レゾンデートル

街中で同類に出会うことなど滅多にない。
絶滅寸前の希少動物。自分でそう吹聴するわけではないが、実際にそうなのだ。
同類だとなぜわかるのか。これも感覚でしかない。
たとえば、この身は呼吸をする。怪我をすれば血も出る。もちろん赤い血だ。青くも銀色でもなく、夜にな れば眠くもなるし、太陽を見たって塵になるわけでもない。
他の人間となにも変わらない。いや、一瞥しただけでわかるものではないというだけだが。
ともかく人外だからといって、ことさら日常からかけ離れようとも思わないし、そうできるはずもないのだ。
だが同類だけはわかる。それは人外だけに備わった特別な嗅覚なのかもしれない。
その日も数十メートル先から、同類の気配がした。
なんの変哲もない街中。多くの人間でごった返す交差点。聞こえてくる会話も千差万別なら、梢を揺らす風 の音も騒がしかった。あとになってから、春いちばんが吹いたのだとテレビで知った。
ともかく、同類の匂いなど滅多にすることではなかったから、気配を感じたその瞬間から全身アンテナみたいに神経を張り巡らせて羽黒薫は主の姿を探そうとやっきになった。
気配は、すぐに形になった。

(……あの人だ)

長い黒髪。雪のように白い肌。すらりとした姿。
ここが雪山なら、間違いなく雪女だと誰もが勘違いするに違いない。だが、彼女は禍々しさの欠片もなく、やがて薫の方に近づくと避けもしないで、微笑みを浮かべ、会釈すらしてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。えっと、……偶然ですね、はは」
「本当に」
この会話の間抜けさに気づく人間が、果たして何人いるだろうか。
人外同士の世間話なのだが、事情はもうすこし入り組んでいる。
「ええっと……なんておよびすればいいんでしょう?」
そうそう。まずは名前を知らないと。
彼女の本来の名前なら知っているのだが、生憎それは今自分の名前になっている。
いろいろとややこしいのだ。
「お好きなように呼んでもらって構いません」
彼女は薄く微笑んだ。
「そんなわけにはいかないでしょう。そうだ。今はなんとおっしゃるんです?」
「ありません」
「え?」
「名前はありません」
そんなばかな。
いくら自分たちが人外だからといっても、怪我もするし病気もする。そうなると病院のお世話にならなきゃいけないし、保険証も必要だろう。現に自分も持たされている。
名前もない。家族もおそらくいない。
この世に身を明かす証明がないのなら、正真正銘幽霊ってことじゃないか。


