ロマンスとワルツ

晴れにも春にも、ピアノの音はよく似合う。
ポーン、と長い音ひとつ。
和央の細い指はそのまま歌うように鍵盤の上を滑る。
桜井家の窓から覗く空は、今日も高く澄んで蒼い。

「ねー、弦」
「んあー?」
「連弾やりたいねぇ」
試験勉強なんてすぐ飽きる。和央は弦ほど飽きっぽくはないが、たまたまそういう気分だったのかもしれない。
ノートを伏せて立ち上がり、おもむろにちいさなピアノの前の蓋を開いた。
連弾なんて言葉、久しぶりに聞いたなあと弦は細い背中を見ながら答えを探す。
「やりたいねっつっても、何やんだよ。もう指なんかろくに動かねぇぞ」
ピアノをやめて四年。
そのあとやらされたヴァイオリンをやめて二年。
楽器と名のつくものには学校以外触れていないのが現状だ。
「うん。僕も」
「お前はたまに弾いてるだろ?」
「ほんとにたまに、だよ。ちゃんとやろうと思ったら、たぶん全然動かないよ」
和央の部屋には、弦の家からやってきた子供用のピアノが一台おいてある。
それはとてもちいさくて、成長期まっただ中の男子中学生ふたりが並んで座ると、想像だけも窮屈で仕方ない。
「……発表会でポルカやったっけか」
「憶えてる?」
「んー……まあ……たぶん?」
弦はもう遙か遠くになった幼い頃の記憶を、寝転んで天井を見ながら思い出す。
まだ、ふたりでひとつの椅子に座っても、全然平気だった頃のことだ。


言われるがままに習っていた頃、ピアノは好きでも嫌いでもなかった。
隣に和央が越してきて一緒にやるようになったら、不思議なもので、それなりに楽しくなったのだ。
それまでいやいや出ていた発表会にも、ふたり一緒に出た。
先生が「男の子ふたりで連弾するの。格好いいでしょう?」といって、弦も和央もずいぶんその気になったものだ。
和央と一緒にやる練習も楽しかった。
連弾というスタイルも、たしかに格好いいと思った。
発表会用に死ぬほど練習したポルカなら、まだ体も憶えているかもしれないけれども。
「すっごい練習したもねぇ」
まるで心の声が通じたみたいにそういいながら、和央は手慰みに和音を弾く。
白い和央の指とは対照的に、鍵盤はずいぶん黄ばんでいる。
姉の弓が使い、それを弦が使って、それから和央に引き継がれた。年季ももちろんそれなりだ。
「楽譜は?」
「もうないよ」
「マジか。じゃあ、”きらきらぼし”くらいしかできねーじゃん」
それを聞いて和央はけらけらと笑った。
和央は笑い上戸なのだ。なんでもないことで本当によく笑う。
弦もつられて立ち上がり、傍へ寄ってはみたが、思っていた以上にピアノの幅は狭い。
和央がまだちいさくて細いから、それでもなんとか立って並べたけれども。
「並んで座るのはもう無理だな」
「だねー」
鍵盤は彫り出される前の石のように、ただそこで待っている。ひんやりとしているが冷たすぎない。
なんとなく同時に鍵盤に指を置いたら、弦より先に隣で和央がふにゃりと笑った。
「弦ー」
「んー?」
「なんでピアノやめちゃったの」
「……そりゃ、お前、……あれだ」
「あれってどれ」
「どれっていやあ、それだっつの……」
「弓ちゃんも言ってたけどさー、ほんとに上手かったのに」
「……ただ長くやってただけだろ」

ピアノは好きでも嫌いでもなかった。
ただ、和央と一緒にやるようになって、楽しくなった。
和央ができないのであれば、もう未練なんかひとつもない。
月謝が払えなくなったのは確かに桜井の家の事情かもしれないが、もうその頃には弦にとって和央はピアノよりもずっと大切なものだった。
当然であり、必然だ。

「僕さー、ずっとやりたかったことあったんだよね」
「なんだよ」
「”ロマンス”と”ワルツ”」
「どの”ロマンス”と”ワルツ”だよ。そんな曲いっぱいあるだろうが」
「んー……ラフマニノフ?」
「はっ!?」
きらきらぼしの合間にラフマニノフ。いったいなんの冗談なんだ。
驚きすぎた弦は二の句が告げず、さりとて走りだした指も止まらない。
腰を屈めた窮屈な格好のまま、隣のちいさな顔を覗き込む。
「一度発表会で年上のお姉さんたちと弓ちゃんが弾いてたことあったじゃん。あれ聞いて、僕もいつかやってみたいって思っちゃったんだよねー」
「ちょっと待て。姉ちゃんが弾いてたラフマニノフなら四手じゃなくて六手だべ……?」
ひとり足んねーよ、といいかけて、止まる。
うん、と少しばかり頬を染めて、隣の和央はうなづいた。

「弦と、弓ちゃんと。一度でいいから三人で弾いてみたかったんだよね」
「…………」

また出た。和央の「弓ちゃん」が。
聞きたくもないことがふとした和央の口から漏れるのが、このごろ苦しくてたまらない。

和央は。弓のことが好きなのだ。もうずっとずっと前から。それこそ鍵盤の色が変わるほどの年月、ずっと。

和央の口から姉の名前が出るたびに、腹の奥にいやなものが湧いては消えず、わだかまる。
わだかまりは、どろどろしたシェーキみたいに溶けるでもなくいつまでも甘ったるくそこにあって、やりきれない。

「弓ちゃん、あれ今でも弾けるかなあ。弾けるよね。音楽の先生になったんだもね」
「んー」
「弦、あのさ」
「んー」
「僕、札恵高校に行く」
行きたい、じゃなくて行く、と来たか。男前だな和央。
札恵は弓の居る高校だ。お前、そこまで”弓ちゃん”の傍にいたいかよ。
世界に弓が居なかったら、とそこまで浅ましく願うわけではないけれど、ロマンスもワルツも聞こえなくていいから、和央の口から出る”弓ちゃん”が聞こえない世界に行きたい。
……いや、やっぱりそれは無理だな。
和央が居なかったらなんにもなくなる。
なんの意味も、存在も。
この甘ったるい腹底のわだかまりさえも。

(もう誰かおれの耳、いますぐふさいでくれねーかな)

残念ながら自分も手も和央の手も、ふたり揃って鍵盤の上だから、他力本願。
澄んだ空に響くのはロマンスでもワルツでもなく、きらきらぼし。
願うべきはやっぱりそこか。


end
中二くらい。和央がいつ頃まで女の子に間違えられてたのかとか、弦はいつから髪を伸ばしたのかとか、考えると滾ります 。弦はたぶん高校デビューだな。野球部だといいと思います。