキャンディをくれる。
 母親を訪ねて別室に入り込もうとしたときにはゼブランだって、もちろん痣がつくほど殴られた。そして、どうして入ってはいけないのか、滾々と諭された。
(あの部屋はお前が好きなときに入っていい部屋じゃないんだよ。あそこは、お金を払ってくださったお客様のものだ。一時だけどね。だが、その一時のためにお客様は払うんだ。お前もあそこに入りたいんだったら金を持っておいでよ)
 娼館を仕切っているやり手の、マダム・ドロセアのいうことはもっともだった。むしろ彼女は、7歳のこどもにもわかりやすいように話してくれた。
 だから、ゼブランは彼女のことを悪いひとだとは微塵も思ってはいない。
 娼婦にだって、奴隷商人だって、教会にだって、いい人はいるものだ。もちろん悪い人もいるけれど。
 アンティヴァの娼館で育ったゼブランにとって、その考えは自然と身に馴染んだ。
「さようなら」
 言われたとおりに、ゼブランはちいさく別れを告げた。男は満足そうに頷く。
「素直だな。こんな場末で育ったにしては、汚れていねぇ。どんな育て方をしたんだ?お姫様扱いか?」
「お姫さまじゃないよ。僕は男の子だからね!」
 ゼブランは娼館での振る舞いと同じく、この先パトロンとなるだろう男の手をちいさな手で握った。それは殆ど無意識の動作だった。
 だが、男はいたく気に入った様子で「これは拾いもんだったかもしれねぇなあ」と低く呟いた。


 男はゼブランの手を繋いだまま、人ごみのなかを嘘みたいにするりするりと通り抜けた。
「すごいね、魔法みたいだ!」
「いいか、坊主。今からのお前にとって、その素直さはいいか悪いか、アンドラステでもわからないだろうよ。だが、言われたことを素直にやる。それだけをきちんとこなしていりゃ、少なくとも食いっぱぐれることはない」
 食いっぱぐれがない。言葉は魅力的だった。ゼブランはかかしのように細い脚で、地面を蹴って飛び上がる。
「やった!それで、僕はどこに行くの?」
 無邪気な笑顔を向ける子供に、男はやれやれといった表情で膝を畳んだ。
 近くで見ると、男はなおさら山熊のように見えた。
「…………黒カラスだ」
 もちろん、知らないはずはないだろう?というように、軽く眉をあげる。
 ----------アンティヴァの黒カラス。
 かの地に住む者のみならず、諸外国までその名を響かせている暗殺集団だ。アンティヴァ育ちのゼブランにとっては、寝物語の中でも雑踏の中でもよく聞いた名前。
 "怖い名前"だ。だが同時に、"強い名前"でもある。
 ゼブランは、自分が寝物語の主人公になれるのだと単純に喜んだ。
「僕、黒カラスになれるの?本当に?」
「ビビらないんだなあ。たいしたもんだ。だが、本物の黒カラスになれるかどうかは、お前次第だ。ことによっちゃあ、雛の間に死んじまうかもしれないな」
「死ななきゃいいの?」
「言うねぇ。そいつが一番、黒カラスでは難しくて、そいつが出来れば価値が認められるってぇものだ。まあ、お前は……まずは食え。そんなやせっぽちのエルフじゃ、ほとんど使い道はないからな」
 とりあえず、男についていけば空腹であることはなさそうだ。それに、こんな風に自由に街を歩けることはそうそうない。
 強い太陽の光。色とりどりの野菜と、果物、そして酒。アンティヴァでは男も女も、その土地同様、陽気で明け透けで、狡猾だ。
 路地の向こうに、アマランシンの海が青く光っていた。
 そのどれもが目新しく見えた。どれも、初めてみるものでもなかったのに。
「ねえ、……おじさん」
「おじさんじゃねぇ!髭を生やしちゃいるが、これでもまだ30は行ってないんだ」
「……ねぇ、あれは?」
 ゼブランが指差した方角には、きちんとした店構えの石造りの建物があった。窓があいていて、そこから男がナイフを持ってなにかをしているのが見えたが、手元までは彼の背では覗き込めない。
 初老の男は一心不乱に、手を動かしているようだった。
「ああ、あれは革屋だ。グレジオ商会だな。採取から加工まで、すべて正真正銘、アンティヴァ産の。ほれ、看板に王家のお墨付きがついてるだろう?上等な店だぜ」
 看板は木製で、シカの彫刻とその脇に王家の紋章が焼印として押されていた。正確にはゼブランにはそれが王家の紋章だとは知らなかったが、男が指差すものの中で知らないものはその奇妙な形しかなかったので、そう判断した。そしてそれは間違ってはいなかったようだ。
「なんだか、変なにおいがする」
「変?そんなこたぁねぇ。いい匂いじゃねぇか。乾いていて、すこしスパイシーだろ。これこそアンティヴァなんだ。お前も大人になりゃあ、これの良さがわかるようになる」
「シカの絵が描いてあるってことは、シカ革しかないの?」
「なんでも扱うさ。アンティヴァの職人に扱えないものはない。熊だろうが、ドラゴンだろうが」
「人間も?」
 あっけらかんと言い放つ子供の言葉に、男が驚く。
「まさか!」
「良かった!そんな怖いところだとしたら、遠回りしなきゃならないところだったね」
 驚かされた男は、ゼブランをすこしだけ小突いた。
「揚げ足を取るんじゃねぇや。このガキ!」
「あれは?青と赤と黄色が光ってる!」
「ガラス屋だ」
「ねぇねぇ、あっちは?あの、テントの脇」
「テント?目がいいな、坊主。あれはモグリの薬屋だな。黒カラス製の解毒剤なんて、アンドラステ様が生き返ろうが、外に出回るわけがねぇ。あとでマスターに報告だ。……目端がきくってこたあ悪いことじゃねぇよな。こりゃあ、本当に拾いもんだったかもしれねぇぞ」
 後半は殆ど独り言だったが、もうゼブランの耳には届いてはいない。
 彼はほとんど廓の中だけで育った。アンティヴァの中では安全において黒カラスには劣るだろうが、それなりに恵まれている部類だ。寝床と食べ物には困らないし、実際、逃げようと思ったことは一度もない。
 けれど、不思議なほどに娼館に未練はなかった。
 あの時誰が見送ったのか、誰に別れを告げたのか、ゼブランはそれすらも覚えていない。


 誰に手を引かれてもいい。目に映るものすべてが、彼にとっては新しい世界なのだから。
 陽射しと同じく、陽気な人々で覆われたアンティヴァの街は、希望に満ちた明るいものに見えた。
 はちみつ色の幼い目は、ただ興味深げに辺りを見回す。
 初めて自らの足で歩くことを許された、この新世界を。
 熊のような手をした男は、「黙って歩け」とそれだけをゼブランに命じた。