いったいどういうことなんだろう。 純粋に同種として興味が湧いた。彼女はどうやってこの世で生きているのだろう。肉体的な意味ではなく、レゾンデートル的な意味として。
だが、それ以上の詮索はできなかった。彼女がそうさせなかったのだ。
「あのひとは元気ですか?」
「は?」
「秋彦さん」
「……ええと。はあ。まあ。いつも通りといえばいつも通りだと思い、ま、す」
我ながら歯切れの悪い答えだった。案の定、彼女にくすりと笑われてしまう。
誓っていいが、恍けたわけじゃないのだ。
思いもかけない方向から球が飛んできた。まさかこの人から、あの人のことを聞かれるなんて思わなかった。だって今でも、どこかで繋がっているんじゃないかと思っていたのだ。
「私は三か月ほど御無沙汰しているので。いちばん近い人に近況をお聞きしたかっただけです」
「そう、ですか」
サトリというのだろうか。驚くほどこちらの心を読む。もちろん彼女は妖怪なんかじゃないけれど。
「とはいっても、僕もそれほど頻繁に会っているというわけでは……」
本業では相変わらず音沙汰がない。どうやらひと段落ついたということらしいが、あの人のことだ。こっちに振る仕事がなくなったのなら、さっさとお払い箱にするだろうに、それすらもない。
自分はただ毎日を平凡に、いや、それほど平凡ではないか。編纂室という特殊な部署だからこそ、退屈せずに済んでいる。持ち込まれる事件がかなり自分好みなのだ。それも見越してあの人は自分を配したんじゃないかとすら思えるほど。
どこか座りませんか、と訊ねた。ひょっとしたら断られてしまうのではないかと心配したが、杞憂に終わった。このさきに公園があります、と彼女はいって、自分から先に歩き始めた。
そこはちいさな公園だった。
滑り台がひとつ。シーソーがひとつ。ふたつ並んだブランコがあって、誰もいない砂場が添えてあるだけの、ささやかなものだった。
真昼間。都会の真ん中であるにも関わらず、自分たち以外に立ち寄る者はいなかった。
本来そこに遊んでしかるべきの子供たちも異形の会合に怖れを感じたのか、影も見えない。
彼女はちいさなブランコに座った。缶コーヒーを適当に買って渡すと、会釈だけ返される。まっすぐな黒髪が胸元に流れ、そんな気はなくとも目を奪われた。
「……なにか?」
「いえ。お綺麗だなぁって」
ぽかんとされた後、くすっと笑われてしまった。
「えー。よく言われません?」
「言われません」
「ほんとに?」
「私はこの世に存在しませんから」
他人が聞いたらきっとぎょっとされたに違いない。
だが、自分にはわかる。
永遠の命を持つ者は果たして恵まれているのだろうか。時々考える。
人は生まれ、老いて、やがて死んでいく定めだ。自分たちはその輪から外れた。はぐれ者だ。どうしたって一所にはいられない。同じところで生活を営めば、いずれ誰かが自分たちが他人と違うと気づくだろうから。
齢を取らず、また死ぬこともない。
同じところで過ごしたいのならば、息を潜めて、できるだけ影に徹することだ。
自分だっていずれそうするべきなのだ。ここの暮らしは性にあっていて、……合いすぎていて離れがたいけれど。
ふと気づく。
彼女もここで息を潜めているのではないか。少なくともあの人は彼女を拘束してはいないみたいだ。ということは、彼女自身にここに居たいという意思があるということじゃないだろうか。自分と同じように。
(いったい、誰のために……?)
それがあの人なのかと思っていた。だが、どうも彼女の様子から察すると違うらしい。


「いい天気ですねぇ」
春先の空は青く霞んでいる。空を見上げながら、言葉もなくブランコを漕ぐ。
「前も公園で会いましたね」
「そうですね。あれからあの公園には?」
「呼ばれませんから」
「……ああ」
どうにも変な感じだ。
ふたりで会話をしているのに、そこに必ずあの人の影がある。もちろん、お互い面識はあるけれどそこまで深く知り合ってるわけでもなく、当然共通の知り合いである彼の姿が介在する理由はあるのだが、それにしても奇妙だった。
「何か、訊ねたいことがあるでしょう?」
黒く澄んだ瞳が、地面にうつ向いたまま訊ねる。
「やっぱりサトリみたいだ」
「え?」
「サトリ。他人の考えを見透かす妖怪です。あっ、すみません。そんな恐ろしげなものってわけじゃないんですけど。もちろん、外見とか、そういうところじゃなくて……気に障りましたか?」
彼女は首を振った。
「いいえ。でも不思議ですね。私もそんな風に思っていました」
「どういう風にです?」
「この人の考えることはわかるな、って。あまり普段そんなことは思わないんですけど」
以心伝心。
本当に通じ合っているふたりには、そういうこともよくあることだろうけれど。生憎自分たちはそういう関係なんかじゃない。
「名前を貰ったから、ですかねぇ」
きぃ、きぃ。
高い梢に漕ぐ音が跳ねる。その枝の上。答えの出ない会話に、カラスが啼いた。
「あの、」
「はい?」
「……いえ、やっぱりいいです」
「遠慮なんかしないで。いいですよ。どんなことでも。僕ができる範囲のことならなんでもします」
「ななし」になってしまった彼女にはできないこともあるだろうから。名前を貰った自分が彼女の代わりになっても、なんの不都合もない。
彼女は(たぶん彼女にしては珍しく)逡巡し、そしてようやく顔をあげた。
「あの」
「なんです?」
誰もいない公園なのに、彼女は薫の耳元にその赤い唇を寄せて掠れる声でいった。
「間宮ゆうかのことを、気にかけておいて欲しいの。……あの子は色々と引き寄せるから」
「ゆうかさん、ですか?」
それは予想もしていなかった名前だった。
間宮ゆうか。風海先輩のお兄さんの助手だ。それがどうして彼女の口から……?
「それにあの子は、私の記憶だから」
確かにそう聞こえた。私の記憶、と。
茫然とし、気がついたときには、もう彼女の姿は消えていた。いつ離れたのか、去ったのか。まるで時間ごと抜き取られたみたいだ。
「置いていかれちゃった」
ななしの彼女、元・羽黒薫は神出鬼没で、残り香さえも置いていかなかった。
カァカァ。
誰もいなくなった公園に佇む自分を、カラスだけが見下ろしている。
そういえば、あの鳥も”羽黒”だっけ。





