風邪をひく。

センパイが風邪をひいた。……らしい。
というのも、彼がぼくにそれを確認させてくれないからだ。
きっかけは昨日。夜遅くにかかってきた携帯電話でのことだ。
内容はどうってことのない話だった。編纂室の様子はどうかという定例の報告だ。
ここのところ、編纂室は落ち着いている。
犬堂警部が春の天皇賞で万馬券を当てたとか、かごめ先輩が車を買い替えたとか、そういう細かいことはあるけれど、おおむね平穏。万事つつがなく、ということで、特に報告することもないんだけれど、これは飼われている自分の義務だから、仕方なくぼくは毎日センパイに「なんにもないですよお」ということだけを報告するのだ。
『……ふうん。そうかね』
「はあ。そうです」
どうでもいい会話このうえなし。
でも、少ない話だからこそ相手に向かって注意を向けるということは確かにあるんじゃないだろうか。
「センパイ……?なんか、声、おかしくないですか?ひょっとして風邪?」
答えはない。まあね、そうかとは思うんだけど。
あのセンパイに限って、ぼくに弱みを握らせたりなんかしないだろう。
でも答えがないことで図らずもぼくは答えを知ってしまった。
「大丈夫ですか?」
『なにが』
うわあ。あからさまに不機嫌だ。
いやだなあ。この人、いつも俯瞰で人のことばかり眺めてるから、きっと自分のことに焦点合わされるのが苦手なんだよ。
これまでも、何度か彼自身を慮ったことがあった。
こういう仕事だ。裏方の職務内容の影で、ぼくも彼も一度や二度くらいではすまないくらい、崖っぷちの状況を味わっている。もちろん、肉体的にという意味でだ。
それでも命を永らえているのは、ぼくたちのそれが永遠と同じ意味を持っているからだった。
死なない体。不死。
車に轢かれようと、濁流に飲まれようと、焼かれようと、肉体が残っていれば必ず何日かすれば復活する。そういう体なのだ。
それなのに、風邪ごときでぼくは何を心配しているんだろう、とふと我にかえった。
「だから、ええっと……その、いろいろと」
電話口の声が籠ってしまった。
まったく何言ってんだろ。ばかだな。
言いよどんでいる時間が長すぎたのか、やがて電話の向こうの彼は薄く笑った。
『お前、知ってる?市販の薬も効くんだよ。不思議なことにな』
「へえ。そうなんですか?」
『そうなんだよ。覚えておくといいよ。常備薬のひとつくらい持っている方がふつうの人間ぽくていいだろう?』
「センパイは持ってるんですか?大丈夫?」
『……お前に心配されるようなことはないもないよ』
「そっか。良かった」
『お前、案外可愛いこというね』
「なんですかセンパイ。気持ち悪いなあ。急にそんなことを言うなんて……本当に大丈夫?」
変なことをいうなあと眉を顰めたぼくに(見えてはいないだろうけど)、センパイは大きく笑った。
ガラガラの声をして、それでも笑う彼を、なんだかいじらしいなと思ってしまった。
おかしいな。ぼくも変な病気にかかったんだろうか。
市販の薬か。薬箱なんてもちろん持っていないから、今度買いにいこう。
「センパイ、今度薬局に一緒にいきませんか。おすすめの薬教えてくださいよ」
『病気を心配してくれてたんじゃなかったのかい?』
「心配してませんよ。センパイが大丈夫って言ったじゃないですか」
『大丈夫なんて言ってないでしょ。……たぶん』
「不死だからどうしたって死なないし、家も知らないから、お見舞いにもいけないですもん」
これほど長い付き合いなのに、そうなのだ。ぼくは彼の住処をいまだ知らない。
「じゃあ、なにができるかっていえば、元気になった時の、次の約束をするくらいじゃない?それとも、何かしてほしいこととかあります?」
『……性的欲求の処理かなあ』
「お元気そうでなによりです。じゃあ、切りますね」
相手に見られるわけでもないのに、満面の笑顔でぼくはそういって、答えも聞かずに通話を切る。
それから壁伝いにずるずると背中で滑って、腰が床に落ちた。
体が熱い。
猫が自然と涼しいところを見分けるように、冷たいフローリングの床にぼくは寝そべった。
「……なにいってんの、あの人!」
あつい。あつい。全身があつい。冷たい床が気持ちいい。
これってなんだろう。
ひょっとして以前抱かれたときに、なにか仕掛けられたんだろうか?

----------たかがあんな言葉ひとつで。

ぼくはぼくが理解できない。
いますぐ、あの人に会いに行きたくなった。





end
流行り神本の中でも「羽黒は道明寺の家を知らない」という設定にしていましたが、いつか知って、道明寺の家にいく……というあたりまで書ければいいなあ。