「島原の乱」
寛永十四年におこった世に言う「島原の役」は、宗教戦争的な見方をされるのが一般だが、実際は「ふつうの百姓一揆に切支丹信仰の力が加わってより大騒動ととなった」というのが正確なところらしい。 その大騒動の張本人が島原領主松倉勝家とされている。
この頃、島原領と天草島は凶作続きで、たびたび飢饉がおこるほどだったが、それにもかかわらず領主は苛酷な税の取り立てをおこなっていた。
勝家は国禁であった耶蘇教の弾圧をおこなったが、これは幕府への御機嫌取りの一環である。ほかにも石高以上の労役を幕府にみずから願い出たりしている。上には御機嫌取りで、下の領民たちには徹底的ないじめを行う。こんな中で「一揆」は起こるべくして起こった。 もともと熱心な耶蘇教徒の地であったのが、一揆の信念として耶蘇教が取りこまれたため、そのことで百姓達から多くのにわか信者が生まれた。これに幕府に反感を持っている大量の失業牢人が加わり、 時の幕府を揺るがすほどの大事件に発展した。 総大将として擁立されたのは四郎時貞という16歳の美少年!
一揆の規模は拡大して松倉家だけでは手に負えなくなり、幕府が出ることになるが、一揆側は原城という自然の地形を利用した廃城に立てこもりこれがなかなか落ちない。幕府側は兵糧攻めの作戦に出て、その効果が出て来た頃に総攻撃を行うことになった。この時勝家軍は軍律を無視、ぬけがけして、結果的に味方に多くの死傷者を出している。
四郎の最期の様子はこうである、原城の燃える本丸にとうとう幕府の兵が攻め入った時、着物をかぶって横たわっている四郎と思われる者の前に何者かは解らないが美しい女がいる。四郎が斬り殺されて首が取られると、女は必死でそれを取り返そうとするがその女も切り殺された。兵達が首を持って外に出たまさにそのとき本丸が焼け落ちた、という。
四郎の首は母親が確認した。 籠城した三万七千人は改宗を拒否したため、ことごとく獄門にかけられた。
松倉勝家は騒動の責任者として、のちに斬罪に処せられている。
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