いよいよ、直接あの人にぶつけてみてもいいのかもしれない。
自分と同じような立場の女性。その存在をどうして彼は自分に隠しているのか。どうしてあの人の名前を自分に与えたのか。
彼の下についてもう何年になるんだろう。いつからか数えることもやめてしまったけれど。
意味があるのかすら判らない定期報告の電話をかける。十回くらいコールしなきゃ、この頃あの人は出てくれない。
『なに?』
「……定期報告でーす」
『相変わらず明るいねぇ、お前は』
「明るくしてなきゃやってられませんからね」
お互い、これくらいのやり取りはジャブだとわかっている。
「寒さがぶり返しているようですから、気をつけた方がいいですよぉ。先日も小暮先輩がひどい風邪を引いちゃって、代わる代わるお見舞いに行かなきゃならなくなったんです」
『本題は?』
何か自分にとって都合の悪いことを聞かれるような、そんな勘でも働いたんだろう。電話の向こうで苦虫をかみつぶしたような顔をしている道明寺秋彦の姿が見える気がした。
「あの人にまた会いました」
『あの人って?』
「僕の名前の、本当の持ち主ですよ」
彼はなにもいわなかった。長い沈黙。苛々しているのが手に取るようにわかる。
自分も、彼も、普段はどちらかといえば飄々としているのが持ち味だ。彼女もまたそうなのかもしれない。
元々の性格がそうだから不死の体を受け入れられるのか、それとも不死だからそういう風に刹那的な性格になってしまうのか、わからないけれど。
『で?何が聞きたいの』
ようやく彼が発した言葉に、すぐには答えが返せなかった。
「何を聞いたらいいんですかねぇ」
もちろん、電話口の彼は呆れている。ため息が聞こえた。
『お前ねぇ。……切るぞ』
「あっ、待って!待ってください!」
『なによ』


聞かなければならないことは沢山あるような気がする。だが、言葉は彼の前にはどうしてだか簡単に霧散する。そして結局、「まあいいか」で落ち着くのだ。
『はやくしろ。あと十秒。じゅーう、きゅーう』
「あっ。ええと、ええと……僕はいつまで、羽黒薫でいたらいいんでしょう?」
いよいよ彼は呆れ果てた。呆れながら笑い、
『しばらくそのままでいいんじゃない。結構似合ってるからさ』
滅多にしない甘い言い方で人を簡単に籠絡する。
簡単に籠絡される僕も僕だけど。
思いがけない言葉に、心臓の音が早くなった気がした。心臓の脈打つ回数は生き物すべて同じだという話があるけれど、僕たちのそれは早くなろうが遅くなろうがたぶんまったく関係がない。
ただ顔が赤くなるだけだ。
反射的に通話を切って、壁伝いにしゃがみこむ。
「あーもう……!」


道明寺秋彦。彼がいたから、僕はななしではなくなった。
彼はレゾンデートル。
僕が、僕であるための、ただひとつの存在理由。





end
2013HARUコミでの無料配布本から抜粋。道明寺&W羽黒は何度でも書きたい三人です。