野辺に

「もう、こんなの嫌ですからね」
 ぼくは曇った眼鏡を取りはずし、空いた片手でごしごしと目をこする。
 別に花粉症とか、そういう病気じゃないにもかかわらず、ぼくが執拗に目を弄るのは、見なきゃよかったと後悔するようなものを見てしまったからだ。
 できることならこの記憶と目を、そっくりそのまま取り替えてしまいたい。
 わりと便利なようでそうではない不死の体は、時折妙に不便が過ぎるんだ。
「こんなのってどんなのよ」
 隣で、センパイがうひっと笑った。
 あいかわらず何を考えているのかさっぱりわからない。ひょろ長い足を外向き加減に、ぼくを抜かない程度のはやさでついてくる。
「それとも、凡例がどれも似通っていて、的確に答えが出せない?そんなわけないよな。おまえが童顔の割に、ちゃんと頭使ってるのは知っているからね」
「童顔の割にっていうのだけは余計じゃないかなあ……」
 ぼくはすこしだけ肩を竦めた。すこしだけといわず、大仰にしたっていいくらいだが、このセンパイに正面きってかかってものれんに腕押し。ぬかに釘。というもので、絡めばぼくの方がろくな結果にならないのは目にみえている。
 鼻をチーンとハンカチで噛み、いっそこれごと嫌味のすべてを彼に投げつけてみようかと思う。
……そんなことをしてもダメだろうな。たぶん、今以上に嫌な思いをするだけだ。


「羽黒くーん」
「……なんですか」
「歩くの早くないかね。それともなにか怒ってる?」
「怒ってませんよ」
「またまたあ。意地張っちゃって。……そういう思わせぶりなそぶりも、恋仲ならまぁ、ありかもしれないけどね」
「…………」
 ほんとに、何度うんざりしたことか。
 このひとから離れられるなら、「はいよろこんで!」とにこにこ笑っていえると確信する。それと同時に、決して離れられないんだろうな、とも思う。
 奇しくも先輩の言葉に呼応したように、ぼくは立ち止まってしまった。
 今まで早歩きのスピードで流れていた景色が、ぴたりと同じように静止する。
 金色の川となってぼくの傍を流れていたのは、一面の菜の花だ。薄らいで淡く発光する緑は、その向こうにある山々。
ぼくらは今、とても山奥に来ている。
「うん?」
 突然立ち止まったぼくに、先輩が首を傾げる。その黒い背後に、さっきまで僕を蝕んでいた一本の巨大な桜が渦を巻いていた。
 いや、違う。
 渦だと思っていたのは花弁だ。
 花が嵐に嬲られ、その身を八つに裂かれているのだ。
「…………っ」
 耳元のすぐそばで、風が音を立てて通りすぎる。
 ぼくとセンパイの髪と服を乱暴にいたぶり、そして千々の花弁を連れて、一瞬のうちに先へと駆け抜け……風に連れ去られる花は、まるく円を描き、もがきながらその中を進んでいく。
 道路でのたうちまわる様は、白い蛇のようだ。
 いくつかの断片は、弧を描きながら坂下の黄色の渦の中に落ちていく。
 落ちた先は見えない。いずこへなりと、だ。
 ぼくはなぜかしんみりとした心持ちで、一瞬のそれを見ていた。

「羽黒くーん」
「……なんですか」
「いいたいことあるんだったら、言ったんさい。不満を溜め込まずに適宜吐き出すのも社会人の努めだよ。それで仕事の効率が落ちてたら世話ないだろう?」
 ぼくが足を止めても、センパイが同じように止まるわけがない。必然的に前を行く彼は、行き過ぎたあとで振り返り、さも立派な上司の如く能弁を垂れた。
「……はあ」
 ぼくに適当に指示を出すだけで基本ほうったらかし、あとは事後回収だけの気楽な上司業のはずなのに。
 こんなにまともな上司顔を真顔でできるなんて、ぼくには到底マネできない芸当だなあと素直に感心してしまう。
 もっとも彼の普段は薄ら笑いなので、たまに笑顔を封印するくらいならば、彼にとってはかえって楽で居心地のいいことなのかもしれない。
「いいたいことかあ」
「んー?」
「じゃあ、ちょっとだけ、抱きしめてもらえます?さっきのあれ、結構怖かったみたいで」
 誤解なきように記しておくけれど、完全に、完璧に、嫌味のつもりだったのだ。
 ぼくのほうは。


