「僕は獣と夢を見る」

 僕が初めて人を好きになったのは、中学3年の頃だった。
 その頃、僕は家族と共に都心から少し離れた場所に住んでいたせいか、小学校や中学校に上がる時に受験をする奴なんてのはほとんどいなくて、誰もが高校受験という最初の難関にぶち当たって、イライラしていた頃だった。
 だから…と言う訳でもないが、自分自身の臆病さも手伝って、好きになったからと言って、なにがどうと言うこともなく、その時の僕の恋は、なんの進展もせずに終わった。
 そして翌年の春、その初めて好きになった人は、卒業と同時に、僕の前から消えてしまった。

 2度目の恋は、大学に入った春に訪れた。
 その間、全く誰にもときめかなかったのかと聞かれれば怪しいが、やはり記憶の中に残っている恋は、これが2度目だったと思う。
 大して有名な大学ではなかったが、僕は一年浪人して、その大学のキャンパスの住人になった。
 新しい生活と、新しい友人。
 …なにもかもが新鮮だった中で、僕は“彼”に恋をした。

 僕が、自分は同性に心を引かれるタイプの人間だと気づいたのは、わりと早い時期だったと思う。
 クラスメイトが噂する、可愛い女の子を見てもちっとも心がときめかず、それどころか反対に、体育や部活で汗を流す同性の方に、心臓の鼓動は早くなる…
 マスターベーションは、決まって彼らの裸を思い描き、その腕で抱かれる自分を想像してイッた。
 …そんなことをするのは立派な変態だとわかっていたから、だから、そんな自分を隠すように、僕はただ地味に、目立たず生きて来た。
 世の中に、どれだけニューハーフが横行して、面白おかしく取り上げられていても、僕みたいな人間は田舎では白い目で見られることに変わりはない。
 暗く、友人と呼べる相手がまったくいなかった自分…
 それとは反対に、誰にでも好かれ、社交的で人気者だった彼。
 彼は、女の子だってより取り見取りで、間違っても僕を恋愛の対象として見てくれるはずなどないとわかっていた。
 わかっていたけど…
 だけど、僕は彼が好きだった。

 初めての講義を受けた時に、偶然隣の席に座った彼とは、いつの間にか友達になっていた。
 こんな僕に、嫌な顔もせずに接してくれた優しい人…
 側にいられるだけで、僕は幸せだった…否、幸せだと思おうとしていた。
 ずっと…ずっと。

 大学4年の夏。
 今、僕の足元には、遥か下にビルの影と路上駐車の車が見えている。
 時折下から吹き上げる風に、ゆらゆらと体は揺れるが、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。
 着慣れないスーツが、少しだけ煩わしい…
 ネクタイはすでに外して上着のポケットに仕舞い、胸元のボタンも外していたが、息苦しさは消えてくれなくて、片手で胸を押さえた。

 もうじき、僕はここから飛び下りる。

 なんの面白味もない人間の、暗かった人生を終わらせるセレモニーとしては少々派手かもしれないが、一番簡単で、確実な方法だと思ったのだ。
 ある程度の高さがあれば、落ちて地面に叩き付けられる前に気を失ってしまうと聞いたことがある。
 いくら自殺を考えていても、痛みや苦しみのない方法があるならばそれを選ぶだろう。
 一番良いのは、雪山に行って、凍死することなのだろうが…今は夏で、雪山なんて見当たらない。
 ここから飛べば…それですべてが終わる。
 なにもかもが…
 そっと踏み出した右足の爪先。
 そして左の…

「感心しねぇなぁ」
 浮いて…そして落ちるはずの僕の体は、地面に叩きつけられる予定を大幅に変えて、聞き馴れない声と共に、越えて出たはずのフェンスの内側に引き戻されていた。
「ガキが…人生悟った気になって、死に急いでんじゃねぇぞっ」
 どんなに小柄だとは言っても、男一人を軽々と持ち上げてフェンスを越えた男。
「あ…」
 コンクリの床に、ペッタリと座り込んだまま見上げた先で、彼は煙草に火をつけた。
「大体なぁ、俺の目の前で飛び降りられたら、寝覚めが悪りぃんだよ。やるなら他所でやってくれ」
 大きく、ガッチリとした体格で、Tシャツにジーンズ。
 短めに切った髪は、日に焼けて少し色を落としていて、シャツから覗く腕や首は浅黒く逞しかった。
 まるで、どこかのジャングルからでも出て来たような、そんな獰猛な雰囲気を醸し出している男。
 きっと今僕が立っていたとしても、見上げなくてはいけないだろうと思うほどの背の高さと、モデルのように整った顔は、それだけで威圧間を感じたが、それ以外にも、彼の持つ空気のようなものが僕の心臓を走らせる。
「…お前、美人だなぁ」
 ふうっ…と煙を吐き出した彼が、一呼吸置いてから、身を屈めるようにして僕を覗き込んできた。
 …美人?
「どうせ死ぬつもりだったんだろ?お前にとっては迷惑だろうが、助けてやったのもなんかの縁だ。お前、俺のモノになれ」
「…え?」
「心も、体も…全部、俺のモノになるんだ」
 突然現れて、初めて会ったと言うのに、彼は自信のオーラを輝かせて、自分のモノになれと僕に迫る。
 そして、それに対する僕の答えは一つしか用意されていない。
 それ以外は許さないと、その目が語っている。
 ほんの少し前まで、死ぬことに恐怖も感じていなかったのに、僕は彼を前にして、体を震わせていた。
 大きな手で顎を掴んで持ち上げられ、僕は苦しさにもがくように、両手で彼の腕を掴んでいた。
 苦しい…
「どうせ自殺の原因は失恋だろう」
 ニヤッと持ち上げた唇の端だけで彼は笑う。
「うっ…」
 吊り上げられた状態で返事など出来るはずもない。
 ただ苦しくて…
「俺のモノになれ。俺ならお前を、誰よりも愛してやる」
「…あ…」
 誰よりも?
 目の前の男が、僕を愛してくれる?
 思いもしなかったその言葉に、僕は苦しさも忘れて、彼を真っすぐに見つめていた。
 男ならば、誰でもこうありたいと望みそうな容姿をしている彼が、なんの面白味もない僕を愛してくれる…?
 移り気だと思われるかもしれないが、今の僕には、彼しか見えていなかった。
 彼の言葉は、ダイレクトに僕の胸の中に届いていた。

(愛してやる)

 強い力で、アッと言う間にさらわれた体は、逞しい腕の中に搦めとられて、抱き締められていた。
「…名前は?」
 視線の先…僕の顔とわずかな距離に彼の顔がある。
「………」
 答えるべきなのか、それとも…
「名前」
「…今井…佳哉」
 再度聞き返され、結局僕は、悩み続けることもなく、自分の名前を彼に伝えていた。
 男の瞳に、魅入られてしまっていたのかもしれない。
「佳哉…」
 低く、腰に響く彼の声。
「お前は、今日から俺のモノだ…」
 嵐の海で波に弄ばれる小船のように、僕は彼にさらわれて、貪られるようなキスをした。
 逞しい腕…強い力、激しいキスと体を走る手の淫猥さ。
 なにもかもが初めてな僕は、彼の腕の中で、グスグスと溶けて行く。
「佳哉…」
 耳に囁かれる暴君の声が、低く響き、僕を虜にする。
 強く抱き締められて、その強さの中で、僕は彼…塚森宝と言う男に恋をした。