「……いいよ?」
 とても静かな声で、センパイはぼくに近づいてきた。
 なんで疑問形なのかはわからないんだけれど、とにかく纏う空気がそこからがらりと変わった。
 ぼくはといえば、まさかそんなわけはない、理解できないと頭はそれこそ真っ白な花の渦中で、一方的に思考停止する。
「え」
 わずかに彼の口元が動いた。静かに、といっているようだ。
 センパイの手が肩に落ちた。触れるか、触れないか。花の重さと比べたくなるほどのささやかさで。
 その微かな重量に、ぼくの体はびくりと震える。
 怖いのか、寒いのか、それとも嬉しいのか。
 わからない。
 自分ですら理解不能なそれを鎮めるためなのか、落ちた手はぼくの体の要を遠慮なく探る。
 やさしく宥めるような仕草の指は、落ち着く先を探して背中を何度も往復する。そして時折、ぼくの体の撓む場所を憶えては、いちいちそこばかり行き交いするのだ。
「……っ」
「はやいね」
 虫が騒いでも、このひとをからかおうなんてするもんじゃなかった。
 もう赤くなりはじめた皮膚を撫でて、センパイはどこまでもやさしい。
でもこのやさしさが徒なんだ。嫌味で返したものをやさしさで返されるなんて、だれだって怖いはずだ。
 怖いからもっと震える。たぶんそれだけのことなのに、
「古い桜の精にこんなにヤラれてるようなら、まだまだ先は長いなあ。はやく成長して、上司を安心させてくれなきゃ」
 半笑いのセンパイの言葉に、ぼくは再度思い出してしまった。

 今日の指令で、桜の巨木に棲まう女の人に会ったこと。
 そして、もうすこしでセンパイの目の前で"引かれ"そうになったこと。

 女の人はもうずいぶん前に悲しい恋の果てに、この木の下で絶命した人で、なんの因果か(おそらくは計画的に)男性のほうだけ生き残り、死をともに分かつことは叶わなかった。おまけに約束に縛られて、この木の下から逃げることもままならない。たまにここに現れる若い男を捕まえては魂を食べる異形に成り果てたというのだから、やっぱりぼくなんかより相応の祈祷師かなにかを呼ぶべき物件である。
 それなのに
「まあ、古い友だちみたいなもんだから」
「力はさすがにもう枯れる手前だから」
「女のというより、依代の木の寿命がね」
とかなんとか適当に言いくるめられたまではいつも通りで、我ながら学習しないなというか、いい子すぎるなというか。
 しかし現れた妙齢の美女の、しかも盛をすこし過ぎたあたりの切なさにぼくはやられてしまったのだが、引かれかけたときのセンパイの呆れ顔といったらなかったな。
 連れていかれる寸前、鬼のような素早さで引き離され、「お前素人なの?」と本気で正されたほどだ。
もとはといえば完璧な素人なんだから、そこはぼくも臆面も無くハイと答えたけれど。

「女相手だと弱いのか、それとも単に快楽に弱いのか、そこのところ教えてもらえる?今後の参考に、さ」
 百歩譲って上司命令だとしても嫌です。
 そう答えようとしたけれど、できなかった。我ながら弱い。弱すぎる。
 恥ずかしさを承知で記すなら、ぼくの意識は飛んだのだ。



 次に意識が戻ったのは、やっぱり呆れ顔をしたセンパイが、しゃがみ込んだ姿勢でぼくの顔を覗き込んでいるところからだった。
「センパイ……本気……出したでしょう……!」
「まさか。気弱な部下をやさしく慰めただけじゃないか」

----------それにあれごときで本気だなんてね。

 ハッと一笑に付されてしまった。
 ぼくの立場はいまや、道に落ちたあの花弁よりももっとずっと下だ。それを証拠に、もうセンパイはぼくを見ない。非道い人だ。

「センパイ、このまま歩くんですかあ?駅からここまで一時間かかりましたよ、たしか。タクシー呼びましょうよ、タクシー」
「タクシーなんていないでしょ。携帯電話も圏外。歩くよ。電車の時間も調べてあるんだから」
「えー」
「若いくせになにいってんの」
「ただ若いことにはなんの意味もないって思ってるの、見え見えですよー?」
「お前が年増が好きだとは知らなかったよ」
「かわいいひとでしたよ」
 そう呟いたぼくに、朽ちた桜木の最後の一片が、髪に降ってきた。
それを見て、やっぱりセンパイはうんざりした顔をして「ほらついてきたじゃないか」とぼくの下手を詰る。


 報われなかった恋の終わりが、ぼくの髪やアスファルトの上じゃあんまりだ。
 彼女に次の恋があるのなら、それはひかりに溢れるものであればいい。
 指先でつまみ、ぼくはそれをかがやく菜の花の方に向かってそっと吹いた。





end
インテで無料配布したものをすこしばかり改訂。好きでもなく嫌いでもないのに、ふたりきりになったときに醸しだす雰囲気がやらしいんですよね。この二人。なんでだろう。根っこの部分で絶対的に繋がってるところがあるからかな。萌えるな。