「いや…っ…も…っ」
 狂いたくなるほどの快感。
 全身を嬲られて、僕は呼吸するのも忘れるほどに喘ぎ続けていた。
 荒々しい波が、寄せては返すを繰り返し続けるように、宝が作り出す快感は、僕を休ませることなく高みへと導く。
 冷たかったはずのシーツは、汗を吸ってジンワリと湿っている。
「おね…っい。ゆるし…あっ、んっ」
 初めてかと聞かれて、うなずいた…
 ならば、ドロドロに溶かしてから抱いてやると宝は言った。
 なにもかも忘れるくらいに…
 そして、その言葉の通りに、僕はすべてを忘れて宝にしがみついていた。
「あああっ…た…らっ、たからっ、たからっ!」
 もう、何回吐き出したかわからない欲望を、宝に導き出されて、逞しい背に縋りつく。
 ほんの数時間前まで、自分がなにを考え、なにをしようとしていたのか…僕は思い出すことが出来ない。
 わずかな時間で、体も、心も、全てが宝に染め変えられて行く。
 これが恋で、愛だと言うのなら、僕が今まで経験して来たものは、まるで子供のママゴトのようだ。
 グチャグチャに解された後穴に、ずっしりと質量のある宝を押し当てられて…
「力を抜いてろ…」
 …力なんて入れたくたって入るはずがない。
「あああっああ…」
 一気に突き入れられたペニスが、僕の中を犯して行く。
 それまで、想像でしか知らなかった快感と突き抜ける痛み。
 大きく開かされた足の付け根に、宝の肌を感じて、長い時間の末に彼が最奥まで到達したことを知る。
 浮かされた腰と、曲げられた体に、呼吸は浅くなる。
「いい子だ…」
 じんわりと、耳に響く優しい声。
「…らっ、たからっ…」
 きっと今、自分の腹部に触れたなら、宝の形を知ることが出来るかもしれない…と思うほどに、張り詰められて膨らんだ内部は、知らず知らずに宝を締め付けて動き出す。
 それが排出のための自然な行為だとしても、淫らな恥ずかしさを感じて、僕は宝の胸に赤くなった顔を押し付けた。
 何度も初めてだと言ったのに、こんなのは違う…
 ゆっくりと動き出した宝に、引きつるような痛みが生まれたが、それにさえ、何度も達したはずの僕の中心は、力を取り戻して立ち上がり、再びトロトロと雫を溢れさせる。
「あっあっ…ああっ…んっ」
 壊れた人形のように、喘ぎ声だけが漏れて、手からは力が抜け、揺さぶられるままに揺れているのを、まるで他人事のように視界の隅に映して、僕は正気を失って行く。
 …あとどれくらいこの快感の中にいれば許されるのか…
 早く終わって欲しいと思う気持ちと、ずっと続いて欲しいと思う気持ちが、複雑に絡み合って僕の中を渦巻いている。
 もう…もっと…
 タカラ、タカラ、タカラ…
 僕はその手で壊されて、彼のモノとして生まれ変わる。
 ナニモカモ…
 …やがて、薄れ行く意識の中で僕は、体の奥に叩きつけられる宝の欲望の証しに歓喜していた。



『佳哉、お前どこ行ってるんだー?二次会もフケちまうし、付き合い悪いぞっ。帰って来たら電話くれ』
 二日ぶりに帰って来たアパートの留守電に、聞き慣れた声が入っていて、僕は手を止めて、まだ点滅を繰り返している電話機を見た。
 恋人に子供が出来たと、両親を説得し、学生結婚をした親友。
 愛し、愛される幸せな恋人たちの姿に、締め付けられるような苦しさを感じた。
 彼の結婚式を終えてから、僕は笑顔で手を振って彼と別れ、そのままビルの屋上に向かった…
 そんなに時間が経った訳ではないのに、その出来事全てが、不思議と遠い過去のように思えるのは、やっぱり僕の側に立つ宝のせいだろうか…
『まだ帰ってないのかー?』
 何度も繰り返される声にも、今はもうときめきさえ感じない。
「大分ご執心だな」
 留守電の再生を停止させ、宝は唇の端を上げて軽く笑う。
 まだ、芯が熱く疼いていて、なにかが挟まっているような気がする体を持て余し、ボンヤリと見上げた視線の先で、宝の手が淡々と僕の荷物をまとめて行く。
 簡単な着替えと、大学の教材。
 細かな物に手を出しかけたが、宝に必要ないと言われて、僕はほとんどの物を置き去りにすることになった。
 今日、ここを出て、僕は宝との生活を始める。

 塚森宝と言う人は、その業界では有名だと言う、一流の写真家だった。
 僕と出会った日も、風景を撮るためにカメラを片手に街を歩いていたのだと、後で教えられた。
 時折、気分転換にそうして街を歩いていたが、人を拾ったのは初めてだ。と笑っていた宝。
 彼のベッドで目覚めて、リビングの壁に飾られている写真のパネルを見た時、僕は、彼の見ている世界は人とは違っているのではないかと疑ったほどだ。
 獣なはずの彼が撮った写真は、胸が締め付けられるほどの美しさを持って、そこに存在していた。

 広く、どこまでも続く草原に立つ、幼い羊飼いの兄弟。
 母の手で眠る飢えた乳飲み子。
 広い海原で戯れる兵士。
 酒を飲み、笑い会う男たちと、胸も露に踊る娼婦。
 泥に濡れて横たわる屍。
 ただ、真っすぐに立ち、空に向かう巨木。

 どれもが、宝の写真の中で、彼の世界の一部としてそこに存在して、見る人間を魅了していた。

「ボンヤリしてると日が暮れるぞ」
「あ…」
 宝の声に、フッと我に返り見上げると、そこには、出会った時のままに冷たく光る瞳が僕を見下ろしている。
 ただ違うことは、僕がその冷たさの中に、宝の優しさを感じていること…
「荷物はこれでいいのか?」
「…うん」
 この部屋はもう僕の帰る場所ではなくなる。
 だが、そのことに後悔はなかった。
「どうした?体がだるくて動けないか?」
 ニヤリと笑った宝の口元に、僕は顔だけではなく、体全体がカッと熱くなった。
 どんなに僕が暴れても、抵抗しても、ビクともしない圧倒的な力を持って、宝は僕が自分のモノだと僕に教え込む。
 なにもかもを奪い、そして愛すると約束してくれた…
「んーな色っぽい目ぇして見るんじゃねぇよ。いつまでたっても仕事が片付かねぇだろうが」
 どんな目をしていると言うのだろう…
 わからないけど、でも恥ずかしくて、僕は彼から視線を外してうなずいた。
「サッサとしろ。帰るぞ」
 …帰る。
 その言葉の持つ意味に、僕の気持ちは浮上する。
 僕はこのアパートを出て、すべてを捨てて、彼の、彼だけのモノになる。
「行くぞ」
 先に玄関を出た宝が、僕のためにドアを開いて待っていてくれる。
 強引なようで、優しい獣…
「佳哉…」
 差し伸べられた手。
 昨日から何度も呼ばれている自分の名前なのに、宝に呼ばれると、それは不思議な呪文に変わる。
 呼ばれれば呼ばれるほど、僕は宝が好きになる…そんな不思議な呪文。
 ソッと手を伸ばして触れた腕に、拒絶の色はなくて、僕はそのまま抱き着いていた。
 小さなボストンバッグ一つ分の荷物と、紙袋に入れられた教材だけを手に、路駐された車まで歩いて、僕はアパートを後にする。
「乗れよ」
 示されたナビシート。
 ここに座ってしまえば、僕はもう後戻り出来ない場所へ連れて行かれてしまう。
 だけど…
 今の僕にとって本当の恐怖は、宝がいなくなってしまうこと…それだけだから…開かれたシートに身を滑らせる。
 どんなに振り払われても、その広い背を追いかけて、僕はどこまでもついて行こうと心に誓っていた。



「荷物はここに置け」
 開かれたのは、二階にある一番南端の部屋。
 部屋の中央にあるキングサイズのベッドには、すでに見覚えがあり、少し離れた壁際には、パソコンデスクが置かれている。
 ウォークインクローゼットは、僕が住んでいたアパートの部屋ほどの広さがあった。
 …ここは宝の部屋だった。
 てっきり別の部屋をあてがわれるのかと思っていたのに、迷いなくこの寝室に通されて、僕は嬉しさに鼻の奥がツンとしたほどだ。
「クローゼットの右側は使うな」
 開かれたその場所には、新旧とりどりの形と大きさをしたカメラが、所狭しと並べて置かれていた。
「壊すと修理のきかない物もある」
 この時はピンと来なかったが、後に、レンズ一枚の高額さを聞いて、僕は絶対にそこは触らないと心に誓った。
「今日は客が来る。必要な買い出しは明日でいいな」
「うん…」
 勝手に行って来いと言われたっておかしくないのに、宝は一緒に行ってくれると言う。
 別になにも買う物は思い浮かばなかったが、宝の気持ちが嬉しくて、僕はその言葉にうなずいたのだが、宝の方はなにがおかしかったのか、そんな僕に笑いながら部屋を出た。
 宝は僕の反応の一つ一つが面白いと言うのだけど…
 その意味が理解出来なくて首を傾げていたら、眉間に皺が寄っていると言いながら、やっぱり笑って…そしてキスをしてくれた。

 僕の世界は、宝の出現で色を変えた…